空虚という名の

コツコツと音を立てて廊下を歩きながら、落ちた溜息は冷たい空気の中に溶けてなくなってゆく。あの日から、自分は溜息ばかりついているような気がするな、とジェレミアは思った。思っても、自然に出てくる、怒りや絶望や悔しさの混じった溜息は、止まらない。ふう、とまた一つ溜息をついたとき、ジェレミアは前から一人の見慣れた男が歩いてくるのに気づき、思わず立ち止まった。
彼の名はキューエル。
かつての戦友である。今はもう、友ではないのだが。
姿勢よくこちらへ歩いてくるキューエルは、ジェレミアの存在に気づくと同時に、侮蔑の混じった調子で
「やあ、オレンジ」
と右手を上げた。
「わたしはオレンジではないッ……」
反論するが、その反論は意味を成さないことくらい、ジェレミアはとっくにわかっていた。
オレンジ。
それはぬぐいたくてもけしてぬぐうことのできぬ、永遠の汚名なのだから。
悔しさと屈辱で拳を握りしめた。そのとき、
ドンッ、と体に衝撃が走り、ジェレミアは床に転がった。
何が起きたのかは、一瞬混乱したが、よく考えればわかることだった。
キューエルに殴られたのだ。それもグーで。おそらく力の限り。
「な、何をするんだ」
動揺して叫ぶと、キューエルは怒りに顔を紅潮させてこう言った。
「この純血派の恥さらしがッ。今更何が、オレンジではない、だ」
キューエルの拳が震えているのを見て、ジェレミアははっとした。
キューエルは本気で怒っている。
力の限り怒っているのだ、他でもない、このジェレミア・ゴットバルトという人間に。
そしてその事実に気づいたとき、ジェレミアはこう思った。
学友として、そして戦友として共に過ごしたあの時間、笑いあったあの空間には、もう二度と、戻れないのだ、と。
キューエルと自分との間にあった絆は、ゼロという、人の形をした悪魔によって奪い去られてしまった。
その絆が、純血派若手将校としてのプライドや築き上げてきた自分の地位よりもずっとずっと大切なものだったことに、ようやくジェレミアは思い当たった。
「……気づくのが、遅すぎたな」
ジェレミアはぼそりと呟いた。
もはや何に気づこうと、何も返ってはこないのだ。
全ては失われてしまった。地位も、名声も、親友との絆も。
ジェレミアは壁つたいに立ち上がって、キューエルに背を向けた。
「……こんな思いをさせてすまない。全て、わたしのせいだ。わたしの汚名のせいで、純血派の未来を閉ざしてしまった。もう信じてもらおうとは思わない。わかってもらおうとも思わない。蔑むだけ蔑めばいい。それでキューエル、お前の気持ちが少しでも晴れるのなら」
本当は、わかってほしい。
信じてほしい。
自分のせいではない、自分は何もしていない。
わたしは無実だ。
そう叫びたかった。だがジェレミアは自制した。今、ここで、彼に必要な言葉はそれではないから。

「黙れ、オレンジ」

暫しの静寂ののち、ひんやりとした空気の中で、その言葉が放たれた。
オレンジ。その単語がジェレミアの胸に突き刺さる。
オレンジ、自分を呼ぶその単語が。
もう彼と自分とをつなぐ絆が存在しないことの証明なのだ。
キューエルは早口で言う。
「ああ、お前がお望みならばいくらだって蔑んでやる。一生お前にまとわりついてオレンジって呼んでやる。連呼してやる。それがわたしの、ひいては純血派の、お前への復讐だ」
そこで一回息をついて、キューエルは一瞬表情を変えた。
その表情は、忘れもしない、昔の、ともに過ごした在りし日の彼のものだった。
だが、その顔はすぐに元に戻ってしまったので、ジェレミアは、錯覚だったのか、と目を瞬いた。
キューエルは、少し頬を赤らめ、そっぽを向きながら、言葉をつむごうとする。
そのしぐさが、言いたくない本音を言うときの彼のしぐさだと、ジェレミアは知っていた。
キューエルは、こう言った。
「だがな、忘れるな。わたしだって人を、しかもかつての友を、蔑みたくなんかない。罵りたくなんかない。本当はっ……」
そこでキューエルはいうべき言葉を突然失ったかのように口を閉ざした。
カツン。軽い靴の音が、会話の終わりを告げる合図だった。ジェレミアに背を向けたまま、キューエルが歩き出す。カツン、カツン、と音を立てて歩くキューエルの後姿をジェレミアはただ見ていた。見ている以外に、何ができたというのだろう。


『本当は』、その言葉の後に続くのは、どんな言葉だったのだろうか。また、そのとき彼はどんな表情をしていたのだろうか。ジェレミアはそればかりを、ぼんやりと濁った思考の中で模索していたが、結局、これだ、という答えには出会えなかった。出会うことが、できなかった。
「畜生」
その一言を呟くと同時に、涙が一粒こぼれて、冷えた廊下の上に落ちていった。


06.12.24


ゆるーいキュージェレ。

うるさいくらいな旧友親友学友設定はこの二人を書くときに必ずオプションでついてくるものなので生暖かい目で見てやってください・・ヴィレッタちゃんと三人で幼稚園からずっと一緒!とかだったら萌える。

ジェレミアを信じてやりたい気持ちと、ジェレミアのやったことが許せない気持ちの間で、QLが葛藤してくれたらイイナ♪という願望。

私が書くとQLのツンとデレの配分がおかしくなってる気がする。ちょっとデレすぎ。
本当はもっとツンツンで、デレなんて一%にも満たないくらい!と思ってるんですが。
あとキューエルのジェレミアに対する暴力は全部ボコり愛です。死ぬ直前までボコりまくっても全て愛情表現です(おい

ところでこの二人、お互いをなんて呼び合ってるのかわかるシーンってあったんだろうか? 全編適当に流し見したけど見つからなかったので「お前」でいいや、と決めちゃったわけですが、「違うよ!」というご意見あったら教えてやってください。