君の手



どうしてこういう展開になったのか分からなかった。
約束をしていたわけではないけれど彼が僕の事務所を訪ねてきた。
几帳面そうなノックに生真面目に返答を待ち、見るからに暇そうな事務所内に足を踏み入れる。
時計の針は午後9時をまわったところ。いつもなら定時帰りとは言わないまでも、割と早い時間に帰路につくのだけれど、さして用もないのになんとなく居残っていたおかげで来訪した彼を迎えることができたのだから、たまたまなことでもそれなりに意味があったんじゃぁないかと思う。
訪ねてきておきながら僕がいたことに驚くなんてどうしてなんだろう…喜んでくれるならまだしも開口一番「なんだ、まだいたのか」と不機嫌そうな口ぶりで言うから「まあね」と半笑いで答えたんだけど、内心居ちゃ悪かったのかって思ってしまう。
彼の考えを理解するなんて僕の手に余るんだよ…そう納得するしかない。
招き入れたのはいいけれどどう扱っていいものか分からなかったから取り合えず、来客用のソファーを勧めて
「えーと…コーヒーでも飲むか?インスタントだけど」
手に持ったぶ厚い革の手提げ鞄をソファーの脇に置き、律儀に腰を下ろすのを不思議な感覚で見ながら部屋の隅にある棚へと向かい取り繕った言葉に
「…いただこう」
短い返答。
オッケー…頷いたけどさ。
給湯室からコーヒーの入ったマグカップ二つをもってくる時も、砂糖とミルクはいらないんだっけよな?ってカップをテーブルに置いた後も無言てどうよ?
普通ね、普通さぁ…友人でも知人でも何ででも、アポもなく訪ねたならそのことに触れないかなぁ。ただなんとなく寄ってみたとか暇だったからとか、顔が見たかっただけってのでもいいからちょっとぐらい相手側を気遣わない?実家に顔を出すのでも僕なら真っ先に言うけど短い返答の後何にもないってのは…彼らしいって言えばそうなんだけど、落ち着かないんだよね。
ズッと熱々のコーヒーを啜ってみても無言で…沈黙の重さに耐えられなくなった僕は
「御剣は仕事帰り?ご飯とかもう済んだ?」
ちらり、鞄に目を向けて突破口を開こうとするけどこの会話が成立することはなかった。
出されたコーヒーに口をつけずに彼は僕を見ていた。正しくは僕の手元、マグカップをぼんやりって風じゃないけど彼らしい硬い表情で見詰めていた。多分、会話が成り立たなかったのは僕の言葉が聞こえていなかったんじゃないかな?
瞳自体に生気がなかったし全然揺らがないんだもん。何か考え事をする時みたいに焦点が合ってない…ここに意識あらずって感じで。
心配事でもあるのかなぁ。気がかりなこととか‥悩み事?抱えている事件で気にかかることとか、生真面目で妥協しない性質の彼のことだからこういうことって多そうだ。高いプライド故人前でこんな感じになることは少なそうだけど人間だからさ。
あ、こんな時間に訪ねてきたのもそれでかなぁ。僕に相談したいことがあるとか‥なんて、自惚れ過ぎ?ほら、僕と御剣は同じ法曹界に居るじゃん。立場的には真っ向から対峙するものだけど、分かり合えるものがあるのかもしれないし。でもなぁ‥責任の重い立場につきものの守秘義務ってのが僕らにはついて回るから仕事がらみで云々ってのはないかも。それでなくても経験の浅い僕なんかよりもずっと頼りになりそうな人間は彼の周りにはわんさか居るし。
そうなると個人的な事柄‥?
御剣が僕に?それって気になるじゃん。
「えっと‥御剣は僕とおしゃべりがしたくてこんな時間に訪ねてきたのかな?それともなんか用事があって‥とか‥」
今度は僕の問いを聞き逃さないでいて欲しいから、ぼんやりとでも御剣の視界に入っているマグカップを左右に揺らしたりなんかして。もどってこーい‥呼びかけるみたいに言葉を紡いだ。
「ム‥すまない、考え事をしていた」
よかった、おかえり。焦点の定まった瞳がマグカップから僕の顔へと移動して‥ツイ、と逸らされたのは心外だけど重い沈黙よりマシだよ。
「そうみたいだね」
僕は仕様がないって風に軽く笑い‥‥。

そのまま遅い夕食を共にしても良かった。
お腹が空いてないならどっちのがいきつけのバーでもグラスをかわしてもよかった。
場所を移すのが嫌なら苦いコーヒーをおかわりしながら時計の秒針の音を聞くのでも構わない。
今日のお昼のメニューとか一昨日の休日何をして過ごしたとか、最近はまっていることみたいな当たり障りのないことを話してもよかったのに。

気がついた時に僕は明かりの消えた室内で彼を背中越しに抱いていた。
どうして来客室から僕のデスクのある部屋に移動したのだろう。飲みかけのコーヒーはどこに行った?御剣の鞄は?そもそも事務所の入り口に鍵はかけただろうか。
僕たちがこうなる前どんな会話をしたか記憶は曖昧だったし、こういう流れになるきっかけがなんだったのかも思い出せない。
御剣が不意に事務所を訪ねてきて、僕は驚く。物思いに耽る姿を見詰め、どうしたもんかと思案する。それだけだったのにどうしてこういう展開になったんだろう。
窓ガラスからは向かいのホテルの明かりが眩しいくらいに灯っていて、その明かりに照らされる僕たちの行為は褒められたもんではきっとない。
確かに僕たちがこういうことをするのは初めてではなかったし、片手では足りないくらいの経験値はあったけど、性欲漲る十代の少年じゃぁないんだからジャケットの前ボタンに一切手をかけず下だけおろしてするってのは余裕がなさすぎて、なんだかなぁ‥。
「ごめ、ちょっと腰上げて」
窓枠に手をかけ重心を支える御剣の剥き出しになった太ももの内側をがっしり掴んで、宛がい易い位置まで持ち上げる。御剣のそれも僕のそれも十分なほど硬くなっていて、僕をあてがった時拒まれることはなかったから合意の上。少なくとも法的に問題となることはない状況なわけで
「っ‥う…」
解し足りないそこが差し込まれる異物を生理的に拒もうとするだけ。あと、引きつるような痛みに御剣が抑えた呻き声を上げたくらい。
じりじりと抽入して行くそこは熱くて狭くて凄く気持ちいいって身体が知っている。御剣の湿った熱い息が窓ガラスの一部をくもらせるのを見て、堪らなくなった。ごしごしと内壁を擦るたび、腰に落ちてくる快感に夢中になって臙脂色のジャケットの肩口に顔を埋めた。
いつから僕たちはこういう関係になったのだろう。
雄である以上、僕はDNAに刻まれた生殖行動や情動に逆らうことはできないけれど、それならば何故相手に選んだのが繁殖という意味では不適切な同性なのか。そして御剣も同じ雄という性を持ちながら僕を受け入れる側に立っているのか。不毛で非生産的な行為を僕たちはしているのか。
誓って言うのだけど僕はこの手の嗜好を持ち合わせていないし、こんなことをしている今でもヘテロ・セクシャルであると豪語できる。綺麗な女性を見れば嬉しい気持ちになり、フィーリングが合いそうな女性なら恋愛対象にもなるだろう。実感はないけど結婚という言葉に少なからず憧れもあった。アダルトな雑誌やDVDに興味もあり、使用したことだってあるさ。
出会いの場はいくらでも存在し、特殊な環境化で生じる機会的同性愛なんて僕の生活では有り得ない。
どんだけ自己弁護したところで、弁解してみても虚しい気がするのは御剣とのセックスに夢中になっている自分が居るからで…どうせなら、僕の生活環境が機会的同性愛に陥りやすいものだったらとさらに虚しくなるようなことを考えてしまう。卑怯なのかな…僕は卑怯な人間だったのかな。現実を受け入れることを拒み逃避に走ってしまう卑怯で卑劣で愚かな男だったのかな。
いっそのこと、御剣に恋愛感情を抱けたのなら。
ゲイでもホモでも何でもいいさ…そういう嗜好を持ち合わせているから男相手にセックスできるんだって言い切ることができたのなら。変な罪悪感を感じることはないんだ。
「ぁっ…く‥‥っ‥」
僅かに漏れる吐息が耳に甘い。挿入と抽出を繰り返すうちに僕のカタチに馴染む内壁が動きに反応し悦びに躍動するのが堪らなく嬉しい。鈴口から溢れた体液が硬くなった幹を伝い僕の手を濡らす感触が楽しくて‥僕がこの身体を感じさせているのだと分かるのが本当に嬉しくて、もっともっととがっついてしまう。
どうしてだろう。
どうして御剣に性的欲求を感じてしまうんだろう。
こうなった過程を思い出せない。こういう関係になったあらましさえはっきりと説明もできず、僕たちはいったいなんなんだろう。
たくさんある手順をすっ飛ばしてセックスに没頭するくせに、この関係をなんと呼ぶのか僕には分からない。
御剣のことは好きだよ?理解できてるかって訊かれれば首を横に振るしかないけど、同じ真理を追いかける法曹人として信頼してる。でも、それとこれとは別の次元でのこと。
今も説明できないし、未来も想像できない。
「‥っあ‥‥」
内壁がきゅっと絞られて窓枠を掴んでいた手がもがくみたいに厚いガラスを叩いた。短く切り揃えられた爪がカシカシと数回ガラスの表面を掻いて
咄嗟に‥僕は御剣の手に自分の手を重ねた。
深く、深く、腰を進める。呼吸に合わせて進めた腰を打ちつけながら強く手の甲を握り締めた。
何で、僕は御剣の手を取ったんだろう。
何で、御剣は僕を訪ねてきたんだろう。
何で、僕たちはセックスしてる?
今も説明できないし、未来も想像できない。僕たちが始まっているかすら分からないし、終わりというものがあるのかすら分からない。
「成歩‥堂‥」
でも、でも僕は‥この男が僕の名前を呼んだことを忘れない。たくさんの人が僕の名前を口にしたとしても、その中でこの声でこの男が僕の名前を呼んだ事を決して忘れない。
そして、この先どんなに綺麗な手を見ても、どれだけたくさんの人の手をとっても‥見るからに神経質で几帳面なこの手を思い出すのだろう。
僕たちの関係がどうであったかよりも
重ねた手が熱く、震えていたことを忘れない。




おしまいv





2007/07/28
mahiro