オレはこっから道を外したよなと、サメジが言った。
そのサメジは、暢気にお徳用ピノを食べている。 ふぁさふぁさ重なった包み紙は、さっきまでメロンが二切れ乗っかってた皿の上で、その皿はというと、
『退かせッ、おい、』
『おォう、ホイ。』
『汚すなよ、メシの種を。』
『へいへい。』
ソレはきっかり赤が入った6人分のプリント。 6×5の30枚。 月〜金で毎日一枚、こつこつやったら成績ぐんぐんという、まぁ、ありがちな学習教材の採点が目下、俺の収入源だった。 毎週火曜に50人分250枚、ドカンと送られてくるソレを、翌火曜までに懇切丁寧・個別添削する俺は、今もせっせと励ましのメッセージを執筆中。 そしてその清い労働をボサッと呆けて眺めてるこの馬鹿は、役にも立たない激しい数学白痴だが、どうやら中三数学√の計算でつまずいたらしい。
『中三ッてぇと、高校受験からダメージでかいじゃん。』
『まぁな、そん時から私立文系で決まり。』
『てか、言うほど国語、出来ねぇだろお前。』
『世の中矛盾だらけよ、』
『バ〜カ』
残り215枚のプリントを脇に除け、首を一回転させた俺は、こめかみと目玉をギュギュギュと押さえて揉んだ。 目玉の裏がチカチカした。 一服どうよ? と差し出されるセーラムを咥える。 が、どことなくフェミニンなソレを俺はあんまり好きじゃなかった。
『お前、似合わねぇよな、セーラム、可愛すぎ。』
『ニヒルなパーラメントっちゅう感じか?』
『や、ハイライトとかショッポとか、』
『フジ、お前はオレをわかっちゃいねぇな? カァ〜ッ、√の野郎ッ!』
サメジが言うには、その、因縁の√登場まで、サメジは自他共に認める理数系だったという。 法科の肉体派と呼ばれる今の有り様からは想像もつかないが、親と教師の期待を双肩に 「数学はパズル、テストは娯楽要素のある挑戦」と豪語する、プレエリートのサメジがイニシエの学び舎には存在したらしい。
『物凄い暴落振り。』
『言うな、オレも親もがっかりだ。』
『けど、片鱗すらねぇのはネタか?』
『じゃねぇよ、実録系、洒落ンなんねぇよ、畜生。 思えば小坊ン時、鶴亀だの植木だのとことん駆使してバンバン解いたアレコレを、中学では方程式なんて裏技出しやがって強烈に謀られた気がしたんだが、いやルート、それ以上の腹立たしさ。 まァ腹立ってる内はまだいいとして、次第になんだかムカムカ、苛々、いつしかソレ見るだけで動悸するくらい無視したくなって、』
そりゃ、言い訳だよ と俺は思ったが、でも、サメジは「絶対√で踏み外したのだ」と言い張った。
『関数とかのがヤじゃねぇか? たかがルート、そんで転落かい?』
『けどなぁフジ、コレが不思議でなぁ、√4=2、な? こんなな2の二乗でイイじゃん、けどルート。 理屈はわかるけどなんか、わかんねぇんだよ。 ソレがオレにも解せないまま、算数白痴への道を四速でGO!! それまで出来てた事すら出来なくなって、ま、そんでもイイかと今に至る順応性の高いオレ。』
『ダメじゃん、』
イイって事よ、とサメジが伸びをした。 Tシャツの肩がグイと盛り上がる。
―― ナオ〜、それじゃ出掛けるからぁ、
階下でお袋の声。 壁時計は3時。 お袋は駅前のスクールで、スウェーデン刺繍を習っている。
『さてと、』
伸ばされた腕に引き寄せられ、「さてとじゃねぇだろう?」と開いた口の中、アイスばっか喰ってた舌がひんやりと進入した。 肉体派のサメジのソレは、バニラとチョコの味。 似合わねぇ。 ズズズとテーブルがずらされて、俺たちの間にはもう、何もない。
『理数系なら良かったのに。』
『オレぁ、コンで大満足よ。』
『重てぇんだよ、』
『ジキに気になんねぇって。』
月初め、俺は小柄で華奢な後輩と付き合ってた。 なのに、なのに、今やデカイ・ゴツイ・野郎のサメジにこうして圧し掛かられている。 しかもそれを、吝かでなく思っているこの不思議。 踏み外した? いや、つまり転機ってヤツだろう。 こうなるべく方向を戻した、運命の切っ掛け。
『・・・・・・ ルート、』
『ン?』
『いや、何でもねぇよ』
順応性の高い俺たちは、昼下がり、二時間弱のフシダラを愉しむ。
:: おわり ::
百のお題 017 √ (ルート)
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