ずっと、溺れずに歩けるのかしら?


あなた達は優しい言葉や甘い時間を、惜しみなくわたしにくれた。 だからわたしはあなた達に感謝して、あなた達に笑顔を返す。 笑うわたしを見て、あなた達はそっと密かな安堵をしたのでしょう? 刺のような罪悪感と、むず痒い後ろめたさと ――つまりわたしを騙している事実を少しでも忘れたかったのだから。

ぼやけた陽光を弾くのは、きらきら硝子片の波間。 

 −−− 長閑ね

なのに、こんなにもここは底意地が悪い。 春先の海風はまだ肌を刺す凶暴な冷気。 


寒くないか? と、あなたはわたしに尋ねる。 馬鹿ねぇ、寒さなんてたいした問題じゃないのよ。 覗き込むあなたの指が、わたしの肩を軽く掴んだ。 男らしい指だと思った。 節高で長く、女のそれとは異なる美しさを持った指。 肉厚の掌とカサついた指先が、私の手の平を包み 冷たいね と擦った。 そう・・・ここは、寒いより冷たい。 でも、まぁ、なんて暖かい手。 この手が粗野で力強い作業を易々こなす事をわたしも知っている。 
わたしも、知っている。

 −−− ここ、静かだわ、
       こんなに静か過ぎるから、ここは、海鳥さえ鳴かないの?


あなたの肩越しに、あの人が茄子紺のブランケットを丸め、浜辺を走ってくるのが見えた。 波打ち際ギリギリを、馬鹿馬鹿しいほど派手なシャツを着たあの人は、真剣な顔で走っている。 

 −−− あぁ、わざわざ取りに行ったの? 
       書斎のソファーにあったのね、捜してたのだけど見つからなくって。


鼻の頭が、寒さに赤い。 子供みたいね。 無邪気で真剣で、犬みたいに真っ直ぐで人懐っこい。 
   「  ****  」
息を切らし、わたしの名を、心配そうに呼ぶ。 
実際、本当に心配してるのだと思う。 だから、始末が悪い。 
   「  ****  」
あぁ止めてそんな風にわたしを呼ばないで、わたしを喜ばそうとか気遣おうとかしないで頂戴。


 −−− ありがとう、

差し出され受取った茄子紺のブランケット。 
けれど、わたしがそれを羽織る事はない。 


 −−− えぇ大丈夫、あと少し、寒さに慣らしておきたいから。

わたしはあの人に微笑みかけた。 あの人があなたの表情を伺う。あなたはわたしの手をもう一度包み、そして、何気ない自然さであの人の肩を押した。 咲き乱れる芍薬のシャツ、添えられた男の手。 


頬を張られて目を醒ますように、身を切る寒さが真実を晒す。 

蹴り落とされたブランケット、焦げ茶のフローリングに茄子紺の溜まりを作り、そこに芍薬のシャツは溺れる。 屈み込む背中に回されたのはあの人の腕。 二度、三度引き攣るように指を撓らせて、手の平があなたの背中を滑る。 そしてあなたは、あの人の口を塞いだ。 あの、無骨で美しい指をあの人の唇に挟み、浅ましい鳴き声はあなたの指で堰き止められる。 

冗談じゃない・・・・・いやらしい、不潔で、破廉恥で。 

ふしだらな二人が、振り返って手を振るから、わたしは小さく片手を上げる。
わたし達は、こちらとあちらで微笑み合う愚かな三つの点だった。

やがて、またゆっくりぶらぶらと歩き出す二人の背中。 
わたしは風に攫われた振りをして、ブランケットを波間に捨てる。 

そら、流されておしまい! 


    どこまでもどこまでも、溺れるその瞬間まで、
       どこまでもどこまでも潮流に足首を浸し、
            どこまでもどこまでもどこまでも行くがいいわ。

                          ―――― そして、ストンと飲み込まれるがいい。


 わたしは、其処に居る。

 もがくその姿を、うっとりと夢に見て、
 其処で口を開き、引きずり込む瞬間をずっと 独りで 狙う。




      :: おわり ::






         百のお題  043 遠浅