淡い好奇心
幼い憧憬
あの夏の
秘めやかな記憶



秘密




 各地で真夏日どころか猛暑日が続き、憎らしいばかりに光り輝く太陽は容赦なく大地を照り焦がす。気休めほどの緑や点在する日陰に僅かでも涼を求めつつ、陽炎立つオフィス街を進む。
 熱波に咽び、滴り落ちる汗を拭い、反射光に目を細める。恨み言すら吐けないほど消耗する体力と、数秒単位で削り取られてゆく気力。
 嗚呼、夏なんて辛いばかり。そんな過酷なものなど早く過ぎてしまえば良いのに。思い知らされる毎に懇願するよう嘯く。
 その暑さも茜色の空を引き連れ沈み行く太陽が姿を消せば幾分和らぎ、大地に篭った熱は藍色に染まる垂天に吸い込まれ拡散してゆく。その様子を思い描くも現実に感じるのは期待を裏切る温い大気。
 夜になって暑さも和らいだ、と言ってもほんの気休め。湿気を含んだ温風が頬を掠めるけれど汗を含んだ髪は揺らぎもせず少しだけ項垂れ気味。
 少ない緑と林立する建造物。天が吸い込む以上に至る所から排出される人工的な熱。故に…
 盆地ばかりでなく都会の蝉も夜、鳴く。昼夜を問わず、休みなく。
 大人になってからの嬉しくない発見。夏が来る度、そういえばそうだったと何度も同じ発見を繰り返し、飽きもせず溜め息を吐く。

 遅めの夕食を済ませた成歩堂は店の暖簾をくぐった。瞬間、
「うえぇ…やっぱ外は蒸し暑い」
 むわっと襲う熱気に息を詰め一段肩を落とし呟いた。
 ひんやり冷房の利いた店内から蝉さえ鳴いちゃう熱帯夜の外に踏み出す抵抗。引き摺る足。渋々、嫌々、歩みは分かり易過ぎて
「夏は暑い、それをぼやいてもしょうがあるまい」
 ヒョイと暖簾を片手で払い成歩堂と夕食を共にした御剣は言葉通り、仕様がないといった風な面持ちで歩道に靴音を響かせた。
 夏なのに、熱帯夜なのに、普通に立ってるだけで汗が滲むくらい蒸し暑いのに、紳士の着こなしスリーピースでネクタイこそないものの首筋をがっちりガードするヒラヒラのタイをはためかせる。夏生地仕上げでもイワユル暖色…冬ならまあ暖かみのある、夏なら暑苦しい赤色のスーツは見るだけで体感温度が1.2℃上がりそう。
「胸に溜めると余計暑いんだよ。御剣はどうなの?ぼくよりずっと暑そうな格好してるけど、暑くないのかよ」
 緩めたネクタイの結び目を更に下げシャツのボタンを上一つ指先で弾いて外しながら訊ねる。店内が涼しかったものだから上着を脱がなかったことを後悔しつつ。
「無論、暑い。しかし、我慢できないほどではない」
 返ってきた言葉に成歩堂は少しだけ目を見開いた。
 意外…
 何が意外って、普段弱音を吐くこともなく愚痴らしい愚痴もあらかた呑み込み、突付かないと本音も漏らさない男が堂々と胸を張り”暑い”と言ってのけたこと。そして、”鍛え方が君とは違う”とか”暑いなどと気合が足りない”みたいな皮肉を込めた台詞が飛び出るかな…なんて思っていたからで。
「へぇ…暑いんだ…」
 驚いたけど、不意に見せられた御剣の素の部分に自然と口角が上がった。
「どこかで蝉が鳴く声が聞こえるだろう?蝉は気温で鳴く生き物なのだ。日照条件や時間帯ではなくおおよそ25℃を超えれば昼も夜も関係ないらしい。その25℃は珠のような汗はかかなくともじわりと滲む程度発汗する気温。肌の露出が少ない今の状態なら暑いと感じないわけがなかろう」
 得意気に暑いを説明されても…。
 しゃんと伸ばした背筋に涼しげな目元。今の自分みたいに暑さで歪むなんてない表情、緩慢でない立ち居振る舞い。
「ま、ね…そうなんだけど、そう見えなかったからさ」
 垣間見た本音とそれを裏切る外観の印象とのギャップ。素直なんだかそうじゃないのか、それなりの付き合いをしていても図りかねる御剣怜侍の人物像。
 そうは見えないと言われ、ほら…得意気に細められる目元。
「暑いならジャケット脱いだら?タイを緩めるとか」
「我慢できないほどではないと言ったではないか」
「…ふーん」
 我慢、ね。なんか、我慢てか意地って気もするけど。
 暑いは素直に認めてもそれを表に出さないところがらしいなぁなんて。
 纏い付くような蒸し暑さをものともせず雑踏を抜ける赤いスーツの肩口と、その向こう側でひらひら揺れる白いタイを横目で見て成歩堂は薄く笑った。


 アスファルトに蓄えられた熱。排出される熱。
 真っ暗な夜空に夏の象徴、暑さの源、眩い太陽はないけれど、不快指数を煽る蒸し暑さは漂う。
 せめてもう少し緑があれば色々浄化されるだろうに。
 そんなことを思ったからだろうか…視線の片隅に何気なくあるものに目が行ったのは。
 いつもなら、見過ごしていたもの。いつもなら、そこにあることさえ気づかなかったもの。
 無意識に視界に取り込み、見過ごせなかったのは心の奥にしまってあった秘めやかな記憶の扉を何かがノックしたからで
「あ、ねぇ、アレ‥アレってさぁ」
 成歩堂は足を止め御剣に呼びかけた。
 アレとはドレのことだね。いささか不機嫌な様子で足を戻し、アレだよアレ、と成歩堂が指差す先に目をやった御剣が枝先にたわわになる花をしばらく見詰め
「……あぁ、ムクゲの花だな。夏に咲く花で本来朝に咲き夕方には花が落ちてしまう1日花なのだが、これだけ明るい街角にある所為か落ちきっていないようだ」
 簡単に説明をする。
「ムクゲ、かぁ…夕方には‥だからちょっと萎んでるんだ」
 その花は白い色をしていた。しんなり、萎んでいるものだから花弁の色とか開花した時の姿を見ることはできなかったけれど、不確かであってもなんとなく想像できる。それが不思議だった。
「綺麗な花なのだよ?この木は白い花をつけるようだがそれ以外にも淡ピンクや紫、赤色の花をつけるものもある。一重で可憐に咲くものもあればバラの花のように花びらの数が多いものもあり、認知されている以上に品種自体は多い方ではないだろうか。まぁ、夏の日差しが苦手な君がこの花の本来の姿を見ることができるかは疑問だが」
 ちろり、御剣は横目で花の名前さえろくに知らない男の顔を見てヒョイと眉尻を上げる。
 受け取った視線は冷やかしを含んでいて、まあ、言い得て妙なことだから反論はしない。名前を聞いても忘れちゃう可能性もかなりある。でも、
「あのさぁ‥昼間出歩かない弁護士って、どんな裏家業だよ。意識さえすりゃぁ、まったく見れないわけじゃないんだろうけどさぁ‥それ以前にぼく、この花が咲いてるの見た記憶があるよ」
 その姿は覚えてる。
 おぼろげだけど記憶にある。
 太陽に向かい開いた花は洗い立てのシャツのように真っ白で清潔感があったこと。強い日差しに負けないよう懸命に咲き誇っている姿。小ぶりな花、その内側、花びらの付け根を囲み差す赤味がドキドキするくらい扇情的なのだと。追憶の中で鮮明になる記憶。
 
 胸に秘めた淡い好奇心
 花に重ねる幼い憧憬

 望んじゃいない。
 同じ記憶が長い年月を重ねる中、失われず現存することなんて、望んじゃいない。
 15年音信不通を通されたんだ。否応無しに向かい合わなきゃその瞳に映してくれないくらい無碍にされてきた想いなんだ。
 いつだって予防線を張って、落胆しないよう心積もりをして、過度の期待を打ち消してきたからこそなんでもないようなことが至上の幸福と成り得た。
 期待しちゃいけない。
 ロマンスを求めちゃいけない。
 幾度となく胸に刻んできたまじない。己を守るための戒めを吸い込んだ息に混ぜ込んで
「御剣は‥‥憶えてる?」
 あえて表情を見せないよう、萎れかけたムグゲの花を見詰めながら成歩堂は訊ねた。
「何を‥だ」
 ほら、期待しない。今があるのだから思い出にこれ以上縋ったりしない。
 子供の頃の記憶なんて積み重なる歳月の中ポロポロと指の隙間から零れ落ちてゆくもの。容量は決められてるんだもん。全てを残しておくわけにはいかないんだもん。古い記憶を整理したり削除することを責めちゃいけない。
「いや、憶えてなければいいんだ。ぼくの独り言」
 ぼくの記憶に残ってればいいことだから、続く言葉を呑み込み成歩堂は翌朝には落ちてしまう白い花を見続ける。

 どれくらい無言の時が続いたのか…
 日頃、御剣がらみのことになると空気が読めない、人目も憚らないと言われている成歩堂だけでなく、わりと周囲の目を意識する御剣まで蒸し暑いばっかりの路上に立ち尽くす。視線の先には珍しくもない萎みかけた花があるだけの木。少しばかり異様で、かなり不可解な光景。
「君は…」
 御剣は中々形にならない言葉を拾いながら
「君こそ、どうなのだ。その…憶えているのかね?」
 躊躇いがちに成歩堂に訊ねる。
「うん?‥何が?」
「‥こ、心当たりがないのならいいのだ。気にしないでくれたまえ」
 お互いがお互いに、訊ねては訊き返す。核心に気づきながら核心を突かない、もどかしい空気。
「そういうわけじゃないけど‥ねぇ、訊いてもいい?何で‥何であの時頷いたの?」
「ム…それを言うなら何故、私だったのだ」
 それでもお互いが追想の中で口にしない”何か”は同じものを指していると知り、ふはっ…軽く噴出したのは成歩堂が先。それにつられるようにふっと息を漏らしたのは御剣で、くつくつと喉を鳴らし二人は笑う。
 期待しない、望んだりしない。
 駆け引きするわけじゃないけど大切な箇所は言葉にしないで質問に質問を返し、結果、流れてもいいと思った。
「ぼ、ぼくたちって変なところで臆病だ」
 笑いと一緒にこみ上げてくる喜びに、今更予防線を張るなんてと呆れながら成歩堂は、唇に指を掛け笑っている御剣に目を向ける。
 消えることなく心の奥底に秘められた記憶は所々欠けていて、セピア色とはいわないまでも色数は少ない。それでも同じ記憶に思いを馳せれば徐々に形を成し、一部でも鮮やかに色彩は復元され脳裏に広がる。
「あの年頃ってさぁ、なんとなく性ってモノ意識しだすじゃん?情報なんて色んなとこから流れてくるし見たくなくても目に飛び込んでくるしさ。興味あったんだよね、多分。意味とかよりその行為に」
 思い出が重なったことへの喜びか、笑みを零したことで気分が解れたのか、懐かしむように成歩堂は語る。
「子供が好奇心旺盛なのは確かだが、行動に移すとなるとどうだろう」
「ん〜…御剣は自分の腕とかを吸ってキスマークをつけてみたり、落ちてるちょっとエッチな雑誌とか拾ってさぁ、秘密の場所に隠したりしなかった?」
「ムム…そのようなアレなことはしなかったように思う。成歩堂、君はその‥早熟だったのではなかろうか」
「あれ?ぼく?えー…ぼくが早熟ってより君がオクテ…って、まあ、どっちでもいいんだけどさ。とにかく、興味があったんだよ」
 …キスに。
 一呼吸おいてから御剣の瞳を覗き込んでそろり、囁く、秘めた言葉。
「そういったものは女の子を対象にするものではないのだろうか。なにも私でなくともよかったはずで…」
 過ぎたことを穿り返しても事実は変わらない。それでも訊いてしまうのは後悔ではなく、純粋な疑問。至極正当な問いかけ。
「じゃあなんで、なんで御剣は頷いたの?いくらあの頃の君がオクテだったとしても、男同士のキス…いや、キスを迫られてOKしちゃったのってなんで?興味?好奇心?」
 今でこそキスにタブーはない。
 二人の間に想いがあって、理解があって、合意があって、否定はない。偽らざる感情がそこにあるから何故はない。
 いや、だからこそ…だからこそ無いと分かっているロマンスを共有する思い出に求めてしまうのだろう。
「わ、私は…多少なりあったのかもしれない。興味、が」
「興味があったとしても、男同士でしょ?気持ち悪いとかあってもよくない?ヤダッて言えない君じゃないよね?」
「…っ、君はズルイ」
 視線を外し伏せられた瞳。長い睫毛に光が当たりキラキラと先端は輝き震える。
 日焼けで真っ黒になった自分とは違い透けるように白い肌。僅かに赤味差す頬。拗ねた風に尖らせた唇に惹きつけられ眩暈を覚えた。
 あの時も、こんな感じだったと投射の錯覚に笑みを濃くする。

 照りつける太陽。
 生暖かい風。
 押し寄せる蝉の鳴き声。
 虫かごの中のモンシロチョウ。
 握り締めたたも網。
 汗に湿った綿のシャツ。
 淡い好奇心に高鳴る鼓動。
 無数に咲く白い花。
 閉じた唇はあの花の中心を染める赤と同じ。

 幼いながらも性を意識しはじめた。異なるものと同じもの見た目ではなく心で理解し始めた。
 性の意味など半分も分かってなかったけれど、行為にこそ興味はあれ何故そんなことをするのか分からなかったけれど
 君だけは。ただ、君だけは、異性同性関係なく、そういう視点に関わらず…
「あの頃ぼくは君が好きだった。だから興味があった。君とキスがしたかった」
 自分の中で答えが出るまで途方も無い時間が必要だった。
 経験のない扇情感に煽られ理由なんかすっ飛ばし、断られないのをいいことに、キスを強請ったのはそういうことだったんだ。口にしてしまえば単純なものだった。ぼくは君が好きなんだよ…今も、昔も。胸の中で煌く単一の光は恍惚を呼び、引き寄せられるのは赤き唇。
「……コラ、忘れるな。公衆の面前だぞ」
 ピシリ、跳ね除けられ無意識に距離を詰めていたことに気づいた成歩堂は一点に凝縮していた意識を外側に広げた。
 ああ、錯覚。あの時は遮断された秘密の空間、ムクゲの木がそれを覆い隠していた。でも、今は…
「すっかり忘れてた」
「だろうな」
 交わす苦笑い。呆れこそ含んでいたがおおらかな空気。それがまた、心地好く
「ねえ、キスをしようよ。もう訊かないから、ぼくとキスをしようよ」
 明かされない答えには目を瞑り、目の前に咲く花の赤く艶やかな色にいとおしいばかりの口付けを強請った。
「公衆の面前で破廉恥な行為の片棒を担ぐのは御免被る」
「わかってる。だから今は…」
 そこで言葉を切ると成歩堂は投げだされている片方の手をそっと持ち上げ
「ここで我慢する」
 御剣の顔の前でキスを落とす。
 王子様が麗しの姫君にするかのように恭しく、その指先に軽く唇を押し当てた。

 成歩堂は答えを訊かないと言った。
 幼かった御剣があの時どんな気持ちでキスを受けたのか訊かないと言った。
 それは回答を拒みたいという御剣の意思を汲んだからではなく、訊かなくても分かる、成歩堂の尊大な自信の表れだと指へのキスを黙って受けている彼は気づいているだろうか。
 ズルイで誤魔化された振りをして、はっきり嫌だと拒まれなかったのをいいことにして
「続きはぼくの家でしようよ。それなら人目なんて気にならないでしょ?」
「なっ…何故そういうことになるのだ!私はそういった意味で…」
「それとも君んちにする?ぼくはどっちでもいいけど」
「何故そこに選択肢が出るのだ!」
 あの夏から続く想いを今まさに遂げようとしていることに、気づいているだろうか。
「暑いねぇ…こんなに蒸し暑いんじゃあ君の我慢も限界が近いんじゃない?シャワーで汗を流して、クーラーに当たりながら冷たいビールでも飲みたいよね」
「それは…そうだが…」
「ぼくんちの冷蔵庫にはキンキンに冷えたビールがある。おかわりは自由。エアコンの調子もいいし、つまみが足りないならコンビニで買ってくるよ」
「いや、そういうことではなく」
「じゃあ、そういうことで決まりだね。よし、行こう!」
 成歩堂は口付けの名残浅い手を取りビルの谷間を足早に抜ける。
 蝉の鳴き声は熱帯夜の都市に響き、花咲きを狂わせるネオンが消えることはない。

 淡い好奇心。確かな思慕の念。
 幼い憧憬。適えたい想い。

 秘めやかな記憶。抑えきれない情動の行く末。

 記憶の奥で眠っていた夏は拭えない秘め事をなぞらえることで花開く。
「ぼくは君が好きだった。そして今も君が好きなんだ」
 期待し得ないロマンスがそこにあったのなら溢れる想いを曝け出して
 行く夏を惜しむより、廻り来る夏に希望を繋ぐ。










2008/8/12
mahiro