ラプンツェル







塞がれたようになった耳にざあざあと水音が届いて、サンジはもぞりと起き上がりカーテンを開けてみた。二度寝から覚めたばかりの体はまだ重い。眠る前は風だけが唸りながら吹いていたのだったが、予報通りとうとう雨まで降りだして、窓硝子には水滴が激しく叩きつけられていた。
二階からの眺めは見慣れたもののはずだけれど、白くけぶったような景色はいつもとまったく違うようにも見える。夏のあいだ力強い青々しさを放っていた緑が、水の粒子を跳ねながらうねるように大きく揺れていた。
いまにも千切れそうなほど電線が翻り、鈍色をした空は低く雲の流れはとても早く、あふれるような音の洪水に身を浸していると、なんだかここに閉じ込められているような錯覚を覚えた。
「……のど、乾いたな」
つぶやいてから、サンジはまだ自分が制服のままであることにふと気がついた。休校の知らせを受けたのは今朝の六時だ。電話を取ったのはゼフで、休みだそうだ、と一言伝えられた。
とうに目を覚ましていた、というよりほぼ眠れない夜を過ごしたサンジには、それを聞いたときに胸を満たした感情が、安堵なのか失望なのか自分でもよくわからなかった。
着替えもすませていたから、そのままで朝食を取った。ゼフは店のほうを見てくると言い残し、まだ風がそう強くないうちに家を出て行った。
一人になり、急な休みを持て余したサンジは、冷蔵庫をのぞいて昼食の下準備まで終えるとやることが無くなった。それでしかたなくコーヒー豆を挽きながら、ついこの前ゾロと学校帰りに寄った、オープンしたての洒落た喫茶店のことを思い出した。
男女の組み合わせか女同士ばかりの客のなかで、制服の男二人の姿はひどく浮いていた。視線を感じ、男同士でこういうとことか気色悪いんだろうな、とサンジが言うと、俺は気になんねえがとゾロは平然と言ったものだった。
自分の疚しい気持ちが見透かされたようで、お前が鈍感なんだよと悪態をつけば、てめえが誘ったんだろうがと頭を思いきりはたかれて余計に注目を浴びた。それで顔を赤くしたサンジに、ばーか、とゾロは歯を見せて笑ったのだった。
ゾロの言うとおりだった。
たしかに、馬鹿馬鹿しい話ではあるのだ。
思惑などなくそうして触れたてのひらの感触を大事にしたり、他愛のない話のなかで見せる子供のようなそんな笑顔を目に灼きつけたり、てめえ、と呼ぶときの声に種類があることをいつのまにか覚えたり、気持ちを伝えようとようやく心を決めたら台風が来て、やはりこのまま伝えずにいたほうがいいのだと思い直したり。
「ほんと、ばかみてえ」
一人ごちてサンジは小さく笑った。もうずっと、こんなことばかりだった。些細な賭けに頼らざるを得ない程度には、自分から諦める踏ん切りもつきやしない、ずいぶんと長く抱え続けた思いだった。
窓から冷気が沁みてきて、サンジはぶるりと背を震わせた。昨日までに比べぐんと気温が下がっている。何か温かいものでも、そう思いカーテンを閉めかけたとき、塀の向こうにちらりと覗く緑に目を疑った。
「――ゾロ?」
少し曇った窓をサンジは袖口で拭いた。左手に傘は持っているが差してはいない。安っぽいビニール製らしき透明なそれはたぶんとうに折れているのだろう。轟音とともに降りつける風雨に目を細め、けれどゾロはまっすぐにサンジのいるほうを見た。
ジーンズに、いつもサンジが馬鹿にするおかしな柄のTシャツを着て、見覚えのあるカバンを斜めにかけている。あたり前だが全身がずぶ濡れで、短い髪がぺたりと頭に貼りついていた。目が合うと、よう、と唇が動くのがわかり、それからゾロは片手をひょいと軽く上げた。
「……あんの馬鹿!」
ゾロが踏み出すのがわかったがサンジは待てなかった。階段を駆け下りながら、なぜゾロがやってきたのか考えてみたけれどまったくわからなかった。
今日会えたら好きだと言おうと思っていた。会えないとわかったから、今度こそちゃんと諦めようと思った。そうしたらゾロがひょっこり現れたのだ、そりゃあ動揺もする。
もどかしくスニーカーに足を突っ込んだ。ドアは風圧でひどく重く、サンジはそれを乱暴に蹴りつけた。大きく開いたそこから雨と風と草木の切れ端が玄関に勢いよく吹き込んで、上げた肘で顔を隠すようにして外に走り出る。
サンジを認め、ゾロは少し驚いたように目を見開いた。それからカバンを指さし何かを言ったが、風の音でよく聞こえず、ただ開いたその口のなかにも雨が降り込むのが見えただけだった。ゾロの手首を掴み、サンジはごうごうと吹きつける風に少しふらつきながら早足で歩いた。
玄関に辿りつくころにはサンジもずぶ濡れになっていた。ドアを閉めると、耳のなかで渦を巻くようだった音はずいぶん収まり、そこでサンジはあらためてゾロと向かい合った。ゾロが斜め下あたりに視線を向けていて、それでようやく、まだ手を握ったままだったことに気がついて慌てて離した。
歩いたら30分はかかる距離のはずだった。ゾロが頑丈なのはよく知っているけれど、それでも無事に辿りつけるかどうかなんて誰にもわからない。たとえばこんなとき、恋人ならまずは強く抱きしめるのだろう。けれど俺とゾロではそれは叶わないことだ。
ゾロのスニーカーの足元にはすでに水溜まりが出来ていて、それを見ていたらつい舌打ちが漏れた。
「――何、しにきたんだよ」
「返しに来た」
ゾロはそう言って、まんべんなく濡れて色を濃くしたカバンから一冊のノートを取り出した。もちろんそれも湿っていて、渡され手にした表面の感触はぶよりとふやけていた。
「今日中に返せって」
「――」
「言ったろ、てめえ、昨日」
うるせえからな、とゾロは顔を顰める。髪からは丸い雫がぽたぽたと床に落ちている。貸したことさえ覚えていなかった、開いてみれば文字が滲んで読めなくなったノートをサンジは見つめた。
顎から水が垂れ、は、という文字の上にぼたりと落ちてまた滲んだ。
「そういや、なんで制服着てんだ」
「……ばっかじゃねえの」
「あ?」
「ばかだって言ってんだ」
誰が馬鹿だと、ゾロの腕が髪に伸びてくる。ぐしゃりと乱雑に掻きまわす熱いそれに歯を食いしばった。湿った空気のせいか、よく知ったゾロの匂いがいつもよりも強くする気がした。
どうしたらこれを失わずに済むだろう、どうしたら、ずっとそばにいられるのだろうか。
「俺がだよ」
声が震えないように気をつけてそう言った。まったく馬鹿だ。こんなに好きだ。あきらめることなど、はじめから出来るわけもなかった。
てめえがかよ、とゾロが笑う。
なぜだかいつもよりも柔らかな響きに、ノートを握りしめたままの指に力がこもる。
たった一言、それで、たぶんすべてが変わってしまう。
開いた唇は濡れているのに、のど奥はからからに乾いたままで、ただゾロ、とその名を繰り返し紡ぐばかりだった。







(11.09.22)







昨日ふと湧いた話。高校生です。