ピンセットでそっと摘む。

亀裂を剥すのは、薄皮一枚を剥ぐ至難の業だった。


わたしはドロドロとした肉体の戒めを解き、ここから脱出を計ろうと企てる。
なのに、どうだろう。 ねぇ、この厄介なセキュリティを見て頂戴!

ぶよぶよした皮膜の向こう、覗き込むあの人の目がキョトキョトと動いた。
あの人の指はわたしの世界をぐるりと包み、人差し指の切りすぎた爪で、ノコギリみたいな亀裂の縁を、引っ掛けようか止めようか躊躇いつつ数回触れる。

早鐘のように、わたしを急かす鼓動。 
あなたの手の平から伝わるあなた自身の鼓動。
えぇ、わたしは落ち着いているわ。 わたしは機を狙っているの。

あぁ、無理よ。 まだ、一つも解除されてはいない。

わたしは幾層にも重なる時間の帯を引っ張り出し、「想い出」と書かれた空色の一本を、丁寧に延ばし広げる。 わたしを二周するその帯には、案の定、凝縮された無数のあなたがスクラップされていた。

おやまぁ、ひさしぶりねぇ!!

オリーブ色のセーターを着たあなたが、シチュウの鍋を洗っているものだから、わたしは懐かしくなって、その毛玉の出来た背中をそっと突付いてみたのだ。 厄介な焦げ付きと格闘する17歳のあなたは、不意に背中を伝う濃厚な思慕にビクリとし、金ダワシを握る磨き粉だらけの右手を少し持ち上げて、不安げに、振り返る。

神経質な細い眉。 まだ、眼鏡はかけてはいない。 
若さゆえの傲慢が滲む、怖いもの知らずのあなた。
もうじき、初めての挫折と喪失を知るだろう、未熟で愚かなあなた。

とは云うものの、あなたはまだ知らなくていいの。

寄り道を悔いたわたしは、17歳のあなたをクルクルと巻き取って、帯中ほどの「思い出」に目をつける。 染みみたいに見える、極小さなそれ。 だけどもそれは、見落とすべきではない想い出。

その人は藍色のシャツを腕捲りして、水滴の浮かぶ濃く出した麦茶を、あなたの御母さんが部屋に運んだ麦茶を、裏庭に面したあなたの部屋で飲んでいたわ。 目尻の下がる人好きする笑顔。 あなたを信頼し、あなたを微塵も疑わない笑顔。 その人は一つも気付いてはいない。 あなたが幾度も息を詰め、語り掛ける言葉にも上の空で暗い視線を斜めに泳がすのを、その人は一つも気付いてはいなかった。 

だから、その人は、それを信じてしまったの。 
あなたが告白した、全くの嘘を。
あなたが示した、純粋な好意なのだと、その人は信じてしまったのよ。

ねぇ、あなたはどう思う? 
言葉一つで、一人の人間がこの世から居なくなってしまう事を、
あなたはどう思う?
馬鹿馬鹿しい話だと、愚かで当て付けがましい話だと、
あなたは今でも眉を顰め『迷惑だよね』と言うかしら?

想い出は、染みのようにこびりつき、決して消える事はない。
想い出は、あなたを取り巻くすべての想いを引き連れて、幾重にも幾重にも。
あなたを締め付け、解けはしない。

さ、それをそっと挟んで、剥がして頂戴。

キィワードはもう、わかったわ。
わたしはいよいよこの抑制を離れ、蓄積された【想い】を手に、あなたへと向かう。
例えあなたがそれを好ましく思わなくとも、
寧ろあなたがそれを疎ましく、或いは恐れていたとしても。
時はね、満ちたのよ。
あなたは、わたしを受け止めねばならない。
わたしの抱擁を、甘んじて受けねばならない。

教えてあげましょう、キィワードはあなたの言葉。

――― 愛しているよ

さ、剥がすのよ。
その柔らかで強固な殻を、あなたは自らの言葉で剥さねばならない。
そして、澱のように重なる歳月を経て、あなたはわたしを受け止めるが良いわ。

わたしの名前は『怨恨』
忘却の殻を破り、今、あなたの中へ進入する。
わたしの名前は『怨恨』
またの名を『悲しみ』という染みのような存在。



      :: おわり ::



         百のお題  011 柔らかい殻