旅装束に身を包んだ七松小平太は、入り口の門を潜り、振り返って手を振った。
「じゃあな。一週間ほどで戻るから」
「気をつけろ」
「なあに、戦もない山の中だ。狐か狸か、せいぜい化かされないようにするさ」
 ああ、と言って送り出した長次は制服に上着を羽織り、まだ重い瞼を引き上げて白い息を吐き出した。陽はまだ山の向こう側に顔を隠し、灰色の霧越しに微かな光を散らすのみ。どんよりと雲は厚く低く、麓の町よりも少しだけ早い冬を連れてきた。ちらつく雪の中、小平太は軽い足取りで山を下りる。いつもと変わらぬ、忍術学園のある朝の光景であった。



 翌日の早朝。夜のうちに降り積もった雪が庭の松や軒からざんと落ちた。寝ぼすけの事務員のおかげで庭はもちろん、吹きさらしの渡り廊下や入り口の門にもおよそ二尺ほど柔らかな雪が積もっている。その雪の上に、目を凝らさなければわからないほどの小さな小さな跡が転々と、長屋の方角に向かって続いている。
 長屋の最も奥まったところにある六年生たちの部屋、その一室で、中在家長次はいまだ夢の縁にいた。頬を撫でるすきま風に、無意識に頭のてっぺんまで引き上げた掛け布団の中で、少しばかり籠もった、しかし温かい空気を肺に送り、吐き出し、繰り返し穏やかな寝息を立てている。夜のうちに寝返りを打ったのか、横ぶせで、何かを抱き込むようにして眠っている。
 ぴちゅ、と。庭に降り立った雀たちが小さく鳴いた。長次は一瞬眉間にしわを寄せて、しかし目を開けるでもなく再び深い寝息を立てる。起床の鐘の音までは、まだだいぶ時間がある。それを、長年の間に培った感覚は知っている。だから、長次は安心して意識を沈めているのだ。
 また、ざんと雪が落ちた。この部屋の真ん前の屋根のようだった。意外にも大きく響いたその音は、長次を眠りの縁から引き上げようとする。まだ眠い、もう少し、言葉にせずにそう思い、長次は抱えていた温もりを引き寄せた。胸に、腹に、犬の腹みたく温かい、柔らかなものが当たった。その瞬間、長次は驚くほどの勢いで両目を開いた。
「……」
 布団の中、真っ暗闇な視界。その中で、規則正しい呼吸音が一つ。長次は息を詰めていたから、自分のものではない。長次とは別の生き物が、どういうわけか布団の中にいた。
 まさか、と長次は思った。忍術学園の六年生ともなれば、術を学ぶ身とはいえ忍者の端くれ、そうそう簡単に陣地をとられるはずもない。ましてや布団の中、いつ入ってきたのかはもちろん、今の今までそこにいることさえ気づかなかったなどと、あってはならないことである。
 長次は腕の中の生き物を起こさぬよう、慎重に慎重に布団をめくり、絶句した。
 ところかわっては組の長屋前、朝も早くからごりごりと妙な音が響くのは善法寺伊作と食満留三郎の部屋である。伊作は寝間着に綿入りはんてんを羽織り、大きな欠伸をこぼしながら薬研を引いている。衝立を挟んでいるとは言え、同じ部屋の中、がりがりごりごりと小うるさい騒音の中で、食満はいびきをかいて眠っている。図太いと言うよりは、それが危険なものではないという認識から生まれる安心が、その騒音をないものとして扱っている。
 ふわ、と伊作は欠伸をして手を止めた。部屋の中でも息は白く、煙がかき消えるようにふっと空気に溶けた。目の端に溜まった塩水が瞬きに弾かれてつうと頬へ伝った。
「伊作」
 とすとす、と控えめだが少し焦りの混じる訪いがあった。伊作は慌てて口を閉じて、はんてんの裾で涙を拭い立ち上がり戸をからりと開けた。身を切るような冷たい風が室内に吹き込む。伊作はぶるっと肩を震わせ、訪問者を見上げた。
「こんなに早くにどうしたの、長次」
 そう問うて、伊作は目を白黒させた。長次は柱に手をかけ、ぜぇはぁと息を荒げて白い息を吐き出している。額にはうっすらと汗がにじみ、およそ普段の彼からは思い浮かべもしない姿であった。さらに言うなら。制服姿で鍛錬後、という出で立ちでもない。夜着の裾を捲り上げ、見る者に寒気を覚えさせるような薄着でいる。髪も低く結ってあるだけで、ほとんど寝起きの姿と言っていい。
「来てくれ」
 長次は息を整えながら、ようやくそれだけを言った。
「そ、そりゃもちろん。どうしたの? 怪我? 病?」
 伊作はちょっと待って、と奥へ引っ込んだ。長次があれだけ慌てているということは、何か非常事態ということだ。それも、伊作のところへまっすぐ来たようだったから、何か手当が必要な者がいるようだ。そう考えて伊作は薬箱を取り、部屋を横断して入り口へ戻った。途中、同室者の足だか手だかを踏んづけて、ぎゃっ、と悲鳴が上がったが、伊作はごめんと叫んだだけで気にもせず、
「お待たせ長次」
 と、来たときと同様、急いで廊下を歩き、先導する長次の後ろを追って、は組の長屋前を去っていった。
 長次の部屋に入った瞬間、伊作は目を大きく見開いて、あれまぁ、と妙な声を上げた。
「こりゃあ、いったい全体なにがどうしたの?」
「……」
 こっちが知りたい、と。寒風が吹き込む入り口の戸を後ろ手に閉めながら、長次は眉間の皺を深くし、首を振った。
 伊作と長次の視界の中には、つい先ほどまで長次が寝ていた布団が一組。もこりとした小さな布団の山の裾野からのぞく、それはそれは小さな生き物はくうくうと穏やかな寝息を立てている。
「子ども、だねぇ」
「……」
 伊作は薬箱をそっと地面におろし、膝をついて四つん這いに布団に近づいた。布団の端からはみ出たもみじ饅頭。ぷくぷくした指先が、時折ぴくりと動く。ふっくらとした頬はほのかに赤く染まっている。冷たい部屋の空気のせいでだいぶ冷えているようだ。
「……長次の子ども?」
「……」
 そんなはずがあるか、と長次は元々の仏頂面をさらに無愛想に歪めて、おそらく十回は軽く越えただろうため息を吐き出した。
 布団の中で眠っているのは、どこをどう見ても子どもなのだが、その面影が問題である。ぴんぴんとあちこちにはねる前髪や、枕の下に広がる季節はずれの夏草じみた髪。誰かを思い起こさせるような太く立派な眉。目は閉じられているが、それはどこをどう見ても、
「……小平太、だよ、ね」
「……ああ」
 二人はゆっくりと顔を見合わせて、ひどく微妙な顔をした。
「小平太、いま、任務中じゃなかった?」
 そのはずだ、と長次はうなずいた。昨日の朝早く、雪のちらつく中を見送った。それは、間違いない。
「いや、でも小平太のはずないよね。だって、小さいもの」
 伊作はそっと手を伸ばして、小平太によく似た子どもの前髪をあげた。すぴすぴ、と鼻を蠢かして、子どもはくすぐったそうに眉をしかめ、やがて、ゆっくりと瞼を開いた。現れたどんぐりのような大きな眼が、二度三度と小さく瞬き、
「ええと、おはよう」
 微笑みかける伊作を写して、それから「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて、布団の中へ隠れた。
 ああ、小平太ではないな、と長次はようやく冷静な頭で思った。いや、もしかすると、だいぶいかれていたのかもしれないが、ともかく、小平太ならこんな人見知りの激しいような真似をするだろうか。
「怖くないよー。ほら、出ておいで」
 こんもりと小さな山を作ってしまった子どもに、伊作は優しい声をかけた。しかし子どもは布団の下でふるふると震えるだけで一向に出てくる気配がない。
「やーぁっ」
「困ったなあ」
 声をかければかけるほど、意地でも顔をのぞかすものかと言った様子で、伊作は首の後ろを掻いた。
「どうしよう、長次。なんにせよ、こんな小さな子どもが入り込んじゃったんだ。先生には報告しなきゃいけないけど」
「!」
 と、伊作が長次へ振り返ると、突然、それまで天岩戸のごとく出てこようとしなかった子どもが布団を捲り上げ、勢いよく長次めがけて走った。突然のことに伊作はわぁと声を上げて後ろへ転び、子どもはそのままぼすん、と長次のみぞおちめがけて飛び込んで、長次はぐぅと声を漏らした。
「ちょーじ! ちょーじだ!!」
 子どもは長次の夜着を握りしめ、ぐりぐりと腹のあたりに額をこすりつけている。強か後ろ頭を打ちつけた伊作が片目を細めながら起きあがる。
「いったたた、なになに、いきなりどうしたのさ」
 たんこぶをさすりながら伊作。いきなりの事態に驚いた長次は、両手を腹と胸の間ほどの中途半端な高さで止め硬直している。
「……よく懐いてるみたいだけど、本当に心当たりない?」
「……」
 あるわけあるか、と長次がじとりを伊作を睨みあげると、伊作はふるりと肩を震わせた。
「ほ、本気にしないでよう」
 怒気というか殺気に近いような雰囲気を漂わせる長次だが、
「ちょーじ!」
 ぐりぐりと頭を押しつける小平太によく似た子どもに、なんだかいろいろなものを吸い取られたような気がした。ごぉぉん、と起床の鐘の音が鳴り響いた、早朝の出来事である。



「お名前はー?」
「こへいた!」
 さっきから何度も繰り返される問答に、子どものために膝を貸し出している長次は頭を抱えたくなった。一年生用の装束に身を包んだ(それでも大分大きく、袖や裾を折らなければならなかった)子どもは長次の膝の上に乗り、後ろから抱き抱えられるかたちでいる。自らを小平太と名乗る子どもは、たしかに、姿形も、声も、それから妙に長次に懐くところも、彼らが知る小平太とそっくりなのだ。
「いくつ?」
「ん!」
 と、小平太みたいな子どもは右手と左手で、合計四本の指を立てた。ちなみに右が三で、左が一だ。
「四歳……四歳ねぇ」
 と、質問主は首を傾げた。
「四歳にしては、骨格がちいさすぎる気もするんだよね。それに、ちょっと言葉も遅いかなあ」
 精一杯のばされた小さな手のひらに自分のそれを重ねて、伊作は朗らかに微笑んだ。小さいねぇ、と首を傾げると、小平太みたいな子どもは伊作の真似をしてちょこんと首を傾げた。
「こへいたはどこから来たの?」
「向こう!」
 西の方角を指す小平太みたいな子どもは、ぐりんと首を反らして上を向いた。頭上の長次と目が合って、にっこり。
「ちょーじ」
「……」
 長次は頭が痛い。
「う?」
 小平太みたいな子どもは、上を向いた拍子に頭の重さに耐えきれなかったのか、すとん、と長次の胸に倒れ込んできた。布団の中で感じた、じんわりとした温もりが触れた箇所から伝わってくる。子どもは体温が高いというが、これほど高いものなのかと長次は感心した。
 いや、そうでなくて。
「……お前は」
「こへいただ!」
「……小平太」
 もういいや、小平太で。いちいちお前と呼ぶたびに訂正されるのも面倒だし、本人はここにいないのだから、仮にこの子どもを小平太と呼んでも特に実害はない、はずである。
 その様子を見て、伊作は小さく肩を竦ませて言った。
「とりあえず、ご飯食べにいこっか。定食がなくなっちゃうよ」
 立ち上がった伊作に、長次はしかし、と首を振った。
「……騒ぎが起きないか」
 小平太に似ている云々を差し置いても、長次が子どもを連れている、その事実にどんな噂を立てられるかわかったものではない。現に伊作でさえ疑ったのだから。
 そうだねぇ、と伊作は腕を組んだ。
「じゃあ、握り飯と汁物をもらってくるから、ここで待ってて」
 すまない、と長次は軽く頷いた。どういたしまして、と伊作は自分が置いた薬箱に足を引っかけて一度転倒し、強かに打った鼻の頭をさすりながら部屋を出ていった。
 しかし自分で行かなかったことに、長次はかなり、ものすごく、後悔した。
 口元を押さえ、普段は女人と見紛うばかりの美しい容貌をくしゃっと歪め、ついでに頬なんて真っ赤にして今にも噴き出しそうになるのを堪える仙蔵のわき腹を、けったいな顔をしてしかし律儀に肘でつつく文次郎の姿に長次は益々表情を堅くした。
「ごめん、長次。ばれちゃった」
 湯気を立てる味噌汁を差し出しながら伊作。その隣では、食満が目を白黒させている。
「くっ、くくっ、最高だ長次、なんとも今年一番の余興ではないか」
 限界だと仙蔵が腹を抱えて笑いだした。すると、小平太はむ、と目を怒らせて仙蔵に食ってかかった。
「ちょーじを笑っちゃめーっ!」
 その言葉に仙蔵は益々大笑いするし、文次郎もとうとう吹き出して、食満はあっはっはと笑いながら小平太の頭をぐりぐりと撫でた。伊作から味噌汁を受け取りながら長次は苦虫を十匹ほど噛み潰したような、ひどく不愉快極まりないといった表情を見せた。大きかろうが小さかろうが、長次の表情をあからさまに変えるのは小平太と名のつくものが最もうまいのである。
「しかし、どうすんだこいつ」
 と食満、笹の葉にくるまれた握り飯に手を伸ばそうとして、ぺしんと伊作に叩き落とされた。
「どうするもなにも」
 笑いすぎて呼吸困難になった仙蔵の背中をため息まじりに叩きながら文次郎。
「それがねえ、少しでも長次から離そうとすると大暴れするんだ。さっきだって、ご飯を食べさせようと抱き上げたらこの通り」
 伊作は自らの頬を指さし苦笑いをした。そこにはくっきりともみじ饅頭の痕が残っている。自分に矛先が向かったことに気づいたのか、小平太はぷくりと柔らかな頬を膨らませた。
「口……」
「あー」
 お前はいいから黙って飯を食えと、長次は小平太を後ろから抱きかかえながら、器用に味噌汁椀を口元に運んでやる。長次の言うことならば素直に聞く小平太だ。
「お、気をつけろよ。あっちっちーだぞ」
「あっちっちー」
 食満が目尻を下げて小平太を手伝う。子ども好きなのは結構だが、妙な言葉を使うな、小平太に移る、と。長次は少しばかりむっとした。もちろんだが表面には出していない。
「もう少し様子を見て、先生には一応話だけ通しておくってことでいいんじゃないのかな。ここから一番近い西の町に、子どもが消えたとかいなくなったとか、そういう話がないか調べつつさ」
「それがよかろうな」
「……仙蔵」
 まだ言葉を震わせている仙蔵に、文次郎はそろそろため息をつくしかない。
「そういうこと、はい、あーん」
 伊作は握り飯を小さく一口大に割り、小平太の口元に運んだ。あーん、とおっきな口を開ける小平太。隙間から覗く歯は小さく生え変わりもずいぶん先だ。十歳で学園の門をくぐる彼らだから、お互いの小さな頃など知らないし、ましてやいつ歯が生え変わったなんて。
「……」
 長次は小平太の頬についた飯粒を摘み、ひょいと口に放り込んだ。してしまってからはっとしたが、いつもの光景なので四人は気にすることもなく、それぞれ小平太をかまったり飯を食う様子を見守ったり、おかしなものだと今さらながらに長次は思った。
 味噌汁を飲み干しふう、と小平太が一息つくと、授業の予鈴が鳴り響いた。仙蔵と文次郎は実習だからとそうそうに手を振り出て行き(やっぱり仙蔵は笑っていた)、食満は忍たまの友を取りに部屋に戻った。残されたのは伊作と長次だが、伊作は食満が戻れば授業に向かう。長次は、今日は授業を休むしかない。
 やれやれとため息をつくと、
「うー……」
 膝の上で満足そうにしていた小平太は突然、長次の袴の裾を握りしめ、落ち着きなくもじもじと太股をすり合わせた。
「……どうした」
「もしかして」
 伊作がひょいと顔を覗かせ、首をひねった。
「お小水、近いんじゃないのかな」
 くしゃりと顔を歪めて、小平太はぶんぶんと首を縦に振った。
「お便所まで我慢できる?」
「んーっ」
 必死の首振りに、これはまずいと慌てて小平太の脇を抱えて持ち上げると、その瞬間、小平太の制服の下がじんわりと濃く染まった。
「あちゃ、間に合わなかったかあ」
 布が吸い込み切れなかった小便が小平太の足を伝って、ぴたん、ぴたん、と長次のももに落ちる。じんわりじんわり染みが広がっていく様子に、長次は小平太に気付かれないようそっと息を吐いた。
「うーっ」
「ああ、よしよし、泣かない泣かない。怒ってないよー」
 唇を噛み締めて、ぐしゃっと顔を歪め泣き出した小平太の頭を、伊作は笑みを浮かべたままよしよしと撫でる。その間も長次は小平太を掲げたままである。
「着替え持ってくるね。長次、悪いけど、外の井戸で洗ってあげてくれるかな」
「……」
 どうせ自分の袴も洗わなければならないのだ、長次は素直に頷いて、小平太を一度自分の膝におろし、それからくるんと反転させて抱っこした。その間に伊作は慌しく部屋を出て行った。装束ごしに生温かい感覚が伝わってくる。鼻をつく小便の匂いは不思議と気にならない。なんとなく懐かしいような感じさえしてくるのは、一年生の頃に小平太の夜尿の後始末をしていたからに他ならない。
「……泣かなくていい」
 ぐしぐしと泣く小平太の背中をぽんと軽く叩いて、長次はゆっくりと立ち上がり部屋を出た。
 井戸に着いたので小平太をおろした。小平太は裸足なので雪が積もる地面でなく、井戸の縁に腰かけさせ、落ちないように片手で支えながら、もう片手で釣瓶で水を汲む。
「ごめ、なさい……」
 そろそろ落ち着いたのか、しゃくりあげはするものの泣き止んで、小平太はしゅんと肩を落としている。珍しい光景である。長次は黙ったまま、着替え代わりの厚手の布を小平太の頭からかけ、濡れた井桁模様の制服を脱がしてやった。ぐるりと頭から足元まで布で覆われて、小平太はさながら照る照る坊主のようである。
 長次はうつむいた小平太の頭に、ぽんと手のひらを乗せた。
「……怒っていない」
「……ほんとか?」
「ああ」
「ほんとのほんとか?」
「怒ってない。人間だ、小便くらいするだろう」
 すると、小平太はぱっと真夏の太陽のように顔を明るめて、嬉しそうに頷いた。何がそれほど嬉しいのか長次にはわからなかったが、とりあえず泣き止んで機嫌も直ったならそれでいい。照る照る坊主は洗濯をする長次の様子を物珍しげに見下ろしながら、時折ちょーじ、ちょーじと繰り返していた。そうこうしているうちに伊作が着替えを持って戻ってきたので、二人は白い息を吐きながら部屋に駆け込んだ。



 二日ほども経つと、小平太は暇で仕方ないのかしきりと部屋の中を走り回ったり、小平太に付き合って授業を休み、自主学習と机に向かっている長次の背中に抱きついたりと忙しない。部屋の中には火鉢が置かれているのであまり走り回られると困るのだが、と長次はちらりと振り向いた。
「ちょーじ! ひまだ! あそぼう!」
 はぁ、と長次はため息をついた。小さくてもやることは小平太となんら変わりはない。というより、そもそもこの子どもと小平太は同じ人物ではないはずなのだが、その行動は驚くほど長次の知る小平太に似ている。最初に小平太と呼んでしまったのが災いしたのか、長次自身も子どもを小平太として扱っている節があった。
「なあなあちょーじ、あそぼう」
「……」
 長次はくるっと振り返り、さあ今日は何をしてくれるのかと目を輝かせている小平太に一言、
「駄目」
 とつれない一言。小平太はぷくっと頬を膨らませた。
「ひま! おんもにつれてって!」
「……雪」
「ゆきだまなげてあそぶんだ! ねーちょーじ!」
 小平太は長次の制服の背中側を両手で引っ張り、うんうん顔を赤くしている。そのうち小平太の小さな手の中からすぽんと布が滑って、小平太は後ろへころりと倒れた。えらく勢いよく転んだので、長次は内心慌てて体ごと振り返り小平太を助け起こした。泣いたかと思ったが小平太は実に楽しそうに笑い、もいっかい、と長次の制服を引っ張った。長次は安堵と呆れ両方のこもった息を吐いて、諦めて小平太に向き直った。
「外は寒い」
「う?」
 風邪を引かれたら困る、というのは建前で、実際は長次自身が寒いのが苦手で、出来ることならば任務や実習以外で、雪の中を駆け回りたくないというのが本音だった。
 部屋の外では、本格的に降り始めた雪が一層二層と重なり地面を白く塗り重ねているのだろう。ふいにここにはいない小平太のことが思い出されて、長次は口を閉ざした。どこか遠くを見るような目でここから西の方角を見やる。戸に隔絶された視界でも、目を凝らせば小平太の後ろ姿が見えるような気がして、長次は静かに目を細めた。
 長次の様子に、小平太は段々と顔を陰らせ突然おとなしくなり、長次の制服の肘のあたりを恐る恐ると言った風に引いた。長次は小平太へ視線を戻した。
「ちょーじ……」
 何かを敏感に察したのか、子どもというのは時折はっとするほど鋭い生き物だ。長次はいまここにいる小平太を抱き上げて膝に乗せた。向かいあう形で、悪かったと言う思いを込めて頭を撫でる。自分という男は、たいがい小平太に弱いのだ。自覚している。
 膝の上に乗せられご機嫌になったのか、はたまた長次の意識が自分に向いたからか、おそらくその両方で、小平太は長次の胸元に顔を埋め、ぐりぐりと額や鼻の頭をすり付けた。
「ちょーじ」
 と、今度は顔を上げる。
「ちっち」
 ああ、と長次は頷いて、小平太を抱いたまま立ち上がった。もよおしたのだ。本当なら自分で歩かせたいところだが、昨日、それで洗い物が増えた。どうも歩いた際の振動やら、膀胱の自制がまだきかないやらでうまく我慢出来ないようだ。伊作曰く、四歳のわりに小さく言葉が遅いそうだが、こういった部分にもそれは表れているのだろう。
 吹きっさらしの廊下で二人、体を震わせる。長次の部屋から厠まではかなりの距離がある。かなりと言っても長次にとってはほんの三十秒ほどの距離だ。小さな小平太には学園の端から端まで行くようなもので、殊、尿意が近いとなればなおさら。
 長次は急いで、しかしなるたけ振動を伝えないようにすり足で廊下を行く。
 厠につくと長次は小平太を抱いたまま個室へ入った。狭い厠の一室で、長次は片手で小平太を持ち上げもう片一方の手で袴を下ろしてやった。小平太の背は小さすぎて、一人で用を足すことが出来ないのだ。
 袴と褌を自分の肩に掛けて、小平太の膝裏を後ろから抱きかかえる。小平太はふるっと体を震わせた。ちょろ、と長次の死角から水音が聞こえ出す。それはあっという間に放物線を描き、ちょろちょろと湯気を立てながら厠の中央へと吸い込まれていく。やがて勢いをなくし、途切れ途切れに雫が落ち始めたのを確認して、長次は小平太の体を軽く上下に振った。
 小平太はやはりふるっと震えて、安堵のこもる長い息を吐いた。その様子が微笑ましく、長次は内心小さく笑い、自分は個室から一歩外へ出て小平太を地面に下ろし、褌と袴を着せてやった。
「寒くはないか」
「ん、だいじょーぶ」
 部屋へ帰る途中、小平太がどうしてもと聞かないので少しだけ地面に下ろした。裸の手のひらや指が赤く染まる様を見ていると、もうおしまいだと言いたくなる。
「ちょーじ! うさぎ!」
 小さく盛った雪の山を指差すから、長次は庭のすみに植えられた南天の木から二つばかり実を拝借してうさぎの目と、少し大きめの葉で耳を作ってやった。
 指先を真っ赤にしながら小平太が満足そうに頷くので、長次はついつい小平太の頭をぽんと叩いた。雪もたまには悪くないものだ。



 そのようにして二日、三日と時は過ぎ、明日は本物の、否、大きな小平太の帰還の日となる。相変わらず小さな小平太の親は見つからず、それぞれ町へ下りたり調べたりとしていた仙蔵に文次郎、伊作に食満は、長次の膝の上でくうくう眠る小平太を囲みどうしたものかと首を傾げていた。
「とうとう見つからなかったな」
 仙蔵はこの六日でようやく慣れたのか、噴出すこともなく眠りこける小平太の頬をぷにぷにとつついた。
「子どもどころか、探し人の話すら聞かんぞ。本当にここいらの子どもなのか?」
 文次郎が腕組みし、険しい顔をしながら呟く。
 文次郎の言うとおり、学園から最も近い町では小平太らしき子どもがいたという話すらない。忍術学園六年生の四人が虱潰しに探して得た答えがそれならば、真実に他ならない。
「だからって、子どもの足でここまで来れる町や村なんて、もうないじゃない」
「大体、麓からここまで登って来れること自体、殆どありえんぜ」
 湯飲み茶碗を手のひらに包みながら伊作が、胡坐をかいて食満が続ける。
「では、この子どもはどこから来たというのだ」
 仙蔵の言葉に全員が押し黙った。小平太の小さなくしゃみが響いて、長次は袖なしのはんてんを小平太に掛けた。
「……いずれにしろ」
 と、長次が低く呟いたのに全員が耳をそばだてるようにして続きを待つ。
「明日、一つだけはっきりする」
 そう、つまり一番最初に全員が考え、考えないようにしていたこと。小さい小平太と大きい小平太が同一人物であるか否か。まったく馬鹿げた話ではあるが、これほどまでに似ているのなら神隠しや呪いかと疑いもする。
 それから先は、小平太が帰ってきてからだ。そういう結論に達して場を解散すると、最後に残った伊作が小平太の頭を軽く撫でた。
「ねえ長次。もし、この子が小平太だったらどうする?」
「……」
 伊作はひどく優しげな目をして言う。誰にもわからないことを聞くのはよろしくない。よろしくないが、不安に囚われれば誰もが言葉を飲み込むことなど出来ないのだ。長次は黙ったまま小平太の前髪をかきあげた。くすぐったそうに眉をしかめるのは、間違いなく小平太という名の子どもだという、それだけしかわからない。
「……ごめん、忘れて。それに、この子が小平太じゃなかったら、その時はこの子の里親を探してあげなきゃいけないし、沈んでる場合じゃないね。ごめん」
「……いや」
 それだけ返して、長次は伊作が部屋を出て行くのを見送った。
 その夜。ここ一週間で一番の冷え込みだった。長次と小平太は同じ布団の中で、しんしんと降る雪が吸い込んだ音の残りかすを聞くとはなしに聞いていた。時折がたがたと戸を鳴らす寒風に、自然と二人は肌を触れ合わせる。長次は暗がりの中で瞼を開けた。飛び込んでくるのは闇だけだ。
 明日、正確にはこの夜が明ければ、小平太が帰ってくる。待ち遠しい。その気持ちは確かだ。しかし、そこに含まれる一抹の不安も拭いきれない。
 本当に、小平太は帰ってくるのだろうか。いや、あの男は約束は守る男だ。それに、任務の期日だって必ず守る。何より一週間で戻ると自身の口から聞いた。それを、違えるはずがない。
 長次は口を閉ざしたまま、天井の木目を睨むように見上げている。明日が来ることが、恐ろしい。
「ちょーじ……」
 ふいに、耳元で声がした。消え入りそうなほど細い声。どうした、と長次は振り向いた。
「厠か」
 小平太は首を振った。振った途端、小平太の髪から雪のにおいがした。風呂からここへ来る間に染み込んだ、嗅ぎなれたにおい。
「どうした」
 寒いか、と体を反転させて小平太へ向き直り、小さな体を抱き寄せる。子どもの体温は心地いい。それを、この一週間で知った。小平太はごそごそと身を捩り、長次の胸にすぽんと収まった。
「ちょーじは、」
「?」
 小平太は長次を見上げる。思いの外真剣な眼差しに、長次はやはりどうしたと繰り返した。
「こへいたがすき?」
 長次は小平太の背中をぽんぽんと軽く何度か叩き、ああ、と頷いた。小平太はくしゃりと笑った。
「こへいたもちょーじがすき」
 そうか、と長次は小さく頷いた。どういうわけか急な眠気が襲ってきて、目を開けていられない。無意識のまま小平太の小さな背を叩きながら、長次はゆっくりと瞼を閉ざした。
 冷えた室内に、静かな寝息が一つ響いている。しんしんと降り続ける雪は、それ以外の音をすべて吸い込み、地面へ降り積もっていった。
 翌日、長次が目を覚ますと小平太の姿は消えていた。どこに遊びに行ったのかと夜着のまま廊下へ出る。雪の降り積もった庭は、朝日に照らされて白く白く輝いている。そこに、見慣れた人影を見つけた。
「小平太」
 長次の口から白い息がこぼれる。声をかけられた男は振り返って笑った。
「おう、ただいま長次」
 小平太は膝たけほどまで積もった雪をかきわけかきわけ、長次が立つ廊下の縁に手をかけた。
「どうした。狐につままれたような顔をして」
 小平太が延ばした手を握り引き上げる。小平太の首を傾げる仕草に、長次は何度か目を瞬かせた。
「小平太か」
「何を当たり前のことを。とうとう呆けたか長次」
 一週間で忘れるなよ、と小平太は長次の肩を叩いた。痛い、と長次は眉をしかめた。
「ああ、疲れた。今回は大変だったんだぞ、長次。とにかく中に入れて、話を聞いてくれ」
 小平太は長次の脇をすり抜けて、二人の部屋の戸に手をかけた。早く、とせかす男に戸惑いがちに頷いて、長次はふと庭に視線をやった。
 そこには小さな小さな獣の足跡が、塀の際までまっすぐに続いていた。



09.11.06
3333リクありがとうございました!
助けた狐の恩返し。下に短い小平太サイド。


 雪が降ってきた。
 しまったなぁ、と小平太は白い息を吐きながら足をはやめた。この分では山越えまで大分かかってしまう。今日の夕方には山を下り、麓の村で一泊の予定だったのだが。
 笠の縁を持ち上げ空を見上げる。どんよりとした灰色空からははらはらと桜が舞うように冷たい氷の欠片が落ちてくる。幼い頃は雪が降るたびに嬉しく、庭を駆けたり雪達磨や雪うさぎを作ったり、積もればかまくらなど作って遊びに興じたものだが。
 つまらない大人になってしまったものだ、と小平太は肩を震わせた。肺に吸い込んだ空気が全身を巡り冷やしていく。はやいところ任務を終わらせて、待つ人のいるあの場所へ帰りたいものだ。
「ん?」
 ふいに、小平太は足を止めた。どこからか小さな鳴き声がするのだ。
 小平太は道を外れた。声の聞こえてくる方角へ向かうと、そこで見つけたのは猟師の罠にかかった幼い狐が一匹。どうにか罠から抜けようと焦って、うまくいかない様子だった。
「珍しいなあ」
 小平太は子狐の側に膝をつき、よう、と、まるで知り合いに挨拶をするように声をかけた。子狐は当然慌てて、一目散に逃げようとするのだが足を罠に挟まれそれも叶わず。
「逃げるな逃げるな。いまとってやるよ」
 小平太は懐から苦無を取り出し、子狐の足を縛る縄を切ってやった。
「お前は食うには小さいものな」
 猟師にはまた違う獲物を狙ってもらおう。いくらなんでも、食うには小さいし皮を剥ぐにもたかが知れている。もう少し育って、春になってからでも遅くはなかろうと罠の仕掛け主に謝りながら、絡まる縄を外し子狐を離した。子狐はさっと小平太から距離をとると、疑わしげな目で小平太を見上げた。小平太はにかりと笑って手を振る。
「恩返し、は期待出来んな。じゃあな、私も待ってる人がいるから、さっさと仕事を終えて帰るよ。お前も早く帰んな」
 小平太はざっと踵を返し、子狐に背を向けもとの道へ戻る。少しずつ酷くなってきた雪に身を震わせ、ああ寒い、と呟いて、小平太は山を下りた。