8時45分、音も無く滑り込むそれに私達は乗り込んだ。
濁ったブザーの音でそれは走り出す。
アナウンスは無い。
その日は朝から蒸し暑く、額に浮かぶ汗は、拭う傍からじわじわと噴き出した。 張り付く襟足はむず痒く、苛立ちを一層掻き立てる。 僅かな空間を確保した私達は、ボタン一つ分襟を広げ、互いに触れぬよう手の平で首筋を扇ぐ。 窓にはブラインドが下がっており、外の様子は窺えない。 ブラインドは、場違いなほどに鮮やかな青。 どこかにそれを開閉するスウィッチがある筈だが、私の位置からそれは見えず、また、仮に見つけたとしても、私はそれを押しはしないだろう。 私は、私達は、最初に何かする人間になりたくは無かったからだ。
間も無くウィンと唸りが高くなり、スピードが上がった事を察する。 が、どこをどう走るのかどこに向かうのかを知る術は無い。 天井数箇所でゆるゆるとファンは回っているが、蒸し暑さは改善しなかった。 卸したての麻のシャツ、脇の下に汗染みが広がる。 背骨をツツツと汗が滑り落ちた。 薄手のハンカチは既にじっとりと湿っている。
車内は静かだ。 話し声一つせず、ただ列車の走る単調な連続音と、緩い空調の回る音、眠たげで平和なそれに私達は不安を募らせる。 私達は通路を挟んだ左右、右2席左3席の行列に所在無く腰をおろしていた。 立っている者が一人も居ないところを見ると、そのように誂えたその為の交通なのだろう。 私の隣は初老の女性だった。 膝の上、雛菊の刺繍をした薄い水色のハンカチをきつく両手で握り締め、白髪混じりの眉根を寄せ、険しい表情で目を伏せている。 決して見まいと、しているかのように。
その隣、通路際に座るのは若い男性だった。 若い、刈り込んだ項がまだ華奢な、少年の域の男。 洗い晒したジーンズに色落ちした蔦の葉模様のシャツを着て、少し覗くTシャツの襟繰りは鮮やかに熟れたアケビの色。 一文字に結んだ唇は色を失っていたが、伸ばされた背筋がカタチの良い頭蓋を支える。 隣の老女とは反対に、全て見てやろうと真っ直ぐに前を見据える瞳。 だが、今彼が目にするのは自分含む左右5人の男女と、前に数列の後頭部のみ。 あとは掲示物一つ無い車内と、景色を覆う青いブラインド。
そもそもどういう基準で選んだのだろう? 乗客はバラバラだった。 老若男女、痩せたのや太ったのや、貧しい身なりの者や高価で洒落た身なりの者や。 共通項はまるで見出せず、ここに集まる。 たった一枚のチケットを手にして。 私自信それを手にしたのは、僅か五日前の事だった。
その日、仕事を終え、台所で遅い夕食を摂っていた私は、ドアベルが三度鳴るのを聞く。 こんな時間に妻が起きるのではないかと、慌ててそちらに向かえば既に、来訪者は玄関先、飴色のタイルの上に立つ。 のっぺりした顔の男だった。 ぺらぺらした派手なシャツに、安っぽい化繊のスラックスを穿いて、足元は薄汚れた白い紐無しのズック。 今思い返しても、胡散臭い身なりだけが一人歩きして、肝心の顔はさっぱり再現出来ない。 まるで特徴の無い、しかし、気味の悪い男だった。 男は「人事局就労課の者です」と名乗る。 あぁ、来たかと思った私に男は「五日後に宜しくお願いします」と、茶封筒を差し出した。
封筒の中に一枚のチケット。 表にはいつ撮ったのか、私の顔写真と名前、性別、生年月日、ほか身長、体重、血液型などがみっしりと印刷されていた。 そして裏側にはバーコード。 五日後と言われてもあまりに急ではないか? 妻には何て言う? 仕事は丁度新しいものに取り掛かったばかり、引継ぎの問題などすぐに取り掛かれる物では無し。 何よりいつまで? どこへ?
『お答えできません。』
男の返事は簡潔だった。
『持ち物は一切必要御座いません。 五日後、指定の出発点へ集合して下さい。』
取り付く島も無かった。 そうして私はチケットを手に、深夜の玄関先で呆然とする。 そう云うシステムがあるとは知っていたが、まさかこの年で、自分に回って来るとは思わなかった。 確かに毎年、人事局に個人データを更新しているが、しかしそれは、免許の書き換えのような習慣であり、まさか実際就労に赴くとは思いもよらなかった。
私はぐらぐらする頭をごつごつ拳固で叩き、叱咤し、眠っている妻を起こす。 眠たげな妻は、私の話しを聞くにつれ瞳を暗くし、終いに私のシャツの裾を掴み小さく泣いた。 もう、お別れだわ。 もう、あなたとは会える筈が無い。 何で私たちが? 何であなたが今になって! 妻が言うには昔、同級生の兄がこのチケットを渡され就労に赴いたと言う。
最初の二年は年に二回、『就労状況良好』の報告と身体測定の結果がレポート一枚程度で送られて来た。 しかし、三年目にはいり『就労状況不良』の文字に『要指導継続』が添えられ、身体データの添付は無し。 そして後半、菓子箱ほどの小包が送られる。 中には小さなプラスチック容器、容器の中にはさらさらした灰色の粉。 同封されていた『中途解雇』の文字と、かなりの高額が記された明細書。
じきに、燃やされて帰ってくるのよ、あなた、もう、御終いなのよ。 そう言って妻は寝床に崩れ落ちる。 しゃくりあげる肩を抱き、背中を摩り、私は繰り返した。 皆がそうと言う訳ではない、私はきっと戻るから、大丈夫だよ・・・・・・。
とは言うものの、本心、私は大丈夫だなどと思ってはいなかった。 もう、戻れない、覚悟せねばならない思った。 それだから今、ここに腰を掛け、単調な揺れに身を任せる私は、奇妙な諦観に支配され、頭の芯が冴え冴えする冷静を感じている。 あまりに平穏であったツケがこんな形で来るとは思わなかったが、しかし、それが義務ならば最後まで見届けてやろう。 それが私に出切る唯一の抵抗であり意思なのだ。
やがてガタンと大きく揺れ、列車は徐行を始める。 いよいよ到着するのだろうか? 身じろぐ乗客の間に、細波のような不穏が広がった。 隣の老女も、怯えた目を四方に巡らせている。 通路際の少年は、膝をゆっくり摩り、短い息を吐いた。 揺れはごつごつした枕木を感じるほどとなり、スピードは更に落ちて行く。 どこかで啜り泣く声。 しかし誰もブラインドを開けようとしない。 そこにどんな風景が広がるのか、知りたい好奇心よりずっと、知ってしまう恐怖が勝っていた。
―― 作業ポイントA グリーンチケットのメンバーはアドバイザーに続いてください。
やけにウキウキした若い女の声。 列車は完全な停止。 しかしホームへのドアは開かない。 私達はまだ、わからない。 白々しいアナウンスの後、シュンと車両間のドアが開き前方に現れたのはウサギだった。
『チケットヲ提示シテ下サイ。グリーンチケットノメンバーハ私ニ続イテ下サイ。』
大きさは大人の女性ほど、縁日で幼児がかぶるお面のような、てらてらしたピンク色のウサギ。 大きな耳をVの字に立て、前歯を剥き出し愉快気な笑みを浮かべ、滑るように座席の間の通路を進む。
『チケットヲ提示シテ下サイ。グリーンチケットノメンバーハ私ニ続イテ下サイ。』
ウサギの右手には、50センチほどの杖が握られていた。 杖の先には玩具のような赤い光る玉。 それが、もたつく乗客にツイと触れて、瞬間、ビクンと身体は跳ね上がる。
『速ヤカニ! 速ヤカニ! 要指導ノ必要アリ! 速ヤカニ!』
ウサギは連呼する。 杖で触れられた男性は、短い痙攣を繰返し、座席に身体半分を斜めに預け、投げ出した足は蛇のように床の上で跳ねる。 その隣の中年女性が慌ててチケットをかざす。 体格の良い男性があたふたと、ウサギの後ろに続く。
『チケットヲ提示シテ下サイ。グリーンチケットノメンバーハ私ニ続イテ下サイ。』
乗客らは腕を伸ばし、通路側にチケットを振りかざす。 ウサギの後には数人が繋がった。 若い男、初老の男、随分年をとった老女、派手な服装の若い女。 奇妙な行列が私の列にも近付く。 私も皆に習いチケットを掲げていた。 大丈夫、私のは白だ。 終わりはココではない。 ヒョコヒョコ揺れる杖の先、赤がふるふると光った。 いよいよウサギはあの少年の横に立つ。 ウサギは杖を伸ばし、通路際の少年の顔とチケットを照会する。 気付くと、隣の初老の女性がぶつぶつと何か呟いていた。 握り締めたチケットはミドリ。 憐れなほどその手は震えている。 が、私には言葉を発する勇気が無い。 震えるチケットに、赤い玉が触れた。
『・・・だ、・・・・・・いヤダ、嫌だ、嫌だ、帰してッ!! 帰して頂戴ッ!』
咄嗟に女性は少年を突き飛ばした。 よろけた少年がウサギを押しやる形になり、その空間に女性は走り出す。
『い、嫌よッ、あたしは帰るのよッ、帰してぇぇぇぇぇぇェェ・・・・・・・・・・・』
腕を突き出し、前のめりに、つんのめるように。 吸気に似た悲鳴と、ぎこちなく縺れるもどかしいダッシュ。 拳は窓の無い扉を叩いた。
『開けてッ!! 開けてッ!! アケテェェッッッ!!! ヒッ、?!』
一瞬だった。 ウサギの杖が、扉に縋る女性の後頭部に触れた。 ふるふるした赤い光がそっと触れたその瞬間、女性の身体はしおしおと干乾びる。 え? と、目を見張る眼球がひび割れたボタンのように縮まり、皮膚はダンボールのようなくすんだ土色に変わり、そして後に残るのは奇妙に色褪せた衣服と、蛇の抜け殻に似た残骸。
『業務妨害ニツキ処分、一体。 業務妨害ニツキ処分、一体。』
件の抜け殻と残留物はぶいんとウサギの左手、掃除機の筒のようなものに吸い込まれて行った。 連呼しながらウサギは引き返し、確認作業を再開する。 後は、ただ、従うばかりであった。 ウサギは数人を引き連れ、扉前に立つ。
―― Aポイント、作業員派遣。
アナウンスと同時、ドアが開いた。 途端に押し寄せる凄まじい轟音。 鼓膜が裂かれるような騒々しさ。 が、私達が驚愕したのはその事にではない。 私達は見たのだ。 開いた扉のむこう、幅の細いコンコース、その向こうに猛スピードで通過する電車、そのまた向こうに電車、そのまた向こうにコンコース、そのまた・・・・・・。 消失点の彼方までそれが続く異景を、わたし達は見たのだった。
皆、運ばれている。 皆、こうしてどこかに運ばれている。
『グリーンチケットノメンバーハ私ニ続イテ下サイ。』
甲高くウサギは叫び、行列はゾロゾロとホームに降りる。 降りた人々の目は訴えている。
もうじきだぞ! お前達ももうじきだぞ!!!
恨めしく、仄暗い視線を背景にグアランと扉は閉まった。
途端に支配する静寂に、私達は耳を塞ぐ。 助けてくれ! 助けてくれ! 声に出さずも皆は絶叫する。 助けてくれ! 助けてくれ! あぁして次に降りるのは嫌だ。 だが、じわじわ迫る終わりを、あの緊張を、最期まで耐え忍ぶのはもっと嫌だ。 頭を抱え、浅い息を吐く。 こめかみに轟々いう動脈音。 垣間見た列車の轟音が、動脈の流れに重なって忌々しく共鳴する。 ふと足元を見れば、踏み付けられた水色のハンカチ。 踏みにじられた雛菊に思う、嘘だらけの平穏と、平和と言う名の御大層な茶番。
それだから、私達は、この列車で運ばれる。
からくりを維持する為、平穏の綻びを繕う為。 終わりのない空間を、何処へと向かう。
:: おわり ::
百のお題 030 通勤電車
|