慰謝料で旅に出ようと堅物の姉が言った。 

寒いと侘しいから暑いところ、適当に開けてて垢抜けなくて海の有るところ。 --- と注文が多いので、手っ取り早く選らんだのはシーズンオフ、雨季ギリギリのマレーシア。 二日前空港に降り立ち、腐臭にも似た甘い熱帯の香りに魅了された私達は、日がな目的も無く小さなその港町を散策する。 

昼間っからマリファナの臭いがする海岸沿い。 座り込む白人のパッカー達。 何をしているんだかわからない、ただウロウロしている浅黒い人々。 忙しそうな女達と、道端で溜まり暇を持て余す男達。 道一つ入ったせせこましい土産物屋の軒先に、ソレは揺ら揺らと釣り下がる。

『モビールだね、』
『うん・・・・・・あぁいうの、作ったよね』


ネコ、犬、雄鶏、牛、太った女とやせた男、拙い細工のそれらが『ほほえましい』按配で、ゆらりゆらりとべたつく海風に揺れた。 鮮やかな原色の彩色は、眩暈がする熱帯の空に良く似合う。 姉が背伸びをして、笑った顔の雄鶏に触れた。 顰めっ面の農夫が、姉の肩口で地団駄踏むように見える。 紅茶みたいな姉のマニキュアが、雄鶏のお腹の上、鈍く光った。 ひっくり返した裏側も、同じ鮮やかな彩色の雄鶏。

『馬鹿ね、裏も色は着いてるのよ普通、』
『わかってるわ、でもなんか、確かめたかったのよ。』


姉が確かめたかったものは水玉だ。 姉は、拙いモビールの裏側に、水玉を探していた。 しかし、そんなものある筈がない。 水玉のモビールなんてこの世には無い。 あれは幼い私と姉が作ったモビールだから。 そしてあの日、柿の木の下でドラム缶に放り込まれ、火にくべられたモビールだから、二度と窓辺に釣り下がり、緩い風に揺ら揺らする事などある筈が無いのだ。 

『・・・・・・わかってるのよ、そうね・・・・・・』

姉に気づき店の奥、暗がりで微笑む店主の白い歯が、妙にくっきりとして見えた。 私は、財布の中の小銭を、指先で探った。


転職ばかりしていた父の何度目かのそれは、文具の卸だった。 起業家の父は、事業を興すのは得意であったのだが、続けるのは苦手だったらしい。 当時、母方の実家の敷地に居を構えていた私達は、母方の一族が経営する、和食仕出しチェーンの収入に生活を委ねていた。 母は、そこの重役でもあった。 それだから一層、父は安心して起業に精を出す。 そして私達の誰一人として、父に何も期待してはいなかった。 

『ほら、凄いだろう? こんな色、見た事無いだろう?』


ある時、父が差し出した74色のクレヨン。 クレヨラ社のクレヨン、当時そんなのを持っている子は誰も居なかったし、圧倒的な色の数に私と姉は驚き、息を飲んでそっと触れた。

『御覧、赤は赤いだけじゃない、暗かったり明るかったり光ってたり沈んでたりするもんだ。』


そう言って、父は広げた画用紙に、ぐりぐりと丸を描く。 それにならい姉が、日差しを受けた夏の桜の葉みたいな緑を手に、ぐりぐりと小さな丸を描いた。 私はツツジと同じ濃いピンクのクレヨンで、姉より大きい丸をぐりぐりと塗りつぶした。 正直なところ、見掛けに反して、発色はあまり良くなかった。 ぐりぐり力を入れてもすぐ斑になり、いつものクレパスに比べると使い難い代物だったのだのだが、なにしろ、色が良かった。 私達は画用紙を色とりどりの丸で埋め尽くす。 

そして、埋め尽くされた極彩色の水玉に、父はさっと、絵の具の黒を刷いたのだ。 途端に、水彩を弾くクレヨンの丸が、暗闇の宝石みたいに浮き上がる。


『さぁて、乾かしたら何が出来るかな?』

おどけて勿体つけた父は、私の頭に手の平を置き、興味津々の姉を覗き込んだ。 やがて、絵の具が乾いた画用紙を手に、父がシャクシャクと鋏を滑らせる。 切り取られた水玉は、私の大好きなムーミンになり、姉の好きなスナフキンになり。 三匹つながったにょろにょろだの、小走りする牧師さんだの、意地悪で可愛いミィだのに変わった。 仕上がった水玉の愛すべきシルエットを、父は針金とテグスで順番に吊るした。

『みんな、バラバラじゃぁ無いだろ? ちゃぁんと協力して良い按配にぶら下がるだろ?』

そうして、子供部屋の真中にモビールが揺れた。 器用な父は、それからも私たちに強請られて、色んな水玉モビールを私達と作った。 あの日まで、何度も。

けれども、父は、突然消えてしまった。 

いつもの「自称出張」だろうと思っていた母は、聞いた事もない北の町の病院からの電話で父の死を知る。 大きな負債を抱えた父は、その資金繰りに奔走し、その町の小さな旅館に宿泊中、肝臓に起因する吐血で急遽した。 

腹が最近出てきてねぇと笑う父。 それが単に病理からの腹水だったとは、誰も思いつかなかった。 朝からずっとゴロゴロして、寝そべったまま出鱈目話を私達に聴かせてた父。 誰もが、しょうがない怠け者だ、甲斐性無しだとエヘラ笑う背中に聞えよがしをぶつけていたけれど、あれはもう、倦怠感で動くのが容易でなかったのだろうに。 

『あの人、そのまんまだよ!!』

初七日の法要過ぎ、母はそう言って、私達の部屋からモビールを取り外す。 よしてよ!と母を制したかった私達だが、その言葉を口の中で飲み込んだ。 母が、気丈な母が、声を立てずに泣いていた。 涙は母の顎を伝い、焦げ茶の磨かれた樫の床に吸い込まれ、ひたひたと寂しい水玉を作った。 

そうして、モビールは、諸々の思い出と一緒に、庭の柿の木の下、大きなドラム缶に放り込まれ、灰になる。 クレヨラのクレヨンは、一つ折れ、一つ無くし、いつしかチビケた数本になり。 それすらその内、何かに紛れて全部無くなってしまって、もう、久しい。

あれから、母はがむしゃらに働き、その甲斐あってか仕出屋の支店が二つ増えた。 あの日、泣くまいと宙を睨んでた姉は一昨年結婚して、今年出戻って、意気揚揚と家業を継ぐ。 そして父親似と評判の私は、嫁にも行かず、定職にも就かず、子供服を中心としたハンドメイド服飾雑貨のネットショップで生計を立てている。 


『これさぁ、裏、水玉にしちゃおうか?』

姉の指先でテグスがピンと張り、小さなモチーフが揺ら揺らと揺れた。 てんでに、バラバラに、しかしバランス良く、風に吹かれ、そのまま逆らわず、大きく旋回してもまた、そこに戻り揺ら揺らと揺れる。 そう、本当に、まるでそれは父のよう。 諸々に引き寄せられ、或いは引き止められ、そこに留まる代わりにふらふら彷徨い続けた父そのものじゃぁないか?

ぎゅっと目を閉じれば目玉の裏側、熱帯の残像が鮮やかな水玉になって散り散りに弾けた。 

ー−−ねぇ、夜の宝石みたいでしょ?!


湿った熱帯の町で、私達は、北の町で途切れた想い出を、小銭で買った。


           :: おわり ::



     百のお題 001 クレヨン