わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。




忘れられた世界




外は、青い色に染まっていた。
だから、今日は土曜日だ。
窓にかかったうすいカーテンが、光と同じ青に滲んでゆらゆらと風に揺らいでいる。ゾロは、まだ寝そべったまま、きまぐれなその動きをぼうと目で追っていた。
手を、伸ばしてみる。すきまからこぼれる陽射しが指先にあたる。カーテンよりはすこし濃い青が、滴るように、そこに、灯る。
まるで海のなかにいるようだ、と思ってから、自分が生まれてこのかた、すくなくとも記憶にあるかぎり、海など見たことがないことを、ゾロは思い出した。とうに死んだ仲間に海を見たものがいて、彼から話を聞いたことがあるだけだ。
彼は、ゾロにそのときの話をよく聞かせた。
あんまり繰り返し聞いたせいだろうか、ゾロはときどき、自分が海のことをよく知っているような気がするのだった。
寄せてはかえす波、むっとするような潮の匂い、足裏をすべる砂粒の感触、空との境は、完璧に美しい曲線を描いている。
はじめて海を見たとき、自然と涙が流れて止まらなかった、と彼は言っていた。
自分はここから生まれ、ここへ還るのだ。
なぜだか、つよくそう思ったと、死の床で発熱に苦しみながら彼はときおり掠れがちになる声で語った。
考えてみればおかしな話だった。虎は土のうえで生まれ、土へと還るものがほとんどなのだ。ゾロがそう言うと、ゾロより年上の虎はなにも言わず、ただ淡い微笑みの表情を衰弱したその顔に浮かべただけだった。
彼は、ゾロの最後の仲間だった。ゾロは彼が死んだあと、その骨を川に流してやった。
水は冷たく、細かく砕いた小石のようなそれは、音もなくてのひらから離れさらさらと流れていった。川は下流にいくにつれだんだんと集まり、最後には、広い海になるのだという。はたして彼は、たどりつくことができたのだろうか。いまでもときどき、考えることがある。
また、海とはべつに、この色でどうしても思い出すことがゾロにはもうひとつあった。
ゾロを映し込み、間近で見つめる、サンジの、あの深い瞳の色だった。
ゾロはむくりと起きあがった。全身に、重い倦怠がしっかりと絡みついている。
サンジがここに来るのは、きまって金曜だ。白い太陽の日。その翌日は、いつも、ゾロはこうだった。
サンジは、来るたびにゾロを抱く。
麓の町に狐の雌はたくさんいるだろうに、サンジは、ゾロと交わるのだった。
ゾロはこれまで、誰ともそういうことをしたことがなかった。ゾロが成雄になるころには、すでに雌の虎は周りにいなかったからだ。
虎の発情期は短いが、その衝動は強烈だ。はじめてそれが訪れたとき、まだ残っていた仲間の雄が、自分で処理をする方法をゾロに教えてくれた。
以来ゾロは、発情期をそれで乗りきるようになった。どうしようもなく勃ちあがってくるものを、技巧などしらない両手で、ただ上下にこすって射精した。それはたんに、たまったものを吐きだすためだけの行為だった。きつい数日が過ぎてしまえば、あとは嘘のようにおさまり、そのことを考えることはまったくなかった。
サンジとは、発情期でもないのに性交をしている。排泄に使うことしかなかった穴は、いまや、サンジを受けいれる性器に作りかえられている。
ゾロはベッドから離れ、テーブルのほうを見やった。
そこにはいつものように、サンジが持ってきた一週間分の食料がまとめて置いてあった。
硬く焼いたパンや、くだもの、木の実、干し肉、そういう日持ちのいいものがほとんどだ。毎週、ここを訪れるときに、サンジはこうして食料を持ちこむのだった。そのおかげでゾロは、自分で食べ物を調達する必要がほとんどない。
ゾロがこの家から出ることを、サンジは、とても恐れているように見えた。ゾロも不思議と、あまり外をうろつく気にはなれず、生肉が欲しくなったときなどに近くでちいさな獣を狩るくらいだった。
部屋はきれいに片づいている。窓に近いところの床が、そこだけ切り取られたように深い青みを帯びている。台所にはガラスの花瓶が置いてあり、サンジが庭で摘んだ花が、一輪だけ、挿してある。
サンジは、ここに来るとまず、一週間で散らかったこの家の掃除をはじめる。ゾロの知らない言葉で、ゾロの知らない歌をちいさく口ずさみながら、不要なものを捨て、床を隅から隅まで掃き、雑巾で丁寧に拭きあげる。そうしながら、ときどきゾロのほうを見ておだやかに微笑む。
そのあいだ、ゾロはいつも何もせずに、ただサンジの楽しげな様子を眺めている。
わからなかった。
恨んでいてもおかしくない。
むしろ、それが普通だろう。
言葉が通じるなら尋ねてみたいと思ったことはある。
なぜ助けたのか、なぜ親身に世話をやくのか、なぜこんな身体を抱くのか、なぜ、そんな顔をするのか。

ゾロは椅子に片手をついた。
下腹に、今朝がたまではいっていた、サンジがまだ残っているような感じがする。
もうかたほうの手を、後ろへと回した。尻尾のした、尻のあいだの、溝をゆっくりとたどると、やがて湿ったそこに指先がたどりついた。
ゾロは表面をそっと、なぞった。自分のそんな場所に、触れてみたのははじめてだった。
あれだけ硬いものでこすられたのだ、そのふちはすこし腫れている。けれど、痛みはなかった。サンジはけして、ゾロをほんとうに乱暴に扱うことはなかった。
息を吐きながら、指をいれてみる。なかは熱い。
たっぷりと注ぎこまれたはずの液体は、知らないうちにあらかたかきだされているようだった。それでも、指のあいだをとろりと伝っていくものがある。粘液が出ていく感覚に、ぶるり、と身体が震えた。
なにも出なくなるほどなんども達したのに、前がぴくん、とうごめき、むくりと頭をもたげてくる。
ゾロは下を向いて、自分の欲望を見た。先端の穴から、涙のつぶのように、ちいさな丸い水滴がわきあがり、だんだんとおおきくなってとろりと零れおちるのが見えた。ふ、と漏れた、息が熱かった。
おそらく発情期が近いのだ。
ゾロは、サンジがときどきそうするように、自分の縞模様の尻尾のさきを、後ろにあてた。
サンジの残滓をそこになすりつけるようにして、ぬるぬるとこする。びっしりと生えた毛が、敏感な粘膜をむずがゆくくすぐった。
「ハ、あ、」
サンジの愛撫を思い出しながら指を動かす。だんだんと、増やしていく。水音がはげしくなってくる。
ぼやけてきた目で、窓のほうへ目を向けた。
海とサンジの色が、ゾロを、見つめている。





ちいさな狐だった。
彼はゾロを見あげていた。
部屋に残された、母親だったものの残骸など目に入っていないかのように、ひどく熱心に、彼は、ゾロだけを見つめていた。





※※※





水を汲みに外へ出る。
家を壁沿いに歩き、裏手に回ると、そこには、石造りの井戸があった。
サンジがまだ母親と暮らしていたころ、あるいは、それより前から使われていたものなのだろう。ずいぶんと古びた代物ではあるが、まだじゅうぶんに使える状態だった。
地面に近い部分には、石の継ぎ目に沿ってうっすらとビロードのような苔が生えている。ところどころ、補修がほどこされているのは、おそらくサンジが手をいれたのだと思われた。
ゾロが熱と痛みにうなされていたあいだ、サンジはときおり家の外に出ては、なにやら作業をしているようだった。ようやく起きあがれるようになって、はじめて庭に出てみたら、おぼろげな記憶のなかの外観とは様変わりしていて、ゾロはとても驚いたものだった。
そのあともサンジは、すこしずつ、この家を整えていった。カーテンを替え、ドアを修繕し、台所を改築し、ゾロが暮らしやすいように工夫を凝らした。
桶を投げ入れる。
すこし遅れて、水を叩く音が響いてくる。
ゾロはふちに手を置いて、身を乗り出すようにして、井戸のなかを覗き込んだ。水面が一瞬、きらりと光を反射して、そのあとはふたたび、黒っぽい平坦な色に塗りこめられた。
ここしばらく雨が降っていない。水の量は昨日よりすくなく、日に日に減ってきているようだった。このままでは、おそらくあと数日で涸れてしまうだろう。
だが近くには、サンジがいつも洗濯に使う小川が流れているはずだった。たしか湖もあったと、遠い記憶をゾロはさかのぼる。
いざとなればそこまで汲みに行けばよいだけの話だ。そうゾロは結論づけ、軽く息をついた。
縄に手をかける。
首すじに熱を感じ、片手をかざして空を見あげる。
飴玉みたいな太陽が、高いところから、じっとゾロを見下ろしている。





ゾロはいちど、ひどい日照りを経験していた。
この世界の太陽は、日々きまぐれに色を変える。けれど、陽射しのつよさだけは、いつだってあきれるほど変わりがなかった。
あのころ、まるで誰かが隠してしまったみたいに、雲は何か月ものあいだその片鱗さえ見せなかった。遮るもののない太陽は、わがもの顔ですべてを熱しつづけた。乾ききって、葉脈のようにひび割れた土を踏みしめながら、ゾロと仲間の虎たちは、餌と水を探してあてどなくさまよった。
動物たちは、飢えと未知の流行り病でばたばたと死んでいった。いちどかかったら、遅かれ早かれ、あとは死に向かう道を歩むだけのひどい病だった。あちらこちらに放置された死骸から、またあらたな病がすごいはやさで広がっていった。とりわけサンジの住む麓の町では、たくさんの者が命を落としたのらしかった。
そのすこし前から、虎は、町のものたちに残虐なやりかたで殺されていた。
罠にかけられ、捕えられて、見せしめのように嬲られ、もともと少なかった仲間はさらに減っていった。
ゾロにはその理由がわからなかった。
たしかに虎たちは獣を襲ったが、町のものに手を出したことはなかったからだ。町に住むのは狐がほとんどだった。彼らだって、ちいさな獣を狩ることはあるはずだ。
「強いて言えば、俺たちが彼らと違うからだろう」
ゾロが疑問を口にすると、海の話をしてくれた虎は言った。
彼はすでにいちど罠にかかり、なんとか逃げてきたが、そのとき負った傷から菌が入りこみ、戻ってきて以来ずっと臥せっていた。
ゾロは彼の世話をしていた。早くに死んだ両親の代わりに、彼がゾロを育ててくれたのだった。仲間であり、父親がわりだった。
「……違う?」
「そうだ。肉体も、精神も、何もかもね。おまけに、俺たちは彼らよりずっと数が少なくて、しかも彼らよりずっと強い」
異端は排除される運命にあるんだ、と彼は続けた。
「違うのは、悪いことなのか」
ゾロは訊いた。
虎は軽く目を伏せ、痛みを逃すように、細い息をゆっくりと吐いた。太い尻尾は力なく垂れ、彼の大きな身体に親密に寄り添っていた。
「悪くはないさ。ただ――」
「ただ?」
わかりあえないんだ。
虎は、静かに言った。
流行り病が蔓延しても、不思議と虎たちだけは、それに侵されることはなかった。それどころではなくなったのか、虎を殺そうとするものたちもいなくなった。
だが長く続く空腹に、仲間たちは衰弱していき、みな、最後は苦しんで死んでいった。
残されたゾロは、生きるためにサンジの母親を襲った。
そして、サンジと出会った。





桶についた縄を両手でひっぱる。
頭のうえで、滑車がぎしぎしと音をたて、水の入った桶があがってくる。
ゾロは中腰になり、汲んだ水を持ってきたバケツに移しかえた。跳ねて腕を濡らす冷たい水は、血だまりを薄めたような色に見えていた。
バケツを持って立ちあがる。来たときと同じように、また壁沿いに歩き、ドアに手をかける。ふいに、ざあ、と音がして、それとともに風が吹きつけた。
ゾロは後ろを振り返った。
庭に密生した大輪の花が揺れ、細い花弁をいっせいに散らしている。まるで、赤い吹雪のなかにいるようだった。サンジが来る金曜日なら、ほんとうの雪のように見えたことだろう。
花はサンジが植えたものだった。
いつだったか、この花を指さしたら、ダリア、とだけ、サンジは言った。
「ダリア」
ゾロが真似て繰り返すと、サンジは笑いながらうなずいた。
「きれいな名前だ」
ゾロは思ったことを口にしたが、やはりサンジには伝わらなかった。サンジは笑んだまま、困ったように、ごくわずかに、眉をひそめた。
その表情には覚えがあった。何かをあきらめていて、それを受けいれているものがする表情だ。最後の仲間だった虎が、死ぬ前に、似たような微笑をよく浮かべていた。
サンジのその顔を見ていると、怪我はもう治っているはずなのに、身体のどこかがひどく痛むような感じがした。
それ以来、ゾロは、いままで以上に言葉を発さなくなった。

風は強く、弱く、吹いている。
森へと続く道を霞ませるように、塞ぐように、花弁たちはいつまでも散りつづけた。





※※※





思っていたとおり、数日すると井戸が涸れた。いつものように投げ入れた桶は、底にあたる乾いた音をゾロの鼓膜に響かせただけだった。
ゾロはふたたび、なかを覗きこんでみた。だんだんと細くなる縄の先、ひきずりこまれそうな重い暗闇が、誘いこむようにぽっかりとその口を開けていた。桶は見えない。たしかに底があるはずなのに、どこまでも続く空洞のようだとゾロは思った。
視線をあげる。まるで黒い大きな月が、夜空に所在なく浮いているように見えている。
肌につきささるたしかな熱量と、夜にはかならず現れる双子星がいないことが、その球体が太陽であることを示してくれていた。木曜日は一日じゅう薄暗い。うっかりうたた寝でもすると、いまが何時くらいであるか、まったくわからなくなってしまう。
ゾロは空気の匂いを嗅いだ。昨日よりもわずかに、湿り気を帯びているのがわかった。明日くらいにはおそらく雨が降るだろう。けれどすくなくとも、今日のぶんの水は必要だった。
ゾロは家に戻り、水を入れる容器を探した。台所の引き戸の奥に、バケツよりはひとまわり大きい、半透明のタンクのようなものが置いてあった。中身は空だった。なにかを貯蔵するために、サンジが持ち込んだのかもしれない。一日ならこれくらいで十分だろう、と判断し、ゾロはそれを引きずりだした。
軽く表面を払う。ごく細かい埃が、もう一枚の皮膚のように、うっすらとゾロのてのひらを汚す。
台所を離れるとき、隅に置いてある花が目に入った。
太陽光の届かないその場所では、もともとのうすい色味がよくわかる。まだ花弁は散っていないけれど、茎はすこし萎れて弾力を失いはじめていた。サンジが飾ってから六日たつから、それでも長くもっているほうだろう。
顔を近づけてみる。
さすがにもう花の香りはしない。
帰ってきたら、水をかえなければならない。

容器を持って、森へとつづく道に出た。ゾロは、じつにひさしぶりに、家の敷地の外に足を踏みいれた。
ここにたどりついてからどれくらいの月日が流れたのか、正確にはわからない。ただ負った傷の治りや、サンジの来ただいたいの回数を考えると、すくなくとも半年以上は経っていると思われた。
朦朧とした状態で、ただやみくもに歩き、気がついたら、この家の前に立っていた。けしてめざしていたわけではなかった。けれどゾロは、ここを覚えていた。
鍵のかかっていない、あのときよりは色の褪せたドアを開けながら、もう大丈夫だ、となぜだか思った。部屋のなかはがらんとしていて、肺を満たす黴臭い匂いは、そこが長いこと空き家であったことをゾロに教えていた。
窓の近くにはベッドがあった。あのとき、サンジの母親が使っていたものだった。
マットレスは厚い埃に覆われていた。ゾロは、すぐそばの床にうずくまった。目を閉じて、浮遊するような感覚に身をまかせているうち、意識が遠のいていくのがわかった。
つぎに気がついたとき、サンジが、目の前にいた。
はじめは誰だかわからなかった。ただ、ゾロを見つめる青い瞳を見て、呼吸がよけいに苦しくなった。変色した首の骨を見せられた瞬間、あのときの子狐とサンジの姿が重なった。
サンジは献身的にゾロの看病をした。熱があるあいだは毎日のように訪れ、薬を飲ませ、傷の手当てをし、食事をとらせた。それ以降も、金曜日になると、かならずサンジはゾロのもとへやってきた。
ゆるやかに蛇行した道を歩く。ときどき、丈の高い草が行く手を阻み、ゾロはそれを片手で払いながら進んだ。
ふと後ろを見たら、さきほど出てきた家はもう見えなくなっていた。すべてが黒の濃淡で描かれた世界は、色のない夢の景色のようだった。
道なりにしばらく行くと、途中でふたまたにわかれた。右の道は、なだらかな勾配があり、山頂のほうへと続いている。左を見ると道は先細り、最後は森の奥深くへ消えていた。ゾロは、そちらを選んだ。

途中で道らしきものは無くなったが、そこから先は、木々の隙間からときおり湖面が見えていた。視覚を頼りに進みつづけると、やがて森から抜け、記憶していたとおりの湖に行きついた。
水鳥たちの群れが羽を休めている。ほかにも、水を飲みに来ている獣がいて、ゾロの姿を認めるとすぐに逃げて行った。
ゾロは水を両手ですくった。口をつけてみる。朝から何も飲んでいなかった。黒い陽射しのせいで熱のこもったなまぬるい水は、それでもゾロの身体をうちがわから潤した。
容器のふたをあけ、水につけ沈める。おおきな泡がぼこりぼこりと湖面をみだし、やがて、また静けさが戻る。
そこに映った自分の姿をゾロは見た。あの家には鏡がない。ひさしぶりに見る顔は、とくにやつれもなく、怪我をする前とまったく変わりがないように見えた。
身体は完全に回復している。もともと、虎は一ヶ所に長く留まらない。転々と餌場を変えていくのが普通だった。
このまま、どこかへ行くことも可能なのだ。
けれど、自分がそうしないことを、ゾロは知っていた。
 




サンジははじめからゾロの名を知っていた。
ゾロ、と呼ぶサンジの声は、虎の発音とはすこし違っていて、とてもやわらかく耳に響いた。これまで、誰からも、そんなふうに名を呼ばれたことはなかった。
名前だけではなかった。
サンジはことあるごとにゾロに話しかける。
わかりたいとはいつも思っている。
わかればどんなにいいだろうか、と。

あのとき、囁いた言葉と、流した涙のその意味も。
 

 


※※※

 



帰り道を見失い、森で一夜を過ごした。
記憶をたどり、湖から離れる方向に歩いても、いっこうにもとの道は見つからない。そのうちに黒い太陽は沈み、ほんものの闇が辺りを包みはじめた。割れた月に寄りそうように、二つの赤い星が瞬いている。
動き回るのなら夜が明けてからのほうがいい、そうゾロは判断した。つぎにのぼるのは、白い太陽だから、視界は今日よりもずっとよくなるはずだ。
たまたま水があったのは幸いだった。食料も、周りにいくらでもある。ゾロはひさしぶりに狩りをした。大地を駆け、筋肉を躍動させると、血液がすみずみまでいきわたり、獣の本能が充たされるのを感じた。
捕らえた小動物を食らいながら、サンジと会う前は、長いことこうして一人で生きてきたのだと、遠い昔のことのようにゾロは思った。
この山を離れたあとも生き残った虎を見つけることはできなかった。だがだからといって、孤独を感じたこともなかった。
可能なかぎり命にしがみつき、やがて、しかるべき時が来れば、誰にも知られずにひっそりと朽ち果てる。それでよかった。生きること自体が、この生の意味だと思っていた。
腹が満たされたせいか、けだるい眠気がゾロを覆いはじめる。目を閉じるとまなうらに、花に囲まれたあの家と、かたわらに立つサンジの姿が浮かんできた。明日は日の出とともに起き、帰り道を探さなければならなかった。
どこかに帰る、という感覚を覚えるのははじめてだった。
それはけして悪い感じではなく、ゾロは、海に焦がれつづけたあの虎の気持ちがすこしだけわかったような気がした。
深い息をする。
夜のいきものたちの、ひそやかな気配を全身に感じる。
空気はますます湿りはじめていた。朝のうちには、降りだすかもしれない。
サンジが雨に濡れなければいいのだがと、揺らぎながら深まりゆく眠りのきわで、ゾロは思った。





ようやくもとの道を見つけたとき、太陽はほぼ真上までのぼっていた。歩を進めるにつれ、厚い雲が空を埋め尽くし、白い日とは思えないほど視界は暗くなっていった。
サンジはたいてい、昼前にはやってくる。だがまだそれほど時間は経っていないはずだった。中身のなくなった軽い容器を片手に持って、ゾロはでこぼことした山道を歩きつづけた。
ほどなく雨が降りはじめた。
ぽつり、とひとつぶ、手の甲を濡らしたかと思うと、あっというまにそれは叩きつけるような豪雨に変わった。
大粒の雨と、乾いた土とが混ざりあい、むっとするような匂いが立ちこめる。ひさかたぶりの恵みをよろこぶように、葉のしげった木々が水を弾きながらかすかに揺れていた。
太陽のせいでなく白くけぶった視界のなか、見覚えのある屋根が花畑の向こうにぼうと見えてきた。水が絶え間なく目のなかに入りこんで、まばたきをするたび、頬を撫でるように流れ落ちていった。
ずいぶん近づいてから、ようやく気がついた。
ドアがおおきく外がわに開いている。
入ってすぐの、薄暗い部屋の床に、いつもサンジが食料を入れて持ってくるバスケットが横向きに落ちていた。くだものがいくつか、ごろりと無造作に転がっているのが見える。干した果実を練り込んだ、ゾロがこのむ硬いパンが地面に転がり、まるで石かなにかのようにはげしい雨に打たれていた。
庭のほうへと目をやった。美しく咲きほこっていたダリアは、あらかたその花弁を落とし、周囲の土を絨毯のようにやわらかく埋めつくしていた。
そこで、サンジは、うずくまっていた。
地面にじかに尻をついて、膝を抱え、ゾロが帰ったのにも気づかずに、全身を水びたしにして震えていた。
ゾロよりも細いうなじがあらわになって、骨の丸い突起がくっきりと浮きあがっている。それはゾロに、いまでもサンジが大切にしている、彼の母親の頸椎を思いおこさせた。
ゾロはしばらく、立ちつくしたままサンジを眺めていた。
濁った泥水がうねるように低いほうへ流れていった。
そのあいだも雨はひどくなるいっぽうだった。すぐそばにいるはずのサンジの姿でさえ、かすんで見えなくなってしまいそうだった。
「――サンジ」
ゾロは呼んだけれど、その声はのど奥で細くつぶれ、地鳴りのような雨音にかきけされた。サンジは気がつかない。やはり言葉など何の役にも立たないのだとゾロは思った。
容器を下ろし、ゾロはサンジのそばにしゃがみこんだ。濡れて重くなった髪に、指をさしいれると、サンジがようやく顔をあげた。
目を見開き、何かを言いかけた唇を唇でふさいだ。両手で顔を挟み、これ以上ないくらい深く口づけた。
サンジは呻くように嗚咽をあげながらそれに応えた。いつもならゾロを翻弄するはずの舌は、まるではじめてのように、怯えてすくんだように動きもせず、ゾロはそれを強引に絡めとり自分の唾液を流し込んだ。
指のあいだを、雨よりもあたたかな水が伝っていく。ゾロは顔から手を離し、かわりに、まだ細かく震えているその背中を抱いた。
頬に舌を這わせる。
塩からい目尻までなんども舐めあげた。
閉じたまぶたのうえを吸うと、サンジが、ゆっくりと目を開けた。
「ゾロ――」

なぜだろう、その瞳のなかに、見たこともないはずの海が広がっているように思われた。





おたがいびしょ濡れのまま、もつれるようにベッドに倒れ込んだ。サンジはとても硬く勃起していた。そしてそれは、ゾロもまったく同じだった。
ゾロはサンジの肩を押した。その背中を乱暴にシーツに押しつける。サンジはびくりと身体をこわばらせ、はじめはあらがおうとしたが、ゾロが呻るように威嚇すると身体の力を抜いて服従した。
すでに濡れたものを深くほおばる。やりかたなどわからなかった。ただ夢中で、舌を使い、音をたてて吸いあげた。もちろんこんなことをしたのははじめてだった。いつもゾロは求められ、ただそれに応えるだけだった。
もっとはやくにこうしていればよかったのだ。自分からは手を伸ばそうとしなかった。何を恐れていたのだろう、あんな顔を見たいわけではなかった、笑っていてほしかった。
サンジはすぐに射精した。あ、あ、とはじめて聞くような、鼻にかかった甘い声をあげながら、腰をびくびくと震わせ、ゾロの口のなかにたっぷりと吐きだした。
ゾロは唇を汚しながら、それを、ぜんぶ飲み込んだ。
「ゾロ、あ、」
サンジが、ゾロの頭を掴んで離そうとする。ゾロは許さなかった。そのまま最後まで吸いあげ、のど奥につくくらい、また大きく育てていく。
そのままサンジのうえにまたがった。何かまた言おうとする口を片手で塞ぐ。雨の音が、大きくなった気がした。
どうせわからない言葉だ。
きっと、ずっとわからない。
それでいいと思った。
空いたほうの手の、指を唾液で濡らした。自分で後ろを慣らしていく。サンジはゾロを見あげていた。ゾロも、サンジから目を逸らさなかった。
サンジはまだ泣いていた。顔を赤くして、眼球を溶かすように涙をこぼし、肩をときおり痙攣させながら泣いていた。てのひらにあたるサンジの唇からは、熱病のときみたいな荒い息が漏れていた。胸が熱くなって、ぎゅうぎゅうと締めつけられた。この感情に、名前などいらなかった。
ゾロは、自分のとサンジの先っぽをこすりあわせるようにすりつけた。二人の体液が、とろとろとあふれ、混ざりあう。
「ウ、あ――、ああッ――」
ゾロも声をあげ、身をよじらせて、濃い精液をサンジの腹にびしゃりと飛ばした。性器がぶる、と震え吐きだすたび、自分の指で、なかがいやらしく開閉するのを感じた。
ひきぬいて、まだゆっくりと閉じかけている途中の穴に、サンジをあてがう。腰を沈めながら、ゾロはサンジの口にあてていた手を離した。
広がった尻の穴とサンジの下腹がくっつくまで深く繋がる。
これ以上は近づけないくらい、すきまなど、すこしもないくらいに。
そのままゾロは、こらえきれず吠え声をあげながら腰を振った。





雨雲に覆われていても、窓の外は不思議と白く明るかった。
堰をきって降りだした雨は、いつまでも弱まることなく乾いた世界のすべてに沁みこみ潤していくようだった。
サンジは、ほかの言葉を忘れてしまったみたいに、ゾロ、ゾロ、となんども名を呼んだ。
繋がった場所から、濁った水音がして、二人ともが出すぬるついた液体がゾロの内腿をてらてらと光らせていった。
尻をわし掴み、充実した筋肉に指を食い込ませて、サンジがはげしく、突きあげはじめる。
飛びかけた意識のなか、サンジの首にかけられたその古い骨に手を伸ばした。





握りこみ、すこし力を入れれば、それは、あとかたもなく砕け散った。






(16.12.22再録)




むかーしの初期web再録集に書き下ろしとして入れていて、今日まで再録を忘れていたものです…。
たぶん書いたの09年とかじゃないでしょうか。あえてそのままで。
サンジとゾロのあいだって、すごくわかりあえることももちろんあるけど、どうしようもなく通じ合えない相互不理解部分があると思っていて、でもそれでもどうしても求め合ってしまうっていうのに私はすごく萌えるのです。
海賊だと最終的には、そんなもん知るか吹き飛ばすぞな強さであってほしいのですが。
パラレルではそこのところで揺れる二人も書きたくなる。
この話はたぶんそこを突き詰めたかった話なんじゃないかな〜と、もう7年も経てばひとごとのように思いました。