『サヨウナラ』
それが、ボクが使った最後の日本語。
でも ・・・・・
飛行機の窓から遠くに陸が見えて来た。
もう来ることもないと思った日本。
ボクシングの楽しさを教えてくれた、大切な国、友、そして。
ヴォルグは、手のひらの小さなメモをじっと見つめた。
漢字とローマ字で書かれた名前と電話番号。
その下には、やはり日本語とローマ字で、『困った事があったら電話してね』と書き添えられていた。
ヴォルグの思考を遮るように、機内アナウンスが定刻到着予定のアナウンスを告げた。
再起(カムバック)をかける気持ちに迷いはない。祖国に残る憂いもなくなってしまった今、自分に出来る事の全てで、未来へと挑むつもりだ。
「ボクも、まだまだ甘いですネ」
自嘲気味の薄い笑みを浮かべながらぽつりと呟くと、碧く澄んだ瞳を縁取る長い睫を伏せて、少しずつ近づく懐かしい大地を見つめた。
との最初の出会いは親切な日本人と外国人。よく行くパン屋での、よくある出来事。
軽快な音がして、二百二十五円ですと告げられた。
いつもなら紙幣を出すのに、少し重くなった財布が気になって二つ折りになっている財布の小銭入れを開けると、零れ落ちた硬貨がチャリンと軽快な音を立ててレジの方側へと転がり落ちた。
「あっ?! スミマセン! ごめんナサイ! もうしわけアリません」
覚えたばかりの日本語で思いつく限りの謝罪の言葉を並べると、自分の姿を映して見上げるげている綺麗な瞳と視線がぶつかる。くすっと笑みをこぼすと、彼女は黒い髪を揺らして立ち上がった。
「大丈夫ですよ。 そんなに謝らなくても」
はいっと拾った硬貨を差し出され、普段はあまり広げる事のない手の平で受け取った。
黒い髪を見たのは初めてじゃないけれど、これが噂に聞いたことのある『ヤマトナデシコ』の黒い髪なのだろうと、見惚れているのに気が付いたのは、が遠慮がちに、二百二十五円ですと再び告げた時だった。
いま思えば、あの時真っ赤になったのは、うっかり支払いを忘れていた恥ずかしさだけではなかったのかもしれない。
まだ誰にも見せた事がないであろう、穏やかで優しく微笑むヴォルグが、飛行機の小さな窓に映っている。
幕之内には敗れたが、何も手に入らなかった訳ではない。もちろん、結果が全ての世界だと十分解っているから、それだけで満足してはいけないし、してもいない。そう思うとじっとしている事が出来なくて、少し早く目覚めてしまった朝の事だった。
いつもと同じコースだが、朝が早いせいか人影はまばらだ。それでも、犬を散歩する老人や、空き地で体操と太極拳の中間のような動きをする中高年のおばさん、朝練へ行くのであろう制服姿の学生などが行きかっていた。
コースも三分の二を過ぎた頃、耳に心地よい声が届き、伏し目がちの視線を上げると、すれ違う人や追い越す人に朝の挨拶をしているランナーが居た。
服装とか背格好では解らないけれど、ゆれる髪が間違いなくパン屋の彼女だと確信させた。
あの日以来、何度かパン屋へ行ったのだが、これと言った事は話していない。お客と従業員の普通のやり取り。ただ、彼女が居ない日は、なぜか少し淋しかった。
きっと彼女は、他の人にするのと同じように、自分にも挨拶してくれるのだろ。
『どうすれば何カ話す事できるのだろウ?』
彼女の姿を見つけて、ボクシングが好きになれた事を、無性に聞いて欲しくなった。しかし、きっかけなど考えもつかない。
あれこれ思案しているうちに彼女の背中はもう目の前で、結局小さな息を一つ落として横を通り過きることとなる。
「おはようございます」
「おはようございマス」
彼女のさわやかな朝の挨拶に、なまりの混じる日本語を返してまた一つ小さく息を吐きかけた時。
「もしかして、二百二十五円?」
「?!!! ハイ! ソウです! ボクです!」
決して値段が名前ではないのだけれど、嬉しくて振り返ると、少し速度を上げて近づく彼女が居る。ヴォルグも少し速度を緩めて二人は並んで走り出した。
「覚えていてくれたのデスね、ボクのこと」
「うん、うち外人の客さん少ないから。やっぱり、スポーツ選手だったんだね」
「ボク、ヴォルグ・ザンギエフ言いまス。ロシアから来ましタ」
「私は、 。 でいいよ」
いつとは違う立場で話す彼女はとても気さくで、ヴォルグにとっては昔からの友人と話しているようで嬉しかった。
自分を覚えていてくれていた事だけでも、踊りだしたくなるくらいで、日本に来て初めて自分が外国人で良かったとも思った。
「はい! サン。・・・・ あの、やっぱり、とは。どうしてデスか?」
「でいいって。あっ、それはね最近、すっごくいい顔していたから、いい結果出せたのかなぁって」
スポーツやってる同士の勘みたいなものかなぁと微笑むに、ヴォルグは少し淋しそうに口元を揺らした。
「・・・・ いいえ。いい結果、出せなかっタ。でも、得るモノたくさんアリました。けっして言い訳、違ウ」
「そっか・・・。じゃあ、次、頑張れるね」
「うん、大丈夫。絶対ニ」
向けられた微笑に誓うように、強い眼差しを宿した微笑をヴォルグも返した。
さよならも言えずに旅立ってしまった自分は、に会う資格などないのだけれど。
神様のプレゼントの様な朝の出会いの後、初めてバイト先で会った時パンの袋にそっと入れてくれたメモ。
電話する事は一度も無かったのだけれど、何度もそのメモに励まされた。
自分は一人ではないのだと。
なのに、約束を守れず試合に負けて祖国へ帰る事となって、にかける言葉がどうしても見つからなかった。
何度も電話に向かったけれど、指を動かすことが出来なくて。
最後に遣った言葉は、幕之内への『サヨウナラ』
でも、最後に聞こえた言葉は、確かに彼女の言葉。
『イッテラッシャイ』
振り返った時、幕之内に別れを告げたフロアはもう見えなくて、確かめるすべはなにも無かった。
帰国する事も告げていない。いや、試合に負けてしまって、告げるような関係にすらなれなかったのだから。
再起(カムバック)を決意出来たのは、その時の言葉のおかげかもしれない。
もしかしたら、待っていてくれるかもと、身勝手であやふやな希望なのだけれど、自分を前へと動かしたのは間違いなかった。
しかし、いい加減自分の情けなさが嫌になる。
祖国を離れる前、空港からに電話を掛けた。もしもしと問いかける彼女の声が聞こえた途端、何を話していいのかわからず受話器を握り締めるだけだった。
「もしもし? ・・・・・ ヴィルグ?・・・ ねぇ、ヴォルグなの?」
呼ばれた名前に、自分がにした事を思い出した。今更、何を言うのだろう。
そして、何も告げずに受話器を戻したのだった。
『このままじゃダメだ』
カムバックして、チャンピオンになったら、に会いに行こう。
そして、許してもらえるかどうか解らないけれど、自分と一緒に生きて欲しいと告げよう。
「必ず会いに行きマス。チャンピオン、なっテ」
何度も何度も呟いた言葉を再び呟きながら到着ロビーへ出たヴォルグを、ちぎれそうな位に手を振るが迎えた。
「・・・・・・」
言葉をなくしているヴォルグに、必死で涙をこらえながらは告げる。
「おかえりなさい ・・・・」
自分を支え続けてくれた言葉は、聞き間違えなどではなかった。
ヴォルクは、人目もはばからず、力強くたくましいその両腕でを抱きしめた。
「・・・・ タダイマ。アリガトウ。 ・・・・ アイシテマス」
そして、始まったばかりの二人の再起(カムバック)を、再び心に誓った。
20110902 執筆者 天川ちひろ
素敵な出会いをくれた妹君に捧げます。
ありがとうねv