静けさがこれほどに暴力的だとは、終ぞ、思わなかった。

がらんとした部屋。 何も無い部屋。 部屋の隅、巨大な冷蔵庫が羽虫のように、低く、耳障りに唸る。 音はそれだけ。 ここに音は無い。 ここはもう、終わっている。 

―― だから何だって?

吐き捨てた言葉はおずおずと這い回り、羽虫の唸りが返事を寄越す。

ナンニモ、  ナンニモココニハナイネ

―― 無くて結構!

ココニハナンニモナイヨ

―― うるさい、

下卑た羽虫の唸りがいつしかメロディを繋ぎ、聞き覚えのある旋律が静寂に満ちる。 

……レデモ、・・ナタヲ、ア・・・テイマ・・・・・デモアナ・・

嘆くように、恨みがましく、あの歌が無音のメロディを囁き、荒涼とした部屋を埋め尽くす。 

・ツメテイマス、ソレデモアナタ・・・・イシテイマ……

―― 黙れッ!!

じわりと右手が痺れた。 指先を握り開き伸ばし縮め。 痺れを散らそうとする内に、ふと想い出す痺れに似た感触。 

クシャッテシタロ? 

うるさいッ、黙れッ!!

闇雲に両手を振り回してみた。 足踏みをして床の何かを蹴り飛ばし、怒鳴り散らしてみた。 しかし、静寂は尚も糾弾する。 声帯を震わす罵声は、何故か他人の声色。 捻じ曲げた首は告発者を無意識に捜し、見開く眼はそれを認めまいと抵抗した。 が、無駄な事。

ナ、タマゴノカラミタイダッタナ?

ついにしゃがみ込み両手で頭を覆う。 発した筈の絶叫は、音の無い振動。 己とその吐き出す空気を、脆弱に震わすばかり。 手の平が、汗ばんでいた。 こめかみを締め付け、両頬を覆う指の隙間から伺えば、壁際の陽だまりに小さな虹。

ソレデモ、アナタヲアイシテイマス、ソレデモアナタ

歌うな、唄うなよ、それ止めろよ、歌うなよ歌うな唄うな歌うなッ!!

恐れていたのは、あの瞳。 あの黒い瞳が自分を見つめ、追い詰め、逃げ出す卑怯を非難するのを、どうにも我慢が出来なかった。 忌々しいのは、あの声。 一つも責めず、糾弾せず、しかし暴力的な諦観をもって罪悪感を揺さぶるあの声が、どうにも堪らず、疎ましかった。

ソレデモオマエヲミツメテイルヨ、ソレデモオマエヲアイシテイルヨ!!

羽虫は歌う。 叫んでも怒鳴っても、羽虫は歌い、下卑た囁きを繰返す。 蹲り床を叩く拳に錆色の糸が細く絡んだ。 錆色の、錆色の、いや違う、アレは金色だった、根元が薄茶に変わった金色の、トマトみたいに潰れ卵みたいにクシャリと逝ったあれの、金色の、あれの……

…… ヲミツメテイマス、ソレデモアナタヲ、アイシテイマ……

唄うなと、怒鳴りつけたのは、あれがその指先にそれを摘んでいたからで、あれはそれをまたカシャリとそこに押し込み、忌々しいメロディを口ずさむ。 
それだから、そうした。 
糾弾に耐えかねてそれを振り上げた、
纏わりつく囁きに耐えかねそうした、
それだけだ、
それだけの事だ、
それだけじゃないか……
振り向いた黒い目はあの時見開かれ、手にした小さなそれは正午の光に虹を作り、懇願するその身体ごと、床に倒れ込み虹が弾ける。


ソ レ デ モ オ  マ  エ  ヲ  

言うなッ!!

もはや何もないこの部屋に、あの虹は訳知り顔で小さく光を放つ。 何もないこの部屋の何かを語る虹。 

虹は何を知っている? 

のろのろと四つ這いで進むこの姿はまるで、死にかけの犬。 途端に羽虫が、唸り騒ぐ。

ウタッテヤレヨ! ウタッテヤレヨ! アレノタメニアンタウタッテヤレヨ!!

―― …… 俺は …… お前を …… 俺は ……

『愛していたでしょ?』

四つ這いで虹に向かい虹の欠片を拾った。 虹色に光る鋭角な欠片。
羽虫の唸り、羽虫に似た囁き、
恨み言を言わなかったあれを代弁する、羽虫のように囁き唸る巨大な古い冷蔵庫が一つ。

冷たい扉に凭れ、欠片の虹の告発に目を伏せる。

―― ・・・・・・ なら、ずっと、そこに居ればいいだろう?


そこに、あの歌は刻まれていたのだろうか?




      :: おわり ::



         百のお題  022 MD