サンジとゾロが二人ともじいちゃんです。
もじもじしているので性描写はありませんが、苦手なかたはご注意を。
大丈夫!というかたのみどうぞ。













小糠雨の降る





曇ったガラスの向こうを、細かい雨が音もなく流れている。合皮張りの黒い長椅子に腰かけ、顔だけを横に向けて、ゾロはいつものようにぼうと外を眺めていた。
遅咲きの寒椿が、溜まった雨粒の重みに耐えかねたようにときおりその花弁をぱらぱらと散らす。もとは鮮やかなはずのその色はすこしくすんで見えていた。日によってあらあらしく吹きつける潮風のせいで、いつ来てもこの診療所の窓は汚れている。けれどそれ越しのうすいような景色を、ゾロはけして嫌いではなかった。
若いころには思いもよらなかったことだ。こうして季節の花々や天候の移ろいを意識し、それをうつくしくこのましく感じるようになったのは、いったいいつごろからだったろうかとゾロは思う。
傘は持ってきていなかった。出がけに見あげた空はどんよりと曇ってはいたが、あと数時間は持ちそうだと、そう判断してのことだった。天候を読むのには自信があるけれど、春先の天気は変わりやすい。これ以上ひどくならなければいいが。そう思いながら、ゾロは待合室に置かれているちいさなテレビの画面に目を移した。
建物と同じで古ぼけているそれは、ときおり画像ががさがさと乱れ、側面をなんどか叩くと治る。ゾロも叩いたことがあった。力は強すぎても弱すぎてもだめで、あんがいコツがいって難しい。
朝のワイドショーが物騒な事件を報じている。アナウンサーの口調がどこか軽いせいか、内容のわりに悲壮感はさほど感じなかった。聞くともなく聞きながら、左上の、時刻を知らせる白い数字を、ゾロは見つめた。
9時10分。

がら、と引き戸を開ける音がして、ゾロは視界の端にそれを拾った。白髪の老女が手押し車を押しながらゆっくりと入ってくる。顔見知りだった。たしかリウマチを患っている。
「おはようございます」
ゾロの座っている長椅子の横を通りすぎるときに、おたがい軽く頭を下げる。待合室には三人がけの長椅子がぜんぶで五つあり、それぞれに、いまは一人ずつが座っていた。
そのまま、彼女は一段高くなったところにある、畳を敷いたスペースのほうへ向かった。そこには数人の先客がいて、そのうち二人は向かい合って碁を打っている。
ゾロはふたたびテレビに視線を向けた。いつのまにか洗剤のコマーシャルに切り替わっている。青い空に、はためく白いシーツ。タレントは変わってもその二つはずっと変わらない。さきほどよりも二つ、表示は時を進めていた。
は、と湿った息が漏れて、自分が知らず息をつめていたことを、ゾロは知った。


     *


一年ほど前から、ひと月に一度のペースで、ゾロはこの診療所に通っている。
海辺のちいさな町には、病院は数えるほどしかない。家からほど近い、ここの存在を前から知ってはいたものの、病気知らずのゾロにはずっと無縁の場所だった。
ところが去年、正月明けからなんとなく体がだるく、食欲が落ちて、酒の味がまずくなった。
この海でゾロは漁師をしていた。体力勝負の仕事だから、体調の悪さはじかに家計に影響する。胃の不調を平気平気と放っておいて、見つかったときにはすでに末期がんだった、若くして先に逝った妻のことも頭をよぎった。あなたは長生きしてねと、それが遺言だったのだ。覚えているかぎり生まれてはじめて、ゾロは病院というものに行ってみる気になった。
結果から言ってしまえば、ゾロの不調は酒の飲みすぎによる肝炎だった。
海の男には大酒家が多い。ゾロも例外ではなく、昔から浴びるほどに飲んでいた。飲まないという日はなかったけれど、これまではまったく平気だったのだ。もうお前は若くはないのだと、自分の体に思い知らされた気がした。
「週に一日でいいので、飲まない日を作ってください。それ以外の日も、いまよりすこし控えめに」
主治医にあたるその女医は言った。数値はそれほど高くないので、まずはそれで一ヶ月後に再検査をしてみましょう、と。
物腰はやわらかく、説明はわかりやすかった。酒を完全にやめろと言われるかと思っていたゾロはずいぶんほっとした。
一ヶ月後、ふたたび血液検査をしたとき、肝臓の数値は正常に戻っていた。もともと肝臓がおつよいんでしょうね、と女医は笑った。
「検査を怠るとまた飲みすぎるかたが多いですし、血圧も高めです。これからは、月にいちど受診をするようにしてください」
つやりと光る黒い髪を揺らし、ゾロの返事を聞かぬまま次の予約を彼女はいれ、かならず来てくださいね、と口元をほころばせた。



男に声をかけられたのは、三度めの受診のときだった。
大型連休が明けたばかりのせいか、その日は患者の数が多かった。定員を満たすことのめったにない長椅子も、めずらしいことにほぼ満席になっていた。ちいさな診療所であるから顔見知り同士のものも多いようで、テレビの音量よりは控えめな話し声がそこかしこから聞こえていた。
ゾロの右隣には、いかにも生活習慣病を患っていそうな、恰幅のよい中年男性がどっしりと座っていた。そう暑くもないのにハンカチでしきりと額の汗をぬぐっている。
いつもよりも待ち時間は長かった。ゾロはいつのまにか眠気に襲われ、腕組みをしてしゃんと背筋を伸ばしたまま、うなだれた頭をゆらゆらと左右に揺らしていた。
「――座ってもいいですか?」
ふいに深みのある声が降ってきて、ゾロは顔をあげた。
すこし細めた瞼の奥、青みがかった透明な瞳がゾロを見下ろしていた。

ゾロはその男に見覚えがあった。
はじめてここに来たとき、診察を終え、ふたたび待合室へ向かっていると、出入り口ちかくにある喫煙所にこの男が立っている姿が見えた。
喫煙所、とはいってもついたて一つあるわけでもない。ただ細長い円筒状の灰皿が無造作に置いてあり、壁に手書きの文字で、「お煙草はここでお願いします」と書かれた張り紙がしてあるばかりである。そこの黄ばんだ壁にゆったりと寄りかかって、男は慣れた仕草で煙草に火をつけた。うまそうに吸いこむ。
思わず目を止めた理由は、男がこの辺りではめずらしくジャケットにスラックスという、かっちりとした格好をしていたからかもしれない。
白髪ともちがう褪せた髪が、やや薄暗い室内でやわらかく光っていて、あれはどういう色合いなのだろうかと、じっと見ていたら目が合った。
男は一瞬、わずかに表情を揺らがせたように思われた。
かすかな変化はしかし、泡のようにすぐに消えさり、男は微笑みと取れる形に目尻をすこしだけゆるめ、ゾロに向かって軽く頭を下げた。ゾロもそれにつられるように頭を動かし、そのまま彼の前を通り過ぎた、それが、一度め。
二度めのときも似たようなものだ。受付から名前を呼ばれて立ちあがったときに、ちょうど引き戸が開き、そちらに目をやった。ああ、この前のやつだ、とゾロは思った。
男もゾロを見て、たぶん同じことを考えて、顔だけは知っている、くらいの間柄でよくそうするように、なんとなく視線を交わしあった。男との距離は前のときよりは近く、彼の髪がもとは明るい金髪であったろうことと、背丈がちょうど同じくらいであることが知れた。
そしてこれが三度めなのだった。

「あの、」
もういちど聞かれ、考えを散らしていたゾロははっとした。
めずらしく動揺し、どうぞ、と答え、すこし右に体をずらそうとして隣の男の存在を思い出し、結局は座面に張りついた尻をもぞりと動かすだけにとどめた。男はどうも、と言って、ゾロの左隣にすっと腰を下ろした。
入れ替わるように看護師がやってきた。患者らしき名前を呼び、ゾロの右隣の男がはい、とやけに高い声で返事をした。その中年男が席を立つと、おおげさではなく椅子がすこし浮きあがるような感じがした。
ぽっかり空いた横の席に移動するかどうか考えて、考えているうちにちがう患者がやってきてそこに座ってしまった。行動する前に躊躇することも、ゾロにとってはとてもめずらしいことだった。
ゾロは隣をちらりとうかがった。男はただじっと前を向いて、ときどきノイズの入るテレビを静かに見ていた。そういえばはじめて見たときも、佇まいの静かな男だなと、そう思ったことをゾロは思い出した。
たとえばこういうとき、この前もお会いしましたね、などと気軽に自分から話かけることができれば、人づきあいというものは円滑にいくのだろう。けれどゾロはそういう社交が昔から苦手だった。妻に先立たれ、息子が成人して都会に住み移ってからはずっと一人暮らしで、長いあいだ人との関わりが希薄なまま生きてきた。
漁師仲間もいるにはいるが、仕事のつきあいに留まっていて、自分の領域に踏み込ませることはほとんどない。そのほうが気が楽だと思っているから、とくにそれに不満をいだいたこともなかった。
「潮の香りがしますね」
とうとつに声がして、それが横にいる男のくちびるから発せられたものだということに気がつくまでに時間がかかった。
男のほうに顔を向けた。さきほどの瞳がゾロを見ていた。この色は何かに似ている、と思って、ゾロはすぐに思い至った。
浅瀬の澄んだ海水の色だ。港から漁船を出すとき、早朝のまだ若い陽の光を通して海底がゆらりと透ける、ゾロがこのむその色だった。
ゾロが黙っているのをどう捉えたのか、男はすこし困った顔をして、すみません、と笑った。いえ、とゾロはようやく返事をした。
「……漁師を、やっているんです」
だから潮の匂いが染みついていて、と続ける。そうでしたか、と男はうなずいた。
この仕事を恥じたことなどもちろんないが、おそらくは同じくらいの年の頃にもかかわらず、なにやらよい匂いをさせているその男に改めてそう言われると、腹の底がかっと熱くなるような感じがした。
男はすん、と鼻を鳴らすと、目尻に刻まれた皺を深めた。
「すきな匂いです」
「……は?」
「潮の匂い。昔から海に憧れていましてね。この年になってようやく縁が巡ってきて、半年ほど前によそから移ってきたばかりなんです」
「そう、ですか」
こんな田舎にはめずらしく、男の服装や醸し出す雰囲気が垢ぬけている理由が、それでわかった。おそらくは都会のほうの出なのだろう。
男の話す声はゆったりとした呼吸のように落ち着いていて、ひどく聴き心地がよかった。
「漁師をされてらっしゃるんなら、ひょっとしてご存知ないですか? この近くの割烹旅館の板長をやっているんですが」
男がくちにした老舗旅館の名を、ゾロはよく知っていた。半年くらい前に板長が変わってから、この辺りの観光客を増やし続けていると、漁師仲間のあいだでもときどき話題にのぼる名前だった。
前の板長のときは、見習いの者が魚市場で魚を調達していたのだが、新しく来た板長はこだわり派で、みずから市場に出向き新鮮な魚を吟味しているという話だった。
気に入れば捕った漁師の名まで尋ねるのだと、いつも世話になっている市場の親父が感心したように言っていた。
ゾロの名をなんどか答えたことがある、と。
「――知っています」
ゾロは答えた。声がのどに貼りつくような感じがした。ご存知ですか、と男は応じた。
「そうだ、肝心の自己紹介がまだでしたね」
男はサンジと名乗った。
続けてゾロが名乗ると、サンジは目を見開き、驚いた顔でじっとゾロを見て、それから、ますます笑みを深めた。
ゾロの名を覚えていたらしかった。はじめの物静かな印象よりもずっと、サンジは感情表現が豊かなタイプであるようだった。
あらゆる点で俺とは違う男なのだ、とゾロは思った。
「どうやら、あなたともご縁があるみたいですね」
これからもよろしくお願いします、とサンジは笑んだまま言った。
ゾロは、ぎこちなく、首を縦に振った。



それからも月にいちど、ゾロはサンジと診療所で顔を合わせた。
サンジはいつもゾロよりすこし遅れてやってきた。9時10分前後になると、引き戸をがらりと開けて入ってきて、受付を済ませ、ゾロが端に座っている長椅子にかならず一人ぶんスペースを空けて座った。
三度めにはじめて言葉を交わしてからは、二人は待ち時間のあいだにたわいない会話を楽しむようになっていた。通院が長くなるにつれ、顔なじみは増えていったけれど、毎回かならず顔を合わせるのは不思議とサンジだけなのだった。
あるとき、なぜここにかかっているのかという話になり、サンジが胃潰瘍もちで、定期的に検査をして胃薬をもらっているのだということがわかった。胃が悪いと味覚がおかしくなるからすぐわかるんです、とサンジは語った。
ゾロが自分の理由を話すと、ああ、たしかにあなたはお酒が強そうだ、とサンジは言い、今度うちに食べに来られたらいいですよ、刺身に合うおいしいお酒を揃えてありますから、とやわらかく笑んだのだった。
サンジはよく喋る男だった。ゾロにはそれが楽だった。自分から話題を考える必要がないからだ。
サンジが話し、ゾロは聞く。ときどき質問をされたときには、それに対して短く答えれば、サンジがうまく話を広げてくれた。
わずか数分の会話でも、積み重なれば相手への知識は徐々に増えていく。サンジについていくつかのことをゾロは知った。はじめの印象で、自分とは違う男だと思っていたサンジにも、ゾロとの共通点はあった。
同級であること。息子と孫がいること。早くに妻を亡くしたこと。現在も独り身であること。
ただしゾロと違ってサンジは、いまは孫と二人で暮らしているらしかった。保育園に通っていて、そこに孫を送ってから診療所に来るのだとサンジは言った。
「反抗期真っ盛りでして。言うことだけは一丁前で、扱いが大変です」
サンジはときどきそうぼやいた。
たまに遊びに来るゾロの孫も同じくらいなので、その気持ちはよくわかった。

知り合って一年ちかくが経ち、サンジについての知識は増えるばかりだったが、あいだに見えない人間がどん、と一人居座っているみたいに、二人の隔たりがそれ以上近づくことはなかった。
サンジの言葉づかいはずっと丁寧なままだったし、ゾロも同じだった。診察が終わり、会計が済めば、おたがいに会釈をしあい、ゾロは診療所を出た。そうして、また次の月に顔を合わせ言葉を交わした。その繰り返しだった。
サンジの旅館に訪ねていくことはしなかった。ゾロとて社交辞令くらいはわかるし、真に受けてサンジの前で恥をかくのは嫌だとも思った。
市場の親父からは、あいかわらずサンジがゾロの名をたびたび尋ねていく、と聞いていた。
自分の名がサンジの耳に届き、捕った魚をサンジがさばいて、客たちの舌を楽しませる、それがなんだか誇らしくて、ゾロはいっそう漁に精を出した。
天候の悪い日以外は漁に出て、夜になれば一人で適度に酒を飲んだ。


晴れた朝には、船を出す前に浅瀬を覗き込んだ。
薄青の水がかすかに揺らめき、網目のような複雑な模様をえがいて光るのを、ゾロは、しばらく見つめた。


     *


ゾロの名が呼ばれ、診察が終わり、待合室へ帰っても、サンジは現れなかった。
ゾロは元の席に戻った。時刻は9時半を過ぎようとしていた。
受付からふたたび名を呼ばれ席を立つときに、ふと窓の外を見やった。雨はさきほどよりも勢いを弱め、霧のように風景を白くぼやかしていた。小糠雨だな、とゾロは思った。
会計を終えて外に出る。吸いこむ空気に水の粒を感じた。風のつよい日には、吹きあげられた海水が雨と混ざり、くちのなかにほのかに潮が広がる。今日は、風はほとんどなかった。
軒下で立ちどまり、てのひらを返して腕を前に伸ばしてみる。雨があたる感覚ははっきりせず、日にやけた赤銅色の皮膚がしっとりと湿りゆくだけだった。
今日はもうサンジは来ないのかもしれない。よく考えたら、これまで毎回一緒だったほうがおかしいのだった。そう思って、ああそうか、俺はいつもあの男を待っていたのだ、とゾロはようやく気がついた。
月にいちどだけの、いくつか言葉を交わすだけの、あわい逢瀬を、いつのまにか心待ちにしていたのだ、と。

ぱしゃ、と水を踏む音がしてゾロはそちらに顔を向けた。
子供用だろうか、柄のないちいさな赤い傘を差して、そこにはサンジが立っていた。
「――ま、にあった!」
走ってきたのだろう、いつも櫛の通っている髪はぼさぼさにみだれ、肩でする呼吸は荒く、顔は上気して赤らんでいた。盛大に顔をしかめると、あっぶねえあのクソガキのせいで会えねえところだった! と悪態を吐く。
ゾロは伸ばしていた腕をゆっくりと下ろし、呆気にとられてサンジを見つめた。そのありさまも、言葉づかいも、ゾロの知るサンジとはあまりに違っていたからだった。
傘を差したまま、膝に片手をついて呼吸を整えていたサンジが顔をあげた。ゾロがよほど驚いた表情をしていたのだろう、しまった、というような顔をし、赤い顔をますます赤らめて視線を下向けた。
訊きたいことは、伝えたいことは山ほどあるような気がしたけれど、ゾロは、声を出すことができなかった。雨にけぶる景色に浮きあがる赤い傘と、伏せ気味の瞼から覗くサンジの青い瞳に、じっと見入るばかりだった。
二人ともそうしてしばらく黙っていた。
ゾロの背後の扉が開き、さきほどの押し車の老女が腰を曲げて出てくる。ゾロは邪魔にならないように脇に寄った。サンジもそれに倣う。
老女は二人に頭を下げ、折りたたみ傘を開くと、駐車場に停めてある、エンジンのかかったままの車のほうへ向かった。娘だろうか、女がすぐに運転席から出てきて、老女の押し車をトランクに乗せる。
ゾロが顔を戻すと、サンジはもう、ゾロを見ていた。傘を持っていないほうの手でみだれた髪を撫でつける。
「誕生日、なんです、今日」
――俺の。
サンジは一語ずつ、区切るように言った。その顔は傘の色が移ってしまったかのようにまだ赤かった。
ゾロは、やはり言葉をつむぐことができず、黙ったままうなずいた。
「ちょうど一年前、あなたとここで出会ったのも同じ日でした」
さすがにこの年になったら、誕生日なんてうれしくもなんともないと思っていたのに、あなたをはじめて見たとき、ああこれは何かの贈り物なのかなと、それならひとつ年をとるのも悪くないなと、そう思ったんです。
サンジはところどころつかえながら言った。いつもは落ち着きのある低い声はうわずっていて、思慮深げな瞳は不安そうに揺れていた。
老女が乗った車が、ざざ、と波のような音を立ててゆっくりと車道へ出る。
黒い車体はまんべんなく濡れてつやつやしている。
それが二人の近くを通り過ぎ、だんだんと速度をあげて、道の先に消えていくのを見届けてから、ゾロは、ようやくくちを開いた。
「……行ってこい」
ゾロは言った。
口調をこんなふうに普段のものにくずすのは、ゾロもはじめてだった。
え? とサンジが訊きかえす。
「診察。終わるまで、ここで待ってる」
こんどはサンジが、呆気にとられた顔でゾロを見つめた。
それから急にはっとした顔になって、おう、待っとけ、すぐ来る、すぐだからな、待っとけよ、となんども念を押し、赤い傘を閉じて傘立てに投げ入れると、勢いよく引き戸を開けた。



サンジはほんとうにすぐに出てきた。
どうやら無理を言って薬だけ処方してもらったらしかった。
慌てていたせいでまちがって持ってきたという、サンジの孫のちいさな傘に、いい年どころではない男二人せまくるしくおさまって、漁船がいくつも浮かぶ港沿いの道を歩いた。
そのあいだも、春の雨はやさしく、ただ静かにすべてのものに降りそそいでいた。
道すがらサンジはこれまでの話をした。
気にいられたくて丁寧な態度をくずせなかったこと。ゾロの診察日を受付で聞いて同じ日に予約を入れてもらっていたこと。遠まわしな誘いにゾロが反応しないから、きっと見こみがないのだとあきらめかけていたこと。魚市場でゾロの名を聞くたびに、うれしいような、もどかしいような気持ちになったこと。

つぎにゾロと会えるのを、毎日の糧にして、会えない日々を過ごしていたこと。



さきにゾロの家に着いた。
あがってくか、とゾロがなにげなく訊くと、いいのか、とサンジはうかがうように言った。
もっと余裕のある男だとばかり思っていた。けれどその思い違いも、不思議とゾロには、このましく思えた。
「ケーキなんてしゃれたもんはねえけどな」
せいぜい饅頭くれえだ。
ゾロが言うと、それでいい、あんたがいるならそれでいい、とサンジは真顔で、首がもげるのではないのかと思うほどぶんぶんとうなずき、それがおかしくて、ゾロは、ひさしぶりに声をあげて笑った。





                                        (10.03.12)





遅れましたが、10年サン誕です。
いくつになって出会っても、二人は恋に落ちちゃえばいいよ、と思います。
誕生日おめでとう!!

老人祭りにも投稿させていただきました。