カルビと犬歯
もうかれこれ十分近くは粘っているんじゃないかと思う。
二十時過ぎの会社近くのコンビ二、弁当棚の前、そこにいい歳した男がうろうろして何をしているのだろうといつも思うが、決められないのだから仕方がない。
残業続きで外食に行くのも面倒くさく、大体コンビニ弁当の世話になっている。
他の連中は、定食屋だのファミレスだのに行くが、仕事仲間と顔をあわせて飯食って、腹にもないこと言う苦労に比べれば、一人で弁当食ってた方がマシだった。
それにしても、何にしようか。
夜ともなれば品薄で、大体俺はレンジで温めてもらう弁当を買う。最近はミートソースばかり食っている気がする。
それが残っていれば今夜も問題ないはずだったが、件のミートソースはすでに品切れていた。
そこで迷っている。
一目ちらりと見てカルビ弁当が目に入って大して考えもせずにそれを手に取った。でかいカルビがべろりと飯の上にのっている代物で、ケースのふちには油が白く凝固している。
決め手にかける感じだ。
飲み物だけはもう決まっている。
冬用の新発売のウーロン茶だ。
右手に弁当、左手にペットボトルを抱えて、迷いに迷い、仕様がないので俺はレジに向かおうとした。
―――そこでソイツにでくわしてしまったのだ、また。
いつもこの時間に一緒になる、同じフロアの新入に。
白い、律儀そうな、顔にノンフレームのメガネがはまりすぎる―――澤野とかいう男に。
スーツをいつもきっちりと着込み、必要以上ににこりともせず、かわいくないが仕事はできる―と評判の男だ。
俺も同じフロアにいるとはいえ、違うプロジェクトで動いているからほとんど知らないが、こうして何度かコンビニで一緒になったことがある。
何度か、じゃない。
弁当を買いにくると、何故か一緒になる。
そして二人で弁当棚の前に並んで、無言でそれぞれの買い物を済ませていく。挨拶もなしだ。
いい加減、気まずくなりそうなもんなのに、意識しているのは俺だけらしい。澤野は静かな何考えているのか分からない顔でカルビ弁を決まって手に持ってはレジにいく。
そう、今俺の手の中にあるカルビ弁当は(しかもこれで最後だ)、澤野の夕食のメニューなのだ。
「………」
澤野は無言で、もちろん無表情で棚を一瞥し、それから俺の手を見た。そしてそれからゆっくりと棚を見やる。
俺は魅入られたようにそこに立ちすくんだ。
そうして数十秒。
動きのない澤野に気まずさを覚えて、俺は話題を探した。
「なあ、おたくのチーフ、ホモってマジ?」
話題としては最低だったが、別になんだってよかった。
鮎川さん、また見られてるわよ岡野さんに(岡野というのは澤野のいるプロジェクトのチーフだ)、と横のデスクの経理の山口に小突かれては五十がらみの男に秋波送られてるのかよと俺は滅入る。
岡野さんは結婚しているが、どうも男もいけるらしいと評判だ。
悪戯心はあった。
澤野が一体どういう反応をするか、知りたかった。いつも冷静な男が赤面でもしたら面白いと思ったのだ。
「さあ、好みじゃないから知りません」
さらりと応えた横顔は、しれっとしていた。視線は品の少なくなった棚を見つめたままだ。
何だよ、クソ面白くない。
「鮎川さん」
レジに向かおうとした俺の背を澤野の声が止める。声も適度に低くてやはりお堅い。
「カルビ弁当返してください。それ僕のです」
「僕のってことはないだろうよ。早いもん勝ちだろ」
振り返ると、澤野は微笑しているように見えた。
ああ、嫌な感じだ。また。
「それは"僕がいつも買っている"カルビ弁当です。だから僕の」
「いつも食ってんだからいいじゃねえか。譲れよ」
「嫌です」
薄い唇がはっきりと声を発する。
「夜は重いもんじゃないと駄目なんで。鮎川さん。まだパスタあるじゃないですか。ほうれん草のやつ」
と澤野が指さした先には、緑色のパスタがうねうねとパックに入っている。
「それは生理的に受け付けない」
「ふうん」
ぞくっと背筋を這い上がっていく、何か。
澤野と会うといつもこういう感じがする。見られているような気がする。会うのはコンビニでだけだから少し違うかもしれないが―――何といっていいのかは知らないが澤野の視線を感じる。
「お前が食えよ」
「大の大人がこんなの夕食で食べられますか」
「文句あるのか、澤野」
にやっと澤野が笑う。
初めて見た笑い顔だった。瞬間、ドキリとする。
薄い、色の薄い、淡白そうな唇がいつも几帳面に言葉を喋るか閉じてるかしないような唇が、歪んで、なんだか…。
「カルビ好きなんですよ」
言いながら笑う。尖った白い犬歯が見えた。、笑うと少し幼くなってとっつきやすい感じになる。
ああそう、食うわけね。この脂の浮いた安物のカルビを頬張るわけだ。
澤野の、静かな顔が、どんな顔をしてそれを食べるのだろう。
その唇が、べろっと脂の浮いたのカルビを白い飯の上に広げた―そんなもんを咀嚼するのかと思う。
質の悪そうな油が、あの唇を濡らすのかと思う。
そしてそれを赤い舌でべろりと舐めとるのだ。
「何、見てんですか」
「何も」
俺はあわてて頭を振った。今何に見蕩れてた?
僕ねえ、夜ってご飯ものじゃないと食べた気しないんですよね、と言って、「マーボー丼」を手にとる。
「脂っこいもの好きなんだな」
「毎晩スパゲッティ食べる人に言われたくありません」
あーそー。
つかつかと澤野が俺に歩み寄るようにしてレジに向かう。
ああ、また視線。
――けれどこいつが一体俺のどこを見ているのかよく分からない。顔じゃない気がする。
「……ぼとけ」
「何」
澤野の視線が俺の顔を撫でる。多分、今までで一番の至近距離で視線が絡んだ。
一重の目はすっきりとしていて、瞳は真っ黒。切れ長で、睫毛が長い。
割と、キレイな顔してんだな。
薄い唇が開く。
「鮎川さんの喉仏ってすごくいい形してますよね」
すごく、好みなんです。
…………は?
何ていった、今?
「ああそう」
と俺の唇は自動的に言葉を発し―――澤野は俺の前をすり抜けてレジへ。
すいませんこれチンしてください。
ああチンね、チン―――じゃない。一体何が、好みだって?
「鮎川さん、どうすんですか」
と遠く声が聞こえた。
ああ、すいません、これもついでに。お金は別で。と澤野はさっさと俺の手からカルビ弁当を抜き取ってレジ台に置いたらしい。
喉仏が好きだって?と事情を飲み込みながら、俺はレジに小銭を置く。
「岡野チーフは好みじゃないけど。好みはよく似てるみたいですよ」
アルバイトらしいレジ係は電子レンジと格闘している。どうやら慣れていないらしい。
澤野の視線を左斜め下から感じる。あまり見ないようにした。
心臓がどぎまぎしている。
ようやく分かった。こいつは俺の喉仏を見ていやがったのだ。
脂っこい肉を食べるその口で舌なめずりしそうな、今にも噛みつきそうな、ねぶりつきそうな肉食獣みたいなそんな顔で、俺の喉仏を見ていたのだ。
カルビに鋭い犬歯を突き立てて咀嚼する―そんな顔で。
何となく嫌な感じがして、コートの襟を立てて前をかき合せた。おお寒ってな感じで。
途端、澤野は苦虫を潰したような顔になる。
「鮎川さん、そっちもいけるでしょ」
澤野はやはりしれっとしている。
まあいけるが、会社の連中を相手にしたことはないぞ。
今度、ホテル行きませんか―――。
コンビニの自動ドアを通る間際に、澤野が告げる。
歩くと提げたビニール袋ががしゃがしゃいう。
がしゃがしゃがしゃがしゃ。
会社までは歩道橋を渡ってすぐだ。
ああ、まあ、と俺が数分おいて生返事をすると、澤野は白い尖った犬歯を見せて唇の端だけで笑った。
* うッきょ〜〜!!とクルクルまわりたい皆さんを代表して、言っときます!!
アァン!!どうしてこんなに、ひさかわ様のリーマンネタは、こうもあぁも『萌える』んだろう!!
そして、思わせぶりターボで、ポンと終了する焦らしテクも、遣られたよ・・・プシュゥ〜・・・・