ハミングバード




     1969年のウッドストックの映像を観ながらセックスする。
     そして必ず、ハルオはこう言った。
     セックスする時、樋口がほとんど声を上げないからだ。


―――ジミのギターみたいに鳴けよ、バカッ






「何回目だ?」
「軽く100回は超えてる?」
「よく飽きなかったな」
「何が? ビデオが? セックスが?」
「どっちも」


5年間バカみたいに繰り返したのは、1969年のウッドストックの映像を観ながらセックスすること。その時樋口は鳴かない。ハルオはジミのシーンで「ジミのギターみたいに鳴けよ、バカッ」と必ず言う。だけどやっぱり樋口は鳴かない。


もう朝が来る。部屋の中が少しだけ白み始めて、真っ暗な部屋の中を回転灯みたいに派手に飾っていたウッドストックの映像は、栓が抜けた浴槽の最後の一滴の水のように潔く、薄暗い部屋を灯すのをやめた。そうして夢から覚める樋口は、カーテン越しの早朝の光の中に青白く浮かび上がってきた、自分を抱くハルオの背中を見た。
そして、ハルオの背骨のラインに沿ってこちらに近付いてくる赤いポッチを見付けた。


その赤いポッチは数日前からこの部屋に存在していた。ヒドク古臭い模様をしたカーテンを這っているところや、いつでも薄暗いキッチンのカルキのこびり付いた水道の蛇口の上を歩いているところや、かびたタイルの風呂場で溺れかけているところも見かけていた。


樋口がこの部屋にいない時でも、ソイツはココでハルオと暮らしているのだろう。樋口は、ハルオがソイツの同居を認めたのだと思っていた。だからハルオのアパートの彼方此方で、ソイツが我が物顔をして生活を営むのを受け入れようと思った。


赤いポッチは、プラスチックみたいな色でツルツル光っている。
黒紋が7つ。ナナホシテントウムシだった。


「なぁ、バカ、鳴けよ、バカ」
「………」
「何だかワケわかんねぇよ」


近付いてくる赤いポッチを見ていた樋口の肩を齧って、ハルオは悲しそうに呟く。それからその唇はくちづけを誘って、樋口がそれに応えている間に、赤いポッチはハルオの背中から姿を消す。


今度その姿を見るのは、いつか。






キャンドルに火を灯すと、花の香りがする。


ハルオは留守だった。いつだったか貰った合鍵でハルオのアパートに上がり込んだ樋口は、西向きで最悪なベランダから射す夕陽が陰ると、天井からぶら下がった裸電球のスイッチを捻った。捻ると電気が止められていることに気付く。電球は点かなかった。仕方なし、テーブルの上のキャンドルに火を点けた。すると、花の香りが蝋の香りと舞い上がった。


部屋中の空気が死んだように静かだったのは、電気が止められていたからだった。電化製品の放つ僅かな振動と騒音が、一切消えていた。目を瞑れば、この世の中にはまるで何もないようで、自分が世界中でたったヒトツの取り残された生物に思えた。


日常生活とはまるで無縁かの、キンと静かな世界。そこはとても静かだ。その中でキャンドルの放つ僅かな花の香りは、瞼を下ろした世界に鮮やかに花弁を開く。花の香りに誘発されて、意識が自分の中心を目指しグルグルと回転するのが見える気がした。


辺りに感じるのは花の香り。
少し、ハミングバードの気持ちを知る。


「………」


何かの気配を感じて瞼を上げた。そこはいつのまにか闇の中だった。フと落とした視線の先、テーブルの上のキャンドルの灯りの揺れる影の中で、例の赤いポッチがジッとしていた。息絶えたのかと指で突付いてみると、赤いポッチは引っ繰り返ってまた動かなくなった。


「死体ゴッコか?」


黒い腹を見せた赤いポッチは、ピクリとも動かない。
これでこの部屋中の全てが仮の永眠をした。キャンドルの炎と、自分の繰り返す呼吸、蠢くものはそれだけで、とても退屈なハルオの部屋。


「面白くもない」


赤いポッチの死体ゴッコにすぐに厭きた樋口は、畳に横になる。畳と髪が擦れる音が、寝返りを打つ度にジャリジャリと頭の中に響いた。


ハルオが帰るまでの間何をしようか、途方に暮れる。電気は止まっている。TVも観ることが出来なければ、ウッドストックの映像も観ることが出来ない。何か音を流してウトウトしたい気分だったが、音を流すことも出来ない。折角姿を現した赤いポッチは、死体ゴッコに夢中だ。話し相手にもなりはしない。
可能なことは、自分自身で音を流すこと、映像を流すことくらいだろうか。


樋口は、何かを想像してみることにした。役立たずの電球の影が天井で揺れるのを見て、いつだか見た写真の、ギターを弾くジプシーの指先を思い出そうとした。しかし、モノクロ写真のボンヤリとした輪郭だけしか思い出せない。想像は失敗に終わった。
次に、ハルオの部屋で最後に聴いたスウィングの音を思い出そうとした。思い出したのは、それとは全く関係のない音だった。使い古しのロックンロールのリフ。


その音は、樋口の頭の中でループする。
瞼を下ろすとそれは益々助長した。気分にそぐわない音は不快だったが、どうにも止められなくなっていた。蝋の匂いの隙間を縫うように鼻先に届く花の香りと、キャンドルの炎が揺れる気配。死体ゴッコに夢中になる赤いポッチと、ハミングバードの気持ち。
ループする音は、今の気持ちと恐ろしく合わない。


グルグルと回転する意識は、メリーゴーランドのように永遠に回り続ける。果てしもなく、同じ場所を回り続ける。
美しい装飾を施した白い木馬に乗った樋口の意識は、使い古しのロックンロールのリフに合わせて同じ場所をグルグル回転し、時折強く感じるキャンドルの花の香りが、ここを益々作り物みたいな色で飾った。
そしてそのうちには、何も感じなくなった。






目覚めてもハルオはいなかった。
部屋は真っ暗で、花の香りのキャンドルは灯が消えていた。安物のキャンドルは、溶けた蝋に糸の先が埋もれて固まっているようだった。ポケットにあったライターを擦って辺りを照らし、見回す。赤いポッチの姿は何処にもない。この部屋の何処かにある干草の寝床にでも帰ったのかもしれない。
樋口は、ハルオのいないハルオの部屋でたった独りぼっちになったと思い、少しだけ気分が沈んだ。


体を起こすと、急に咽喉が渇いた。立ち上がると、暗闇に目が慣れていた。夜のハルオの部屋は2階調の色彩。その中で、所々にある原色だけが花が咲いたように見える。トースターの赤、天井の端にぶら提げたパーティー用のペーパーバルーンの7色、ハルオが描いた黄色い魚の絵、そんなものが水彩画みたいに淡くぼやけて浮かんでいた。


キッチンで冷蔵庫を開けるとそこにはまだ冷気が残っていて、ほんの僅かにヒンヤリとした。ライターで冷蔵庫の中を灯してみたが、カビの生えたシュレッダーチーズと缶ビールと干からびたオレンジしかない。


手にした缶ビールは、ハルオの指先程度に冷たい。冷蔵庫の扉を開けたまま、そこで缶ビールを半分飲む。残りをまた元に戻して扉を閉めると、さっきと同じ場所に同じ格好で横になった。落ち着きなく幾度か寝返りを打って、うつ伏せが心地好いことがわかると、そのまま再び目を閉じた。ハルオが帰るまで、いつまでかはわからないが、眠ることくらいしかやるべきことが思い浮かばなかった。


独りの時間の過ごし方を知らなかった。ハルオも赤いポッチもいない時間。
樋口は、独りで時間を過ごす方法を、もう随分前に忘れていた。






尻が寒くて眠りから覚めた。何気なく尻に手をやると、尻が直接手の平に触れた。いつのまにか尻だけ露出していた。ハルオの仕業だと思い畳に擦り付けていた頬を上げると、すぐ目の前に赤いポッチがいた。赤いポッチは、畳の目と同じ方向を向いてゆっくりと歩いていた。


露出した尻と赤いポッチのゆっくりとした歩調が、ハルオの部屋の空気をさっきまでとは違うものにしていた。明らかに停止していた空気は動き出している。


便所の方から水音がして、ハルオの声がした。


「飲み掛けのビール冷蔵庫に戻すのやめろ」
「……後で飲むから」
「誰がだよ」
「ハルオが」
「勝手に決めるな」
「飲むだろ?」
「……飲んだ」


樋口は尻を出したまままた畳に頬をつけて、まだそこをノラリクラリ横断する赤いポッチを見た。ソイツと自分は似たような境遇だと思うと、優しくしてやりたくなる。
ハルオは花の香りのキャンドルに火を点けて、その灯に咥えたタバコの先を近付ける。それから、樋口の丸出しの尻を冷たい指先で何度も撫でた。撫でながら、薄明かりにタバコの煙を揺らした。


「冷蔵庫のシュレッダーチーズ、かびてた」
「そっか」
「捨てた方がいいよ」
「そっか」
「今、何時?」
「知らね」


ハルオは、タバコが吸い終わるまで樋口の尻を撫で続けた。樋口は目の前を横切る赤いポッチをまた指で突付き、引っ繰り返ったソイツは死体ゴッコを繰り返す。


「俺がいない間、何してた?」
「死体ゴッコ」


立ち上がったハルオは、樋口の正面にまわる。樋口の視界にハルオの素足が入る。


「ア」


樋口はドキリとして、声を上げた。
死体ゴッコの最中の赤いポッチが、樋口の目の真ん前で、ハルオに踏み潰されたのだ。
うつ伏せに寝そべる樋口の真ん前に立ち尽くしたハルオは、驚いた顔で見上げる樋口の目を見下ろす。


「ハルオ、虫踏んだ」
「ウッソ」
「そこで死体ゴッコしてたテントウムシ踏んだ」
「ウッソ……踏んだ感触なかったぞ?」
「いや、踏んでる、たった今」
「ウッソ」


ハルオは恐る恐る足を上げ、樋口は恐る恐るハルオの足の裏を覗き込んだ。
しかし、そこには何もありはしなかった。


「何もないじゃねぇか」
「………」


樋口の言葉に、ないはずの感触を足の裏に感じるハルオは、心地悪そうに何度も足の裏を畳に擦り、手の平で払った。しかし、赤いポッチの本物の死体は何処にもない。千切れた羽根のカスすら出て来ない。
樋口は確かにそこに赤いポッチを見た。指で突付いて死体ゴッコを誘った。ツルツル光る赤いプラスチックみたいなその背中を突付いた指先には、確かに感触が残っていたし、数日前からこの部屋にナナホシテントウムシがいたはずなのだ。


「ハルオ、何日か前からこの部屋に住まわしてただろ?」
「何を?」
「ナナホシテントウムシ」
「そんなもんここで見たことねぇ」


ハルオの足を掴むと、樋口はもう一度そこを覗いたが、やはり何もいない。
全て幻覚かとハルオに訊ねると、ハルオは幻覚だと言う。この部屋の彼方此方で見かけた赤いポッチは、本当はいたのかいなかったのか。ハルオはソイツと一度も遭遇していない。しかし樋口は、何度も姿を見かけている。そしてその指先で触れたこともある。全て樋口の幻覚だったのか。知りようがなかった。


「ホントにいたんだ」
「………」
「信じろよ」
「………」
「ずっと一緒に死体ゴッコしてたんだ」
「面白くもなさそうだな」
「面白くもないけど、ハルオが帰って来ないから」
「………」
「独りだったから」


もしそれが本当にここに存在していたのだとしても、自分達の前にはもう二度と姿を現さないだろうと、樋口は思った。そう思うと、急に孤独を意識した。
目の前にしゃがみ込んだハルオの両足首を両手で掴み、頬を畳に当てる。何だか涙が出そうで、それをハルオに知られたくなかった。


「ハルオ」


鼻の奥がツンとした。


「ハルオ」


キャンドルの花の香りと涙の匂いが混ざると、春の匂いがする。


「ボクの尻にハミングバードの絵を描いてくれよ」
「………」
「イイ子にしてるから」
「………」
「お願いだから」


ハルオはキャンドルの灯の中、樋口の丸出しの尻を見詰める。
ないはずの感触を足の裏に感じながら。


樋口はキャンドルの灯の中、ジミのギターみたいに鳴いた。
独りはイヤだと、キスを強請った。






辺りに感じるのは花の香り。
それが、ハミングバードの気持ちだ。





     end



      * 足の裏に虫の感触。そして、尻を突き出し鳴く男。 
   ソレが、こんな、鋭利で甘いなんて、こりゃ、吃驚だ。 可愛いとすら感じるのはやっぱ
   書き手だな、うん。  ありがとうビバリ様!