「ドン・サンジーノ」

テラス席を眺めていたサンジーノは、ゆっくりと顔を戻した。
グラスに入ったスプマンテが細かな泡をたてている。陽光をあびてまばゆく光る、薄いオリーブ色をした食前酒に、サンジーノは今日幾度目か、似た色の髪を持つ恋人を思って口の端に笑みを刻んだ。
サンジーノは待つことが嫌いではない。天気のよい昼下がり、こうして愛しい男のことを想いながら過ごす時間は、多忙を極めるサンジーノにとってむしろ幸福だとさえ言える。
「……なにがおかしい」
男が声を押し出した。
サンジーノははじめてその存在に気がついたように、長い前髪で隠れていないほうの眉をわずかにあげて男をみあげた。
このリストランテはサンジーノの気に入りだ。もちろんファミリーの息がかかっている。今日は貸し切りにしているはずで、目の前の男はカメリエーレの服装をしていた。まったく、鼠はどこからでも入り込むものだと感心しながら、サンジーノは華奢な造りのフルートグラスに左手を伸ばした。
「――邪魔をしないでくれないか」
「……なんだと」
「用があるのならコンシリエーレを通してくれ。恋人と待ち合わせている」
すこし遅れているようだ。まあ、それはいつものことなんだが。
「俺を、覚えていないのか」
サンジーノは男の顔をじっと見た。それから、肩を軽くすくめると、グラスを形のよい唇に近づけのどを潤した。店のなかは乾燥している。サンジーノの左胸あたりに向けられた銃口は震えている。
「あんたが……!あんたたちが、何をしたか、」
男の言葉は途中でぶつりと途切れた。遮ったのは銃声だ、一発。サンジーノの右手から放たれた銃弾は、まるでもうひとつの瞳のように額の中央を撃ち抜き、後頭部へ抜け血と骨の破片を霧吹きのように飛び散らせた。
隣のテーブルにかかった白いクロスとよく磨かれた床が赤く染まる。ごとり、と男が崩れ落ちるのを、サンジーノはもう見てはいなかった。
「すまないが」
左手に持ったままだった、グラスからスーツにこぼれた酒をサンジーノはナフキンで丁寧に拭いた。
「興味がないことは、覚えていられない性質でね」
濡れたそれを、サンジーノは3つの目を見開いたままの男の顔にふわり、と落とした。





「サンジーノ」
食前酒を飲み終わる前にゾロシアは現れた。コートは脱いでいるが、濃い色のサングラスはかけたままだ。細いピンストライプのスーツの下には豪奢な身体が隠れている。
サンジーノは立ちあがりゾロシアの腰を引き寄せた。サングラスをはずし、瞳の色を確かめるように見つめてから、頬に軽くくちづける。
「待たせたか」
「いや、そうでもないよ。お前のことを考えて過ごす時間は悪くない」
「俺は待つのはごめんだが」
知ってる。そう言って、サンジーノはひどくうれしそうに笑った。
抱き合うときは、また別の話だということも、よく知っている。
「ところで、これはなんだ?」
ゾロシアが顔の動きだけで示したさき、さきほどの男が仰向けに倒れている。
「俺にもよくわからない」
そうサンジーノが言うと、そうか、とだけゾロシアは答えた。
床に広がる大量の血液がなければ、顔を布でおおって昼寝をしているだけのようにも見える。そういえばちょうどシェスタの時刻だった。
よく見れば、頭の下から、半透明なゼラチン質の脳漿がどろりと流れ出している。
「……思い出した」
サンジーノがつぶやくと、ゾロシアがサンジーノのほうを見る。
「なにを」
「ジュレを作ったんだ。お前がこの前行った店で、うまいと言ったのを真似てね」
それは楽しみだ、とゾロシアが答える。



この男のおかげで思い出したよ、感謝しないとな。サンジーノが目を細める。
「グラーツィエ」
ゾロシアはテーブルに飾られていた花に指を伸ばした。
花瓶から掴み取り、そのまま放り投げると、ちょうど男の腹のうえあたりにそれは音もなく落ちた。



                                            (09.10.03)





マフィアな二人。カメリエーレ、は給仕、コンシリエーレ、は顧問役。