君の中の闇は底が見えないほど深く、恐怖は岩みたいに強固で、恐れは春先に僅かに残る湖面の氷のように薄く脆い。
他者の介入を拒む心の裏側は、未だぼくにすら立ち入ることはできなくて
こんなに近くにいるのに、交じり合う寸前まで傍にいるのに、君は…遠い。
腕の中に、握り締めた拳に感じている君の存在は幻なのかもしれない。
ぬくもりは錯覚で、面影は願望で、匂いは妄想の類。息遣いすら白昼夢。
きゅっと、力を入れた瞬間音もなく弾けるか泡となって消えてしまうか…淡い消滅の予感。否、そもそも、失うとか消えてしまうとかそれすら非現実的で…濃霧に霞む視界がクリアになりリアルな現実がそこにあるだけなのかもしれない。
こんなに近くにいるのに…まだ、君が遠い。


絶ゆることなし



日本は世界でも有数の地震大国だ。
現在地球表面上で確認されている地震発生原因のプレートが十数枚。その中の四枚がさして広くもない列島を覆っている。
近年、震災と記録に残る大きな地震は数回起こっていて、人が身体に感じる有感地震の数は年間千回を軽く越えているらしい。単純計算をしても一日3〜4回はこの国のどこかで地震は発生しているわけで…。
地震という避けられない自然現象に極度の恐怖を感じている十数年来の想い人、御剣にしてみれば揺れの大きい小さいに関係なく常に不安は付き纏う。まあ、御剣に限らず地震大好き!なんてて人はこの国にいるはずもなく、一度被災された人など出口の見えない心的外傷後ストレス障害に悩み苦しんでいるのも事実だ。

穏やかな昼下がり。世間一般的な昼食時間に弁護士事務所を訪れる人はなく、のんびりとした時間が室内に流れていた。
残暑厳しい都会のオフィス街。嫌味なくらいカンカン照りの太陽の下、汗腺から噴き出る汗にまみれランチに向かう気にはなれないぼくは机に向かいながら出前を待っていた。
ひんやり空調の利いた室内で舌が火傷するくらい熱々のラーメンを啜るって結構贅沢なことだと思うんだけど、副所長である真宵ちゃんにしてみればそれは怠惰なだけなんだそう。
日替わりランチの内容に日々ワクワクしなくなったら人生の半分損してる!なんて大袈裟な主張をほんの数分前まで口にしていたんだけど、ブラインド越しに受ける気候の印象と、事務所のドアを開けた時顔面にぶち当たってくるこもった熱気とのギャップにあっさりと主張を覆した。
「滝に打たれるのも修行なら、炎天下の中ビルの谷間を歩くのも修行になるんじゃない?どっちも苦行だよ」
切り替え早くいそいそと出前メニューを広げる彼女にからかい半分声をかければ
「なに言ってるの!真冬に滝に打たれたぐらいじゃ人は死なないけど、今外を歩いたらわかんないじゃん」
スッパリ切り捨てられた。
「えっと、ソレ究極過ぎて頷けない」
人生の半分損してる!ってのは誇張?それにこういっちゃなんだけど真冬に滝に打たれたらソレこそ生命の危機だと思うんだけどなぁ。この炎天下の中労働している人はたくさんいるわけだし…たまたま今日僕たちは内勤な訳だけど、依頼があれば炎天下の中での労働に参加するわけじゃん?
涼しい顔をして半チャンラーメンセットに照準を絞る真宵ちゃんをぼくはぽかんと口を半開きにして見詰める。
「あれ、なるほどくんは注文しないの?気が変わってこんな暑い中ランチ食べに行くとか…物好きだね」
…って。
最初に噛み付いたのはぼくだから何も言えないケド。真宵ちゃんには敵わない…肩を竦めながらぼくもメニュー表を手に取った。
時間帯が時間帯だし、さして急いでいるわけでもないし、のんびり構えながら午前中に受けた法律相談内容に目を通す。
真宵ちゃんはお茶の支度を済ませ備え付けのTVのリモコンをパチパチと弄り、昼番独特の明るい笑い声に耳を傾けていた。
その時だった…速報を知らせる音が鳴ったのは。
「あ、なるほどくん…さっき地震があったんだって。全然気がつかなかったね」
真宵ちゃんの言葉がぼくの心臓をひんやりと撫でた。
「え、うそ‥この辺?震度は?」
ソファーの背にかじりつき画面上部に表示される真っ白い文字を瞬きもせず凝視して
「震度‥2?ちょっと揺れるくらいかな。震源は沖のほうみたいだし‥あ、でも御剣検事なんかやっぱり驚いちゃうのかな…」
ぽつぽつと語られる真宵ちゃんの言葉はぼくの耳には届かなかった。
だってぼくは携帯のボタン操作に勤しんでいたから。
コール一回数秒ですら遅いと感じていたから。
「‥‥‥くそっ、センターに繋がっちゃった」
コール数回、繋がったのかと思えば留守録機能。
短くメッセージを残し検事局の代表窓口へと再チャレンジ。
きれいな言葉遣いのお姉さんが丁寧に‥でも至極業務的に対応してくれたけど「申し訳ございません、御剣は只今会議中でお取次ぎ致しかねます。ご伝言がありましたら承りますが‥」だってさ!
検事局の冷え切った空調並みのつれない対応に(当たり前なんだけどね)御剣は大丈夫ですか?!なんて食ってかかれるはずもなく通話を終了して
「ごめん、真宵ちゃん!ぼくちょっと出てくる!何かあったら電話してっ」
椅子の背にかかってた上着を引っつかんでいざ出陣。
「えーっ、出前はどうするの?!もう直ぐ来ちゃうよ!」
非難の声に軽く手を振り蒸し風呂みたいなオフィス街へと挑んだ。

「ム、なんだ」
執務室のドアを開けた御剣が検察事務官と一言二言会話を交わし、ぼくの存在を認識して怪訝な面持ちで言った。
ぼくがあんまり頻繁に訊ねてくるから顔見知りになってしまった事務官の存在に気づいてないわけじゃないけど‥例えそれが御剣の上官だったとしてもぼくの行動に変わりはなかったと思う。
「みつ‥御剣‥」
握り締めていた携帯を胸の内ポケットへと押し込めフラフラ‥距離を詰める。
無意識に伸ばした右手を怪訝な面持ちのまま見詰め、僅かに腰を引くのはぼくがここにいることに疑問を持っているか、ぼくの様子にただならぬ気配を感じているかなんだろうけど、引かれても追いかけるよ?逃げられても捕まえるよ?
「だ、大丈夫だったか?」
あと数センチで肩に触れる‥その寸前で拳を握り伸ばした手を下ろし。
「?何がだ」
質問の意味を理解していない問いが返ってきた。
「いや、その‥‥速報でさ‥えっと…」
そこでようやくぼくは御剣の傍らに控えている事務官に視線を移す。と、何かを察した彼は気を利かせたんだろうか、浅く会釈をしてその場から身を引いた。
う〜ん、優秀。場の空気が読めるってのは補佐官として必要な能力だよね。
僕たちのたち位置は変わらない。第三者がいなくなって広い空間には二人きり。だから何が変わるかって訊かれれば、何も?なのかも知れないけどさ。
「君はわざわざ暑い中、ここへ寛ぎに来たのかね?」
はっきりしないぼくの態度に業を煮やした御剣が訊ねて
「あのさ、えーと‥数十分の間にさ、か‥変わったことなかった?その、ビックリしたこととか怖かったこととか‥恥ずかしかったこととか、何もなかった?」
中心をぼかした質問をまた返す。ごめん、質問に質問で返しちゃいけないよね。
「心当たりはないが、それがどうした」
「あ、そう‥うん、よかった。ここ、高層階だから結構揺れたかも知れないって思ったんだけど、何事もなかったんだったらいいよ」
独り言みたいに呟くぼくの言葉の意味を理解したのか御剣は浅く唸ると
「まさかそんなことのためにこの炎天下の中訊ねてきたのではあるまいな」
バツが悪そうに視線を外しながら言った。
「あ、ははは‥そんなことのために‥来てみたって言ったら呆れる?」
「‥う、ム‥‥‥き、君は昼食は済ませたのか?」
「まだだけど」
「そうか‥‥私も今まで会議があったのでまだなのだよ」
「あ、じゃあ‥どっか行く?」
これは、彼なりの照れ隠しなんだろう。
今更、隠す必要のない弱点とそれを思って行動したっぽいぼくに対するささやかな強がり。
普段、積極的に食事に誘われるなんてないことだから表情の読めない御剣に人並みの感情の波が存在すると分かる。少しだけど。
そのままの流れでぼくたちは局を後にし昼休憩を終える人波と入れ違いに一軒の店の暖簾をくぐった。
雰囲気のいい和食の店で一つのテーブルを囲み
「ソレはいつのことだ?」
携帯片手に御剣は視線を合わせないまま訊ねる。ソレってドレ?なんて野暮なこと言わないで
「ん〜と、12時を少し回った頃だったんじゃないかな。速報が流れたのが20分ぐらいだったから」
記憶を遡る。‥まだ気にしてるんだね、その様子だと。
パタン、と携帯を折りたたみ黙りこくる君が何を考えているかなんて想像ぐらいしかできないけれど、多分ね。多分‥また少しぼくと君の距離が近づいた変な確信だけはあった。
地震発生時間と速報が流れた時間。そしてぼくからの着信。執務室の机の上に置かれている伝言メモ。その繋がりは一つしかないからね。少なくとも二つの状況証拠が御剣の手の中にあるわけだから、自分が気遣われたという答えを得るには容易い。信じたくなくても‥ね。

こういうことは今回一度きりの出来事ではない。
ほら、日本は地震大国でしょ?しかもぼくたちの生活拠点である地域は4つのプレートの中心付近。
幸いにも大きな地震に遭遇していないけど、もうずっと‥それこそ何十年も前から大きな地震が起きてもおかしくないといわれていて、近隣の都道府県は全国平均から見ても圧倒的に地震保険の加入率が高い。
細かな揺れは日常的‥てのは言いすぎだけど、多いと思うよ?
だからぼくは細かな揺れであったとしても体感したら御剣に連絡をとる。本人の携帯から検事局窓口、自宅だったり場合によっては裁判所にも問い合わせの電話をかけたこともある。揺れの大きさやその時ぼくの身体が空いていれば駆けつけたこともあり。
初めの頃、随分と怪しまれた。周囲の人間だけじゃなく御剣本人にも。
真宵ちゃんなんか「なるほどくん‥ごめん、ちょっとキモイ」と酷評してくれたっけ。
でもだよ?人づてに聞くより自分の目と耳で確認したいじゃん。無事な姿でも不安そうな様子でも‥顔面蒼白で震えてたりしたら大丈夫だよって肩を抱いてあげたいし、何事もなくいられたんだったらよかったねって物陰からでもいいから声をかけたいよ。
大事に至ることはなくても安否を確認したいんだ。
その積み重ねで御剣の今の反応があるみたいなもんだし。

表面的に形式上、御剣は忌まわしい過去から開放されたのかもしれない。
長く続いた暗闇のトンネルをやっと抜けたのかもしれない。
でも、罪の意識や悔恨、己を罰する代わりに罪を罰し、報われることのない事実に贖罪し続けた‥深い深い、暗い暗い、心の闇からは開放されていない。いつまでも全身に巻きついた罪悪という名の有刺鉄線から逃れられず、未だもがいているとぼくは知っている。
目の当たりにしているわけじゃないけど君の存在を遠く感じるたびに、まだなんだって‥まだ君は囚われたままなんだって分かる。
独りで、なにもかも抱え込もうとする君を
独りで、暗い闇の呪縛から与えられる痛みに耐え忍ぶ君を
ぼくは全力で受け止めたい。
君は独りじゃないと伝えたい。
例えソレが自己満足でも‥君の口から要らぬお世話だと告げられても‥纏わりつく自信はある。キモイって言われてもね。
ぼくが君を気遣う意味を理解して、少しづつ‥少しづつ‥ぼくの存在が君の心に沁みこめば良いと本気で思っているんだ。本心から拒絶されない限りぼくは一番に君を想う。

「成歩堂」
「ん?なに」
黙々と箸を進めていた御剣が呼びかけて、ぼくは平静そのまま返事して‥。
「……いや、君は午後から法廷かね」
「違うよ、今日は法律相談が入ってるから詰め所。御剣は?」
「私はこの後一件入っている」
「え、時間大丈夫?」
「無論、検察側の準備は万全だ」
「ははっ、ぼくが気にかけるまでもないか」
黙々と箸は進む。
「成歩堂」
「なに?」
「………」
「あ、この唐揚げ一個欲しい‥とか?」
「ばっ、バカモノ!人のお膳に手を出すほど私は卑しくはない」
「そう‥じゃあトレード?」
「違う‥もう、いい」
分かるんだけどね‥御剣がぼくを呼ぶ意味を分かってるんだけどね。ここはあえて気づかぬふり。色んなものと葛藤している君を見ているのが楽しいから、咳払いで零れる笑みを誤魔化して冷たい麦茶を口に含む。
「そういえば劇場版トノサマン観てきたよ」
「!‥‥そ、そうか‥良かったではないか」
「良かったっていうのかなぁ…ぼくにはわかんない世界だからな〜。劇場で真宵ちゃんにたたき起こされて帰ってきた」
「ム、それでは内容が分からないではないか。何のために足を運んだのだ」
「ぼくの役目は入館特典を受け取るってだけだったからそれさえ済めば寝てたっていいわけだし‥」
「特典‥あの三種類のキーホルダーか?」
「‥‥よく知ってるね。そう、トノサマンとあとなんだっけ‥劇場版限定キャラと悪役の‥‥名前忘れた」
「オニワバンとロウジュウだっ!」
「あ、うん‥確かそんな名前の‥‥‥ねぇ、そんなに気になるなら一緒に行けばよかったのに」
「き、気になどなってない」
「またそーゆー意地張って‥公開終わっちゃうよ?真宵ちゃんがもう一回観たいっていってたから男二人で行くのがいやなら二人で行ってくれば?たまにいるよ?そーゆーカップル」
「‥‥‥」
「それとも春美ちゃんにする?ギリギリ大丈夫なんじゃないかなぁ…どっちも。付き合いでしょうがなく来ましたって建前に見えるだろうし」
「‥‥‥‥」
「どっちにしても御剣のおごりにはなるんだろうケド」
「ソレは当然ではないか‥‥いや、なんでもない」
人心地ついて膨れた胃を擦りながらの会話。
ぎこちなかった空気もいつも通りの掛け合いに戻り、このままゆったりとした午後の時間を過ごしてみたくもなるけれど、そうも言ってらんないのが日本経済発展の前線に立つ戦士だから。
引いた汗以上に噴出す灼熱地獄へとぼくたちは足を進める。
そうそう、こうして日常に溶け込めばいいよ‥すべてなかったことみたいに振舞って‥

ぼくの過大な危惧すら君の日常になれ―――


局の玄関先、広い階段の最上段。
分厚い防弾ガラスの向こう側で、お堅い表情で警備する警察官の視線を浴びながら
「それじゃ、公判頑張って」
お姫様を無事お城まで送り届けたナイトみたいな心地で恭しく一礼し、傅いた先の秀麗な顔立ちに微笑んだ。
「うム、君も」
孤高の君。
胸の内に痛みと闇を抱えながら‥君が君である故に気高く振る舞い、だからこそぼくは君が好きで‥だからこそぼくは君を遠く感じる。
立ち止まっていた足が一歩、動き出したのを確認しぼくは踵を返した。
眼前に広がる光景は瞬きしたくなるほど眩しい光と色彩の渦。肌を撫でる風はねっとりと熱く照り返しだけで日焼けしそう。
すれ違う他人、行き交う人々、交差する鉄の走る箱、ゴウゴウとビル風が日差しと共に降ってくる。靴音、話し声、携帯の着信音、クラクション‥他人事な喧騒。
振り返りたいけど、まだダメだ。あと10歩‥いや、あと5歩耐え忍ぶぼくを
「成歩堂っ」
呼ぶ声。
本当はどんな所だって君の呼び声はぼくに届く。
離陸直前のジャンボジェット機の真横でも、光すら届かない深海の底でも、振動を伝える空気すらない月面でだって、君がぼくを呼べば振り返る。鼓膜を抜けて脳内に君の声は届くし、ほとんど反射のように君を目で探す。
生まれたばかりの赤子が口に触れたものを本能でしゃぶるみたいに、ぼくの本能が君を追う。
でも、分かっていて‥振り返らない。聞こえないふりをして君の視界から消えよう。
成歩堂っ‥‥その後に続く台詞が君の中でのぼくの面影になればいい。
些細なこと‥御剣が過去から現在まで独り抱えていた心の傷の一つにぼくが浅く関わる、些細なことなのかもしれない。日常に忙殺されてゆく事柄でも
いつか
いつの日にか
ソレがぼくを頼るきっかけになればいい。
地面が大きく揺れ、呼吸ができないほどの極限状態、真っ白になった脳裏に浮かぶ唯一つの存在になれれば良い。
自失する直前、今みたいにぼくを呼んでよ。

気の遠くなるような時間ぼくは君との再会を待ち望んだ。今更、先急ぐこともないじゃん。多少のことでは壊れない信頼関係はなんとなく築かれてるっぽいけど、まだ、確かな手ごたえはない。
気の遠くなるような時間をかけてでもぼくは君の半身になりたいんだから、痛みに悶え苦しむ姿に‥悔恨に流す涙に‥闇に購い続ける敬虔さに胸を痛めながらそっと寄り添う。
ぼくは全力で御剣を受け止めたい。
独りじゃないと伝え投げ出される肉体も精神も受け止めたい。
君の世界にぼくの存在が行き渡るために過去の傷すら遠慮なく利用させてもらうよ。
まずは一つのきっかけから‥

君が光を望むならともに天を仰ごう。
君が闇に沈むならぼくが道案内役を買って出るよ。
そして
健やかなときも、病むときも、順境にも、逆境にも立ち向かい君の傍らに僕は在り続ける。



例え行き着く先が何処だって
ぼくの愛はいつまでも絶ゆることなし。




おしまいv





2007/09/04→10/26収納
mahiro