上体を起こすときの、体中が軋むような感触には未だ慣れない。 そんなことを考えながらキューエルはベッドの上で体を起こした。 白すぎるくらいに白いシーツと、この病室の壁の白色……キューエルは目が痛くなるその色にうんざりし始めていた。 早く帰りたい。 それがキューエルの切実な願いだった。 キューエルの願いはもう一つあったが、自分がそれを願っていることをキューエルは心中で必死に否定していた。 ジェレミア・ゴットバルト――成田で行方不明になったあの男に、もう一度会いたい。 それが、今のキューエルのもう一つの願いだった。 うつろなこころのそらに キューエルが成田連山で赤い日本製のナイトメアに重傷を負わされてから、かなりの月日が経っていた。 キューエルは今、軍直属の病院に入院している。たまに純血派の同志が見舞いに来るくらいで、後の時間はすべて一人で過ごしている。 だから、だろうか。 こんなにも、ジェレミアに会いたいと思ってしまうのは。 しかし、とキューエルは落ち着いて考える。 会いたいなどという以前に、ジェレミアはおそらく死んでいるのだろう。 あの忠義に厚い男が、無事に生き残っているのに軍に連絡をよこさないなどということはありえない。 いくら命令違反を犯したからといって、その責から逃げ出すような男ではないはずだ。 彼はもういない――彼のことを考えたって無駄だ。 頭の中ではそう結論を出しているのにもかかわらず、心はジェレミアを求めてやまない。それは何故か? その先は考えたくなかった。 「寝よう」 そう口に出して再びベッドに横になってはみたが、目をつぶっても思い浮かぶのは憎いはずの男の顔ばかりだった。 コン、コン、と。 誰かが病室のドアをノックした。 「どうぞ」 キューエルが応じると、白い拘束服のようなものに身を包んだ男と、白衣の男がドアを開けて姿を見せた。 拘束服の男は、両腕を後ろに組み完全に動かない状態にされ、顔の左側には、顔半分を包むように茶色い金属の部品のようなものがついている。左半身も、服の上からでも普通の人間の半身でないことがわかる。顔の部品と同質のものだろうか、機械のようにぎざぎざに尖っている。明らかに異常だ。 その異常さに気をとられていたからだろうか、キューエルはその男が自分の見慣れた男だと気づくまでに数秒かかった。 気づいた瞬間、キューエルは思わず彼の名を呼んだ。 「ジェレミア……!?」 その呼びかけに応じてか、それまで俯いていた拘束服の男が顔を上げた。 「きゅー……える?」 どこか舌足らずな調子で首をかしげながらそう言った男の顔は、確かにあのジェレミアのものだった。 「生きていたのか……」 思わずため息のようなものが漏れる。 ジェレミアが生きていた。 そして再び出会えた。 その事実に安堵を隠せないキューエルに、ジェレミアが、花が咲くように笑って、こう言った。 「きゅーえる、会いたかったでした!」 それは、キューエルの知るジェレミアの声音とは明らかに違った。 その明るい笑顔も、記憶の中にあるジェレミアの笑顔とは別物だった。 まるで赤子のような、何も考えていないかのような、笑顔だった。 キューエルは思わず言った。 「お前……どうしたんだ?」 「どうした、でした?」 子供のように首を傾げてみせるジェレミアの背後で、白衣の男が早口にしゃべりだした。 「キューエル卿。まず、これは軍内部での最高機密だということをご理解ください」 そう切り出した彼は、ジェレミアがこんな風に変わってしまった顛末を淡々と話した。 すべてを聞き終わったキューエルは白衣の男に食って掛かるようにこう言った。 「人体実験だと……!!そんな非人道的なことが、このブリタニアで許されるはずが……」 「口を慎んだ方があなたのためですよ。この実験は第二皇子シュナイゼル殿下も黙認しておられる。否定することは不敬罪に当たります故。ご了解いただけますね、純血派所属のキューエル・ソレイシイさん?」 純血派、というところに過剰にアクセントを置いて彼はそう言った。 純血派……そう、キューエルはあくまで皇族のために在る。そうでなければならない。 だから、ジェレミアがこんな仕打ちを受けていることを、そのまま受け入れろというのか。 黙って、見ていろというのか。 「くっ……」 キューエルは俯いて唇を噛んだ。 「きゅーえる? どうかした、でした?」 「うるさいっ! オレンジごときに心配などされたく……」 ついいつもの調子で言い返してしまい、キューエルははっとする。 ジェレミアの方を見やる。 ジェレミアは今にも泣き出しそうだった。 「す、すまない」 キューエルは謝った。ジェレミアは俯いたまま、 「きゅーえる、は、わたしのこと、きらい、ました?」 涙声でそう言った。 すっかり調子の狂ってしまったキューエルは、 「嫌いじゃない!嫌いじゃないから、泣くんじゃない!」 慌ててなだめるようにそう返した。 「ほんとうに、きらいじゃないました?」 じっとキューエルの目を見ながらジェレミアがそう言った。 「………ああ。嫌い、じゃない」 「ほんとう?」 「ああ。本当だ」 にっこりと笑って、ジェレミアがそれに答えた。 「ちょっと、聞きたいのだが」 キューエルは白衣の男に向かって言った。 「何か」 「こいつの両腕を厳重に拘束しているのは何故だ。他人に危害を加えるようには見えないぞ。あと、もう一つ聞きたいことがある」 「二つ目の質問を聞く前に、一つ目の質問にお答えしましょう。実験適合生体は人間離れした腕力と金属の硬質な腕を持っていますので、拘束しておくのは当然の処置だといえます。普段は子供のように振舞ってはいますが、彼はすでに人間ではない。兵器なのですよ。この拘束では足りないくらいです。本当はベッドに縛り付けておくか、薬を打って眠らせるか、それくらいするべきだと私共は申し上げたのですが、殿下に反対されたのでね」 「殿下に?」 「殿下はこの実験適合生体にいたくご執心なのです。よく部屋にいらしていますよ。まあ、この実験体を哀れんでくださっているだけでしょうがね」 冷たい言い方だった。この男は特に皇族に忠誠を誓っているというわけではないらしいな、とキューエルは思った。 「では、二つ目の質問をお伺いしましょうか」 「二つ目の質問はシンプルだ。何故この男を私の元に連れてきた? 軍の機密なのだろう? 私のような一介の兵士にわざわざこんなことを教えたって、何の得にもならないではないか。それどころか私が情報を漏えいする危険もある」 白衣の男はふぅ、とため息をついた。 「実験体が、どうしてもあなたに会いたいと言うのでね。恐れ多くも、殿下と話をするたびに彼があなたの名前を出して、会いたいとせがむらしくて。殿下が、『ぜひキューエル卿とやらに会わせてやってほしい』と私共におっしゃられまして」 「ジェレミアが? 私に、会いたいだと?」 「……ええ。あなたも、彼に会いたかったのでしょう?」 男が唇の端を吊り上げて下世話な笑みを作る。 「……私が、オレンジなどに、会いたくなどあるはずもない」 キューエルはジェレミアに聞こえないように小声でそう漏らした。 「そうですか? 先ほど、あなたはこの実験体と再会した瞬間、とても嬉しそうな顔になったように記憶しているのですがね」 「……喧嘩を売っているのか」 「いいえ。ではこのへんでお別れとしましょうか。実験体の定時検査の時間ですので」 男はそう言って、「こっちに来い」とジェレミアに乱暴な口調で言った。 ジェレミアは男の方を向いたが、 「いや」 と、はっきりと男の言葉を否定した。 男は驚いたようだった。 「もうここにいてはいけないんだ。研究室に帰らなければならない」 「いやだ、でした」 ジェレミアは頑として譲らない。 「きゅーえると、きゅーえるとぉ、ずっと、いっしょにいたいでした!」 うわあああ、とジェレミアが大きな声で泣き出す。 キューエルは呆然とその様子を見ていた。 「仕方ありませんね」 白衣の男は、懐から黒光りする何かを取り出す。 スタンガンだ――キューエルは反射的にこう叫んだ。 「そ、それで、何をするつもりだ……?」 男は邪悪な笑みを浮かべてこう言った。 「こうするに、決まっているでしょう?」 「やめろっ!」 キューエルの声など無視して、男は泣いているジェレミアの腹にスタンガンを思い切り突き立てた。 痙攣するような動きでジェレミアがばたんと倒れる。キューエルはそのそばに、迷わず走り寄る。 「おい、ジェレミア?!大丈夫か?」 ジェレミアは完全に気絶している。 キューエルは怒鳴った。 「人でないからいいのか!兵器だからいいのか!どんな理由があろうと、やっていいことと悪いことがあるっ!これは……やりすぎだっ!」 白衣の男は一瞬目を瞬いたが、ふっと笑って、 「あなたは正義感の強いお方のようですね」 馬鹿にするようにそうこぼした。 キューエルは拳を握り締め、震わせながら、 「何故だ……こいつが何をしたというんだ?! 今のこいつは、ただ屈託なく笑い、簡単なことでも泣き出す、ただの子供じゃないか! そんな不当な暴力を振るわれるいわれなど、ないはずだ!」 白衣の男はキューエルの言うことには耳を貸さず、ジェレミアに近づき、意識のないジェレミアを引きずるように抱えて、ドアに向かう。 「では、これでお別れです。ごきげんよう」 「待て!お前のような奴にそいつを任せてはおけ……」 言いかけたキューエルの言葉をさえぎって、 「残念ですが、私共が彼の管理をしているのは殿下の命ですので」 『殿下の命』、その言葉でキューエルは動けなくなってしまう。 白衣の男とジェレミアがドアの向こうに消えてゆく。 キューエルはギリリと音がしそうなくらいに歯噛みして、 「くそっ!」 そう、吐き捨てた。 私は無力だ。 ジェレミアを救うこともできない……! せっかく、また、会えたのに…… 思考しつつ、キューエルは先ほどのジェレミアの無垢な笑顔と、在りし日の彼の誇りに満ちた笑顔を交互に思い出しながら、一筋涙を流す。 「どうして、どうして、こんなことになってしまったんだ……ジェレミア」 キューエルはそう言い落として、また涙を流した。 070628 長い割りに主旨のぼやけた話になってしまい反省。 QLは普通に生きてます(笑)当然のように生きてます、はい。 |