漂流



ド、鈍い音がして背中に重い痛みが走った。
勢い任せに押し付けられる顎先を、引くでもなく受け止めて、掴んでいた肩を強く押し‥反転した形勢。
ガツ、硬質な響きが耳の奥に鳴った。
腹ペコな野良犬が数日ぶりに見つけた餌をわき目もふらず貪り喰うような
砂漠で干上がった湖底みたいにひび割れた喉ががむしゃらに椀の中の水にかぶりつくような
狂おしいほどのキス。
呼吸するのももどかしく、貪り喰う‥かぶりつく‥喰んで喰んで、まだ満たされない飢えと乾き。
ただ、息だけが焼け付くように熱かった。

君の手が鉤爪になって理性を模したネクタイを引き解く。
ぼくの手が深紅の鎧を肩から外し、忌々しい漆黒のベストのボタンを引きちぎる寸前の勢いで外しにかかる。
ふ、と背中が軽くなったのはぼくの着込んだ鎧を君が剥がしたからで、
ああっ、もう!二本の腕に絡みつく袖が作業の邪魔。
喰むことを止め、ぐぐぐと焦れた唇が獲物を丸のみするみたいに君の呼吸器官を塞ぎ、その隙にと腕にしがみつく布切れを振り解いた。
無残、玄関の石畳に叩きつけられたソレは子供が服を脱いだ後くらいぐちゃぐちゃで、誰にも気にかけてもらえない寂しさをその色に表しながら横たわっている。
いつもなら、皺になるからとハンガーに吊るしてもらえるものでも今はもう、どうだっていい。
いつの間にか滑り落ちた赤いタイを靴底で踏みつけているのもなんとなく気づいていたけれど、ちっちゃなことさ。
純白で柔らかで、ひらひらふわふわ‥胸元を飾るソレを普段なら君の分身のように恍惚と眺め心を溶かしているものだけど、この時ばかりはただの布切れ。シュルシュル、艶やかな衣擦れの音と共に割り裂き
ちゅくちゅくと舌が絡み合う水音を咀嚼しながら
性急な衝動に手元を狂わせぼくたちは僅かに残る理性の力を借りて互いのシャツのボタンを外す。

同じくらいでスタートラインを越えても、まあ‥そこは本来持ち得る能力の差?
微笑ましくなるくらい不器用な君がもたもたしているうちにぼくはあっさりゴールテープを切り、ぐあっと一気に両手をわき腹に差し込んでしまうから、下から二つ目のボタンを掴み損ね
「‥っ、は‥こ、こらっ!外せないではないか!」
憤る不器用さんはキスの拘束を逃れ、抗議するんだけど。
そんなこと、構わないよ。ぼくがどんな格好だって何の支障もないからね。
必死の抗議すら黙殺し
露になる白い首筋にバンパイアキス。
薄い皮膚に軽く歯を立て首筋の窪みに舌を押し込むと「待て!」の言葉を喉に詰まらせ小さく掠れた声が声帯を震わせた。
かろうじて背中とドアに挟まれ落下を免れていたジャケットが、ベストとシャツを連ればっさり落ちる‥足元に。
手首から二の腕、肩を通り胸元を撫で僅かに汗ばんだ背筋の微細な動きに指先を這わせ、背骨でクロスした腕の先で骨盤を鷲掴みにし、耳の後ろ側で淡い吐息を聞く。
君の抗議の言葉はぼくには届かない。
押し留める台詞も懇願も急速に高まる情欲に揉み消され
はじめの勢いに流されればいい。


ただ、仕事明け、互いを労うみたいに待ち合わせ遅い夕食を共にしただけ。
他愛もないことを箸を運びながら語り、グラスを傾けながら交わしただけ。
明日も仕事。
時間も遅い。
そんなこと、会う前から分かっていたことで。
ほんの少しの違和感をあげるのならば、瞳が澄んでいた。濁りなく透明で、どこまでも澄んでいた。
僅かばかりの変化をあげるのならば、笑顔がどことなく優しかった。いつもより一ミリくらい口角が上がっていた。
それだけのことだったのに。
暖簾が外される時までその場を離れることができなくて‥街灯の灯りに寄り集まる虫たちの羽音が足止めするみたいに店の前から動けなかった。
何かの予感にざわめく胸。その頃から既に喉が焼け付くくらい痛くて、熱くて、言葉もなく見詰めるばかり。
これからどうしよう?そんな能動的な台詞じゃなく
うちくる?そんな恐る恐るの誘い文句じゃなく
鞄を持つ手の平に尋常じゃないくらいの汗をかき、気の利いた言葉の浮かばない自分の至らなさを呪う。
明日も仕事。
時間も遅い。
枷で言うならソレ。
離れたくない。
一緒にいたい。
握り締めた拳には鍵。
多分、お互いに?だといいなぁ…飲み込む息に思い…
不器用な君が、不器用な指先で、不器用なぼくの上着の袖を砂粒にも満たないほどの幅、摘んだ。

点火――


どうやってここに辿り着いたのかその道筋のことは覚えていない。
熱に浮かされ朦朧とする、体温のこもった布団の中にいるみたいに一切の思考がストップした。
かろうじて寝屋に戻れたのは奇跡としかいえない。
なだれ込むように玄関の扉をくぐり鍵をかけると同時に掴みかかる。
ヒトは発情期を失ったと言うけれどソレは嘘だ。
少なくともぼくは信じないと決めた。


飢えた野良犬に骨。
舐って、しゃぶって、その行為の中で肉片の味を再現するみたいに骨の髄まで堪能する。
決して失われない記憶の中枢に、肌を合わせるたび刻まれる君のイイトコロを、舐って、しゃぶって。
手の平に丁度よく馴染む肌の感触をも記憶して。
硬い木の床板に這い蹲る。
君の擦り切れた呻き声一つ一つが脳髄に溶け込んで身体中に行き渡る感覚。
押し留める風にぼくの胸板に添えられる手の平は、もどかしく蠢き五感全てがそこにいる君に集中する。
ああ、もうダメだ。
本当に、ダメだ。
君を気遣う余裕なんかない。
一呼吸ごとに蓄積される情動に抗うゆとりはない。
できる限り辛くないよう解してとか、せめて傷つかないよう準備してとか、いつも痛みに耐えながら流す涙を少なくしてあげたらとか‥‥ごめん。本当にごめん。
無理みたいだ。
バンバンバン、這い蹲った体勢。手探りでシューズボックスの上にこっそり隠しておいたコンドームを探る。
せめて、これぐらいはつけなきゃ。色々ごめんなぼくだけど、精一杯‥なけなしの誠意で耐えるんだけど。
ない?どこ?確かこの辺に‥。
「み、御剣‥ここにあったゴム知らない?」
したくてどうしようもなくしたくて、震えた声で訊ねれば
「ぅ、ム?そこに置きっぱなしになっていたのは片付けた」
って言われちゃったよ?
「な!なんで片付けちゃうのさ!いざという時のためにおいといたのにっ!」
「そ、そうなのか?!私はてっきり不要なものだと思い‥」
ち、違うよ。
出しっぱなしと捉えるには置き場所がそれなりだったでしょ?一応、人目につかないところに隠してあったのに、その意味を理解しないで片付ける君の応用力のなさが悲しいよ。
「使うから置いといたんだよ、バカ!」
「バカとはなんだ、バカとは?!使うのならベッドサイドに置けばいいではないか!意味もなくそこら中にばら撒いてはしたないとは思わんのか?!」
「この状態で意味もないなんて、ベッドまで待てない君が言うなっ!‥‥て、もしかして片付けたの?」
「‥あ、当たり前だ!掃除の最中に見つければ所定の場所に戻すものだろう?」
え、え、じゃぁトイレのあそことあそこに隠してあったのとか。キッチンの引き出しの中とか食器棚の奥とか。洗面台のあそこの中とか‥ランドリーボックスの片隅とか‥。
信じられないと戦慄きながら訊ねれば「当然だ」と返された。
「じゃあ、ウォークインクローゼットの‥‥」
「ム、そんなところにもしのばせていたのか?侮れないな」
必要だから‥もしもの時に使うつもりだから備えているのに、御剣のその言い方だと片付ける気満々なんですケド?
「え、でもリビングのソファーの隙間のはあるよね?つーか、御剣補充してるでしょ‥なんで?」
「あ、あそこは‥およんだ経験があるから‥」
そ、そういう基準?使用経験を踏まえているいらないが決まるの?
「ま、いいや‥こんな状態でモメてもしょうがないから」
財布の中にある予備のゴムを使おうと、ズボンの後ろポケットに手を伸ばせば
「玄関先で使うこともあると理解した。次から見つけてもそのままにしておく‥だから」
後ろに回したぼくの手を掴みぼそぼそと囁く。
「だから‥?」
「だ、だから‥早く‥」
剥き卵みたいに丸裸で玄関先に転がっている君は呆れるほど不器用で、驚くくらい鈍くて、察しが悪すぎて言葉もないけど‥どうしようもなくカワイイ。
平常時なら口が裂けても言わないようなことをここぞと言うタイミングで口にする君は、イヤになるくらいカワイイ。
だから、ダメだって。
そんな目でぼくを見ないでよ。
「でも、つけないとあとが大変だよ?」
「う、うム‥それはわかっている」
「ゴムに少しはゼリーついてるから、何にもないよりマシだけど?」
「わ、わかっている‥‥が、なるほどう‥」
あーもう!
あぁぁ!!もうっ!!!敵うわけない!そんな君にぼくなんかが敵うわけがない!
君の無意識なのか意識的なのか分からない、甘えの滲む表情や仕草、言葉が、強烈に腰に落ちた。
好き過ぎて、狂いそうなくらい好き過ぎて、怒りなんだか喜びなんだか分からない衝動に突き動かされ半ば投げやりにズボンの前を寛げる。
未だ慣れない行為に不安なんだろ?喘ぎ声さえ堪えるくらい恥かしいんだろ?なのにどうして‥君は‥!
喰らいつく唇は薄く開きぼくを待っている。
柔らかな太ももを抱え、折り曲げた身体。圧迫される肺に呼吸さえままならないはずなのに、ズボンから取り出した僕自身を待っている。
充分に解したとはいえない窄まりに硬いソレを押し当て、一呼吸置いた後、捻り込むみたいに差し入れる逃れようのない痛みにも耐え、呻く声がキスの隙間から漏れ出てもぼくを待つ。
「痛い?」
の問いに、一瞬頷きかけ首を振る。
ぼくってさ‥分かってたことだけど果報者じゃない?
望まれてる事実をこうして実感できることって幸せなんじゃない?
究極に飢えていても満たす術を知ってる。
乾きに悶え苦しんでも潤す源泉を知ってる。
だからこそこうして求めるのだけど。
発情と言う短直な言葉でこの状況に意味を持たせたがってるけど。
「好き、だからね‥御剣」
「‥‥‥‥知っている」
交じり合う体温に答えを見ていたいんだ。
突然の衝動、性急なセックス、息も絶え絶え貪り喰らう、玄関先‥余裕のない情事でも整った環境下でのソレと何の変わりもないものなんだと分かってるから。
取り合えず、溺れてみようか。
行き着くところまで、流されてみようよ。

そして、新たに追加されたゴム置き場を頭の隅においてさ‥気恥ずかしさとぎこちなさの混じった朝を迎えよう。




おしまいv





2007/08/25
mahiro