白日に曝されたそれは、蕩けるように柔らかい気がした。



その日、国境の町ラズロウでシェゾック・Wは一夜の宿を求めた。 深夜、ドラフ議長の濁声で起こされ丸二日、網膜は夢見る事も無く相手の裏を読み、舌は冷水の愛撫を受ける事すら侭ならず、駆け引きと策略を語る。 丸二日。 丸二日こうしたが、終わる目処はない。 舌打ちをして見上げる丸天井に、小さなヤモリが一匹。 何を見てる? 何を聞く? お前は新手の見張りか? ヤモリはそそくさと、白い天井を横切り、閉じた目の裏に、黒い小さな残像が残った。


水掛け論とは言ったものだ。 大のおとながそれをやる。 しかもその大人が一国の長ともあれば、水は爆薬に、降り注ぐ飛沫は血肉をも砕くだろう。 シェゾックの任務は仲間を増やす事。 自国の水だらいに集い、敵国に水を掛ける御友達を捜し、言葉巧みに勧誘する事。 そうして集めたお友達と我が長は、嬉々として水遊びをする。 そして、すべては土塊に還り、大地は血肉で濡れそぼる。

埃臭い質素なベッドに横たわる身体は、泥濘に沈む水袋の様。 それは決して浮上しない。 ただ、ずぶずぶ、ずぶずぶと、濁った泡を友とし生温い底へと沈む。 引き摺りこまれる意識の狭間、明日勧誘する、ザゾエの事を思った。 ザゾエ、食肉屋のザゾエ、暗殺と拷問が大好きな、レテ友愛軍の大佐。 友愛軍!! たいした命名だ!! ザゾエの奇妙に美しい白い手がひらひらと、果実の皮を剥くように、泣き叫ぶ少女の顔を剥いだのをシェゾックは想い出す。 たいした友愛ぶりだよ! 全く、たいしたものだ!

そうして眠りに沈むシェゾックは、そうした行為を思い浮かべて尚、ザゾエを勧誘するだろう自分に震えた。


翌朝、宿の女房が差し出した吐瀉のような粥を啜り、シェゾックは街外れ、国境沿いの施設へと向かう。 そこで、食肉屋ザゾエに会う。 会ってその残虐な人柄を褒め称え、御友達になってくれるよう説得するのが今日の任務だった。 だが或いは、説得など無用かもしれないとシェゾックは思い直す。 足元、灰白の土埃が小さな渦を作った。 元は美しいこげ茶であった靴が、見る影もなく灰白に染まる。 白茶けた爪先は真っ直ぐに北へ向かった。 

途中何人かの物売りが近づき、、憐れな声を張り上げた。 が、シェゾックの顔を覗き込めば、皆、一様に言葉を飲み、無言で立ち去るのだった。 やがて行く先に、道を挟み向き合う警備小屋。 でっぷりした守衛に案内されたシェザックは、一歩入ったそこで、物売りの沈黙の理由を知る。 研かれた姿見に映ったそれは、亡霊のような男。 ぎらぎらと浮されたように目だけを光らせた、あぁ、まさに殺戮を呼び込むにふさわしい悪夢のような男の顔。

そして亡霊は、奥まった一室で食肉屋と出会う。 

『さぁ、上等の御茶でも飲みたまえ、君!』

食肉屋は甲高い声で、シェゾックを迎え入れた。 黒い軍服の痩身が窓際に立つ。 白に近いブロンド、沼のような翠の眼。 青白い頬は染み一つなく、皮肉な笑みを浮かべた唇は、短い言葉で守衛をはらう。 見下す事に慣れた横柄な所作は数年前と何ら変わらず、日常的に血を浴びるその指先は皮肉なほど白く美しかった。 

『方々で噂は聞いてるよ、今日来た理由もね。』

―― …… なら話は早い、手を貸して欲しい。

途端にザゾエの片眉が大仰な弓なりに吊り上がる。 瞬く瞳孔が色を深くした。 

『おやおや、やけに性急じゃないか! ゆっくり探り合いすら、愉しめないとはねぇ!!』

―― 君とは、今更探り合う事も無い。 それに、これは君の得意な分野だろう? 時間が無いんだ。 もう、幾らも余裕は無い。

『今更、ねぇ、  それで、君はその得意な分野で僕を動かそうというのだろう? あぁ、君は本当に駆け引きが巧い、それはあの数年で良くわかった。 だがあの時と今は違う。 今、君は僕に何を差し出そうとする? 君は何をもって、僕を動かそうとする?』

―― なんにも。 持ち札は無い。 有るとするならそれ、そこに記述してある条約それだけだ。 ザゾエ大佐、つまり、あなた次第だ。


ザゾエは組んだ指を解き、目を細める。 そして近付く痩身は黒い影になり、対と顎に触れた指、上向かされたそこに覆い被さる表情は見て取れなかった。 冷やりとした唇の感触、歯列を割り絡め捕られる舌を、何の感慨も無く泳がす。 不意に果樹園の香りがした。 はっとした瞬間、それはザゾエの香りだと想い出す。 忘れていた。 この男の本性とあまりにかけ離れた清冽な香り。 

4年前R国のクーデターに際し、二人はそれぞれのルートから召還された。 水心有るものをシェゾックが勧誘し、そうでないものをザゾエが処分する。 適材適所な配置。 それすらも適所であったかはわからないが、ザゾエは初めからシェゾックへの関心を隠そうとはしなかった。 そして曖昧な拒否と曖昧な受容をもって、シェゾックはかわす。 仄めかしと駆け引きは日常であり、際どい接触も多々あった。 だが、ザゾエはそれ以上を仕掛けはせず。 任務終了を機に二人は離れる。 以来接触は無い。

そこでの仕事振りを評価され、ザゾエは二階級特進を果たし、シェゾックは独自の機関を任された。 それぞれの場所へと戻った二人に、そもそも接点すらない。 ここで再会したのは全くの偶然とも言えた。 いや、偶然だろうか? こうしてザゾエを自分が取り込むことを上部の誰かが仕組んだのではないか? 首筋に降りた指を虫が這うように感じ、ずらした視線は探りこむ間近な翠と鉢合う。 音も無く身体は離れ、解放は唐突であった。

『厭になるな、君は喰えない、君は変わらない。 君はあくまで、これも仕事とうそぶくのだろう?』

――  ザゾエ、

『安心しろ。 依頼は引き受ける。 だが君の手土産は、受け取らない。 つまり僕は、君に貸しを作る。 そして君に条件をつけよう。 ついて来て、』


頭の隅でチリチリ細胞を焦がす、きな臭い予兆。 しかし、足早に進む目の前の背中は、喋るなと圧する。 やがて二人は建物の裏に回り、グラウンド一つ隔てた白い小さな棟へと向かった。 一歩踏み込むそこは静まり返り、ツンと消毒薬の匂いがした。

『医務棟だよ。 尤もそんな目的には使っちゃいないけどね。』

ザゾエが廊下脇の小部屋から鍵束を取り、更に奥へ奥へと促す。 突き当たり、薄茶の二重扉を開けるとそこは、がらんとした病室だった。 ポツンと左端に置かれたベッド。 真っ白な、淡雪のように真っ白なそれが訪問者の気配に身じろぎ、こちらを向く。 赤い目?

『面白いだろう? カトルジョフのペットだよ。 ああいう類の変り種がいるのは知っていたが、実際見るのは初めてでね。』

カトルジョフは、この国の長の片腕だった男だ。 だが密かに転覆の機を狙っていた事が露見し、国外へ逃亡する。 躍起になる諜報部を余所に、その足取りはようとして掴めず。 しかし、数ヶ月が過ぎた最近になり、カトルジョフはL国のアパルトメントにて遺体で回収された。 ピストル自殺を図ったカトルジョフ。 理由はわからない。 そして、その亡き男が愛したという目の前の、不思議な生き物。 幼い頃、童話に見た、妖精のようなアルビノ。 

微妙に焦点のずれた赤い眼。 白く光る髪はミルクのように肩まで流れ、薄い掛け物の下、覗く淡雪の肌に衣服は着けていなかった。 と、近付けばその背中、子供の手の平ほどの、真四角の痣が二つ。 

―― これは?

『あぁ、剥がしたんだよ、皮膚をね。 そして豚に移植して送ったよ。 あと何匹欲しいか? とね。 こちらはそれなりの待遇を用意していたのだけどねぇ、お気に召さなかったらしい。 あれしきで、こんな物の為に命を落とすなんて!! それがあの切れ者の最期とはね、御笑い種だ。』

ザゾエの美しい指が艶かしい動きで淡雪の肌を辿る。 細い首筋、続くなだらかな平たい胸。 男? 中空を彷徨い、夢の続きを見るような赤い眼、小さく開いた唇は木苺の赤。

『綺麗だろう? 興味があるのか? はは、試してみるか? あぁ、中々だと評判だ。 多少薬が利いて動きが緩慢ではあるが、これと言って支障は無い。 何、かえってある程度の無茶は出来るし好都合だろう? しゃぶらすのは好きか? 』

―― いや、ザゾエ、

『シェゾック、歯は抜いてあるから安心しろ。 最期の一仕事をこれにやらせるのも悪くないだろう?』

―― 最期?

『そう、最期だよ。 これは今から処分される。 まぁ、今の今までこうして生き長らえたのだから良しとせねばね。』

―― 歯まで抜かれてか? 咽喉も潰したんだろう?

『おやおや、いつから慈善家になったのかい? いいかい、シェゾック、血も流れない戦場で人殺しの出来ない兵隊どもを、どうやって収めれば良いかわかるかい? 殺しと同じカタルシスを提供するほか無いだろう? あぁ、幸いこれは役に立った。 良い働きをしたよ。 だがそもそも処分するものだろう? これは。 少し先延ばしにしただけ。 その間、これの何をどうしようと知った事じゃない。 ただし、ここでは必須だった、それだけだ。』

―― 私がそれを遣るのが、お前の条件か?

『あはは! シェゾック、遣るって君、これを君が愉しむのかい? あぁそれも結構、でもそれは余興に過ぎない。 君のすべき事はこれを処分する事。 さ、シェゾック、これを君が殺せ。 君はいつだって手を汚さない。 しかし君は言葉と思惑で、僕など及びもつかない規模の殺しをする。 君と僕とは同罪だ。 殺せ。 それが条件だ。』

同罪だと、ザゾエは言った。 その青白い横顔に、一瞬過ぎった不可思議な感情。 食肉屋に相応しからぬそれが憐憫だと気付き、しかし余りの突飛さにシェゾックは困惑する。 何を憐れみ、愛おしむ? ザゾエが恭しくアルビノの少年を抱きかかえ、そっと床に降ろす。 萎えた手足は水に揺らぐヒヤシンスの根。 

茫洋とした妖精は、これから自分を殺める男を木苺の眼で見上げる。 屈み込み、さながら恋人に接吻を送る優雅な仕草で、ザゾエが妖精に何事か囁いた。 いざる妖精の、さし伸ばされた腕。 シェゾックの足に、絡まり伝い登るヒヤシンスの白い根。 見上げる淡雪の白、歯の無い口元は深紅の亀裂。 

『そら、どうする? それを味わってから遣るか? それとも今すぐにか? 決めろ! シェゾック、君が決めるんだ!』



至近距離、指先ほどの鉛が妖精を打ち砕く。 白い妖精の亡骸は、網膜を犯す鮮烈な赤。 

金属の哄笑がシェゾックを引き戻す。 ザゾエの頬に散る深紅の飛沫。

『シェゾック! 取引成立だ、シェゾック! 君と手を組もう。  君と、僕は、同罪だ。』


指先の強張りは鍵の字に。

確かに自分は、引き金を引いたのだと、暴力的な屋外の陽光に眩む。 

埃塗れの爪先に、赤黒い染み。 拭わず歩き出すシェゾックは、猛烈な睡魔に襲われていた。 眠りたかった。 眠りたかった。 生温い泥濘に闇にずぶずぶと、この身を沈めたかった。 猛烈に苛む、取り返しのつかない喪失感。 同罪だ。 ザゾエを責める権利など自分にはない。 自分達は手段を違えた共犯者なのだから。

そして、シェゾックは言葉で、ザゾエはその白い手で、大地を血肉でしとどに濡らす。
大掛かりな水遊びは、人集めから僅か6日で終了。


二ヶ月後、首都ラニダでシェゾックは、ザゾエからの小包を受け取る。 手の平に乗る、小さなビロード張りの小箱。 箱には、メッセージが添えらていた。 植物の根に似た独特の書体、カードの白地に浮き上がる濃紺のインク。

    君の活躍の記念に


絹の膨らみの上、そっと置かれたパステルエナメルの小片。 

それはあの日、白日に曝された妖精の欠片。 
淡雪の下、すべてを記憶した象牙色の頤(おとがい)の欠片。




      :: おわり ::



         百のお題  023 パステルエナメル (象牙色)