好きなことに関わる時間が好きだ。
大きな事柄でなくとも、日常の些細な行為であっても、目にするもの、手にするもの、気遣う時間、手に触れる感触、変化…そこにささやかな高揚と大きな安らぎがあるのだから気持ちだけでなく表情も和らぐ。
熱湯であたためた抽出用のポットは滑らかで丸みのあるデザイン。
熱湯を高い位置から注ぎティーコジーを被せる際袖をめくり時間を確認する。腕時計に腕時計に秒針がついているものを必ず選ぶのは職業柄というだけでないのは習慣的仕草になっていることを見れば理解してもらえるだろう。雰囲気を楽しむなら専用の砂時計を用意しても良かったが、こっちの方が自分の性にあっているようであえて購入を見送っている。
言葉を発するのも勿体無い時間。見詰める先のポットは無論不透明で、中の様子を見ることは出来ないけれど手に取るように分かる。
硬く乾いた茶葉が開花するバラの花のようにふっくらと広がりながらたっぷりの湯の中を踊り舞う。さながら宮廷の夜宴でステップを踏む貴婦人の如く誇らしげに美しく、軽やかにそれでいて妖艶に。奏でる旋律は湯を飴色に染め、絢爛と醸し出す雰囲気は立ち上る芳香。
どれが欠けても極上の味わいを得られない至極の極みに…

「御剣って紅茶の味が好きなんだと思ってたんだけど、紅茶を入れる過程の方が好きなんだ。味はその結果って感じで…外で飲むよりこっちの方が断然……」

…しまった。この男のことを忘れていた。
没頭するあまり自己の世界に入り込んでいたらしく、カチリ、視線が合った瞬間我に返る。
「ム…断然、何だ」
失念の後味の悪さから言葉尻を捕らえ突っかかってしまう。聞き流せばよかったと、後悔したところで時既に遅く
「断然、魅力的でカワイイ」
「‥っ、貴様はまたそのようなことを‥」
反応に困る台詞を満悦の笑顔で言われてしまう。
だから私は‥どうすればよいのだ‥。
答えが出せないならなかったことにしよう‥困窮の挙句の逃避すら選択できないのかと見せ付けられる現実に折角和らいでいた気持ちが後戻りするのを感じ、悔し紛れに締まりの無い笑顔を強く睨んだ。
この男に任せては折角のゴールデンティップスを多く含んだ茶葉が台無しになってしまう。よりにもよって何故この茶葉を選んだのか‥意図はないと分かっていても偶然のなした選択に取らざるを得ない休憩。歓迎はしないが仕様が無い、ソファーを勧め目の前で紅茶の淹れ方を実演している始末。
「僕の為に御剣がお茶を淹れてくれるなんて今日は良い日だ。来て良かった」
挙句の果てそんなことまで言われ
「貴様の為に淹れているのではない。断じて。私は茶葉を無駄にしたくなかっただけで‥ム、時間をオーバーしてしまったではないか!」
追い討ちをかけるように定めていた時間を素通りした秒針。一気に血の気が引いた。
茶漉しを手に取りサーブ用のブルーフルーテッドのポットの蓋を開け濾しながら注ぎ入れる。
濁りは無いか、香りはどうか、確認しながら最後の一滴まで余すことなく移す。
その作業が終えた時、小さくとも心地よい達成感が涼風の如く心中を吹き抜け肩の力が抜けた。清々しい心地に浸っていると耳に入ってきたのは神経を逆なでするような笑い声。高笑いではなく、くくくと喉を鳴らすそれは一応堪えようとしてなのだろう軽く握った拳で押さえられてはいたがその場に良く響く。
「……何が可笑しい」
その笑いを良い意味で捉えることなど到底できなく一段低い声で訊ねれば
「ご、ごめん‥御剣があんまり可愛かったから、可愛くてしょうがなかったからつい‥」
笑いに潤んだ瞳を細め成歩堂は小さく何度も頭を下げる。
またか。私はどう反応すればいいのだ。
可愛いの表現も解せないが、可愛いという理由で笑うとは、どういうことなのだ。多かれ少なかれ動揺する相手を笑うということは嘲笑に近いことだと思う。大概良い意味でもたらされることの無い笑みに僅かでも不快感を抱く。
いや、ここで憤るのであれば嘲りを受けたことより可愛いという表現なのか。
何度注意しても、止めるよう警告しても一向におさまらないその表現はいうべき相手を完全に間違っている。
世の中には可愛いという言葉に適したものが溢れるほどあるだろうに…たとえそれが悪気が無く、好感を持ちながらでも成人男子相手に言うべきではない。他にいくらでも不快に思われない表現はある筈なのに、何故、この男は馬鹿の一つ覚えみたいに連呼するのか。
だがしかし、注意せねば。
不用意な指摘は先ほどの二の舞だ。
中身を知りながら玉手箱を開ける行為に等しく、自らの首を絞める。憤りをぶつけることもあからさまな皮肉を口にすることもぐっと堪え、気持ちを落ち着けようと深呼吸を数回し
「それ以上余計なことを言ってみろ、淹れたての紅茶をその無礼な口に流し込む」
出来る限りゆっくりした口調で本気の警告をする。が、
「ん〜…それが口移しなら喜んで」
火に油か?暖簾に腕押しか?
堪えた笑いこそ消えたが替わりに背筋が寒くなる満面の笑顔。
いったい私はどうすればよいのだ!本気の警告ですらこのような反応をされ、どのようにこの男を諌めたらいいのだ!唖然とする。

「そう、か‥喜んで、か‥‥」
どうしようも無い憤りと苛立ちに、ふつふつとハラワタが煮えだし絞り出す声は否応なしに震えた。
湧き上がる怒りとは裏腹に多分表情は笑顔だろう。引きつって小さく痙攣する口元の感覚。今、自分の顔を鏡に映せば酷く残虐な笑みが張り付いている筈。僅かに空いた間に含みのある笑い声が挟まれ
「ならば存分に楽しめば良い!ポットの口移をな!!」
これまでの鬱積した感情が一気に弾ける。
「い、いやいやいや、待てって!僕は御剣の口移しなら喜んでって言ったんだ!ポットとなんて嬉しくもなんとも無い!!」
「貴様っ、まだ言うか!」
「ちょ、ちょ‥そんな暴れたら、熱いって、お前が火傷するって!」
「五月蝿い、そんなことどうでもいい!貴様がっ‥貴様が具にもつかないようなことをっ‥私は、私は‥ど、どうすれば‥!」
いい年して大人気ない。
冷静になってその時のことを思い返せば自己嫌悪に陥り、突出した感情に流されたことは恥ずべき愚行と青褪めるのだろう。
冷静、自制こそ大人が大人と称される所以で心がけなければいけない通念、常識だった。なのに、感情を抑制できずあろうことか我を忘れ掴みかかるなんて厳正で厳格に法曹人として身を律する国家社会との約束を蔑ろにしたも同然。
逆上し正常な判断能力を失い犯罪行為に身を染める。検事生活を経験し、幾度もそういった供述を耳にし、またかと唸った。犯した犯罪は罪であり、どのような精神状態であろうと曲げることの出来ない事実は歴然とし。そこに至るまでの背景や環境を考慮し情状酌量を促したとしても、白紙に戻るわけではない。人権を認めて欲しいというならば尚更見過ごしてはいけない、行為の結果、現実を。眼前の横たわる犯罪と被害者を。
淹れたての紅茶がたっぷり納まっているお気に入りのブルーフルーテッドフルレースのティーポットを鷲掴みにし挑めば、どのようなことが起こるか、最低限の予測くらいつけねばならない。どのような精神状態であっても。どのような背景が過去に存在していたとしても。
「っとに‥どうでもいいわけないだろ?あーもう、危ないからっ!」
「こうなったのも身から出た錆だ、恨むなら配慮に欠けた軽はずみな台詞を吐く口を恨め!」
「だって、本当にそう思うんだから仕様が無いじゃん!知ってるだろ?僕は君の事がす‥」
「五月蝿い!黙れ!言うな‥それ以上何も言うな!」
ポットを挟みすったもんだの寸劇。
押す力と取り上げる力が均衡を保ち傍から見れば失笑を買うであろう小競りが暫く続き、横に受け流すことで昂った感情もそれにあわせて向かう先を失う。
力と力の攻防戦は意外なほど体力を消耗する。日々肉体の鍛錬を怠らない自分と供給するカロリーを完全に消費することなく無駄に溜め込む成歩堂とでは筋肉と脂肪との比率が違う。体力のスペックも相当開きがあるだろう。ほぼ、全力を出し切った後の息の上りかたや疲労具合も発汗量だけ取ってみてもその差は明白だ。
しかし、スペックの違いがあっても同年齢の成人男性が本気で向き合えば双方にダメージは残るわけで、成歩堂ほどではないにしろ圧し掛かるような疲労感に逆らえず次のアクションを起こすまで若干の休憩を余儀なくされるのは自分も同じ。
荒い呼吸を無言で刻む中、乱れ、額にかかる前髪を掃おうとポットの取っ手から手を離し緩い動作を引き戻す。と、
「手‥火傷‥熱くないか?」
はしっと手を掴まれる。
一瞬息を呑み凝視した瞳は濃い黒色。混じりけの無い漆黒で驚くほど真剣だった。

余力があれば払い除けたかもしれない。
削られたのが体力だけならば言葉でそれを拒否できたのかもしれない。
だが、急激な運動は精神の疲弊も伴うらしくされるがままになる。
それに抵抗しないのは手を取った相手が下卑た算段無く、純粋に心配していると覗えたから‥。
「手の平は‥ちょっと赤くなってるかな。指は‥人差し指の横が赤い。他は‥大丈夫そうだけど‥冷やした方がいいかな」
軽く撫ぜながら皮膚の表面でそれとおぼしき箇所を特定してゆく。角度を変えたり関節の曲がり具合を確かめ、表面温度を確認する。
独り言のように目視で分かる症状を言い連ね取るべき処置を検討し
「御剣、どう?痛いとかヒリツクとか無い?」
覗き込む黒い瞳は驚くほど輪郭が鮮明でいて邪念など少しも見受けられない。呼吸が整いきれていない中の言葉は酷く真摯でどこか懸命。
小競り合いの最中感じていた憤りも苛立ちも、もどかしい不透明な感情もその瞳の前では見事に萎え、替わりに苦い罪悪感が広がった。何故、そんな感情が湧いたのか不可解に思えたけれど、冷静に考えれば仕掛けたのは…激昂し、前後の見境無く挑んだのは…自分の方だったと。
「…だ、大丈夫だ‥痛みもないし違和感も無い。君の言う火傷の感覚は無い」
後悔に沈む感情に口惜しさに顰められる眉根。成歩堂の問いに素直に答えたのは、反省の意も込めて。
「そっか‥良かった‥あ、でもそっちは?反対の手、そっちも見せて」
一瞬の安堵に成歩堂の表情は綻んだが、確認漏れをした事に気づくとまた先ほどの顔つきに戻った。
両の手を目の前で並べ症状を確認し、左右の状態を比較する。同じように独り言を口にし気の済むまでずっと。
「そう言う君は‥君こそ、その‥大事は無いだろうか‥どちらかと言えば君の方がポットに触れる面積が広かったように思えるのだが」
気遣うならまず自身が先ではないかとここにきて思うが
「僕なら大丈夫、だって、御剣の方が僕には大事だから」
即答。ちらりとも見ないで大丈夫と言い切るその根拠は何なのだろう。
苦い、苦い、罪悪感は呵責と後悔ばかりを生み、喉元に詰まる消沈は反省を表す言葉を選定する。
選んでも、中々口に出来ないのは意固地になっている自分の所為なのだけど、それがまた歯痒い。
静かに吐く溜め息。所在の無い視界の片隅に鮮やかな青い柄を散らすブルーフルーテッドフルレースのティーポットを確認し思い出す。『僕の為に御剣がお茶を淹れてくれるなんて今日は良い日だ。来て良かった』そう口にした成歩堂は苛つくほど無邪気な笑みを見せた。美味しい飴玉を貰った幼児のような無邪気で純粋な笑みを‥。
贅沢なほど多量のゴールデンティップスをまじえた紅茶に向けての言葉ではない。分かるから‥。
『御剣って紅茶の味が好きなんだと思ってたんだけど、紅茶を入れる過程の方が好きなんだ』そう言えてしまうほど見ていたのだと‥工程ではなく楽しんでいる様子を見ていたのだと分かるから‥。

我を忘れるほどの憤りは‥
正常な判断能力を失うほどの苛立ちは‥
本来この男に向けるべきではない。
答えを出さず目を逸らした状態で安穏としている卑怯な自分自身にこそ向かうべきなのだ。

すまない、成歩堂――

一言、言えば済むことだ。
すまないと一言。
我を忘れ掴みかかったことへの言葉か、それ以外の事柄への言葉か、存外察しの良い彼のことだ。一言、口にしただけで理解してくれるだろう。
宙に浮き続けた曖昧な状態を正常な位置へと戻したい身勝手な自分の為と、もっと展望の明るい未来に方向転換したほうが良い若き弁護士の為に。
ポットから視線をゆっくりと戻し深く息を吸い込む。胸に溜まったわだかまりも吸った空気に混ぜ込んで吐き出し全てをクリアにしよう。不可解で曖昧で歪みかけた関係を再会した時点‥いや、もっと前、出会った頃の状態に戻そう。かけがえの無い友人に。
痛いくらいに張った両の肺を意識して、一言‥。
‥‥‥‥‥。
「‥‥何をしている、成歩堂」
決意を胸に焦点を手元‥いや、ツンツンに尖った髪型の男に絞り固まってしまう。
自分なりの熟考の間、遠ざかっていた手先の感覚が戻り問いかけの答えを訊かずとも知る。
開いた手の先‥多分、間違いなく右手の人差し指の第二間接あたりに湿った感触。しかも生暖かく微妙に蠢く。
綴られる成歩堂の独り言は消え静まり返った執務室に問いかけた台詞が虚しく響いた。
‥‥‥‥‥。
‥‥‥‥‥。
僅かな間。
残念なことに、僅かであっても経過する時間に膨らんだ肺は限界点を超え、決意に漲る言葉は紡がれること無く消え、吐き出す息だけが散る。
「聞こえなかったか‥ならばもう一度訊く。何をしている、成歩堂龍一」
徐々にささくれを目立たせる感情に今しがた抱いていた感傷的なものは薄らぐ。
次第に目が据わり、眼球の奥が熱を孕み、チリチリと毛根が逆立つ感覚。そこでようやくツンツンに尖った髪型の主は伏せていた顔を上げ、それと同時に指先に感じていた生暖かい何かもどこかへ消える。空気に触れたそこはひんやりとし、なされていた行為に確信は深まり
「えっと‥しょ、消毒、かな」
締まりの無い笑みを浮かべる成歩堂はへへ、と肩を竦めながら笑った。
「ほう‥見たところ私の手は消毒が必要なほど負傷していないようだが」
「でもさ、ほら‥ちょっと赤くなってるだろ?火傷の重傷度は見た目だけじゃ判断できないし‥一応、さ」
「私は医学の道を志していないから正確な医療知識を持ち合わせていないが、火傷の初期対応は流水に浸すなど患部の冷却が最も効果的だと認識している。成歩堂、申し訳ないが君の行為はまったく意味を成さない。仮に重度の熱傷を負ったとして、清潔でないものでの消毒は感染症を引き起こすと知らないのかね?訊かせてもらおう‥君は何を消毒に使用したのか」
「…何…何って‥」
徐々に低くなって行く問いかけに彼は尖った毛先を萎らせおずおずと開いた口からソレを差し出す。
「なんだ?言葉にしないと分からないぞ?さぁ、言いたまえ」
「し、舌」
「ん?よく聞き取れなかった、もう一度」
「舌‥です」
「そうか、舌か‥舌で消毒を‥」
検察官たるもの、国家行政の一員として厳正且つ厳格で、常に冷静で公正な態度で犯罪と向き合い、正義を貫き‥‥。無駄だと分かっていながら呪詛のように繰り返し胸の内で唱え自身を律する。
後悔したではないか。短時間で深くまで探求は出来なかったが同じ過ちを繰り返さないよう反省した。
だからこのどうしようもない苛立ちや込み上げてくる憤りを冷静に受け流し、この場に適した対応する‥そう、一時の感情に流されず冷静に、冷静に‥。
冷静に‥‥‥。
「き、貴様は仮にも法曹人、弁護士ではないか!弁護士といえば依頼主の人権を一番に考え法廷に立つ時は検察側のあげた証拠や証人の隠し持つ矛盾点を徹底的につき、信じる正義を貫く為心血注いで戦うものだ!その、矛盾を指摘する弁護士が矛盾だらけの回答を出すとはいかなることか!」
そんなことできるわけが無かろう!
「う、じゃ、じゃあ出来心で舐めちゃった。ごめん‥」
つい、声を張り上げ突きつけた感情に対する更なる回答が。
「出来心‥何だそれは!矛盾も何もまったく理解できん!」
「え、出来心は出来心だよ!消毒なんかよりずっと核心を突いてるよ!正常な男の願望を実現しただけじゃん!」
「指を舐めることが正常な男の願望と言うのかね?ハッ、馬鹿も休み休み言いたまえ、そんな願望を抱くのは常軌を逸した異常な男だけだ!」
「なっ、何言ってるんだよ!お前も男なら分かるはずさ。好きな子の手を握ってじーっと眺めてたら舐めたくなるだろ?!見たい触れたい舐めたいは恋の三段活用じゃないか!」
「〜〜〜〜〜っ!」
折角、決着をつけようと思ったのに続々と叩きつけられる意味不明な証言は予測不可能な経路を辿り困惑を極める。
遮る前に、耳を塞ぐ前に聞きたくもない新証言が登場し二の句が告げない。
もう、どこから突っ込んでいいかも分からない。
私は、この不埒な男相手にいったいどうしたらいいんだ!
真正面から向き合う以前にもっと別の問題があるのだと‥多数あるのだと分かった。
ああ、当分据え置きにしている回答を告げることは出来ないだろう。
ただでさえ接し方に困窮しているのだ。最良の答えを出しかね、ソレを告げるタイミングを逃しているのだ。
平常心は崩され、平穏は根底から歪められ、掻き乱されっぱなしな日常。放棄したくてもズカズカと踏み込んでくる男にどんな対抗策があるのか、一度真剣に考えねばいけないと
「もういい、樹海を彷徨うような問答はケッコウだ!」
掴まれていた手を引き戻し邪念を払う仕草で切り上げようとする。
胸にざわめく感情を押し殺し肺にこもる息を吐き出しながらお茶の時間に終わりを告げようと茶器を撤収しようとすれば、ひょいとサーバー用ポットを掠め取られた。継続不可能なティータイムと悟ったのか‥まあ、こんな険悪な状況で居座れるほど非常識な男ではなかったのだなと少しだけ気持ちが軽くなったのに。
「ちょっと横道に逸れちゃったけど再開しようか」
「ム、再開?それは‥」
彼は予想に反して豪胆‥いや、察しが悪い‥いやいや、性質が悪い。呆れるほど。
二人分のアッサムティーが入ったポットを僅かに抱え上げ、何事も無かったかのような様子でカップに注ぐ成歩堂は穏やか過ぎるほどの笑顔。
混乱が混乱を呼び、大混乱。収拾がつかないなら撤収しかないと強引に見切りをつける‥
「うん、僕がここに来た目的。君と一緒にお茶をするってのをね」
それすら叶える事は出来ないようで、二人分のカップに並々と注がれた琥珀色の液体は芳醇で甘い香りを誇るように湯気を立て、その男と同じように誘う。
甘い芳香、甘い囁きで。

私に‥どうしろというのだ‥

あとからあとから降り積もる多くの疑問は許容範囲を既に超え、自身をも懐疑的な目で見てしまうほど。
力なく立ち尽くす中で同じ台詞が脳裏に延々と渦巻く。
同じ台詞が。




おしまいv

  



2008/1/14
mahiro