スルー スルー スルー ―― 或いは溺れる魚 ――
あの時、ハギオは公立高校の二年だった。
ただ、「居る」為にはどうしたらいいか? ハギオは個としての存在を消し、ざわめくクラス38名の中へ魚の様に潜んでいた。 静かで目立たず、可もなく不可もなく、どちらかといえば退屈な学生生活を送っていたハギオ。 四月の進路面接では高望みせず、およそ平坦で面白みの無い進路を決めた。 内申だけでも入れるその進路を見て『それが君には向いているかも知れないね』と、若い担当教諭は薄く笑ったが。 全く、ハギオとはそんなエピソードが正しく、それでこそハギオであると思わせる生徒なのだった。
ハギオにとっての現在は通り過ぎる為の過程に過ぎず、次に進む先とは流れの延長でしかない。 ならば磨耗を避け、衝突を避け、緩やかな水に泳ぐ魚の様に生きて行きたいと願う。 残りの高校生活を平穏に、あくせくする受験もなく、ただ出席日数だけを落とさぬように、絵を描いてのんびり過ごすのがハギオの予定だった。 そのようになる筈であった。
ハギオは、中学からずっと美術部に所属している。 絵は、好きだ。 絵は一人で描くから好きだ。 スポーツはあのガムシャラ感が嫌だった。 かといって他の文化系にありがちな連帯感、寄り合い感はもっと嫌だった。 だからハギオは絵を描く。 一人で、さしたる目標も向上心も無く、強いて言えば好きだからとかそんな理由を翳して。 何しろ、ここはハギオに売って付けの環境だった。
6名居るはずの部員全員をハギオが見たのは一度きり、4月の説明会で一同集まったのが最初で最後の部活動と言えた。 今年たった一人入った一年は「アニメは駄目なんですか?」と口を尖らせ、それきり部室に顔を出さず、もう二人居る筈の二年はそもそも活動する気すら無いらしい。 ただ一人、ちょこちょこ顔を出していた部長の三年生とは幾度か短い会話を交わした事があったが、彼はここ一ヶ月学校に来ていない。 噂では、ノイローゼ気味になり自宅に引き篭もっていると言う。 そして顧問の若い数学教師は、自分が顧問である事すら覚えているのか定かではなく、つまり、ここはハギオの為の空間だった。 ハギオが自由に自らの時間を無駄遣いする、流れを凌ぐに売って付けの場所になった。 だから、存分に描く。
実のところ絵を描く事そのものより、描いて残す事に意味が在る様な気がしてならない。 過ぎてゆく景色、現実、記憶を紙の上、自らの手で確かに其処に在ったのだと残す。 そうした「記録」をハギオは誰よりも必要としていた。 日常は余りに希薄で移ろい易い。 そしてそれ以上に希薄で移ろい易い自分自身に、漠然とした不安を感じていたのかも知れない。 それ故に、描く。 ハギオにとって、それが安心の材料になるから。 しかしその最も平穏な道筋は、妙な按配に崩れて行く。 始末が悪い事に崩れを誘発したのは、他ならぬハギオ自身だった。
その頃、ハギオは部室の窓の外、疾走し跳躍する陸上部の練習風景をモチーフに選びデッサンを繰り返していた。 何故だろう、動く人間を描いてみたくなった。 持ちうる機能を存分に使いこなす人体とは、生きる力に満ちて純粋に美しい。 ハギオは毎日数枚、スケッチブックの白にそうした生の軌跡を写し取る。 そしてある時、一人の選手から目が離せなくなった。 彼は、幅跳びを得意とする選手だった。 加速する助走、瞬間ふわりと腕が伸び上がり、下肢はバネの如く大地を蹴り、重力に逆らいキリキリと吊り上がる大腿の力強さ。 素人目にもフォームは素晴らしく、伸びやかな四肢に余分は一つだってない。 その跳躍は、時間が止まったかのような美しい静寂だった。
ハギオは「選手」を見る度に、彼は何処へ向かうのかと想像せずには居られない。 地を蹴る瞬間、それは未知なる自由へ向け脱出する瞬間にも思え、ならばそう『脱出』というタイトルでその選手を描きたいと思った。 その思い付きにハギオは夢中になる。 掴み取る自由に向かい、踵はこんなふうに土を蹴る、顎を引いて前だけを見て、疾走する筋肉は歪みのない骨格に張り付き綺麗なエッジを浮かび上がらせるのだろう。 高揚しつつ、放課後「選手」を眺めデッサンする毎日。 いつしか「選手」を目で追う時間に、ハギオはかつて経験の無い充実を感じていた。 確実に、其処に残る、内に存在し続ける手応え。
終業のチャイムを聞き、ハギオはいそいそと二階の端にある美術室へ向かう。 まずカーテンを開け、ざっと見渡す眼下のグラウンドに彼の「選手」を捜す。 決して狭くないグラウンドには、野球、サッカー、テニス・・・大きく場所を取る彼らに混じり水泳、弓道、剣道、そして陸上。 グラウンド右端、葉桜の木陰、「選手」は背の高い赤毛の友人と二人、なにやら楽しげに柔軟をしていた。 きっと、親友なのだ。 たいていいつも、「選手」は彼と一緒に居た。 だからハギオは「選手」を捜す際、赤い頭を目印にする。 太陽を弾く赤い頭の横で、「選手」は良く笑い良く喋った。
―― 何を話しているのだろう? ―― ふと、そんな事を考えた自分をハギオは滑稽に思う。 どうだっていいじゃないか。 自分と何の関係がある? そんな事より自分はここで何をしてるのだろうと小さな苛立ちを感じたが、それについて考える気は無い。 しかし、見届けたかった。 理由なんてどうでも良い、「選手」の一挙手一投足を見届けたい欲求に、ハギオは逆らう事が出来なかった。 一体何に執着しているのか、ハギオ自身にも不可解な感情に支配され、追視する「選手」を絵筆は忠実になぞる。 無駄のない滑らかな優美さを、紙の上に再生するハギオ。 だけども、ハギオはその本人に、モデルの件を言い出せずにいた。
同じ二年生である事は判っていたが、全く面識のない人間が自分の事をデッサンしていると聞けば普通、怪訝に思うだろう。 ハギオが女だったらまた少し別だろうが、同性となると正直、気持ち悪いと思われても仕方がない。 「もう見るな」と言われたらそこで、このハギオの習慣は終わる。 それだけは嫌だった。 これを止めるのは、厭だった。 ならばこっそり続ける他に無い。 少々の後ろめたさを抱きつつ、ハギオの毎日は同じように過ぎる。
やがてデッサンはスケッチブック一冊を埋め、いよいよキャンパスに走らせる絵筆。 蒸し暑い6月下旬、下絵も終わり色を差してゆくそんな頃、ハギオは「選手」の異変に気付いた。 それは、長期に渡りその姿を写し続けたハギオであったから、気付いた事かもしれない。 それほどに微かな変化。 微妙な違和感。 「選手」から、安寧が消えた。
例えばいつも通りのストレッチ、互いの背を弓形に伸ばし柔らかく四肢を解す友人と「選手」の間に、会話はほとんど無い。 在るのは緊張だけだ。 ピンと吊下げられた振り子の先を揺らさぬように、二人は互いに触れていながらそれを酷く恐れ脅えていた。 罵りあう事も無く、あからさまな黙殺でも無く、ましてや憎悪を剥き出すような諍いではない。 前屈みに膝を曲げ深く息を吐く選手の横、所在の無い赤い髪が埃っぽい砂地に長く影法師を落とす。 ハギオは赤髪の右手が、ぎこちなく伸ばされたのを見た。 が、その手は寸でで動きを止め、踵を返す長身がランニングの一団に紛れる。 そしてそれを見計らうように上げられた「選手」の顔、斜めに傾ぎ、こちらからは伺えぬその表情にハギオはチリチリした焦燥を感じる。
変化は、それだけに留まらなかった。 「選手」は飛べなくなっていた。 宙をもがくように腕は空気を混ぜる。 しかし重力は無情にその足を掴み、脱出出来ぬ身体を砂地に沈める。 尻餅を着き、無様な着地に憤り、選手がパンと膝を叩いた。 その背後、少し離れて立つ赤い髪は、緩く拳を握りただ、その姿を見つめる。
どうして?
ランニングに短パンとあれば筋骨の動きも容易に観察出来る。 違和感を探ろうと取り出した、一月ほど前のデッサン。 ハギオは見比べつつ、注意深く選手を観察した。 すると、踏み切り時のフォームが微妙に崩れているのに気付いた。 ほんの少し助走をつけ宙に踏み出す瞬間、踏み切る右足が僅かに遅れ、その遅れに腕の振り上げも遅れ、結果、不安定な跳躍が不安定な着地になっている事がわかった。
たまたま?
そうではない、その次もその次も「選手」のフォームは崩れ、伸びない記録に「選手」は焦れる。 確かに以前と変わったのだ。 振るわない結果に仲間が度々声を掛ける。 けれど選手は素っ気無くそれをいなし、せかせか四肢の関節を回した。 苛立ち気味に砂を払い黙々と練習を繰り返す選手は、いつしか仲間からも孤立する。 一人がむしゃらに走り込む「選手」と、その少し先必ず其処に居る赤い髪。
伝えるべきなのだろうか? なんて? ずっと見てたからと?
何度目かの失墜の後、立ち上がった「選手」は砂を払い落としつつ歩き出す。 遠目にも強張り憮然とした表情のまま、「選手」はグラウンドを斜めに横切る。 何人かは呼び止めたが、軽く片手を上げ「選手」は拒絶を示す。 そして桜の葉陰、オレンジのタオルに顔を埋める「選手」に駆け寄ったのが赤髪だった。 赤髪が「選手」に何事かを伝える。 ペットボトルに口をつける「選手」は、すぐ近く、すぐそこの存在に全く応えようとはしない。 と、その時赤髪が「選手」の二の腕を掴んだ。 選手が何事か叫ぶ、激しく振り解かれた指、久しく向き合わなかった二人の斬り付け合うような沈黙 ――― 先に目をそらしたのは赤髪だった。 言葉を交わさぬまま、「選手」はクラブハウスの並ぶ中庭へと向かう。 欠けた植え込みを跨ぎ、水色のユニフォームが校舎沿いを歩く。
そして「選手」が目を上げた。
唐突に真向かいに見る、選手の黒い深い目。 中途に開いたカーテンの影、咄嗟に隠れたのは故意ではない。 それは後ろ暗い自分を晒す、無意識の羞恥。 初めて向き合う視線の強さに、ハギオは改めて「選手」のテリトリィに踏みこみ過ぎた自分を知った。 逃げ出したかった。 そこに留まる事に脅え慌しく帰り支度するハギオだが、なのに恐れつつもあの、射るような目を思い出さずには居られない。
引篭もり、スケッチブックを捲る自室、ハギオは見られる事の不安に鳥肌を立てる。 あんな目で見られたら、あんな目で糾弾されたら、あんな目に絡め取られたら、魚だって水に溺れるだろう。 けれどそれを承知していても、あれを、見つめずにいられるだろうか? まるで、罠のようだった。 そこに仕掛けてあると、分かっていて踏み出す、あざといトラップに似ていた。 罠は、早速始動する。
「遅かったじゃん」
翌日の放課後、イーゼルの前に「選手」は居た。 まだカーテンの引かれた薄暗い部室、ここより飛び立たん分身を前に本物は浅く椅子に掛け、のこのこ現れた窃視者を読めない薄笑いで迎えた。
「これ、俺だろ?」
「ご、ごめん、」
「へぇ、こんななの? ・・・・・わかんないな、気味わりぃよ」
「ごめんなさい、、」
「謝られてもさァ、・・・・・で、あんたホモなの?」
違うと訴える言葉はみっともなく縺れ、立ち上がる選手が一気に曳いたカーテンの向う、思う以上に明るい午後の陽射しに、ハギオは戸惑い立ち尽くす。
「まァどうでもいいよ、あんたが俺見てたのは間違い無いんだし・・・で、どうよ? 俺はどう見えた? 俺は、どんなふうに見えた?」
「い、生きてるふうに、」
「何言ってんの? あんたも生きてるだろ?」
詰問する声は意外に低く、話始めに詰まり微かに震える語尾は、日頃喋らぬ者に有りがちなハギオ自信覚えのある癖だった。 そんな曖昧な言葉の勢いが、曖昧な不安をハギオについと突きつける。
「ぼ、僕は、君を見てて生きてる事が綺麗なんだと思った、君が走るのを見てあんな風に飛び立てるならここから何処かへ行けるような気がしてた。 ごめん、悪気はなかったんだ、ただ、ずっと見ていたかったんだ。」
「じゃ、見ろよ、」
「え?」
「見ろよ、俺をさ、ずっとあんた見てみろよ、」
見ろよと言う「選手」の黒い目に、ハギオは文字通り見惚れる。
だからその手がヒュイと斜めに振り下ろされたのを、阿呆の様にポカンと眺めるだけだった。
そして一瞬遅れの驚愕。
「 ?! 」
キャンバスに走る赤い線。 線は伸びやかな左足を斜めに断ち、絵筆を握る選手は呆然とするハギオをさも楽しそうに眺め、その癖、抑揚の無い口調で言った。
「俺の膝、もう駄目。 だからこぉいう俺はね、もう居ないの。」
ポチャンと水差しに絵筆が落ちる。 近づく選手はハギオの肩に手を掛けて、小さく息を吸い込んだ。
「********」
内緒話の様に囁かれたのは、聞いた事も無い店の名前。
「8時半、あんたはそこで、俺を見る」
ポンと突き放されよろけた背後、スチール棚のガラクタが耳障りにカタカタと揺れた。 出て行くカッターシャツの白が現実味の無い残像となり、ハギオの思考と言葉を容赦なく奪う。 俄かに音量を増すグラウンドの喧騒。 小部屋を舐める西日は低く、生温く、現実とはキャンバスに走る赤い線。 粘り気の在る赤が、触れた指先をべっとりと染めた。
ハギオは、罠が始動したのを感じる。
これが、水に溺れる瞬間だと悟った。
その店に着いたのは、8時を少し回った所。 鉄格子に囚われる真鍮の天使――― 壁に打ち付けられたオブジェを目印に、ハギオは急階段で地下に潜る。 店内は蒼白く、黴臭い空気が寂れた水族館を思わせた。 店の奥、カプセルのようなブースで骸骨みたいな男が目を閉じ身体を揺らす。 音は、ここから発信されるらしい。 低く、内臓に響く、単調な拍動。 幾度も幾度も繰り返される短く半端な音階が、覚めない夢の様に不安定な酩酊を誘う。 時折ランダムな光の点滅が、彷徨う客達を照らした。 「客がゾンビ」 そう言ったのは三人目だったが、全くその通りだとハギオは思う。
ここに辿り着く為、ハギオは三人のクラスメートと初めての会話をこなした。 一学期も終わろう今頃、話し掛けてきた影の薄い級友に、二人はわからないと首を振り、三人目は 「おや?」 と言う風に眉を吊り上げる。 「あぁいうの好きなの?」 メガネの蔓を丁寧に畳み、三人目は解かり難い店の在処を要領良くハギオに教えた。 ハギオはこうした店に来た事が無い。 けれどそこはもっと騒がしく、もっと賑やかな場所なのだと思っていた。 ここは、その想像の範疇に無い。 音は大音量では在るが、さぁ踊れと客を煽るその類では無く、むしろ反復する重低音が沈め沈めと引きずり込む呪術のような音楽。 客達は殆んど喋ろうともせず、目を閉じ、身体を揺らし、幾人かは壁際に溜まり細長いグラスを傾け舐める。 病める胎内・・・・ふと連想した言葉に、ハギオは小さく笑った。
「ココ、気に入った?」
至近距離で覗き込む目に半笑いの侭引き攣る。 板の様に強張る身体は、警戒する本能。
「来たんだ・・ふうん・・・・・じゃさ、見てよ、見ててよ、」
黒いTシャツ、ジーンズは黒だか藍だかわからない。 見慣れない「選手」はハギオに会話を許さず、病める胎児の群れを潔い歩幅で擦り抜けて行った。 着いて来いとは、言わないらしい。 打ちっぱなしの柱の横、上向き目を閉じる「選手」が水藻の様に揺れる。 フロアを横切る点滅が、やけに仄白い顔をマダラの緑に染めた。 澱む水底の、病める胎児達。 空いたスツールに腰掛け偽の拍動に身を任せれば、自分もその一人なのだとハギオは思う。 そもそも、来いと言われ見ろと言われ、何の理由も無くここに留まる己が滑稽で、理不尽で。 しかし、ハギオは見る事を続けた。 ぼんやりと音の羊水に浮かび、そこに居る選手をただひたすらに見た。
途中、同い年くらいの男がライターを貸してくれないかと話し掛けて来たが、ハギオはそれに反応を返さず無視を決める。 「もうフリーズかよ、」 男はそう呟くと、それきりどこかへ行ってしまった。 ここは、時間がわからない。 どのくらい経ったか、気付くと店の隅「選手」がてらてらした青いドアの向こうに消えた。 EXIT―――非常口―― 追い駆けるハギオは毒々しいピンクのマダラに染まる。 軋むドアを開けると狭い階段の昇り口、眠っているのか目を閉じ寄り添う少女が二人座り込んでいる。 そこに「選手」の姿は無い。 出て行った? 階段を上るハギオの足首を指輪だらけの指がぎゅっと掴み、停める。
「ハギオでしょ?」
フランス人形のような金髪。 とろんとした目は、カラーコンタクトの紫。
「お手紙、あげる。」
皺くちゃのフライヤー、蛍光緑の余白に書かれた場所と、時間。 少女は伝言を果たし、また、連れの重苦しいレースに凭れ、うとうとと音にまどろむ。 ハギオは一日目が終わったのを知る。 そしてこれが明日も続く事を知る。
二日目、駅前の量販店でハギオは「選手」を見る。 極普通の高校生らしく「選手」は店内を歩き、PC関連のコーナーではディスプレイされた新機種を生真面目な表情で暫し操作して愉しむ。 不健康な昨日にとって代わり、当たり前過ぎる「選手」の行動。 客の親子連れの背後、陳列棚の影、ハギオは「選手」を追視した。 やがて「選手」はハギオに向かう。 擦れ違い様ハギオの腕を取り、待ち合わせの友達同士宜しくハギオを店外へと連れ出す。 そうして足を止めた駅前の駐輪場、「選手」は右ポケットから単三乾電池、Tシャツの腹からゲーム用メモリーカード、そしてペロリと長く伸ばした舌の先、小さな指輪が一つ。
「ちゃんと見てろッて言ったじゃん、あんた怠慢だよ。」
全てをハギオの手に乗せて、選手は咎める口調で言った。
華奢な細工の小花が二輪、唾液に濡れてきらきら光る。
「ちゃんと、見てろ。」
念を押し、続けて囁かれたのは明日の予定らしい。 ハギオは明日も、「選手」を見る。
三日目、蒸し暑い繁華街を小一時間、徘徊する選手を追いハギオはTシャツの背を濡らす。
三つ四つ猫の様に横道を曲がり、迷ったハギオがオロオロと路地裏を探すと、袋小路の壁にポストイットのペパーミントグリーン。 明日の予定は、決まった。
四日目、ビデオショップで品定めする「選手」を、ハギオは眺める。
選手はおよそ気恥ずかしいマニア向けのアニメを二本借り、「返却明日だよ」とハギオに手渡した。
五日目、「選手」はゲームセンターのフロアをうろつく。
途中選手に貸した二百円は粉っぽいガム二つに代わり、帰りしなのハギオのポケットに滑り込む。 ハギオはそれを、噛まずに捨てた。
六日目、その日選手は一言も話さず。
騒がしいファーストフードの二階、甘ったるいアイスコーヒーを前に、ただずっと携帯の画面を睨んでいた。 やがて不意に立ち上がり店を出る選手。 選手は私鉄の駅に向かう。 そして改札横の掲示板にチビけたチョークで書き流す ―― 18時 *****―― 。
七日目、昇降口で選手を見つけ明日からは期末だからとハギオは中止を求めたが
「N大でしょ? 頭イイって噂じゃん、あんたなら目ぇ瞑ってでも入れるって・・・」
要求は却下。 児童公園の砂地、大きくドラエもんを描く「選手」をハギオはジリジリと見る。
八日目、漫画喫茶で眠る「選手」は携帯に起こされ、店を出た路上、激しく相手を怒鳴りつけ剣呑な空気を発散させる。 「ツダだよ、」 と「選手」は言った。 それがあの赤髪の名だと気付いたのは、自宅に着いた時だった。
九日目、指定されたファミレスに「選手」は現れず、ハギオはコーヒーのみで一時間半を凌ぐ。携帯なら鞄の中に入っている。 だが、ハギオは「選手」のアドレスを知らない。 無論「選手」もハギオのアドレスなど知らないだろう。
いよいよ席を立とうとしたその時、レジ脇のウェイトレスがハギオを呼んだ。 ハギオに電話が入っていると呼んだ。
「・・・急げ、化学準備室、今すぐ来い、」
「学校の?」
「あぁ他にどこにあるよ、そっからなら20分で余裕だろ?」
「ち、ちょっと、」
「待てねぇんだよ、だから急げ。 急いでココに来い、ココで俺を見ろ、」
一方的に切れた電話。 余裕の無い「選手」。
時刻はもうすぐ八時。 ハギオはボディバッグの中、定期が入っているのを確認する。 確認しておいて、呼びつけられホイホイ行くのか? と自分が分からなくなった。 今日は充分にここで待った、不味いコーヒーを二杯半も流し込み、ムカムカする胃は走れば吐きそうだった。 けれど、もう、足は駅に向かう。 見ろと言われたのだ。 ならばそれを見ずにはいられない。 見ない自分は息苦しく、きっと何かに溺れてしまうだろう。 いや、もう、既に溺れているのではないか?
駅から高校までの数分、ハギオは噴出す汗を拭い、走った。 何がそこで起こるのか知りたい。 何が選手に起こるのか見届けたい。 それを見損ねるなら、今日生きている意味なんて無いとすら思う。 そうして飛び込んだ化学準備室、雑然とした小部屋はしんと静まり、ハギオは点けた電気を慌てて消した。 蒸し暑さに耐え兼ねて窓をそっと開ける。 温い夜風に当たり、ひかない汗をTシャツの裾で拭った。 徐々にヒートダウンする頭は「担がれたんじゃないか?」と「選手」を疑い始める。 けれど、それは有り得ない事。 「選手」がその手の嘘を吐くようには思えなかった。
「選手」は見る事をハギオに要求したのだ、そしてハギオは見る事を望んだのだ。 この関係に一切の嘘は無く、全て必然なのだとハギオは思う。 かつて絵筆で再生したように、ハギオの網膜は「選手」の日常を再生しようと企む。 今ココで――――移ろう現実をここに繋ぎ止めようとハギオがジタバタ悪足掻きを繰り返すように、「選手」もまた、何かをここに繋ぎ止め確認し様としている。
何を?
静けさを破る小声の遣り取りと、バタパタ乾いた音を立てる上履きの音。 思わす息を詰めるハギオは、それが隣の化学室に入ったのを知る。 そこで、それに気付く。 小部屋には、小窓が一つあった。 小窓からは隣室が見える。 絞り込んだサブライトの薄暗い光、暗いオレンジの光にハギオは誘われてそこを覗く。
「いつから見てた?」
真正面に選手の視線。 竦むハギオだが、それが自分にではなく小窓のすぐ下、つまり選手の正面、向き合う第三者に向けられた言葉である事に気付く。
「俺らさ、オトモダチしてたじゃん・・・・俺はずっとそうだったけど、でもおまえは違うんだろ? なぁ、それいつから、いつそう云う風に思った? いつから俺をそう云う風に見た?」
「・・・わかんねぇよ・・・」
掠れる声。 返事をしたのが誰だかはハギオにも分かる。 ツダだ。 容赦無い真っ直ぐな目は、ツダに何かを白状させようとしている。
「わかんないか・・・・じゃ困ったな、」
「・・・何が、」
「何がって、それ聞いてるの俺じゃん、俺はいつからそう云う風に見えた? お前の好きってのはカレーが好きとかウサギが好きとかそう云う好きじゃないんだろ? 俺にキスしたり裸にしたり、女にするみたいにヤッちまいたいとかそう云うハードなのをのを言うんだろ? だろ? まさか俺にオマエがされる方とか言うなよ、そりゃまた、俺もどうしていいやら、」
「・・・・・何が言いたいんだよ、」
「責任とってくんない?」
「え?」
責任を取れと「選手」は言った。 「選手」の即物的な物言いと当事者たる当人同士を目の前にし、ハギオは逃げ出したいような居心地悪さを感じる。 この先を見たくない。こんな「選手」を、そんな「選手」とツダを見たくない。 そんなのは、見たくないし知りたくなんてなかった。 なのに、何で自分はここに居るんだろう?
「変わっちゃったのは、お前のせいだ。 おまえがそんな風に見るから、俺はもう、前のようには戻れない。」
「な、何も・・・俺は、 」
「しちゃいないって言うか? じゃ、なんで前みたいじゃないんだよ? なんで俺達戻れないんだよ? なぁ、わかれよ、おまえが俺達をオトモダチじゃ無くしたんだから、ならしょうがないだろ? そう云うのが、新しいカタチだって、おまえが責任とらなきゃ、」
「***」
ツダが「選手」の名を呼んだ。 湿った吐息の重なりと、慌しく生々しい擦過音。 小窓の真下、真下に居るらしい二人をここから見る事は出来ない。 見えない事にハギオはホッとする。 しかし、見えない二人が何をしているかは壁一枚隔て弥が上にも見るより容易くわかる。 気付けば目を閉じ、両手は耳を塞いでいた。
「・・・・見とけよ、」
ハギオははハッと身を起こす。 が、早口で交わされる、囁きは快楽を追う為のあからさまな手段。 ハギオはまた目を瞑る。 ツダは、「選手」の名を幾度も懇願するように発した。 が、選手がツダの名を呼ぶ事は無い。 しかし掠れ絡む湿った声は、うなされるように高く低く漏れる。 それが選手のなのか、覗いて確かめるのが怖かった。
「・・・・見ろよッ、」
叱責のような選手の要求。 それはツダに言っているのだ、そうであるに違いない。 それより他にある筈が無い。 壁向う、二匹の獣が荒い息を短く早く吐く。
「・・・・・見ろ・・・・俺は、同じか? なぁ、」
問い掛ける語尾が、甲高い吸気に変わった。 そこより先に言葉は無い。 言葉にならぬ断続的な音、啜り泣くような高低に「選手」の名が幾重にも重なる。 ズルズルと小窓の下、ハギオは力無くしゃがみ込む。
――― 止めてくれ止めてくれ止めてくれ静かにしてくれもう、もう自分は、 ―――
目を塞ぎ耳を塞ぎ、永遠にも思えるその時間を無かった事にしよう、見なかった事にしようと、ハギオは身の置き場の無い自らを必死で騙す。 騙しきれない現実は、壁一つ隔てた余裕の無いの交接。 見えない分一層生々しいそれといつか見た陽の下で躍動する「選手」と赤髪。 網膜の裏、二重写しに再生されるのはパラフィン一枚に遮られた記憶。
言葉にならぬ断続的な音。 繰り返される名前。 啜り泣きは、あながち苦痛ばかりではない。 ハギオの脳内で選手は失墜し、切断された右足はポンと打ち捨てられ、砂に塗れ、そこに赤黒い溜まりを作った。 もう、どこにも脱出など出来ない。 もう、ここから他に、行ける筈なんて無い。
罠だと思った。 全て何者かに仕組まれた、巧妙で残酷な罠なのだとハギオは思った。 だから自分はここに溺れる。 潜む水の中、何かに絡まって、自分は無様に溺れる魚なのだとハギオは声無き悲鳴を上げた。 無音の悲鳴を上げつづけるハギオは、急速に訪れる静寂に暫く気付かなかった。 だから、呼ばれて初めて現実に返る。
「嘘吐き・・・・」
酷く掠れた声だ。 しかしハッキリそれは言った。
「居るんだろ? 嘘吐き・・・・・ちゃんと見るんじゃねぇのかよ、」
恐る恐る覗く小窓の向う、実験テーブルに凭れ、雑にシャツを羽織った「選手」がこちらをじっと見詰めている。
「もう帰ったよ・・・・」
それはツダの事だろう。 「選手」は深く息を吐く。
「帰ったよ、なぁ、あれでいいのか? どう思う? 俺はこんなんでいいのか?」
そこには、「選手」しか居ないのだ。 けれどハギオはそこに行けない。 張り付いた小窓に屈み込み、そこから覗き見る卑怯者でしかなかった。
「今頃見るんじゃねぇよ、話しになんねぇよ、ホント使えねぇな・・・・・ 俺は見て欲しかったんだよ、あんなんで俺が変わるのか、俺はどうなるか、俺とあいつがどうなって行くのか、ちゃんと見てて欲しかったのに、バカヤロウ・・・・・」
やがて、「選手」はのろのろと身を起こし、緩慢な仕草で身支度を整える。 それがどんななのか知るよしもないが、何度かテーブルに手を付き、浅く息を吐きつ間を取る様子から、選手のダメージが見た目以上に大きい事がハギオにも分かった。 そして少し足を引き摺るように、「選手」は科学室を後にする。 続いて準備室を出たハギオは暗い廊下にボオッと浮かぶ白いシャツを眺め、数歩後ろ、張り付くように昇降口へと向かった。
「選手」は振り返らない。
ハギオに声を掛ける事は出来ない。
しかし、言葉はたった一つ落とされる。
「もう、見るな」
翌日、朝練の水泳部員はプールに浮かぶ一枚の絵を発見する。 それはハギオの絵だった。 絵は一度火を点けてから、そこに放り込まれたらしい。 下半分が焼け落ちたそれは、水中にもがく咎人の様にも見えた。
そして夏休み直前の学校から、「選手」とツダが消える。
何か事件に巻き込まれたのではとか、一足速い夏旅行に出掛けたのだろうとか、噂は尾鰭背鰭をつけ広がったが、二人の性的な関係を匂わすものは一つも出なかった。
ハギオはその事に安堵する一方、取り返しのつかぬ深い喪失を味わう。
やはりあれは、「脱出」ではなかったか?
彼らは眺める自分を置き、どこかここで無い場所へ脱出したのだ。
もう、ハギオがそれを見る事は叶わない。
ハギオはあの時見る事を投げたから、もう見る資格が無いのだ。
ならばもし、もしもあの時最後まで「選手」を見届けたら、自分は今、どこに向かっただろう?
馬鹿げてる。 今更、もしもだなんて馬鹿げてる。
ハギオは岩場に潜み、溺れる事を恐れる卑怯で臆病な魚だったのだ。
あぁだから、今ここで何も残らなくても。
たとえば何も残らなくても。
:: おわり ::
百のお題 096 溺れる魚
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