去年の今頃、俺は、鼻歌を歌う厄介者を飼っていた。

それは何も起こらず、ただ、駄目な連中と駄目になっていた連休明けの木曜。 嘘臭い晴天の蒼に、当て付けがましい敬意を表した試みなのか? 起き抜け見渡した部屋は、さながら廃棄場の惨状。 その尋常でない荒れ果て振りに、昨日寝入りばなに見たホラービデオの一場面を重ね、ならば死体がある筈だと、ケミカルな混濁を残す脳は、確信に満ちて判断する。 

花弁みたいな靴下とけばけばしいシャツ。 箱ごと床に置かれた吐瀉のようなピザ。 散乱する駄菓子の袋と零れ落ち踏み付けられた粉末と欠片。 クラッカーの残骸が数個と天井の配管にぶら下る色紙テープの胸糞悪い渦巻き。 水音と一緒に流れる不愉快な旋律。 陽気で腹立たしい鼠の歌を繰返す、耳障りな何者かの鼻歌。 不審の正体を確かめんと、残骸を踏みつけ蹴散らし、バスルームへと俺は向かう。 

半開きのクローゼット。 足の裏に張り付くピンナップに舌打ちをして、それが何故そこにあるのかと振り返れば、先住者を押しのけて、傾いだパーテーションにぞんざいに張られた、数枚のポラロイド。 やたら光が多い白の中の違和。 青白い胡桃のような突起、踝? 誰の? 剥き出しの背中。 誇示するように腕が絡みつく。 無骨な五指が鷲掴む薄茶色の後ろ頭。 無骨な指の持ち主は、手首の付け根に小さな三角のケロイドがある。 

つまり、それは、俺だった。


『ヘロォ〜ゥ!! メモリアルショットはイカガでしたかぁ?』

そして、バスタブの中、蛍光緑に胸まで浸かった厄介者が、御機嫌なほろ酔いで鼻歌を歌う。

―― 止めろ、

『おやぁ〜? ミッキィ鼠は嫌いかなぁ?』

濡れたジーンズを膠のように張り付け、棒切れみたいな足をバスタブの縁にひっかけ、忌々しい鼠の大将を暢気なハミングで称える厄介者は、蜥蜴の腹みたいな咽喉を曝し、ゲラゲラと笑った。 

『あぁ、よしてくれよう、昨日は酔ってましたとか言うなよなぁ、だってそうだろ? アンタが言い出したんだぜ? タブレットとオマエ、込みで幾らだ? ってさぁヤダねぇ〜!』

チカリと、眼球を焼くストロボが混濁を切り裂く。 レンズを向けるソレ、熱く湿った体温の記憶が、奇妙なリアルさで皮膚に語りかけた。

『アンタねぇ、俺を買ったんだよ、生き物を飼うのもイイだろうって。 したらば責任持って貰わなきゃぁ。 なぁ、それに……オレは悪くはなかったろ? あはははははは!!』


シンクに凭れた俺は引き千切ったポラの一枚をかざし、低血糖に震える指でタバコに火を灯す。 すると、当たり前のように俺の指先からタバコをくすねるソレの目が、企む猫のように細められ、薄い唇が笑みのカタチで長く細く、気だるく意味ありげな紫煙を吐き出した。

最悪ではないか?

とりわけ最悪なのはソレを飼う事にした俺の愚行そればかりではなく。 絡み捕られるようにソレに手を伸ばし、ソレの与える快楽にあっさり溺れた俺の、嗜癖に振り回されるが如くのテイタラク。 粗悪なソレは常用性も高いらしい。 ソレの売るタブレットの何倍も、ソレは混濁と浮遊感を誘った。

こうして、忌々しい蒼空の木曜、俺は厄介な生き物をに飼う事になる。 
抗い難く甘ったるい、馴染みの何かに似た始まりであった。



ソレは、たいてい明け方頃起き出して、奇妙な緩慢さで漂うように部屋を徘徊する。 何をするわけでもなくただ、部屋を滑るように横切り、壁の突起を指で辿り、忌々しい鼠のテーマを鼻歌で奏で。 早朝の2時間余りを緩慢に、しかし留まらずに過ごす。 ぼやけた七割の朝日は靄のように、窓際のソレに影をつけた。 

やがて8時過ぎ、寝床から抜け出た俺は、バスルームで死体のようにバスタブに浸かるソレを発見する。 流石に、服は脱いでいるが、入浴剤の蛍光緑に爬虫類じみた薄い青白い身体は、嫌になるほど嵌った。 浅く上下する貧弱な胸郭。 伏せられた瞼は長湯の脳貧血で、まるで血の気が無い死人のソレにそっくりだ。 ゾクリと背骨が冷えた気がして、俺は乱暴にシャワーカーテンを開け放ち、シャワーのコックをぐるりと捻る。 生暖かい飛沫が死人の顔に勢い良く発射して、生き返ったそれは薄ら笑いで言うのだ。

『オハヨウ!』

水浸しのそこで、時に水浸しの腕に引き寄せられ、俺たちは不毛で飽く事の無い、嗜癖の快楽をひとしきり貪る。 押し付けた耳の内側、触れ合った肌を通し直接響くのは、掠れた鼻歌の不愉快な旋律と、やがて余裕の無い曖昧な母音。

その後、バスタブの縁に顎を乗せて欠伸するソレを残し、俺は商用に出掛ける。 濡れて焦げ茶になった髪は束になり、頬骨辺りまで覆う簾越しに、ソレが薄目を開け俺を見送ったのか、或いは何か小さく呟いたのか。 バスルームに残るソレが何をしようとしたかなんて、俺は知らないし知るのが怖かった。 その厄介者が、黄緑の染みになり、知れば俺のあちこちを浸し、犯して行くような気がして。 ソレについて、俺は知ろうとしなかった。 知るのは酷く躊躇われた。

夕方、商用から戻ると、厄介者は五分五分の確立で不在。 何処に行くのかは知らないし知る必要も無い。 戻らないとしても、それは普通の事だろう? 咎め、或いは気に病む事など一つだって無い。 しかしソレはそうして出掛けて行って、フイと、戻って来る。 当然のようにドアを開けて、タバコの吸いさしを唇に運び、気だるく意味ありげな紫煙を燻らせて言うのだ。

『タダイマ〜』

ソレは漂うように部屋を徘徊し、食事や雑事をこなす俺には関心を示さず。 ぼんやり視線を宙に浮かせ、草色のブランケットに半身を埋めて、幾分大儀そうに床に寝そべる。 具合が悪いのかと問えば、光る目を細くして、確かめるか? と意地悪く囁く。 どうしようもない俺はまんまとソレに乗り、絡まり合う獣が二匹、硬く冷たい床で発情する。 

そういえば俺は、ソレが物を喰うところを、見た事が無かった。 
与えなかった俺は、飼い主失格なのだろうか?
何も生まず、何も得ず、俺はその厄介い者を飼い、ソレは俺に飼われて怠惰に過ごす。
蒼空の五月は、そんな風に過ぎて行く。

そして、長雨続く六月半ば、小さな変化が始まった。


窓枠を軋ませる篠つく雨の早朝、寝床を這い出し仄暗い部屋を漂うソレは、暫し、スウィッチの切れたような静止をする。 猫背の背中をこちらに向けて、少し傾げた首は途方に暮れたように、そして、いつしか鼻歌は消えていた。 ソレの姿を追う俺は、暗がりから向けられる、真っ直ぐで暗い瞳を見た気がしたのだが。 だが、余りに暗いそれを直視する事を脳髄は恐れ、二度寝の残眠に俺はずぶずぶと沈む。 なにを、俺は、恐れてる? 

鼻歌の聞えない朝が続き、スウィッチの切れは頻繁に長くなり、五分五分だった夜の不在は六分七分と割合を広げ。 その癖、上の空のソレは執拗に接触を求め、バスルームの湿度を俄かに上げた。 貪り合い意識すら飛ばす交接に、歌わないソレは眉根を寄せ、荒い息を短く忙しく吐く。 波打つ蛍光緑の海原で、躊躇いつつ背中に回された腕は、波間に沈む何かを取り戻すかのごとく、キツク、俺を締め付けた。 

『…… 飼い主の証明。 アンタ、出来る?』

ソレは尖った顎を、俺の肩と首の間に挟み込むようにして、整わぬ呼吸のままに、がさついた言葉を脈打つ耳の裏に注ぐ。 が、言葉を捜す俺の鈍重さを待たず、するりと腕を解き、身体を離したソレは仰向けに、心許無い首を白いバスタブの縁に預けた。

『あはは、インだよ、アンタは、アンタは十分に優秀な飼い主だ……』

黄緑に浮かぶ奇妙な白い身体。 伏せられた瞼は、あの、目覚めない死人のソレ。 びしゃびしゃ滴る雫もそのままに、バスルームを抜けた俺は、傾いだパーテーションの際に引っ掛けられ、放置されたままのポラロイドを掴んだ。 蒸気に霞むバスルームに閃光が一回、二回、

『?!』

見てろよ、こりゃ確かな証明だろう? お前はあの日、俺に買われた。 俺はあの日、お前を買った。 そしてお前はココで飼われ、俺はココでお前を飼った。 見ろよ、日付もちゃんと入っている。

憐れなほど眼を見開き、バスタブの縁を握り締めた、戸惑う子供のようなソレの顔。

ひらひら感光の湿り気を飛ばし、手渡した二枚の証明を、ソレはじっと眺め、そして、静かに声を立てず、泣いた。 

何だよ? どういう事だよ? 何で泣くんだよ? お前は何なんだよ? 厄介者は厄介者らしく、厄介掛けて然るべきなんだろう? どうした?おい。 例の胸糞悪い鼻歌は、お前、どうしたよ、何なんだよ?

何一つ知ろうとしなかった俺は、何一つ知らぬまま、その夜、厄介な生き物を失う。
持ち去られた写真が一枚。
光が多すぎるピンぼけのポラロイドを持って、鼻歌が好きな厄介なソレは姿を消した。


だから、これは、不確かなソレが存在した証。
引き千切り、捨て去る事を今も躊躇う、色褪せる現実に似た一枚の未練。



      :: おわり ::


         百のお題 006 ポラロイド