14のとき、母が言った。 お前には兄姉が居る。 兄さんが二人と姉さんが一人。 訳あって離れているけれど、実はお前は四人兄姉の末っ子なのだと、美しく若い母が言った。

しかしそれは兄弟の親睦を深めるとか、いつか会いに行こうとかいう、家族愛に満ちた感動的なお話ではなく、もっとシビアで世知辛いものだった。 母は、こう続けたのだ。 

お前はあの連中とは血筋が違う。 ああいうガラクタ連中とは生まれが違うのだから、もし、あの連中がお前に会いたいと言ってきても、決して会ってはいけない。 兄だ姉だと言い張るならば、馬鹿を言うなと取り合うんじゃない。 どうせお前をやっかんで、たかって遣ろう気なんだろうから、くれぐれも隠れてこっそり会ったりするんじゃないよ。

母は、父にとって正式な妻ではなかった。 しかし母は父の愛を一身に受け、同様に私は溺愛の対象である認知された子であった。 母を囲い私を息子と呼ぶ老人は、S県で一、二を争う名家の出自。 母とは親子ほどに歳が離れ、如何にも好々爺といった父と私が出歩けば皆、『おじいちゃんと御散歩?』と問う。 その都度『いや、恥ずかしながら息子です。』と応える父は、ひどく誇らしげに見えた。 思うに、老いて先細る人生に於いて、若く美しい妾を孕ませた男の自信というのは、相当なものだったらしい。 けれどその一方で負うリスクは、果たして相応であったのかどうか。

公家の血を引く本妻は、妾の子を認知した夫を激しく責め、ならば離縁してくれと迫った。 しかし、しがらみと企み多い婚姻は、当人の意思だけで解けぬ理由がある。 留まる本妻は父を呪い、父はただただ耳を塞いだ。 ならば、心地良い妾宅に自然と足は赴き、そこで偽りのぬるい幸福を存分に味わう。 屋敷に残された憎悪をそのままに、父はなぁなぁに逃げ続けた。 だから、人はそれを罰という。

その日、母の膝で耳を掻いて貰っていた父に電話が入る。 それは本宅の女中頭、本妻が嫁入り時、実家から連れて来た女だった。 女は言う。 奥様が、鋏で腹を突いた。 子を成さぬ腹が恨めしいと花器に挿しかけの侘び助を数本残し、祝言をあげた奥座敷で自害を図ったのだと、女は妾宅の父に告げた。 幸い命は取り留めたものの、本妻は生涯床上の人となる。 当然、醜聞は座敷の奥へと匿われ、父は男の自信と引き換えに、本宅での居場所と尊厳を失う。

それだから、一層私は父に愛された。 つまり私というのは、それら、父の自信と拠り所、母のプライドと野心の結晶といえる。 母はと言えば、美貌一つでこの老獪な大物を操る事に、持ち得る全ての情熱を注いだのだ。 貧しい貧農の出だった母には、身一つの意地と野心があった。 手段はどうあれ、邪魔な本妻が消えるのは時間待ちなのだ。 後は憐れな老人の拠り所として細く長く、この場所を確保せねばならない。 そして来るべき日には、私、老人の一人息子としての私が頼りの綱なのだ。

母は、私を半ば隔離して育てた。 本宅からの軋轢に、潰されないように。 襲いかかる薄暗い過去に、私を奪われない為に。 私は自らの出自を一切聞かされず、S県からは遠い、海の傍の町で暮らす。 そうして14になったとき、見知らぬ兄姉の話しを聞いた。 なぜ? いっそ隠して置けば良いものを。 母は、なぜ私にそれを伝えたのか? つまり、そうした可能性、そうした恐れが身近にあったからだと思う。 母の恐れは10数年深く深く引篭もり、明らかになったその後数年も、突き詰めてはいけない杞憂として、私たち親子のタブーとなっていた。 だから今になって、こんなかたちで、可能の発芽を見る事になろうとは。


ムロタ ヨシズミは、潰瘍をつくり退職した化学教師の後任であった。 上背のある細身の体躯、シンプルだが目を惹く着こなし、取り立てて美男子では無いが、涼しげであっさりした容貌は、就任直後から生徒の関心を集めた。 首都圏を離れた、小さな町の高校である。 都会の薫りのするヨシズミは、未知であり、ある種、憧れの具現。 そこに人は集まり、様々な情報が行き来する。 

『先生、一人暮らしなんですかぁ?』
『彼女とか、居ないんですか?』

女生徒が、舌足らずに問う。 授業開始前のひと時、ヨシズミの周りは男女問わず生徒が人垣を作る。 女生徒の多くは、魅力的な異性として、男子生徒の多くは手本にすべきモデルケースとして。 生成りのシャツを羽織り洒落たフレームの眼鏡を掛けたヨシズミは、そうした羨望を極自然に受け止めていた。 そうしておいて、すっかり女の顔でしなをつくる女生徒等を、興味津々の男子生徒等を、実に巧妙に、柔らかな冷ややかさでもってあしらうのだ。 軽妙な言葉と洗練した物腰、決して立ち入らせず、ともすれば冷酷とも思える無関心で、ヨシズミは生徒等に接した。 

尤それに気付いたのは、私だけだろう。 私は、見ていたから。 取り巻きに加わらず、ただ傍観していた私だから、離れてこそ見える色々を知る。 何しろ幼い頃より、人と係わるな、近付き過ぎるなと育ったのだ。 訳ありの生き方は、常に傍観者である事が求められた。 巻き込まれれば必ず、何か厄介が生まれる。 そうして生きてきた私の勘は、とりわけ厄介な存在だとヨシズミを警戒する。 理由はわからない。 わからないが、見えていない裏側にぞっとした。 ヨシズミの裏は、得体が知れず、恐ろしかった。 

そのヨシズミに、下校途中の海岸沿いで遭う。 雨上がりの土曜、水溜りの青空が空の欠片のように切り取られ、光る蒼に見惚れる暢気な私は、ポンと肩を叩かれるまでその存在に気付かなかった。

『家は、この先なんだろう?』

にこやかな笑み。 真上からの陽光に、黒かと思ったフレームが濃緑に光る。

『この先、カナツんちはあの海沿いの高台だよな? いつだったか、日傘を差した凄い美人を見たんだけれど、まさか君のおふくろさんかい?』
『青い、矢車草の刺繍の傘なら、多分母です。』
『そう、そうだ、青い花が一面に散っていた。 蒸し暑い日だったけれど、何故かとても涼しげで。 あぁ、何より滅多見ない美人だったからね、つい馬鹿みたいに見蕩れてしまったよ。』

左半身に、生暖かい体温を感じた。 ヨシズミは、私に寄り添うように歩く。 まるで仲の良い教師と生徒のように、私達は正午の海岸沿いを歩く。 全身が警告を発した。 取り込まれてしまう、巻き込まれてしまう。 私はこうした接近に慣れていない。 ましてや思惑の定かでないヨシズミなどと、

『怖いのか?』

突然、腕を引かれ間近にヨシズミの顔を見る。 

『いつも見ているだけだろう? 馬鹿騒ぎもしない、それどころか友達とつるむところすら見たことが無い。 笑い顔も憤る様も、一度だって見た事が無い。』

面白がるような、薄笑いの。 しかし眼鏡の奥、冷ややかな酷薄が見え隠れする居心地悪い表情で、ヨシズミは更に問い掛ける。 

『怖いのか? 人が? ・・・・・・ 俺が?』
『怖くはありません。 ただ、煩わしいだけです。』

早口で繋げた言葉は、僅かに語尾が掠れた。 逃げろ、振り払え、と心は叫ぶ。 湧き上がる衝動に走り出そうとする身体を封じるのは、掴まれた腕一本。 捕まった? 巻き込まれた? 生じた混乱は全ての情動を麻痺させる。 混乱の正体は不安。 得体の知れない漠然とした不安。 立ち向かう術の無い私は、振り払う事も怒鳴る事も出来ず。 覗き込む冷ややかな視線を僅かに避け、反射するフレームの濃緑を、白痴のようにただ見つめる。 

だから、そうされても立ち尽くす。

『母親に、そっくりだね、』

ヨシズミの指先が、私の唇を辿った。 ゾクリとする感覚に身を竦め、かぶりを振った頬を節高の指が捉える。 

『母親に、そっくりだよ。』

そして翳る正午の陽射しに眩み、閉じた瞳の暗闇、重ね、触れる、他人の唇を感じた。 

後は何が何だかわからない。 ヨシズミとどう別れたのか、どのよう歩いたか、そして帰宅後の今まで母親と二人何を話したか。 自室に逃げ込んだ私は、そっと自分の唇に触れた。 柔らかな感触に、耳鳴りのする混乱がまた、押し寄せる。 はっきりしているのは、ヨシズミがここに触れたという事だ。 行為そのものを言うなら、くちづけなのだろう。 しかし、あれはそんな意味ではない。 私にその経験がないが、しかし、あれに甘いやかな愛があったとは思えない。 あったのは、感じたのはもっと凶暴で禍々しい奔流。

翌日、私は学校を休んだ。 頭痛を理由に部屋に閉じ篭り、喋ると響くのだと母をも遠ざけた。 どうしたら良い? どうもこうも無いのだが。 ヨシズミに会うのが怖い。 何か大きく崩される気がする。 ヨシズミの思惑がわからない。 が、知って更に追い詰められる気がする。 寝床の中、胎児のように身を縮め、先行き見えぬの不安に私は震えた。 今日は頭痛でで済んだものの、明日から、明後日から、ヨシズミを前にどうしたら良いかわからない。 

気が付けば爪を噛んでいた。 親指の先、歪なぎざぎざが唾液に濡れる。 咄嗟に布団を撥ね上げ、部屋の隅のティッシュを手繰り、口の中の破片を拭った。 吐き出されたそれは、己の内に潜む不安の結晶のように思えた。 乱暴に丸めたティッシュを屑篭に投げる。 馬鹿げた事を。 

一度寝床から出てしまったら、また潜り込むのは間が抜けている。 落ち着こう、落ち着いて考えよう、私は自分に言い聞かせる。 そもそも私に非はないのだ。 ヨシズミが変なのだから、堂々としていれば良い事。 次に、ああ言う行為に出たら、次? いや、万が一だ、万が一あんな行為をヨシズミが持ち掛けたなら、思い切り抵抗すれば良い。 声を上げるなり、殴りつけるなり。 あぁ、17にもなって、17にもなって私は・・・・・・馬鹿げている。

仮病まで使い、こんな悩みに振回される自分が滑稽だった。 だから声に出し呟く。 

馬鹿げている。
馬鹿げている。
あれしきの事で、馬鹿げている。


『芝居の練習か?』

背後の声、猫のように飛び上がり竦む。 鴨居ぎりぎりの頭。 障子越しの緩い光の中、不穏な陰影を纏いそこに、ヨシズミが居た。

『な、』
『おふくろさん、街中に用事らしい。 今、出掛けて行った。 青い花の傘をくるくる回して行ったよ。 』
『・・・・・・どうして?』
『どうして? そりゃぁ気になるからだろう? それに、こちらにも用事がね、あるんだよ、はは、そんなに怖がるな。 おふくろさんに言われたのだから。 息子を宜しくとね。』

ヨシズミが、眼鏡を外した。 それだけで異質。 剥き出しの素顔に剥き出しの悪意。 

『・・・・・・帰ってください、』

振り絞る声はみっともなく上擦り、意に介さずとヨシズミは部屋を横切る。 まるで旧知の友人宅を訪れたように、ゆったりライティングデスクに凭れ、書棚の中段に並ぶスナップを愉快そうに手に取り眺めて。

『帰ってください、僕に構わないでください、』
『お願いの仕方、なってないね。 まぁ、イタヤ ミチカツの後継者ともなれば、人に頭下げる事もないんだろうけれど、』

掲げた右手、父の膝に乗る幼い私のスナップ。 はっとした瞬間、それは指先を離れ、畳の上、に砕ける。 飛び散るガラス片を追ったのは反射的だった。 途端に視界は反転し、押し付けられた布団の縁に悲鳴は吸い込まれ。 振り払う腕、指先はヨシズミを掠め、頬骨の上、薄赤いラインを引いたのは、あぁ、噛み千切り歪に尖った己の指のせいだと思ったのだが、そんな事はもう。 打ちつけられた脇腹の鈍い痛み、後ろ手に捻られた腕の軋み。 パジャマのズボンは下着ごと、あっけなく膝まで引き摺り下ろされる。 

『・・・・・・ど、どうして?』
『どうして? 馬鹿げてる? そう思うか? 俺に、おまえが、それを、聞くか?』

耳朶を擽る声に粟肌立ち、無意識に開いた唇の隙間、ヨシズミの指は滑り込む。 引き起こされる嘔吐反射。 差し込まれた男の指にえずき、抗議の言葉より先に生理的な涙が浮かんだ。 舌はそれを押し出したが、抜き取られた指は濡れた感触をもって、萎縮する私のペニスに巻き付く。 理解できない、ヨシズミが理解出来ない、この状況が理解出来ない。 しかし、圧し掛かられた背骨の重みは現実。 握りこまれ、産毛がそばだつ感覚に息を呑み、先端を指先で刺激され、女のように声を上げるこれも悪夢のような現実。 

『・・・・・・ カナツ、おまえの母親の話しをしてやろう。 お前の母親がどうやって生きて来たかをね。』

手の平で、視界を塞がれた。 項にかかる吐息、背後に篭る熱。 皮膚はヨシズミの感触を、生々しく、弥が上にも意識する。

『何しろ貧しかったらしい、病気の父親を抱え、馬鹿みたいな子沢山で、細々と畑を耕す僅かな収穫で、かろうじて生活は成り立っていたらしい。 けれど、あの美貌だ。 男の気を引くのはお手の物だったろう? おまえの母親が最初の子を産んだのは16の時。 相手は妻子ある男、裕福な農家の次男坊。 生まれた子供は認知などされないが、その代わり、男と家族は月々相当額を女に渡した。 それが始まりだ、』

おまえには兄姉が居る、確かに母はそう言った。 それはもう周知の事。 だからなんだと言うのだろう? 非常識ではあるが、母の過去の闇は薄々感じてはいた。 しかし、なぜヨシズミがそれを言う? 行為と全く噛みあわぬヨシズミの話。 未知の快楽の中、語られる話に現実感は無い。 ゆるゆるとペニスを刺激され、みっともなく声を殺す私は、一刻も早くこれが終われば良いと願う。

『しかし、お前の母親はそれで良しとはしなかった。 子供が3歳の時、母親は家を出る。 もっと割の良い事がしたくなったんだろう、それは容易い。 勤めたスナックでは次々にパトロンは就いた。 そうして、これぞと思ったお人好しの子供を孕む。 厄介事を嫌う金持ちは、金で物を解決したがるから、子供は質草のようなもの。 ただし二人目はちょっと違ったらしい。 大きな繊維工場の社長だった男は、腹の大きい女と父親の違う一人目の子供を引き取ると言い出した。 とんだお人好しだ、女はそれに乗る。 女は23になっていた。 子持ちで水商売にはぎりぎりだろう?』

不意に、乳首を摘まれて甲高い声を上げた。 吐精ぎりぎりの刺激に、つま先がぴんと伸びる。 噛み締めた奥歯、耳下腺が痛む。 気付けばヨシズミに腰を擦り付ける己の痴態。 剥き出しの尻の間、ヨシズミの猛りを感じ、塞がれた手の平の中、羞恥にギュッと目を閉じる。 

『その男とは巧く行っていたよ。 子煩悩な気の好い男でね、綺麗な妻と子供二人、男はそりゃ大事にした。 お前の母親もそれに満足はしていたんだろう? だけど、三年目に女は失踪する。 何てこと無い、工場を視察に来たイタヤの爺さんに目移りしただけだ。 だけどそんな事知らないから、男は女を捜し奔走する。 そうしてようやく居場所を突き止めたなら、蝿でも払うように金と圧力で追い返された。 爺さんは女に骨抜きだった。 女は爺さんの子を孕んでいた。 つまりおまえだろう? ・・・・・・ なぁ、わかるか? その男がどうなったか? 残された女の子供がどうしているか? どうして? 馬鹿げてる? ふざけるな、それはこっちの台詞だ。』

括れをきつく扱かれて、緩められた途端ビクンと身体が跳ねる。 漏らした嬌声を他人のそれのように聞いた。 吐き出した迸りがヨシズミの指を濡らす。 生暖かいぬるぬるが下腹とペニスを濡らす。 そして俄かに醒めてゆく興奮の中、ヨシズミの語りは突然現実味を帯びた。 こっちの台詞? こっちとは、ヨシズミは? 

『男は、呆けたように数年引篭もったよ。』

徐に腰を引き起こされる。 まるで力の入らない附抜けた身体を、ヨシズミは人形のように扱う。 尻を持ち上げ畳まれた、尺取虫のような無様なかたち。 逆らう事なんて出来なかった。 ぬるりと捻じ込まれた指は濡れていた。 私ので、ヨシズミの指は濡れていた。 掻き混ぜられる気味の悪い感触に、息を詰める。

『金に不自由は無かった、爺さんは気前よく寄越したからな、が、男は喪失に耐えられなかった。 酒に溺れ号泣する父親を、子供達はどうする事も出来なかったさ。 逃げた母親を恨むくらいしかね。 そんな時、ホステス時代の客の一人がこんな事を言ってね。 ベンディングマシーン、自販機、おまえの母親はそんなだってな? 突っ込まれりゃゴトンと出す、その癖、懐にはガッチリ貯め込む。 客を選ぶ御大層なベンディングマシーン、巧く言ったもんだ、腹ん中から出したそれがどうなろうとも、その身を離れれば知った事じゃない。 親父は去年の暮れに死んだよ、肝臓をやられてね、あぁ、最後まであの女の事を忘れられずに、死ぬ間際まで名前を呟きながらね。  

そら、兄さんと呼んでみな? 

泣けよ、喚けよ、一人関係のない顔をするな。 お前がそうして生きて行くなら、母親のそれに習うが良い。 突っ込まれて懐を潤わせて何か一つでも吐き出してみろ。 おまえだけは許さない。 いまだ商品価値をちらつかせて、全部を繋げようとするおまえなんか俺は、絶対認めない。』


ベンディングマシーン、ベンディングマシーン、
穿つ熱い痛みに悲鳴をあげ、私はその言葉を反芻する。

そう呼ばれていた母。
父に差し出された私。

かつて商品であった兄が、吐き出され忘れられた存在が、今、私の最初の客になる。
憎悪を注がれ執着を注がれ、私は、兄に、差し出す何かを探している。




:: おわり ::



百のお題  031 ベンディングマシーン(自動販売機)