馬鹿は風邪をひかないとはいうものの、馬鹿だからといって必ずしも風邪をひか ないとは限らないのは周知の事実である。何が言いたいのかといえば、風邪を引 いたという事実を馬鹿でないことの証拠にはできないと言いたいのである。

くだらない前置きはやめて、本題に入ろう。今キューエルは非常にいらついている。何故かといえば、今日あ る男が風邪を理由に軍会議を欠席したからだ。
その男の名はジェレミア・ゴットバルト。かつての辺境伯であり、一時はエリア 11の総督代行にまで登りつめた男だ。キューエルもかつては彼に心酔していた。ある事件が起きるまでは。
その事件は通称オレンジ事件。説明は不要だろう。あの事件を機に、キューエルはジェレミアを信頼することをやめた。それまでジェレミアに注いでいた期待や思いは全て逆のベクトルに変わっていった。ジェレミアを排斥しようと考えたことすらあったが、それすら失敗に終わり、今は忸怩たる思いで落ちぶれたジェレミアの後を仕方なくついていっている状態である。

「クソ、あの馬鹿がッ」
そう呟きながらキューエルは今、ゴットバルト家の前に立っている。無論、見舞いに来たわけではない。そんなつもりは毛頭ない。ただ、一発殴ってやろうと思っただけだ。ジェレミアを粛清しようとしたのを止めたユーフェミアも、それくらいは許してくれるだろう。
チャイムを押すと、メイドが出てきて迎え入れてくれた。そのままジェレミアの私室に案内され、キューエルは乱暴にノックをしてからドアを開けた。
ベッドに横たわった男と、その隣に寄り添うように座った女がいた。男のほうは言うまでもなくジェレミアで、女はその腹心の部下(今となってはもう部下ではないかもしれないが)、ヴィレッタだ。
「キューエル卿。何用ですか」
ヴィレッタは眉をひそめるようにして問うた。ヴィレッタも、今のキューエルが暢気にジェレミアを見舞うはずなどないとわかっている様子だ。
「オレンジを一発殴ってやろうと思ってきただけだ。安心しろ、刃物の類は持っていない」
ヴィレッタは眉間にしわを寄せて問い返す。
「本気ですか? 本気ならばわたしは、全力であなたをお止めしますが。キューエル卿」
「止める? 何故だ! その男は風邪などというふざけた理由で軍会議を欠席したのだぞ!殴られて当然だろう」
ヴィレッタの態度は揺るがなかった。
「……この状態のジェレミア卿を見ても、そう言えますか」
そう言われて初めて、キューエルはジェレミアの方を見た。
「……ッ」
そして、絶句した。
そこにいたのは頬がこけやせ細った、浮浪者のような一人の男だった。いつもならきっちりとセットされている髪も、今は乱れている。額には脂汗が山のように浮いていて、眠りながらうなされているようだった。
「医者が言うには、過労と睡眠不足が原因だそうです。あの事件以後、だんだん自暴自棄になられて、健康管理もままならない状況だったのは、わたしも見て知っていました。が、まさか、こんなことになるまで自分を痛めつけられるとは思いませんでした」
ヴィレッタがしおらしい調子でそう言った。
「こんなツラをした男を殴れるものか……!脆弱者がッ」
キューエルはそう吐き捨てた。
「ジェレミア卿を侮辱しないでいただけますか、キューエル卿。あなたの日頃の暴言も、ストレスの一要因になっていたはずですし。あなたにも責はあるのですよ」
「……っ。そんなのは言い訳にすぎない。軍人に相応しき強靭な精神があれば、耐えられたはずだ」
「強靭な精神をもってしても、耐えられないほど疲労していたのでしょう。わたしはそう信じます」
ヴィレッタが力強く言い切った。そのとき、ベッドの方から声が聞こえてきた。 「ヴィ……レッ……タ」
ヴィレッタがぴくりと反応し、「はい、ジェレミア卿」と答えた。だがジェレミアはその返答に対して何も答えない。キューエルがいぶかしんで近づくと、ジェレミアの瞼は閉じたままであった。どうやらうわ言だったらしい。
「キュー……エル……」
唐突に、名前を呼ばれてキューエルはジェレミアの方を見た。うわ言だとはわかっているのに、そんな風に名前を呼ばれると、憎しみが一瞬間――ほんの一瞬間だけだが――揺らいでしまう。そんな自分が嫌だった。
ジェレミアの乾いた唇が、また苦しげに動いて音をつむいだ。
「すま、ない……」
「……!!」
何故だろう、たかだかうわ言にすぎないはずのその声が。
酷く心に響いて、いたたまれない気分になる。
気持ちが、存在意義が、信ずるべきものが、全てが、揺らぐ。
「……クソ、なんなんだこの気分は!」
頭をかきむしりながらキューエルは叫び、そのまま駆け足でジェレミアの部屋から出、ゴットバルト家を辞した。

「すまない」
帰りの車の中、そううわ言を言った、ジェレミアの声を思い返す。
初めて出会って声を聞いたときは、魅力的な声だと思った。
純血派トップに相応しい、貫禄のある声だとも思った。
同じ声のはずなのに、今さっきキューエルが聞いた声の主は、 ジェレミアではないんじゃないかと疑いたくなる自分がいた。
情けないほど落ちぶれてしまった、ジェレミア・ゴットバルト。できれば彼のそんな姿は見たくなかった。自分は、だから殺そうとしたのかもしれない。どんどん悪い方向へ転落してゆく彼を見るのがいたたまれなくて……。と、そこで一つの矛盾が生じ、キューエルは思考を一瞬止める。
自分は、純血派の汚点を消し去りたかったのではないのか。だからジェレミアを殺そうとしたのではなかったのか。いたたまれないなどと、そんな感傷的な理由でジェレミアを殺そうとしていたのか、自分は?

キューエルは戸惑った。
ジェレミアへの有り余るほどの憎しみが、殺意が、急にぼんやりとしたものに摩り替わってゆく。
見えなくなる。彼を憎んでいた理由。殺したかった理由。それらは確かにそこにあったはずなのに。

「ジェレミア……!! 貴様はどこまでわたしの心を乱せば気が済むのだ……ッ」
そんな負け惜しみにも似た責任転嫁の言葉を吐く自分にいらいらしながら、走る車の窓から先ほどまで自分がいた豪邸を眺めた。彼のその家は品があって美しかった。まるで昔のジェレミアのようだとキューエルは思った。


07/01/02



キューエルとヴィレッタちゃんを会話させてみたくてこんな話になりました。 キューエルはジェレミアのこと気になる自分にいつのまにか
「あれ?なんで俺こんなにオレンジのこと ばっかり考えてるんだ?」
と疑問を持って真剣に長時間悩んでたらジェレミアがやってきて
「何を悩んでるんだキューエル卿」
とか聞かれて、でもって「全部オレンジがいるからだろ!」とか理不尽な八つ当たりしたら良い。

元気なジェレミアを見てるといじめたくなるくせに、しおらしいジェレミアを見ると叱責したくなってしまうキューエルが理想です