まりあ heavy

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
       さのひさし

        注: この話に登場する有栖川真理亜は、「まりあ light」に登場する有栖川麻理亜と
           同一人物ではありません。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 


 1

 私が有栖川真理亜の家庭教師になったのは、十一月も半ば、そろそろ冬を迎えようとする頃だった。大学キャンパスのプラタナスの葉はすっかり落ち、色の薄い空に、寒々とした枝ばかりを伸ばしていた。
 
 募集に応じたのは、大学事務局の掲示板で募集要項を目にしたからだったが、考えてみると最初から、それは一種異様な募集だった。

 学生会館のバイト情報掲示板ではなく、事務局の掲示板であったのがまず、異様だった。成績のみならず容姿、素行、性格にまで条件づけられていることが、さらに異様だった。

 成績優秀であり、担当教官の推薦があること。容姿および服装は華美ではなく、極端に流行に走らないこと。素行に問題がないこと。独断、独善的な性格ではないこと。勤務の内容と拘束時間は雇用側に一任すること……

 一方的で、かつ時代錯誤と思われる条件の羅列に、学生から反感の声が上がっても不思議はなかったが、その声が聞かれなかったのは、有栖川が大学理事長の家柄であったからだろう。当主は文学部の主任教授も兼ねており、そうなると表立って非難するわけにもいかず、学生たちは募集そのものを、あたかも存在しないものとして、無視するしかなかったのだろうと思う。だが、私は別だった。

 当時私の家は長引く不況で父が職を失っており、家からの仕送りは期待できない状況だった。学費は奨学金からまかなわれているが、この先食費や下宿代にも事欠くような事態になるのは目に見えていた。効率のよい高額のバイトといえば水商売で、同じゼミの中でも何人かやっている人がいたが、これは私にはどうしても向かなかった。私は処女で、どちらかというと保守的な家庭で育ってきたために、恋愛や性交に対して積極的ではなかった。性的な情報は周りに氾濫していたが、警戒心が先に立って、踏み出せずにいた。

 ともあれ、渡りに舟と言うべきバイトを見つけた私は事務局に申し出、担当の教官と共に有栖川教授のもとへ、面接におもむくことになった。

 有栖川教授は、白髪を綺麗に整えた、一見して学者とわかる風貌の、初老の男性だった。眼鏡越しに私を見る目には、何の感情もうかがえなかった。私は緊張して突っ立ったまま、担当教官が私の紹介をするのを聞いていた。まじめで素直で、学習成績にも普段の態度にも問題のない学生、それが私の評価だった。しばらく聞いていた教授はおもむろに私を見た。私は教授の目を意識して、顔を伏せた。

 川島君が言うのなら間違いはないでしょう、と、教授は言った。

 家庭教師の対象となるのは、教授の孫で、小学五年生の女の子だった。できれば住み込みでお願いしたいと言われた。あなたは出席状況もいいようなので、何日か休講しても大丈夫でしょう。講義に出られない日が長引けば、私のほうで何とかします、とも言った。聞いていくうちに、妙な条件の事情がわかってきた。教授の孫は、登校拒否児だったのだ。いわゆる引きこもり。学校には出ていないらしい。保健と体育以外の全教科を教えてほしいと言われて私は戸惑った。登校拒否児の家庭教師をしたことはない。どのように接していいのかわからない。それでも私は切羽詰っていた。有栖川家のことはよく知らなかったが、大学理事長の家柄であれば裕福だろうと思った。教育者の家庭なら、間違いはないとも思っていた。要するに、これほど条件のいいバイトは、他になかったのだ。

「できうる限りがんばります。よろしくお願いします」

 私は頭を下げた。そして頭を上げかけた時、信じられないものを見た。

 教授が半ば笑ったような目で、私を見ていた。はっきりした笑いにならない細められた目は、女を卑猥な目で見る男の、歪んだ目つきだった。が、すぐに教授の顔から好色の表情は消え、元の謹厳な大学教授の顔つきに戻っていたので、私は一瞬、幻を見たのだろうかと疑った。それでも心のどこかにしこりのようなものが残り、私は釈然としない気持ちで川島教官と共に教授の部屋を辞した。

 廊下を歩きながら教官はくどいほどに、教授の機嫌を損ねないように念を押した。言外に、私に落ち度があれば自分にも輪禍が及ぶというニュアンスを感じ取ったので、私も自然と言葉が少なくなった。川島教官はまだ若く、教え方にも熱意と工夫が感じられて日頃から好意を持っていたので、保身に汲々とする実情を知って幻滅した。今まで信じていたさまざまなことが裏切られたような、空虚な気持ちで、私は教官について廊下を歩いた。


 そういう状態で、私はまりあに会った。


 有栖川の邸宅は公園に隣接した広大な敷地の中にあった。そもそも公園自体が有栖川家の庭園の一部であったのが、戦後、手元不如意になった時に、自治体に売却したという話だった。

 晩秋の空気は乾いていて、空も景色も白っぽく見えた。私はメイドのチーフだという藤沢さんに庭を案内された。メイドという職業の人を見るのは初めてだったし、五十年配の藤沢さんは、人当たりは柔らかいがどこか几帳面な、堅苦しい感じのする人で、教師である私に一目置いてくれたのはわかったが、私にも自分と同じ几帳面さを要求するような口ぶりだったので、私はいささか閉口し、教師というよりはメイド見習いのような気持ちで歩いていた。

 庭園は一部を売却したことで、五角形の一辺を切断したような、複雑な形になっていた。公園寄りの奥まった所に日本家屋が一つ、ぽつんと建ててあるのが私の目を引いた。

「あれはなんですか?」
「離れでございます。若奥様――真理亜様のお母様がお住まいになってらっしゃいます。若旦那様はまだお戻りになってらっしゃいませんので」
「じゃあ、真理亜さんもあそこにいるんですね」
「真理亜様は、母屋でお暮らしでございます」

 私は口をつぐんだ。有栖川教授と血のつながっているのは、真理亜の母親の方だった。入り婿で数学者の父親は、現在アメリカで大学の研究室にいる。もう、二年も帰ってこないという話だ。

「おじい様と二人ですか。さびしいですね」
「大旦那様は大学の近くにマンションをお持ちでして、普段はそちらでお暮らしになってらっしゃいます。お屋敷にはめったにお戻りになりません」

 なんなのだそれは。私は唖然とした。それでは真理亜は母親とも教授とも一緒にいるわけではないのか。まるで親たちから遺棄された子供ではないか。引きこもりとはよくもいった。そんな家庭環境にいたら、子供がまともに育つはずがない。私は一瞬だけ見た教授の下卑た笑いを思い出し、改めて憤りに駆られた。教育者が人格者とは限らない、という当たり前のことを、ようやく私は理解したのだ。

 もちろん、その時私が義憤と思っていたものは、子供じみた薄っぺらな正義感に他ならなかった。私はまだ見たこともない真理亜という少女のために怒り、無責任な親たちに代わって自分が彼女の助けになろうと本気で思っていたのだった。



 母屋は戦前から残っているという古めかしい洋館だった。建築年数の長さを考えると、信じられないほど保存が整っていて、常に手入れを怠らないらしく隅々まで磨き立てられていた。それでも長い間に年月の澱のようなものは溜まるらしく、そこかしこに、何か置き去られた情念のようなものを感じて、ふと振り返っては居心地の悪さを感じたりもした。

 長い廊下を歩いて、突き当たりの扉の前で藤沢さんは足を止めた。昔風のノッカーのついた、飾り彫りのある扉で、ノッカーに手をかけようとしてためらう。なぜためらうのか私にはわからなかったが、それも一瞬のことで、すぐに気を取り直してノッカーを手に取り、扉に打ちつけた。かつ、かつ、と乾いた音が響いた。
 しばらく待ったが、声は返ってこなかった。どのくらい待っただろうか。ようやく、どうぞ、という返事が返ってきた。

「失礼いたします。新しい家庭教師の先生をお連れいたしました」

 藤沢さんはよく通る声で言って、扉を開けた。

 十二畳ほどの洋間だった。大きな張り出し窓の向こうに、白っぽい光りに満ちた庭が広がっている。壁に沿って学習机や本棚が並んでいるのがいかにも子供部屋の雰囲気だった。教科書や参考書がきちんと整頓されているのが、生まじめな性格を思わせる。マンガや雑誌の類がないことにも驚かされた。ひょっとして家の中では読むものを制限されているのかもしれない。

 だが、子供の個室としては破格に大きいその部屋には、破格に大きいベッドがあった。淡いブルーの地にクラシカルな手法で蔓に這う苺を描いた、上品な模様の上掛けと大きな枕、枕元に置かれた年代もののテディ・ベア、そしてそのベッドの上で、

――一人の女が煙草を吸っていた。

 藤沢さんの眉間に皺が寄るのを私は見た。それでも藤沢さんは何事もなかったような顔で、

「新しく家庭教師になられた、堂島唯先生です」

 と、こちらに興味深そうな顔を向けている女に私を紹介した。

「こちらが真理亜様と、主治医で保健と体育を教えていらっしゃる上村先生です」

 すうっと、音もなく人影が近づいた。その時ようやく私は、この部屋の主が目の前に現れたことを知った。私は驚愕した。

 私の見たものは、今まで見たこともない、絶世の美少女だった。


 この子は本当に小学生なのだろうか……

 ほっそりと痩せて、すらりと背の伸びたまりあは、真っ白な肌に素直な黒髪を艶やかに伸ばした、日本人形のような少女だった。小さめの卵形の顔は怜悧に大人びて、少し薄めの唇に、天然の赤を刷(は)いていた。まだ女になりきらない、細く堅い体つきは、確かに小学五年生という彼女の年齢に相応(ふさわ)しく未成熟なものだったが、それですら、少年とも少女ともつかない、中性的な、一種独特の妖しいまでの美しさがあった。葡萄のような黒紫の艶をたたえた、黒目がちの切れ長の目が私を捉えると、私は我知らず動悸が激しくなるのをおぼえた。だが、

「有栖川真理亜よ。よろしく、唯」

 赤い唇を割ってかすれた、ハスキーな声が流れると、再び目を見張らざるを得なくなった。お嬢様! と藤沢さんの叱責する声が、女医の無遠慮な笑い声でかき消された。

「驚いた? まりあはね、誰とでもタメなのよ、タメ。だからバカ教師どもとうまく行かなかったのよ。能無しのくせに歳食ってるってだけで威張り散らすようなアホどもとね。あなたもまりあとつき合う気なら、タメ口叩かれても我慢しなさい。言っとくけど、私はあなたよりずっと歳食ってるのよ、唯ちゃん。それでも私のことはタメでかまわないわ。上村依子よ。依子、と呼んで」

 また、あっはっは、と豪快に笑う。よく見ると女にしてはがっしりと筋肉質で背も高く、目も鼻も口も大きい派手な作りの顔立ちは、医者というよりはスポーツクラブのインストラクターといった印象を受けた。私は戸惑ったまま、その場に立ち尽くしていた。すべてのことが意表を突き過ぎて、どうしていいかわからなかった。

 助け舟を出したのはまりあの方だった。じゃあ、勉強を始めましょうか、とこともなげに言い、藤沢さんに、菓子と飲み物を持ってくるように言いつけた。

「唯はコーヒーと紅茶、どちらが好き? 緑茶も他の飲み物もあるわ。好きなものを言って」

 初対面の年上の教師を平然と名前で呼び捨てて、それでも美少女には傲慢の影は欠片(かけら)もなかった。むしろ親しげに笑いかけ、腕を差し伸べて私を引き寄せることまでした。どう見ても対等か、それ以下の相手に対する態度だったが、私は怒る気にはなれなかった。藤沢さんに対する態度を見てわかるとおり、彼女は幼い頃から使用人を使い慣れてきた家柄の娘なのだ。彼女にとって私は、丁寧に応対しなければならないにしても、使用人には違いないのだろう。女医が言おうとしたのはそのことなのかもしれない。

 社会に出てから通用しないから矯正した方がいい。学校の教師たちはそう思ったのだろうか。

 それは違う、と私は思った。彼女は一生有栖川の家に保護され続ける。相応しい家に嫁いで、相応しい夫を持ち、お嬢様から奥様と呼ばれるのが異なるだけで、後は今度は嫁ぎ先の家に保護され続ける。わずかな給料も支払われず、初老近くになって改めて職を探さねばならない私の父に代表されるような、庶民の感覚は彼女にはわからないのかもしれない。それに……

 まりあの手が腕に触れた時、私はびくりと震えた。間近に見る少女の美しさに気おくれしたのだ。あまりにも美しすぎた。

 彼女ほど美しければ、何をやっても許されるだろう。コンプレックスなど持ちようもない。比べようもないのだから。同じ女とも思えなかった。人ならぬもの、妖精、そんな気がした。藤沢さんが部屋を辞した後、私は自己紹介をしたのだろうが、自分が何を言ったかもよく覚えていない有様だった。

「じゃあね、私も退散するわ。あまり唯を困らせては駄目よ、まりあ」

 いたずらっぽく笑い、藤沢さんに続いて咥え煙草の女医も部屋を出て行くと、広い部屋の中は私とまりあ、二人だけになった。授業を始めようとしても、どうしても緊張して言葉を詰まらせてしまう私に、まりあは笑いかけた。

「本当に可愛らしい人ね、食べてしまいたいくらいよ、唯。」

 小学生の女の子が年上の女に言う言葉ではなかった。だが、私はまるで当然のようにその言葉を賛辞として受け止めた。そうせざるを得ないような雰囲気がまりあにはあった。そしてその言葉は、真実だった。



 登校しなくても、まりあの勉強は家庭学習で十分補われていた。同年代の子供たちに比べて学習速度が進んでいるくらいだった。

「前の家庭教師の先生の教え方がよっぽどよかったのね」
「ええ、いい先生だったわ」

 まりあは答えたが、初めて、この聡明な子が心もとないような表情を見せた。

「事情があってお辞めになったの?」

「自殺したわ」

 まりあはあっさり答えた。私がその言葉を理解するのに少しかかった。顔をこわばらせてまりあを見ると、彼女は庭の方に、何も見ていないような虚ろな視線を投げていた。

「まりあさん?」
「なんでもないわ。思い出していただけ。続けてちょうだい。それに私のことはまりあと呼んで。さん、はつけないでね」

 私は言いかけた言葉を引っ込めて、授業に戻った。

 二教科分の授業を終えて休憩に入ると、藤沢さんに命じられたメイドが軽いケーキやスコーンなどの菓子と紅茶を運んできた。私たちは菓子を食べながら話を交わした。

「さっきの方、上村先生、あの方も住み込みなの?」
「依子よ。そう呼んで」

 まりあは指で裂いたスコーンを優雅に口に運んだ。

「あなたの隣の部屋よ。私の隣でもあるけれど。依子が気に入った? 彼女はあなたが気に入ったみたいよ」

 私は三十近くに見える、女医の顔を思い浮かべた。美人だが、あくの強そうな顔だった。気に入る、気に入らないといわれても、二十歳そこそこで実社会にもまともに出たことのない私には、この人間関係にどう接していいかわからなかった。女医のように馴れ馴れしくたわむれ、藤沢さんにはっきり嫌がられても、はっはっと豪快に笑い飛ばせる自信はない。私は無意識に爪を噛んでいた。子供の頃からの悪癖だった。

「だめよ」

 ひんやりした細い手に掴まれて、私は自分が爪を噛んでいたことに気づいた。

「爪の形が悪くなってしまうわ。ほら、切り口がぎざぎざになっている。直してあげるから少し待ってて」

 私はまりあに持ち上げられた形に手を浮かせたまま、まりあが戻ってくるのを待った。机の引き出しからネイルケアのセットを持ってきたまりあは再び私の手を取り、爪の先をやすりで整え始めた。白く細く滑らかなまりあの手に比べると、私の手はがさつで色も悪く、いかにも下品に見えた。その下品な手を上品なまりあの手が手入れしていることに恥ずかしさを覚え、私は「もういいわ」と手を引き抜こうとした。まりあは爪を整えていた顔を上げた。目の前でまりあにじっと見つめられ、私は顔を赤く染めたまま、動けなくなった。

 まりあは小さく笑って、再び手入れの続きを始めた。ひんやりしたまりあの手に触れた部分が、羞恥で熱く燃えていた。私は熱心に爪を整えるまりあの美しさに見入り、ふと、歳の近い姉がいたとしたらこんな感じなのだろうかと思った。

 私には十歳離れた姉がいるが、歳が離れすぎていて、一緒に遊んだりかまってもらったような記憶はほとんどない。今は他家に嫁いで子供もおり、時々は子供を連れて帰っても来るのだが、もともとあまり慣れてもいないので、血のつながった姉といってもどこかよそよそしい感じがした。

 十近く年下のまりあを姉と錯覚すること自体、奇妙なことであることに、その時の私は気づいていなかった。片手を整え終えたまりあは当然のように、もう片手も出すことを要求し、私たちは休憩時間をネイルケアに費やした。

 菓子を下げに来たメイドは、私の顔がぽうっと上気していることを不審に思わなかっただろうか。授業を再開しても、私は教える内容に集中できず、まりあが整えてくれた爪にちらちらと視線を走らせていた。


 昼食は食堂で摂った。軽いランチだったが、それでもコースが出た。テーブルに着いたのはまりあと私、それに依子だけで、依子は食事の席でも煙草をふかしていた。私の視線に気づいたのか、依子は軽く笑って煙草を挟んだ指を上げて見せた。

「医者のくせに未成年者の前で煙草を吸うなんて非常識だと思っているでしょう? でも仕方ないの。依存症でね。これがないと生きていけないわ」
「そうね、依子は少し吸い過ぎかもね。きっと肺の中はタールで真っ黒よ」

 まりあがからかう。

 仲の良い叔母と姪のようなじゃれ合いに私はついていけず、うつむき加減でナイフとフォークを動かしていた。

「唯は学生でしょう? ちゃんと学校へ行く時間はある? 交渉して行かせてもらいなさい。いつまでもこのわがまま娘につき合っていたら自分の時間なんて取れないわよ」

 テーブルの傍に控える藤沢さんが気難しい顔になるのを気にも留めず、依子は平然と言う。精神が頑強なのか、無神経なのか、わからない。まりあはやり返さずに、ずいぶんね、と言っただけだった。

 小学五年生とは思えないほど、まりあの態度は落ち着いたものだった。むしろ私の方が子供っぽいと感じたくらいだ。血筋がそうさるのか、それとも、親たちに遺棄されたも同様の育ち方をして、自然と大人びた風にならざるを得なかったのだろうか。どちらにしても、私が想像していた、愛に飢えた寂しい少女とは全くかけ離れたところに彼女はいた。

 午後からの授業の中に依子の体育が含まれていたので、私はその時間だけ大学へ講義を聴きに行った。屋敷の運転手が車を出してくれた。見送りにきた藤沢さんに、私はまりあの母親のことを尋ねた。

「お母様はお食事においでになりませんでしたね」
「若奥様はお体がお悪いので、ご一緒のお食事がお出来にならないのでございます」

 藤沢さんは一礼して私を送り出した。


 夕食も、三人だけだった。給仕のメイドが一人に一人ずつつくという有様では食べた気にもなれなかったが、まりあと依子は慣れきっているらしく、当然のようにしていた。このままここで過ごすうちに私も慣れて、庶民的な感覚を失ってしまうのだろうか、と私は不安に思った。

 食事の後は三人でお茶を飲んで過ごした。少し冷えてきたようだ、と言って藤沢さんが暖房の操作をした。

 つい昨日まで、安いだけが取り柄の古びた狭苦しい下宿で、生活費の心配に頭を痛めていたことが嘘のようだった。今までの私には到底想像もできない生活だった。

 まりあと依子がなにか冗談を言って笑いあう。たぶん私の知らないことを話しているのだろう。私が来るまで、彼女たちは二人で過ごしていたのだから。私は何か、疎外されたような気持ちになった。そんな顔をしていたのだろう、まりあが私を呼ぶ。

「馬鹿ね、仲間はずれになんかしないわよ」

 まりあは私の肩に腕を廻して、引き寄せた。私よりもわずかに背が低くて、力もあまりないようなのに、私はバランスを崩してまりあの胸の中に倒れこんでしまう。依子が目を細めて笑う。彼女の紅茶の中にはかなりの量のブランデーが入っている。

「ああ、ほんとに可愛いわね、唯は」
「上村さん、やめて下さい」
「依子、よ。敬語もなし。まりあに言われたでしょ? 一度聞いたら覚えなさい」

 突っ込まれて黙った私に依子は、食べてしまいたいわ、と囁いた。どこかで聞いたような、と思った私は、まりあに全く同じことを言われたのを思い出した。何かしら不穏なものを感じて押し黙った私は、藤沢さんが探るような目で私を見ているのに気づいた。

 なぜこんなに胸騒ぎがするのだろうか。何も変なことも、恐ろしいこともないのに。やにわに空気が濃くなったようで、呼吸が苦しい。

「お風呂に行ってらっしゃい、もうお疲れでしょう」

 まりあに言われて、私はその場を立った。私をバスルームに案内しながら、藤沢さんはどことなくほっとしたような、それでもどこか不安げな顔で歩いていた。私と藤沢さんは無言のまま、お互いを何気なく探り合っていた。

 バスルームは、私の下宿の部屋一部屋を入れてまだ余りあるような広さだった。呆然とした私は、バスタブが本物の大理石であることに気づいてため息をついた。何から何まで、私の今までの常識からかけ離れた生活に叩き込まれて、私は心底疲れ切っていた。



 目を覚ましたのは寒さのためだった。あてがわれた部屋は広く、調度はシンプルだが質のいいもので、北欧製だった。風呂から上がった私は、精神的な疲労のせいか、そのままいくらもしないうちに寝てしまったのだ。なぜ寒いのだろうと部屋を見回し、開かれた窓の傍でカーテンが踊っているのを見つけた。窓が開けっ放しになっていたのだ。閉めようとして、背筋に冷たいものが走った。冬の夜、誰が窓を開けっ放しにして眠ったりするだろうか。私は鍵もかけたし、カーテンも閉めた。ならなぜ、窓が開いているのか。私は足がすくんで動かなくなった。何者かが窓の傍に潜んでいて、私が近づくのを待っているような気がしたのだ。小さく、延々と、何かの音が続いていた。それはどこかの部屋で鳴るラジオかテレビの音声のようだった。耳を澄ますうちに私にはそれが女の声に聞こえてきた。声は言葉にならない音を吐き出し、その合間にまりあの名を呼んでいた。

「誰か、そこにいるんですか?」

 私はいざとなったら悲鳴を上げて、家中の者を呼び覚ます覚悟で窓に向かって声をかけた。

「まりあ?」
「起きるのが遅いのね」

 小さくくぐもって、まりあの笑い声が聞こえてきた。

「隣の部屋よ。早くいらっしゃい」

 それでは私の部屋に入り込んで窓を開けたのはまりあなのか。しかも、寝ている私を起こせば済むものを、わざわざ寒さで自分から目を覚ますようにした。どうして夜中にそんな手の込んだ悪戯をする必要があるのか。本当のまりあは悪意に満ちた、手の負えない悪餓鬼なのだろうか。怒りと混乱で、私はパジャマの上にガウンを羽織って部屋を出た。

 飾り彫りの浮き出た扉は、取っ手を押すと楽々と開いた。薄暗い照明に巨大なベッドがぼんやり照らされて、刻々と変化する動きを追って、影が揺らめいていた。女の呻きが増幅されて、私の耳を浸した。女はとぎれとぎれに、呻きの合間にまりあの名を呼んだ。

 いつ果てるとも知れない快楽を訴える女から身を起こして、少女が私の方を振り向いた。股間にあるはずのないものが屹立していた。私は悲鳴を上げそうになって、口を押さえた。

「戸を閉めてちょうだい」

まりあは完全に私に向き直った。震えながらよく見ると、少女の細腰にはベルトのような物が巻かれており、股間の屹立は人工物であることがわかった。それでも勃起した男性器をかたどった人工物は、いかにも異様で、凶悪な形をしていた。扉を閉めてからも、私はその禍々しい異形の物体から目を離そうとして離せないでいた。

 気がつくとこの部屋の窓も大きく開け放たれていた。この窓から漏れた声が、隣の私の部屋へ窓を通じて届いたのだろう。互いの部屋は防音だと聞いていたからだ。暖房は少し強めにしてあったので、入った時には私も窓が開いていることに気づかなかった。全裸の二人は寒そうな気配は少しも見せず、むしろ上気した肌を艶やかに、ほんのり光らせていた。

「やめないで、まりあ、もっと……」

 ベッドの上で依子が呻く。成熟した体をくねらせ、腿から下をてらてらと濡れ光らせて、淫猥に股間をぱくぱくと開いて欲しがる。目も当てられないほど浅ましい、雌そのものの姿は、ある意味欲望に忠実な、真摯な姿でもあった。

「もう待てないの? 我慢ができない人ね」

 薄く笑ったまりあは再び依子に向き直り、猛々しいほどに太い腿を抱え込んで、ゆっくりと股間の人工物を埋め込んでいく。依子の狂乱が激しくなると、たわわに実った豊かな乳房を掴んで、円を描くようにこね回す。その間にも腰の動きは休めず、廻すようにしながら上下に揺さぶって、依子を追い詰めていくのだった。身も世もなく泣き喚く依子とは対照的に、美しい顔にはうっすらと笑いが浮かんでおり、ぼんやりした灯火の作りだす影の中で、聖母とも、悪魔とも見えた。

 私は動けなかった。股間が重く痺れていた。下着が濡れ湿っているのがわかったが、どうにもならなかった。

 まりあが依子の体に覆いかぶさる。腰を動かしながら、全身を擦りつけるようにする。依子は悲鳴を上げてまりあの頭を抱き、日本人形のように素直に伸びた黒髪に指を突っ込んで、ぐしゃぐしゃに掻き回した。まりあが再び身を起こす。動きが激しくなる。

 絶頂を叫んで依子が硬直し、それから弛緩した。動かなくなった依子の女陰から引き抜かれた人工の男根は、てらてらと濡れ光って、この世のものとも思えなかった。人工物にせよ、私は男根を見るのは生まれて初めてだった。まりあが依子から離れて私の方を向いた。私は小さく悲鳴を上げた。ようやく動けるようになった足で、わずかに後ずさりする。

「やめて、許して」
「こんなもの、使わないわよ、唯には。バージンでしょう?」

 まりあが笑って腰のベルトを解く。たった今まで腰にあった男根が、屹立を保ったまま、ぶざまに床に落ちた。

「もっと優しく、してあげる……」

 私は逃れられなかった。重く痺れる腰が、まりあを欲しがっていた。依子のように快楽に溺れたい。身も世もないほど泣き喚きたい。快感を知らない体に絶頂を教えてほしい。まりあに抱かれたい。

 私はその時確かに、狂っていた。自分が十も年上であることも、相手が小学生であることも、頭の中から失せていた。目の前の美しい顔だけが、私の世界のすべてだった。

「して……」

 かすれた声は、自分の口から出たものとは思えなかった。

「優しくして……」
「わかってるわ」

 近づいたまりあが私の首に腕を廻す。
 私はキスも、初めてだった。



 ベッドに横たえられた私は、まりあの手が体を這い回るたびに、陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと跳ね回った。快感に泣き続けた喉は干上がって、焼けつくように痛かった。

 両手で体を挟んで掌でラインをなぞり、乳房から脇腹へ、唇で刻印を押していく。泣き喚く私はすでに喉も涸れてしゃくりあげていた。枕元で疲労の果てのけだるい体をうつ伏せた依子が、時折手を伸ばして私の乳首を撫でる。そのたびに私の体はびくりと反応し、私は声にならない啜り泣きを漏らした。

「手を出さないでよ、依子」
「ふふ、ごめん。あまり美味しそうだから」
「どうかしらね。案外……」

 案外、何? と訊きたかったが、内腿を揉みながら女陰に唇を這わされては、喘ぎ以外の声が出るわけがなかった。

 女性器へのキスがこんなにも、気を失うほど心地よいものだということを私は知らなかった。腰がだるくなり、体が弛緩した。じわりと噴出した愛液で股間が濡れた。

「ああ、イってしまったのね」

 小さく笑ってまりあは舌でクレバスを舐め始めた。

 獣のような声が出た。今までとは比べものにならない快感だった。あまりに強すぎて、ほとんど痛みに近かった。私はまりあの頭を押さえつけて、やめて、と泣きながら頼んだが、まりあが止めるはずもなく、やがて感覚ははっきりと苦痛に変わり、私は痛さに泣いて、まりあを押しのけようとした。

「クリトリスの皮を剥いているのよ、包茎だから。痛くてもすぐに慣れるわ」

まりあが私のクリトリスを指で弄りながら、口の中へ吸い込む。気の遠くなるような痛みと快感の中で私は体力を使い果たし、動けなくなった。

 しばらく意識を失っていたらしい。気がつくとまた、まりあにのしかかられて、依子が声を上げていた。

 まりあは乳首を舌で嬲りながら、もう片方を指先でこね回していた。うごめきながら白いまりあの腰に絡みつく依子の腿は、まりあを絞め殺してしまいそうに逞しかった。私はぼんやりと、絡みつく二つの体を見ていた。依子を責めるまりあの白い体はうっすらと上気して、内側から発光しているように見え、この世のものとも思われぬ美しさだった。私は吸い寄せられるようにまりあに腕を伸ばし、その腰を後ろから抱きかかえた。まりあは驚くでもなく振り返ると嫣然と笑った。 

「唯、可愛い人」

 小学生のまりあに可愛いと言われても、私には全く違和感はなかった。それどころか、もっともっと愛してほしかった。私は自分からまりあに接吻した。

 置き去りにされた依子が腿を揺らしてせがむ。

「今度はあなたがやってみない?」
「私が?」

 まりあは自分の腰に絡みついていた依子の片脚を剥がし、私に持たせた。

「やったらその後で、私もしてくれる?」
「もちろんよ」

 私は依子の脚を持ち上げ、膝の裏側にキスをした。さっき私がされて、くすぐったさに声を上げた場所だった。依子が内腿を震わせ、声を上げると、キスの場所を上へ移動していく。まりあは私の後ろへ下がって、依子の足先を愛撫しているらしく、依子は激しく脚を震わせ、裂け目からは溢れ出る愛液がシーツを濡らして、女の臭いがきつく立ち上った。異様で生臭いその臭いは私を異常に興奮させ、私は舌を伸ばして依子の裂け目を舐め始めた。

「だから言ったでしょう? 案外、唯の方が依子を食べてしまうかもしれないわよ、って」
 まりあの言葉と依子の狂乱に煽られ、私は依子がぐったりしてしまうまで、クレバスを舐め回し、舌をもぐらせ、皮が剥けて露出し、膨れ上がったクリトリスを口の中に吸い込み、舌で転がした。舌の先に、酸っぱいような生臭いような臭いと味が広がった。

「よくできました。ご褒美を上げるわ」

 今度は私がまりあに舐められる番だった。足の指の一つ一つを時間をかけて口の中で転がされ、指の股までしゃぶられる、それだけで体が反り返った。ふくらはぎから膝の裏、外側の腿、まで来てまりあは内腿には触れずに上へ上がってしまうのだった。脇腹、臍、乳房の周り、脇の下から肩先、腕の内側、指先までしゃぶられた。喉、首、耳朶、そして顔面。唇と鼻をしゃぶられると、獣を相手にしているような気がして、腰からじわりとにじみ出るものがある。ひっくり返されてうなじから下へ、背骨へと降りて行かれて私は泣いた。まりあは決して、最も触れてほしいところには触れずに、外側からじっくりと私の体を熱であぶっていくのだ。尻山を分け開いて肛門を舐められた時には、そこにまで愛液が滴って濡れていた。私は尻を振って哀願した。まりあはたっぷりと唾液を使って私のアナルを舐め回し、舌を差し入れ、腰が痺れて身動きが取れなくなってから、もう一度私を仰向けにして乳首に唇を這わせた。そして乳房を軽く噛みながら乳首に向かって円を描くように舌を這わせていく。唇で揉まれ、舌先て突つかれ、舐められ、吸われて、私が絶頂に達すると、体が弛緩から戻らないうちに、まりあの唇は私を嬲るために股間へと降りていく。
 その夜、私は三度、意識を失った。




 私の生活は一変した。

 朝食を摂るとまりあの部屋に向かうのだが、授業がいくらも進まないうちに、まりあが悪戯を仕掛けてくる。勉強どころではなく、私はまりあに翻弄され、啜り泣き、一日中でも絶頂を味わい続けた。裸になって二つの体を、スプーンを重ねるようにして重ね合わせる。軽く前に出したまりあの膝の上に私が乗る。背後から胸を揉みしだかれながら膝を動かされると、私は女陰をまりあの膝にこすりつけ、愛液で膝を濡らしながら、快楽をむさぼる。頂点に行きかけて苦しさに体を前に倒すと、まりあの指先がいっそう強く乳首をえぐって、私は泣き声をあげるのだ。

 夜は、依子の手足を広げてベッドにくくりつけ、アナルに、ボールをつなげたアナルボールを差し込む。押し込み、引き出すたびに依子は四肢を震わせて声を上げる。興奮に開ききって潤うクレバスに、まりあがハーネスに取り付けたディルドウを埋めこんで行く。二人がかりで犯されて、涎を垂らしながら快感を訴え続ける依子は、獣の精気に満ちて、壮絶なほど色情的だ。我慢できなくなった私はアナルボールを急激に全部引き抜いてしまい、依子は絶頂に達して意識を失う。私は喘ぎながら、泥沼のようにぬめった自分の裂け目にまりあの手を誘う。まりあの指がクリトリスを揉み、すりあげると、私もまた絶頂に達する。

 尽きることのない快楽遊戯の中で、私たちの上に君臨するのはまりあだった。まりあの下に、私たちはいた。まりあに命じられて、依子と二人、互いの股間に顔を埋める。相手をイかせた方が、まりあに抱いてもらえるから。たいていは快楽に貪欲な依子の方が先にイってしまい、まりあの愛撫を受ける私を悔しそうに見ていた。
 私は、なぜ依子が藤沢さんの機嫌の悪さを気にしないでいられるのかわかった。一挙手一投足を監視されているような食事の時間も平然としていられる理由もわかった。まりあと爛れるような快楽の時間を過ごしていると、他のことは一切気にならなくなってしまう。藤沢さんが依子に対するような嫌悪の目を私に向けたところで、それがどうだというのか。たかが使用人ではないか。彼女には私とまりあを引き離すことはできないのだ。私は大胆に、藤沢さんの目の前でまりあに戯れるようにさえなっていた。

 一度、正気であった時に訊いた事がある。

「私の前の先生は、あなたとこういう関係になったから自殺したの?」
「違うわ」

 まりあはまた、遠くを見るような目つきをした。

「あの人が死んだのは、あいつに犯されたからよ」
「あいつって?」

 それきりまりあは答えなかった。代わりに言葉を封じるように私に愛撫を仕掛け、私は釈然としないながらもまりあの指技に溺れていった。


 異変が起こったのは一週間後のことだった。

 その前日、私は週休を一日もらっていた。久しぶりに帰った下宿は、バイト先の贅沢な生活に慣れ始めていた私には、実にちっぽけでみすぼらしい住まいに見えた。まりあも依子もいない、部屋を整え洗濯や掃除などの日常の雑事をするだけの休日が面白いはずはなかった。食事がまた、貧弱だった。私は翌日有栖川家に戻ることだけを楽しみに、つまらない休日を過ごした。

 翌朝早く、有栖川家に出勤した私は、まりあの部屋に行く前に藤沢さんに呼ばれた。

「本日、大旦那様がいらっしゃって、お久しぶりにこちらにお泊りになるそうです。お夕食は大旦那様、若奥様ともどもご一緒なさるそうですので、同席お願いいたします」

 返事をした私は、藤沢さんがまた、あの探る目を私に向けているのに気づいた。無理もない。家庭教師が、しかも女が、教え子と昼夜に空けず痴態を繰り広げているのだ。メイドのチーフにしてみたら、ばれたら監督不行き届きで責任問題だろう。

「ご心配なく。不適切なことはいたしません」

 私は言った。わずかな不快と後悔が、それこそ依子の肺にこびりついているというタールのように、べったりと心にへばりついていた。

 未成年者であることはもちろん、よりによって小学生。しかも同性。世間一般の常識からすれば、信じられない醜聞だろう。未成年者虐待の罪に問われるのは私や依子の方だ。愛し合っていたなどという言い訳を誰が信じるだろうか。私は重い気持ちを抱えたまま、まりあの部屋へ向かった。こんなに暗い気持ちでまりあを訪れることになるとは思わなかった。

 まりあもまた、普段とは異なる、硬い表情で私を迎えた。

「せっかく来てくれたのに悪いけれど、唯、今日は休みにして、このまま帰って」

 私は耳を疑った。思わずまりあの顔を見たが、こわばった表情のまりあからは、いつも私を魅了する、妖精じみた悪戯っぽい笑みが消えていた。日本人形のように美しい顔立ちはそのままだったが、今のまりあは、綺麗に作られただけの、ただの人形に等しかった。

「それは、おじい様やお母様に私との関係を知られたくないということ?」

 私の声もこわばっていた。

「ええ、そうよ。会わせたくないの。だから、帰って」

 投げやりにまりあは言った。体がすうっと冷たくなっていくのを私は感じた。

 心のどこかでずっと疑っていた。私はまりあの玩具にすぎない。まりあが快楽を得るための道具にすぎないのだ。

「依子は? 依子も帰すの?」

 私は訊き返した。口ごもったまりあは、すぐには返答できなかった。やっぱりだ。絶望が心を占めた。

 依子とまりあ。まりあは私だけ、帰れと言った。しょせんそれだけの存在でしかないのだ。私はまりあと依子が愛し合うための刺激剤でしかないのだ。私はまりあに何を期待していたのだろう。恋人だと思って、思い上がっていたのだろうか。相手はたかが小学五年生の女の子なのだ。子供の気まぐれに過ぎなかったのだ。

「帰らないわ。私は教授に雇われたのよ。あなたにじゃない。それに、一学生が主任教授と食事をご一緒するなんて、こんな機会を見逃すはずがないじゃない。これから先、お目にかけてもらえたら、こんな有利なことはないわ。大学生でもないお嬢ちゃんにはわからないでしょうけどね」
「本気で言ってるの?」
「本気に決まってるじゃない」

 私はいらつきながら言った。今の今まで、自分がこの少女の言いなりになっていたことが、腹が立って仕方なかった。

「授業を始めるわよ。早く教科書を出しなさい、まりあさん」

 まりあの顔から表情が消えた。陶器で作った日本人形のように、無表情な顔つきになった。美しくはあったが、心の底が冷えるような、冷ややかな目つきだった。

「わかったわ、先生」

まりあは、かすれた低い声で言った。

「あなたは家庭教師ですものね」
「年上の人をあなたというのはやめなさい、まりあさん」

 まりあの顔が青黒くなった。だが、まりあは何も言わなかった。



 何事もなく授業を終え、昼食を摂った。まりあと私の間に会話はなかった。

 授業中もそうだった。まりあは勉強に関することしか口にせず、私もそれに応じた返事しかしなかった。昼食に同席した依子は、場を和らげようと盛んにジョークを口にしたが、上滑りに終わった。昼食が終わった後、私は依子に呼ばれて一緒に食堂を出た。

「何があったの? 唯」
「何があってもあなたには関係ないわ、上村先生」

 私は言った。依子の顔が引きつった。

「それよりご自分のことを心配したらどう? 主治医が自分の患者に、それも未成年の女の子に手を出しているなんて、知られたらクビどころか医師免許にも関係してくるんじゃないの?」
「関係ないわよ」

 依子は低い声で答えた。

「そうね、あなたはまりあのスキャンダルを握っているんですものね。外聞を恐れたら、有栖川家もおいそれとはあなたをクビにできないでしょうね」
「唯、あなた変よ!」
「変なのはあなた方よ。今夜は教授がお食事にいらっしゃるということだから、教授の前で変なことは言わないでね」
「それが、目的なの?」

 依子の口調が変わった。年齢相応の、三十近い女の声を、初めて聞いた、と思った。

「それが目的なら、私は止めないわ。好きにすればいい」

 打って変わったあっさりした口調で言うと、煙草を取り出して咥える。

「何があってもあなたの責任よ。まりあに迷惑はかけないでね」

 何が迷惑なのか、と私は憤慨した。気色ばんだ私の様子を見て、依子は煙を吐いた。

「あなたはまりあのことを何も知らない」
「わかってるわ。あなたは全部知ってるんでしょう」
「あなたはわかってくれると思っていた。残念だわ」
「私がわかったのは、あなたたちに教え込まれたセックスだけよ」

 依子の目が凄みを帯びた。そこには、小学生と二十歳そこそこの小娘に責め立てられて泣く、快楽に貪欲な女の顔は欠片もなかった。

「覚えておきなさい。まりあに何かあったら、私はあなたを許さないわよ」

 依子の手が私の顔に伸びた。顎を鷲掴み、力を加える。筋肉質の外見に見合った男並みの握力に、私の顔は苦痛に歪んだ。依子が手を離して去ってからも、私は衝撃と、おそらくは恐怖で、顔をこわばらせたままだった。


 午後の授業も過ぎ、夕食の時間が近づいていた。私は落ち着かずにそわそわしていたが、まりあは対照的にぼんやりとしていた。今日一日で、まりあの印象はずいぶん変わってしまった。この一週間の、生き生きと魅力的な少女の姿は消え、代わりに鈍重でうつろな目をした、綺麗なだけの人形がそこにいるだけだった。

 私は一番最初に有栖川家を訪れた時のことを思い出した。祖父と父と母に放置され、使用人と愛人のみと一緒に暮らすまりあ。連日の性戯は、実は子供が親に戯れる、スキンシップの代用だったのかもしれない。主治医の依子は単に自分の性癖を満足させるためではなく、精神治療の一環としてまりあの性の相手になっていたのかもしれない。

 歪んだ治療法ではあるけれど。

 だとしたら私のしたことは、と考えかけて、私は考えるのをやめた。先に私を切ろうとしたのはまりあの方だ。裏切られたのは私の方なのだ。

 私はたった一つのことを忘れていた。それさえ思い出していたら、あるいは事態は違ったことになっていたかもしれない。


 私たちは夕食のテーブルについた。教授の隣にまりあの母親が座り、まりあの席は向かいだった。私と依子は空いた席に適当に座った。

 まりあの母親は、色の抜けるように白い、美しい女性だった。小学五年生の子供を持つ母親としてはずいぶん若く、というよりも幼く見えたが、その印象は、空(くう)を見つめるような心もとない表情によるものだった。

 私は表情のないまりあを陶器の日本人形にたとえたが、母親はまさにそのものだった。一言も口を利かず、表情を動かすこともなく、ただ、淡々と食事を続けていた。なんとはなしに、母親の病は体ではなく心のものではないかという気がした。

 教授はまりあの学業のことについて、あれこれと私に話しかけた。教育者らしく、学習内容や理解力に関する話題ばかりだったが、それでも、謹厳そのものに見える教授が、孫のことを心配する祖父の顔を見せるのが微笑(ほほえ)ましくて、私は教授との会話に熱中していた。

「食事が終わったら私の部屋に来ないかね。そこで話の続きをしよう。あなたの指導能力には興味がある。長年教育にたずざわってきた者として、いくつかアドバイスをしたいが、どうかな」

 私は張り切って、お邪魔しますと返事をした。一学生にしか過ぎない私が、主任教授に認められたという事実に、有頂天になっていた。

「だめよ、おじい様は今夜、私の部屋においでになるのでしょう?」

 大きな声でまりあが言った。無邪気な小学生の声音を装ってはいたが、私と教授を見つめる目にこめられた力が、それを裏切っていた。

「お久しぶりにお帰りになったのですもの。一晩中でもお話したいわ、ねえ」

 挑むような目を向けられて、私は唖然とした。なぜ私がそんな目をまりあから向けられなければならないのか。もしかして、私と教授が話をするのさえ許さないというのか。それほどまでに私が気に食わないのか。さすがに私は腹に据えかね、一言言ってやろうとして口を開いた。

 不意に、ぞくり、と体が震えた。見間違いではない。視界の端に、私は鬼を見た。



 まりあの母親の有栖川夫人は、その時までフォークとナイフを操って、おとなしく食事を摂っていた。いつその手が止まったのか、覚えていない。

 今は彼女は手を動かしてはいなかった。鬼面そっくりの憎悪の目を、自分の生んだ娘であるまりあに当てていた。身の毛のよだつような、般若の顔だった。奥様、と藤沢さんが静かに声をかけた。

「お疲れになりましたのですね。離れにお戻りいたしましょう」

 夫人はゆっくり立ち上がった。藤沢さんに付き添われて食堂を出て行く。藤沢さんは出て行く時に、誰にともなく一礼していった。私は混乱していた。たった今の寸劇の意味がわからなかった。気がつくと依子が席を立って、まりあの傍に寄り添い、何事か囁きながら、何度も何度も、慈しむようにまりあの手を撫でてやっていた。まりあの顔からは血の気が引いていたが、それでも教授に目を向けると、お待ちしているわ、と言って席を立った。依子が後を追う。

 残された私と教授はお互い気詰まりになり、早めに食事を終えた。家の者の無礼を許してほしい、と教授は言い、今日に限ってなぜ、皆、無作法なのかわからない、と付け加えた。私はあいまいに返事を濁して席を離れたが、有栖川夫人の憎悪の目を思い出すたびに身震いした。

 風呂に入って体を休めても、疑惑は深まるばかりだった。一体この家は何なのか。まりあと母親の間には一体何があるのか。自分の部屋に戻っても、私は混乱したまま、ベッドに腰をかけてぼんやりしていた。

 扉がノックされた。どうぞ、と私は応じた。

「無用心よ。鍵くらいかけなさい」

 紅茶のセットとブランデーの小瓶、それにいくつかの菓子を乗せた盆を抱えて、依子が入ってきた。


「あなただとわかっていたら、鍵をかけていたわ」

 我ながら子供っぽい言い方だと思った。依子は意に介した風もなく、暖めてあるカップ二つに、ポットから熱い紅茶を等分に注いだ。自分の分にはかなりの量のブランデーを入れた。

「アルコールも依存症なの?」
「そうなりたいわよ。こんな生活じゃあね」

 濃いミルクを少量落とす。私もそれにならった。紅茶を半分ほど飲んだ依子は、部屋着のポケットから携帯の灰皿を出した。吸ってもいいか、と訊き、私が承諾すると、窓を開け放つ。何か、意図的なものを感じた。最初の晩、部屋の窓を開けっ放しにされたことを思い出した。

「また、何か聞かせようとするの? 私に」

 依子は驚いたように私を見、それからため息をついた。

「察しがいいのね。それとも一度やればわかるのかしら。あなたみたいな頭のいい人が、まりあを誤解したままなのは、耐えられないのよ」

 誤解の意味を訊こうとした私は、耳を済ませた。あの時と同じように、風に乗ってかすかに、女の声が聞こえてきた。

 だが、依子はここにいる。戸惑って依子を見ると、真剣な顔で窓の外に目をやった。私も黒々とした庭園の木々を見つめながら、耳に神経を集中させた。次第に私の顔はこわばってきた。

 おじい様、と声は喘ぎの合間に呼んでいた。快楽を訴えるまりあの声。おじい様、おじい様……私はいたたまれずに、駆け寄って窓を閉めた。これ以上聞いていたくなかった。

「こういうことだって言うの? セックスの相手なら、女だって実の祖父だって構わないの? あの子は。色気違いよ、色情狂じゃない!」
「いい加減にしなさい!」

 頬が熱くなり、体がよろめいた。私は依子に、頬を張られていた。

「あの子はあなたの代わりにあの男に抱かれているのよ。あなたさえ帰ってくれたら、そんなことはしなくても済んだのに! あなたの前の家庭教師はね、あの男に玩具にされて自殺したのよ。あの子はあなたを守るために、死んでも抱かれたくない男に抱かれているのよ!」

……あの人が死んだのは、あいつに犯されたからよ……

 その言葉をなぜ忘れていたのだろう。

 突然廊下が騒がしくなった。狼狽しきって夫人を呼ぶ藤沢さんの声が聞こえた。乱れた足音が私の部屋の前を駆け抜け、別の部屋の扉を開けた。

「売女(ばいた)!」

 複数の悲鳴が聞こえた。私と依子は顔を見合わせ、先を争うようにして部屋を飛び出した。まりあの部屋の扉が開けっ放しになっていた。メイドが何人も部屋の入り口で立ちすくんでいた。

 夫人は髪を振り乱し、悪鬼の形相になっていた。両手で握りしめたナイフは大量の血で彩られ、今も床の上に血の飛沫を落としている。ベッドの上で腰を抜かしている教授は、老残の醜い裸体をさらし、まりあは血で真っ赤に塗りたくられた腹部を押さえて、凄惨な笑いを浮かべていた。

「自分の男を奪(と)られて悔しいの? お母様。私よりも、自分の娘を犯すけだものをお刺しなさいな。自分の娘を犯して、産ませた子供をまた犯すけだもの! あなたに形だけの夫をあてがって、情婦のまま飼い殺しているけだものをね!」

 真っ赤に染まった夫人の目が、教授に当てられた。教授は言葉にならない音を口から吐き出しながら、這いずって逃れようとする。その背に飛びついた夫人が、何度も何度も背中に刃物を突き立てる。血飛沫の飛び散る中を、気が狂ったようにまりあが笑っていた。

 目の前が白く発光し、足元の床が、ぐらりと揺らいだ。私は意識を失った。


 私が病院のベッドで目を覚ました時には、すべてが終わっていた。

 病院で私は藤沢さんに無理やり高額の口止め料を押しつけられ、他言しないことを約束させられた。事件は、表沙汰にはならなかった。まりあも母親も、然るべき施設に収容された、と言われただけで、それ以上のことは教えられなかった。もちろん、依子の行方など教えてもらえるはずもなかった。

 教授は一命を取りとめたが職を辞し、理事長職も、今は有栖川家とは関係のない人間が就いている。

 私は大学を中退した。まりあの、教授の思い出の一つでもあるところにいたくなかった。今は小さな印刷会社で事務職をやっている。奨学金はおいおい返していくつもりだ。

 まりあ。自分が近親相姦の果ての子供だとわかっていたまりあ。父に犯され、母に憎まれ、それでも私たちを愛してくれたまりあ。あなたは愛情のコミュニケーションを、セックスという形で得ようとしたのだろうか。


 十二月に入ってから、街で偶然、依子に会った。依子は電車の切符を買っていた。故郷の医院に勤めるのだと言った。もう、帰ってこないつもりだとも言った。

 別れ際に冗談交じりに、誘われた。

「まりあ抜きで、やらない?」

 私は首を横に振った。まりあがいなければ、依子とセックスする理由はなかった。依子はしばらく黙っていたが、やがて、あっはっはっ、と初めて会った時のように豪快に笑った。

「そうね、さよなら、唯」

 依子は背を向けた。

「まりあの次に、あなたが好きだったわ」

 驚いて声をかけたが、依子はもう振り向きもせずに歩き去っていった。


 まりあ、街に雪が降る。もうそんな季節になってしまった。

 どこにいるのだろう、まりあ。会いたい。会って、抱いてほしい。一度だけでもいいから。

まりあ。

 愛している。






   終




      * ど、どうだい皆の衆、コレ頂いてもう、ナニができよう、アタシにッ!! 仕方ないからオカマとか
         婆ァとか髭の乙女ホモとか書くほかあるまい・・・・
         有り難う、さのひさしさま、感謝しておりますホントにホントに、畜生、どうしてコウ、壮絶で激しい
         のかなぁ、しかも真摯だよ、皮肉ゼロ、もう、なんか、すみません、わたくしこんなで・・・・