++ 耽溺ロジック ++



外回りの営業で靴底をすり減らし、どうにか今月も首が繋がった安堵から終業時間と同時に会社を後にして行き付けの居酒屋へ一人向かう。

 付き合いだなんだと飲みごとは多いが、基本的に一人で飲むのが好きな幸嶋美樹は営業職のくせに人付き合いが苦手な不器用な男だった。

 不器用ながらもなんとか苦手な人間関係を波風立てずやり過ごす術を憶えたサラリーマン暦11年目の彼のお気に入りの店は、演歌にでも出てきそうな未亡人女将が一人で切り盛りしている小料理屋だ。
 就職したての頃面倒を見てくれた先輩に連れられて来て以来、かれこれ10年以上通いつづけている。当時はまだ女将の夫も健在で、無口で厳つい板前姿が彼女の横で睨みを効かせていたものだったが、その姿が消えてから3年になる。
 いよいよ匂いたつような熟女の魅力を振り撒き出した彼女に言い寄る客も多く、店はそこそこ繁盛しているようだった。

「あら、幸嶋さん、今日は早いんですね。」

 格子の引き戸を引いて顔を覗かせた幸嶋に、女将の柔らかい声がかかる。見れば他には客の姿もない。週半ばの夕方早くならばこんなものなのだろうかと、遅い時間に訪れることの多い幸嶋は、がらんとした店内に少しばかり気後れを感じて踏み出しかけた足を止めた。

「どこでも好きなところにどうぞ。」

 ニッコリと女将に勧められては回れ右して帰るわけにもいかない。幸嶋は仕方なくカウンターのいちばん端、壁際の席に腰を下ろした。

 とりあえずビール、とお決まりのオーダーをし、すでに暗記してしまっているものの間を持たせるために手元のお品書きに目を通す。冷えたお絞りとビールが運ばれてきたついでに2、3品頼んでポケットから煙草を取り出した。

 いつもは注文が通ると奥に消える女将が、厨房をちらりと覗いただけで戻ってきたのを見て、おもわず奥を窺がった幸嶋は、そこに見なれぬ大きな後姿を見つけて女将に訊ねた。

「新しい板前さんですか。」

「ええ、先週から。幸嶋さんは初めてでしたね。ちょっと、ケイちゃん!」

 わざわざ呼ばなくとも、と止める間もなく女将は厨房から男を呼び寄せる。ゆっくりとした動作で奥から現れた男は、鴨居に額がぶつかりそうなほど長身の、20代の若者だった。

「三枝啓治君。私の義理の弟なんです。こちらは常連の幸嶋さん。」

 紹介されてどぎまぎと会釈した幸嶋に、青年はチラリと視線をよこしぶっきらぼうに顎を引いた。あまり愛想のいいほうではないらしい。その仕草が亡くなった女将の亭主になるほどよく似ていて、幸嶋の口元が僅かに綻んだ。

 そのまま無言で奥へ戻って行く後姿を目で追っていた幸嶋は、女将の密やかな溜め息を聞きとめて、視線を戻す。憂い顔の女将は幸嶋に小さく笑い返して、肩を竦めた。

「愛想のない子で…ごめんなさいね。」

「いえ…、ご主人によく似てらっしゃいますね。」

「フフフ…、愛想のないところは本当にそっくり。」

 幸嶋のグラスにビールを注ぎながら女将は思案顔で厨房を振り向き、だが気を取り直すように幸嶋に向き直って、他愛のない世間話を口に上らせ始めた。
 それに気のない相槌を返しながらも、妙に厨房の中の青年のことが気になって、幸嶋はチラチラと視線を奥へと投げかける。

 結局その後幸嶋が店を後にするまで青年が表に出て来ることはなく。
 ただ、店を出る直前に合った視線がやけにキツイものだったことだけが、心に残った。



 それから数ヶ月、幸嶋は仕事に追われ飲みにいくこともままならない日が続き、コンビニ弁当やインスタントの夕食にほとほと嫌気が差して、時間をどうにか遣り繰りし、小料理屋ののれんをくぐった。

「いらっしゃい…。」

 幸嶋を迎えたのは華やかな女将の声ではなく、野太く低い、件の青年のそれだった。意外におもって店内を見まわすが、女将の姿は見えない。そのためか、8時を回った掻き入れ時だというのに、ガランと空いていた。

「あれ、雪江さんは?」

「義姉さんは墓参りで…。」

「ああ…、もうそんな季節か…。」

 ボソリと答えた啓治の言葉に幸嶋ははっとして口をつぐむ。女将である雪江の夫宗吾の命日が今日であったことなどすっかり記憶の彼方に忘れ去っていたのだ。毎年この日は店を閉じて宗吾の実家に墓参りに行く雪江をよく知る常連は、おそらく今年も同じように店を閉めるものと、決め手かかっていたに違いない。そのため客の姿が見えないのかとようやく合点がいって幸嶋は、先日と同じカウンターの一番端の席に腰を下ろした。

「君は…行かなくてよかったのかい?」

「こんな日くらい夫婦水入らずでいいでしょう。」

 派手な見てくれの割に随分古めかしい物言いをする男だと、幸嶋はおかしくなってひっそり笑う。訝しげな視線を送ってくる啓治に「ビール貰える?」と笑ってしまったことをごまかすように告げて、煙草に火をつけた。

 紫煙を燻らせぼんやりと、過去この店で腕を振るっていた男の姿と目の前の若い青年とを重ね合わせてみる。はっとするほど印象は似通っているが、そう顔立ちが似ているわけではない。宗吾より上背も横幅も勝る啓治は、その表情も厳しく、伸ばしっぱなしの茶色い髪と日に焼けた浅黒い肌が若者らしさを表していたが、その表情はどこか暗く翳っていた。

「何か、飲む?」

 沈黙が居心地悪く、幸嶋は視線をそらすようにして訊ねる。啓治はしばらく考えたようだったが、棚からグラスを取り出すと、「戴きます。」と幸嶋の方に向かって差し出した。

 ビールを注ぎながら、目を伏せた啓治の顔をこっそり盗み見る。やはりそう似ているわけではないなと改めておもったところで不意打ちのように啓治の視線が幸嶋のそれを捕らえる。盗み見ていた気まずさからおもわず赤くなった幸嶋に、だが啓治はなんの反応も返さずただじっと視線を注いできた。

「…兄は亡くなった日、俺に電話をかけてきたんです。」

 唐突に、今までの無口な様が嘘のように啓治は口を開いた。なんの感情もあらわさない無表情のまま、淡々と。





「『一世一代の恋をした。雪江と別れてソイツと逃げる。』兄はいつになく興奮した様子で俺に秘密を打ち明けました。俺は、『冗談だろう』と笑い飛ばそうとしましたが、そんな冗談を言うような男でないことを嫌というほど知ってましたから『そうか』とだけ答えて電話を切りました。その日の晩、兄は自ら運転していた車で赤信号の交差点に突っ込んで事故死しました。大型トラックと正面衝突ですよ。即死でした。」

「義姉さんは、兄の気持ちを知っていたような様子は少しも見せなかった。最愛の夫をなくした貞淑な未亡人の顔で葬儀を取り仕切り、涙で目を潤ませながら俺に「どうしてあの人が死ななきゃならなかったの」と縋って。でも俺は、義姉さんが葬儀の間中、焼香に訪れた客を食いるような眼差しで見つめていたのに気付いていました。恨みと悋気のこもった恐ろしいほど激しい目で。」

「ところで兄は、義姉には秘密で、俺のところにあるものを送ってよこしてました。丁度電話のあった日の午後に投函された手紙です。」




 幸嶋は俯いて、啓治の話を聞いていた。耳鳴りがひどくて聞き取るのに苦労したが、なんとか口を挟むことなく、言葉を受け止める。奥歯が噛み締めても細かく震え、それは小刻みに握ったクラスを揺らした。

「顔色、悪いですよ。今日はどうやらお客さんは来ないらしい。どうですか、奥でゆっくり想い出話でもしませんか。…兄と、あなたとの。」

 パリンと音をたてて、手の中のグラスが滑り落ちてくだけた。零れたビールが膝から下をぐっしょりと濡らし、冷房の風に晒されて足先をぞっとするような寒気が這い登る。

「コウジマミキさん。堅物のあの兄が夢中になった人は一体どんな女性なんだろうとずっと気になってたんですが…、まさか、男性だったとはね。」

 カウンターの向こうから、啓治が冷たい眼差しを幸嶋に注ぐ。目を上げることもできずに震える幸嶋の肩をゆっくりと掴み、身を屈めるようにして耳元で囁いた。

「貴方の元へ向かう途中兄は死んだ。嫉妬のあまりおかしくなった義姉さんに一服盛られたことも気付かずに。どうです、楽しい話でしょう。」

「事故だったと…。」

「義姉さんの実家は資産家で、随分と金を積んだようですよ。さすがに勘当同然とは言え一人娘を前科者にはしたくなかったんでしょう。」

「雪江さんが…そんな…。」

 幸嶋は呆然と洩らし、手の平に顔を埋める。

 あの日、幸嶋は宗吾と逃げるつもりはさらさらなかったのだ。きっぱり別れを切り出して、面倒ないざこざを避けるつもりでいた。

 美しい妻を持つ、生真面目な男とのスリルに溢れた不倫関係を楽しんでいただけの幸嶋は、宗吾の焼けつくような激しい求愛に辟易していた。仕事も家族も棄てて一緒に逃げてくれと迫る男が煩わしかった。だから、事故で死んだと聞いた時、薄情にもほっと胸を撫で下ろしたのだ。

 これで厄介ごとから開放された、と。

 だから宗吾が死んだ後も何食わぬ顔をしてこの店を訪れることができたし、命日すら忘れていた。

「義姉は今でも貴方を恨んでいる。今日も朝から兄の墓で、訪れるかもしれない浮気相手を待ち構えているんです。その相手は命日のことなんてすっかり忘れているっていうのにね。」

 肩に食い込んだ啓治の指が、力の抜けた幸嶋の体を引き寄せる。ガタンと椅子が派手な音をたててひっくり返った。




「さあ、聞かせてくださいよ。むくわれない恋に準じて死んだ、バカな兄の想い出話を。」




     終り。
 




      * どうだい、セニョリ〜タ! 泣けたろ? ほれ、ハンカチは此処だ。 
              『駄目な感じ』 この、ふざけた御題で、この佳作だよ。
        ミムラ様、有り難う。      そして、イラストまで、この方は、こなす・・・あぁ、。