ヴァイオリンを弾く猫なんかより
                                 牝牛を喰わせてくれよ、ハニィ

   



ミラー・パルス・マイヤーは、火曜日の朝、36℃6分の熱に溺れ、サウスエンドのオフィスを三連休する電話をかける。

同居人のフェシス.Kは、実に巧みなフェラチオを体得していたが、介護能力にはその才を見せず、結果二人の寝室には香港ウィルスと、僅かのタールとニコチンと、二人の情熱の残り滓が日に当てないリネンの湿度と倦怠を、また一層遣る方無くさせた。



                  *  *  *



コルレリ大佐は、ドロテスタ州立病院最上階個室にて、山猫みたいなブルネットの看護婦の、些かサイズが小さい白衣を押し上げる、魅惑の谷間に釘付けだった。

日頃口うるさい妻も、病人には優しい。 いけ好かないチンピラ芸人と2ヶ月前家を出た、長女、アルマも駆けつけ泣いた。 ぐれた娘も泣き顔は、まぁ、いいもんだ。 バザーで飴を落とした5歳の頃と、そうは変らんな・・・ と、しみじみ浸れる程度に、大佐は幸福であった。 だから、概ねこれは、実は、たいした事じゃないと言える。 

たいしたことじゃぁ無い、なくしたのはたった二つ。 封を開けたばかりのスペアミントのキャンディースティック、そして右の手首だけ。 

丸く厚くテーピングされた、そこを見れば、アルマ7歳の、学芸会で、得意になって、振り回していた、太鼓のバチに、酷似していた。



                  *  *  *



トラスト34番街、チャペルの音が5時を知らす。 トマトソースは一昨日で切れた。 ヴァネッサは、木枯らしの中、ウェブソンの店へ出掛けねばならない20分後に、舌打ちをする。

『おのどが、イタイ、イタイよォ・・・』

足元でもぞもぞする、ミルク色の塊。 軽く踏みつけ、4本目の煙草に手を伸ばす。 503号、尻軽アリサが二人の子供を橋から捨てた。 先週になって、ホームレスのジャンキーが、ぷかぷか浮かぶ襤褸みたいなのを手繰り寄せ、あまりの悪臭に、商売にならない と、デトリベーカリーの親父がポリスに食って掛っていた。 さぞや、二人は、手の掛かる悪童だったのであろう。 ちょうど、コレみたいに。

『なんかちょうだい! ハーシーバーの、アマイの、ちようだい!!』

それはベタベタの手で、室内履きの繍子を濡らす。 ナメクジが這ったような、ソレ。 なんて、腹立たしい。 屈み込むとぽっかり開いた忌々しい口に、半分蕩けたチョコバーを捻じ込んだ。 ニンマリした口元。茶褐色で胸糞悪い甘い、口元。思い切り殴りつけると丸く縮まる。二度三度殴れば、きっと音をあげるだろう。

『ママ、ママ、許して!!』

踏みつけた腹が二度引き攣り、射精の後の弛緩に伸びる。 馬鹿げてる、室内履きのナメクジ跡。 絨毯の染み。 これで50ドル? 馬鹿げてる。

ヴァネッサがコートを羽織、マイセンもどきのデザート皿に、クローバーをあしらった指輪が無いと気付くのは、もう少し後の事。 指輪は、マーケットの7ドル80セント。 馬鹿げてる。 儲けは42ドル20セント!



                  *  *  *



『愛してる、って、ねぇ、言って頂戴!!』

あぁ、愛してるとも! そうは言いつつ、ウェブソン・トレイは苛立ちを隠せない。 チャペルの鐘はとうに5時を鳴らし、先刻から駄菓子の棚の前、胡散臭いインド人が二人、万引きの品定めに余念が無い。 そう、斯くも忙しい、書き入れ時、この夕刻に、この馬鹿女!

『・・さみしいでしょうけど・・・・』

さみしいものか!! 身重のイサヴェラが実家に帰り、正直、清々した気持ちで一杯だ。 所帯を持って1年足らずで50ポンドも膨れた、嫉妬深く、口煩い、おかしな健康志向の、豆だか肉だかどちらにしても、不味い料理を作っては、無理やり喰わせる妻、イサヴェラ。 ― 大丈夫、ゆっくりしておいで。 -- 全く、このまま帰ってこんでも、良いくらいだよ。

『ううん、心配よ。 わかるのよ、あたし・・・』

はん! わかるだろうとも! わかるだろ? 俺が今どんなに清々して、どんなにお前の声に苛ついてるかなんて!! -- 安心して、ハニィ、後少しの間じゃないか? ― 心にも無い言葉なんて、口先から勝手に出る条件反射。 おい、俺はこの女に何故、こうもおべんちゃらを言う?

『えぇ、後半月の我慢ね、そしたら、可愛い赤ちゃんと、あたしとあなたで、新しい生活が始まるわ!』

可愛い? そりゃ疑問だ。 俺はどう見たって醜男の仲間、そしてお前はどう見ても不器量の仲間。フン! 似合いじゃないか! そこに、不細工な子供一人追加って訳か!! 

背の高い方のインド人が、ふらり身を屈めたように思えた。 身を乗り出すが、電話コードが些か短い。 チビの方が急に惣菜の棚にまわる。 

『ダーリン、パパとママの創ったお店、あたし達の代で改装出来やしないかしら!!』

そうだとも!! こんな、ちっぽけで、しけた店を貰ったが為、俺は今になって、いけ好かない家庭、いけ好かない万引き客に苛立ち、神経をすり減らし、痩せるばかりの毎日を過ごす。 改装?幾らかかる?ハリボのグミチョコだのアイヴォリィの石鹸だの、一体、幾つ売れば改装とやらが出来る? ホレ見ろ、窓枠分をあの馬鹿が盗んだ!!

『あぁ、ダーリン、早く会いたいわ。』

早かろうが遅かろうが、イサヴェラは、夫ウェブソン・トレイの生きた姿に逢える事は無い。 2袋の駄菓子と2本のペプシの為、ウェブソン・トレイは銃弾に倒れる。 ウェブソン・トレイは、愛妻との電話中、不慮の事故で亡くなる。 イサヴェラは生涯、夫に愛された幸福な寡婦となった。

トラストウォール、夕暮れの雑踏を二人のインド人が走り抜けた。 

交差点手前、タクシーを待つ初老の紳士が痰を絡ませ、スペアミントのキャンディを取り出す。 菓子袋を抱えたインド青年が、余所見をして、今まさに、缶の蓋を抉じ開けた紳士を突き飛ばしたのだが、それは一瞬、その後の事など彼らは、知りもしないだろう。

その日、コルレリ大佐は、右手首とドロップを失った。



                  *  *  *



サザンプトンの姪が、牛が食べるほどのニシンを送ってくれたけど、大きな御世話だよ、塩辛すぎの、堅すぎの、カタイったらこれは、アタシの顎がクタクタになる代物だよ。 過ぎるばかりで気が利かない、アレじゃ、向こうのお袋さんと合わないだろう、エヴァンスもロクデナシを嫁に貰ったもんだ。 ロクデナシったら、この娘、いつまでここに居るつもりだろうね。 

― あぁ、アンタ、もう一杯お茶飲むかい? −

ふん、飲むのかい、遠慮を知らない子だね。 あぁ、よっこいしょ、膝だの腰だの、この冬は冷えるのかい? どうにもいけないね。 この、忌々しい痛み、どうしてくれよう。 Dr.マルキンの処方ってのは、なんだい、一向に利きゃしないじゃないか。 ちょこっと痛みを止めるだけなのに、アタシが幾ら払ってると思う?。 全く藪だよ、良かったのは親父の代までで、あぁ、潰れるだろうね、あんなヤブ。

― へぇ、そう、アレは浮気じゃ無かったって? −

そりゃ、良かったねぇ、アンタのロクデナシも、きっとホッとしてるんだろうよ、しめしめ巧く隠しおおせたってさぁ。 こんな、アマちゃん騙すの、あのロクデナシはチョチョイだろうよ! あぁ、浮気も何も、本命、大本命が居るんじゃないかい? 言っちゃなんだが、アンタの取り得はオヤジの財産、ソンだけだろうに。

― おや、あぁ、これは値打ちもんだねぇ、大事にしなよぅ、おめでとう! −

あれが『おばあ様譲りのマリッジリング』だって?! あれが?! ちゃちな真鍮に硝子玉の、甘ったるいクローバーの細工のアレが、愛の証しってのかい? 嬉しいのかい? あはは、傑作だよ、この子は全く大馬鹿だ!! ありゃ、そこいらの露天で10ドルもしないオモチャじゃないか!! あはは、傑作だよ、この娘、10ドルにも満たない愛を貰って有頂天だよ!

― そうだね、こないだそこで店主がロクデナシに撃たれたばかりだからね、遅くならない方がいい −

で、そのクッキー食べてから帰るって?ふん、チャッカリしてるねぇ、なのになんだい、謙虚になって。 愛があれば、何にも要らない?・・・要らないのかい?! あれま、なんたる馬鹿娘! アンタの愛は、腹、膨れンのかい? まぁ良いさ、夢見てるうちが花だ。 気付いたときは、しわくちゃ婆ァで、亭主はポックリ墓の下ってさぁ。 おや、どうりで、すかすかすると思ったら、ひざ掛けの穴がこんなに広がってるよ。 これも、亭主がどっかの安物をカシミヤだのって法螺吹いてさぁ、ふん、安物なり、重宝したけど。

― あぁ、水臭い事言わないどくれよ、お隣同士じゃないか? アタシも一人だしね、いつでも話し相手にはなるってさぁ。 さよなら、アルマ! 指輪、ホントに、お似合いだ!! −

アルマ、アルマ、世間知らずの馬鹿な娘! 

はて、ニシンをどう食べよう、ニシンニシンニシン・・・



                  *  *  *



―― ねぇ、ハニィ、君のアレ、すごく熱いんだけど・・・

フェシス.Kの申告により、断続的で息苦しく甘ったれた確認行為は、7時間ぶりに中断された。 ミラー・パルス・マイヤー 35歳の腹、週に3回のマシン・エクササイズで、重力に充分逆らう自慢の組織の上、恋人のしなやかな腰が捻りを見せ、浮き上がる筋骨の妙に暫し見惚れる。 ベッドサイドのボトルを手にしたフェシス.Kの口唇には水滴が光り、喉元がゆっくり上下した。 

―― つづけるの?

ミラー・パルス・マイヤーの愛しい分身は、未だ、恋人の内に収まり、動きを潜める。 継続はヤブサカじゃないが、先刻からの悪寒、それは確かに無視できない悪化を辿る。 素敵に淫らな、ハニィバニィと、もぐりっこくすぐりっこの一夜を過ごし、まだ潜り込みたがる分身を代弁すれば、オフィスに仮病を使うくらいナンテコトなかった。 しかし、今朝方、ゾクっと来たのは、何も、フェシス.Kの舌がベルベットのようであったから、そればかりではない。

―― Dr.マルティんのとこ、行く?

身じろぐ恋人はローブを羽織り、追い出されたマイヤーの分身は、湿った下腹に項垂れる。 あぁ、あのヤブに行くのは、気が乗らないが、しかし、車を出すには近くて便利。 ブロンドのハニィバニィは運転が出来ない。

―― 出来ないってワケじゃない。

そうだね、君は出来ない訳じゃない、ただ、そう、向いてないんだよ。 香港ウィルスは厄介だが、潰れたユーノスと人生を終わるよりは、ずっと、穏やかな代物だ。 せめてもの救いは、君と一緒って事くらい。

―― 帰りに、ディタのボトルを買っていい?

それじゃ、ソーダも買わなきゃね。 なぁ、おい、よせよ、もう、それドコロじゃないんだって、おい、勘弁してくれよハニィバァニィ!! しなやかな指が、ぞくぞくした背骨を彷徨い、しっとりした肌が猫みたいに、気だるい身体に擦り寄った。 どうしようもない、可愛いハニィバニィ! 股座で動くブロンドに、逆らえないミラー・パルス・マイヤーは、意欲的な分身と反し、膨張する頭蓋がぼんやりする倦怠に、なす術もない。

―― ねぇ、代わろうか?

カナリア色のユーノスはガレージから、些か乱暴に発車する。 シートに身を沈めるフェシス.Kは、何故か朦朧と発熱に立ち向かうミラー・パルス・マイヤー・より、ずっと怠惰で、物憂げだ。 スィッチ最大のヒーターは、一向に効かず、火のように燃える眼球裏と氷のような体躯を震わせ、夕暮れの街に目を凝らす。 視界が揺れて、霞みが掛かる。 トラストウォールの交差点、信号待ちの小休止に、チャペルの鐘は五回鳴った。 なぁ、ハニィバニィ、不味いな、眠っちまいそうだよ!

―― 窓開ける?

冷やりと木枯らしの欠片が頬を撫で、走り出す車の中、小さな突風が通り抜けた。 入り込むのは冷気ばかりじゃない。 前方路肩で紳士が佇む。 その紳士の背後、慌てた褐色の青年が二人、ドン!バン!紳士にぶつかり構わず走る。 紳士のコートがマントのように、バンザイの腕、Oのカタチの開いた口元、ボン!ドラムに似た音を残し、大写しの紳士は急速に車外遠ざかる。 轢いちゃいない、撥ねてもいない、だがしかし。

―― ハニィ・・・これ、舐める?

フェシス.Kのフラノのスラックス、行儀良く載せられた紳士の肉厚の手首。 紳士は手土産を持っている。 封を開け、どうぞと用意された、濃紺と水色のスペアミントスティック。 

ミラー・パルス・マイヤーは、火曜日の5時過ぎ、39℃8分の熱に溺れる。 フェシス.Kは、絶品のフェラチオを習得するその舌で、見知らぬ紳士のキャンディーを舐める。 

ヴァイオリンを弾く猫なんかより、牝牛を喰わせてくれよ、ハニィ!!





    おわり

     November 23, 2002





      * 人様に迷惑を書けるのも、ほどほどにセネバと思う。楽しかったけど。
        えぬし様、有り難う。  そちらBBS,どうも、安らぎます。
 えぬし様が和み系だから。