十八の僕は





今年の桜は蕾むのが早く、黒く乾いた細枝のあちこちの、丸い塊が日に日に膨らむのを、サンジは毎朝、歯を磨きながら眺めている。
薄青いはずの空は乳白色をしていて、今日は、少し靄が出ているようだった。窓から吹き込む寒気は、まだまだ、真冬の厳しさを含んではいるものの、晴れた日の陽射しは柔らかく、のぼるにつれ大気をふわりとゆるませて、日中ならば、薄手のコートでもじゅうぶん、と感じるときさえある。
もっとも明日からは、サンジが昼間に外に出るのは、休みの日を除けば休憩時間くらいになるのだろう。小さなレストランの、コック見習いは忙しい。放っておけば日がな一日眠ってばかりの、居候とはわけが違うのだ。
「……なんつーか、のどかだよな」
口をゆすいでから、ふとその寝姿を見てサンジはつぶやいた。そよそよと風に吹かれる、短い緑は、早い春の訪れのようで少しおかしくもなった。あれは、意外とやわけえんだよな、と、ぼんやり考える。最後に触れたのはだいぶ前で、だから、記憶は、外の空気のように淡く霞んでいる。
煙草に火をつけて、唇に銜えてから、深くゆったりとした呼吸の、そのそばに座り込んだ。満ち足りて眠りについた、猫科の生き物のようだ。そう思ったら、鼻がすん、とそれっぽく動いたから笑った。
匂いを、嗅ぎわけたのだろう。摘んでやろうか。イタズラのように考えたけれど、考えるだけで指が伸びないのは、よく知っている。
煙と一緒に、そっと息を逃がして、布団からはみだした、くるぶしの丸い隆起を見つめた。頑丈そうで、たしかな存在感のある、健やかなそれ。
いつまで、とつい考えた。
桜の花がほころぶ頃にも、これは、触れられそうなほど近くに。
「オラ起きろ!」
埒もない物思いを、振り払うようにがばりと、勢いよく布団を剥ぎ取った。転がって床に打ちつけた頭を、ゾロが、鷹揚にさすりながら体を起こす。なにしやがる、と呻るような不機嫌な声に、もうすぐメシだぜ、とサンジは素っ気なく言った。
あーと無意味な声を出し、あぐらを掻いたゾロが、首を倒して骨をぽくりと鳴らす。サンジのベッドが置いてある、その横の床に敷かれた布団が長いこと、この男の定位置なのだった。
「今日は?」
「塩鮭と味噌汁」
「朝定食Aだな」
そう、と笑う。B、は鮭に変わって玉子焼きと納豆。もちろんたまにはパン食の日もあって、それには朝セットAとBがある。多少のアレンジは入れるものの、食に関して、ゾロは定番を好む傾向がある。ゼフは朝が早いから、自分たちの朝食は、たいていサンジが作っていた。
「顔、さっさと洗ってこいよ」
「……おう」
すれ違うときに、サンジはあえて顔を逸らした。あくまで、不自然にならない程度に、だ。鈍いゾロにはきっと、気づかれてもいないだろう。
少しまぶたの腫れた寝起きの顔は、やけに幼くて、いつからか、いつだって、まともに見ることさえもできなくなっている。



「明日、出る」
いきなり言われたのが、一瞬、なんのことかわからなかった。
は、と尋ね返せば、安いチケットがな、とだけゾロは言う。それからしゃがみ込んで、水色と白の格子模様の布をこちらに、ずいと突き出した。これは布巾だよな、とぼんやり考えながら、手を伸ばして受け取った。どうやら、自分が落としたものらしい、とわかったのは、そのときになってからである。
サンジの部屋にはベランダがついていた。レストランの二階が実家で、ごく狭いが死守した個室は、陽当たりだけはとてもいいのだ。晴れた日にはここに、洗濯物を干す習慣だった。面倒くさがりながらも、手伝え、と言えばゾロは手伝う。
昔からゾロはそうだった。しかたねえな、という嫌々の態でも、とてもどうでもよさげでも、最終的には大抵のサンジの願いは叶えてくれる。うぬぼれ、なんかじゃなくそれは事実だ。それがわかるくらいには、幼い頃から近しい位置にいた。
「へえ、そっか」
平静を、装えたと思う。さっき、手元が狂った、のを取り戻せたかどうかはわからない。
サンジとゾロが通っていた、学校の卒業式は早く、毎年二月の末と決まっていて、だから昨日、二人は高校生、ではなくなった。春から、ゾロは遠くの大学に行き、サンジはレストランを本格的に手伝う、それもまた、ずいぶん前から決まっていたことだった。
だから本当に、動揺することなんかじゃない。
ただ思っていたよりちょっとばかり、ゾロの出立が早くなった、というだけの話だろう。
「俺は明日から仕事だから、見送りとかできねえぜ。まあ、要らねえだろうけど」
「……てめえ、なんか、」
「お前みてえな頑丈なのに言うのもアホらしいがよ、せいぜい体に気ィつけろ」
ゾロが言いかけた言葉を塞ぐように、サンジは畳みかけた。嫌味だって、いつもどおりきっちりと混ぜ込んだ。ああ、と少し遅れてゾロが言う。
「――早く咲かねえかな、桜」
横顔に視線を感じながら、サンジは笑った。笑えねえ、と思いながら、それでも、笑うしかなかった。
近くの道を、大型の車が通った音がした。嘘くさいくらいに、空は陽気な青に晴れていた。視界の端で、まだゾロがこちらをじっと見ているのがわかる。それに気づかないふりで、春の兆しだけを負った、桜の枝をひたすらサンジは見ていた。
長いこと、いろんなことを、気づかないふりばかりしてんな、と思う。一緒にいると、息をするのも苦しいことがある。触れることさえろくにできないのに、離したくないと思うようになったのは、いつのことだったろう。
明日になれば、サンジは十八になって、ゾロは、遠くへ行く。



血の繋がりのある人間が、周囲にはいなかった。法的な両親とは、悪い、とは言わないけれど良好な関係、とはとても言い難く、向こうも引き取ったはいいが持て余していたのだろう、以前からゾロは、サンジの家に入り浸っていることが多かった。
口と足癖が悪いジイさんと、やはり口と足癖の悪いサンジは、呆れるほどしょっちゅう喧嘩を繰り返しながらも、ゾロから見ればひどくあったかい家族で、そのせいなのか、あの家は居心地がよく、ついつい居ついてしまう。昔からよく泊まってはいたけれど、高校最後の一年ほどは、ほとんど、サンジの部屋で暮らしていた、と言っても言い過ぎではないかもしれない。
部活が終わって、あたり前のようにただいま、とドアを開けると、サンジのほうもあたり前のように、おかえり、と言った。そうして、汗くせえからまず風呂浴びろ、とゾロの背中を蹴りつけるのだ。それに一つ二つ文句を返し、あがったころには、できたての夕食がテーブルに並べられている。うめえか、と訊かれ、うめえ、とゾロはぼそりと答えて、そうすると少しだけ照れ臭そうに笑ってから、まあ、てめえにほめられてもな、と悪態をつく。
そういうもろもろが、明日からは無くなる、ということ。頭では理解していたつもりでも、実際、それがどういう感じであるのか、まだゾロには見当もつかなかった。てめえは行ったきり帰っても来やしねえだろうなァ、といつかサンジは言っていたものだ。遠回しに、帰って来るな、と言われたような気がして、ちょうどその頃から、わかりやすかったはずの幼馴染みの内面は、まったく見えなくなった。
笑顔と距離と視線は、自然さを装ってぎこちない。察するたびに、ちり、と焦げるような感覚がある。得体の知れない、不穏なこれをゾロは持て余している。なに考えてやがる、と、怒鳴りつけることも不思議とできなかった。なにより自分が、なにを考えているのかわからないからだ。そうして、そんな自分に、やたらと苛立った。
卒業式の日に、実にしまりのない顔つきで、下級生と歩いているサンジを見た。お互い彼女、らしきものがいた時期はある。サンジがどれだけ女に弱いかよく知っている。だから見慣れた光景であるはずなのに、知らず、ゾロは目を逸らしていて、それでようやく気がついた。まるで、自分のものであるように思っていたのだと。俺にだけわかるやりかたで、あいつが、俺を甘やかすから。
明日出発すると伝えると、サンジは休みのくせに、そそくさと店を手伝いに行った。
とっさに、誕生日、なにが欲しい、とその肩を掴んで尋ねたら、そのくらい自分で考えろよ、と似合いもしない、影を帯びたぎこちない顔で笑った。



「ただいま」
ベランダに出てぼんやりと、色の変わる空を眺めていると、後ろからゾロの声がした。玄関の閉まる音は聞こえていて、ちゃんと身構えていたというのに、柵に乗せていた腕が動いてしまう。今朝は煙草も吸っていない、まだ清涼な肺に、す、と空気を送ってから、おかえり、とサンジはいつものように言った。
昨夜、ゾロは帰って来なかった。
レストランから戻ると、どこにも姿が見えない。夕飯要らねえ、とだけ書き置きがあって、いつ帰る、ともなにもなく、白いメモに記されたその意外に丁寧な文字を、サンジはいつまでもただ見つめていた。
実家に戻ったのか、それとも、誰かに会いに行ったのか、もちろん気にはなったし、携帯に連絡をつけようと思えばつけられたのだけれど、やめておいた。
怖いのは結果よりむしろ自分のほうだ。
できることなら、幼馴染みのままで、笑って、手離して、送りだしてやりたかった。
「そのまま行くかと思った」
「……」
「会いたいやつには、ちゃんと会えたか?さすがに手ぶらってわけでもねえだろ。引っ越し準備は終わったかよ」
「こっち向け」
「――なんで」
サンジ、と、聞き慣れた声で名を呼ばれて、胸が詰まった。抗える、わけがないのだ。ゆっくりと、まだ深いスミレ色をした空に背を向ければ、目の前が、いきなり違う淡い色調で埋まった。
ぼうっと発光するように浮かぶ白いそれは、少し焦点をずらせば、小さく可憐な花々の集まりだった。鼻先を、覚えのある冴えた香りがふわりと漂う。
桜だ。
わかったのは、その奥の枝ぶりまで見通してからで、ぼきりと乱雑に折られた根元のほうを、ゾロが握りしめてこちらに突き出している。
「お前、これ……」
「言ってたろ、昨日」
「え」
「早く咲かねえかな、ってよ」
言われてみれば、言ったことを思い出した。サンジがあまりに呆然としているからだろう、眉間にぐっと皺を寄せた、不機嫌そうな顔で、考えてもわからねえからな、とゾロは言った。
「……探して、来たのか」
「日あたりとか、種類で咲く時期がずれるって。てめえがいつか言ってただろうが」
「言ったっけ」
「言った」
いつだってこちらの話なんかどうでもいいと、まるで聞いていない、という風にしているくせに。たしかによく見れば、ソメイヨシノとは花の形が少し違っているようで、もしかすると山桜なのかもしれない。どこかの枝を折ってきたなら、あまり褒められた話じゃないだろう。けれどとても、ゾロらしいやりかたでもあった。
やっぱり、こいつは多少の無茶をやっても、大抵の俺の願いは叶えてくれるのだ。
だから、言えねえなァと、あらためて、思った。
「忘れちまった」
サンジは静かに言った。そうかよ、と、同じくらい静かな言葉が返る。
「俺は、覚えてる」
「そっか」
礼は、とゾロは言った。花越しに目が合った。冗談など、まったく含まれていないまっすぐな表情だった。そう言えば、まだおめでとうの言葉すらも聞いていない。いつもどおり、無駄に上からで偉そうで、でもそれでもやっぱり、このバカがとても好きだった。
んなもん強要するやつがあるかよ、とサンジは無理やり笑う。ゾロはわさわさとした、立派な花束をサンジに押しつけて、それからそのまま手を伸ばし、ぱさり、と頭をはたいてきた。
「なにすんだ」
「似合わねえんだよ」
「……なにが」
「てめえはアホみてえな顔で笑ってろ」
乱れた前髪で、顔が隠れてよかったと思う。口元さえ笑っておけばきっと大丈夫だ。頭皮にほんの一瞬、触れたてのひらが熱すぎて、鼻にツンときた。
アホって、ひでえな、と笑ったつもりが、ぐ、と腹の底から込みあげるものがあって、唇を噛みしめれば、頬が、ぶるぶると震えた。みっともねえ。ゾロの前で泣くのは嫌だった。
幼馴染みのままで、なんて、いくら自分に言い聞かせたって嘘っぱちだ。俺が本当に欲しいものは、昔から、ずっと変わらない。
「アホだろ」
「……そうかも」
「変なツラ」
はは、と笑ったゾロの声が、言葉とは裏腹に、ちっともバカにしたようなものじゃなくて、とうとう震えは体中に広がって、せっかく咲き誇った花びらが、そのたびはらはらとベランダに散っていった。冷えた足の甲に、小さな薄い破片が落ちる。
「触って、いいか」
持って行く、とゾロが言う。返事をする前に、ゾロの皮の厚い指の腹が触れた。形をたしかめるように、そっとなぞっていく。知っていた。ゾロはよく、この手を見ていた。これで最後、みたいにすんな、と思っていたら、これで最後ってわけじゃねえぞ、と、こんなときばかり察しのよい男が、つぶやいた。
「てめえは迷惑かもしれねえが、んなもん知ったこっちゃねえし……俺の帰る場所はここだから」
そう言った、ゾロの声は、不遜な物言いのわりには弱く掠れている。クソ、と呻いて、サンジはとうとう、花の中に顔をずぼりと突っ込んだ。薄桃が滲んでいき、閉じた目から、水がさらさらと流れていく。だんだんとのぼってきた朝陽の、あたる場所だけがじんわりと暖かい。
迷惑なわけがねえだろとか、女の子にだって渡したくねえんだとか、笑えるくらいずっと前から、お前ばっかだ、とか。
言いたいことが、伝えたいことがたくさんあるのに、けして失いたくないものは、十八になったばかりのガキの手には余るほど大きすぎて、ただありがとう、と、すべての思いを込めて言うのが精一杯だった。





(13.04.05)





とても遅い13年サン誕。
誕生日おめでとう、あいかわらず呆れるほど大好きです。
両思いの片思いも、飽きることなく大好きです。