ビサイド




つめたい雨は朝がたまで降り続いた。
一限が終わるころから、空は明るさを取り戻し、昼休みのいまはまぶしいほどの上天気だ。青い、青い空に、光をふくんだ薄い雲がゆるやかに流れている。
サンジは学食のテラス席に座ってぼんやりと煙草をくゆらせていた。午後の講義がそろそろ始まる時刻で、サンジの目の前を、学生たちがすこしばかり慌てた様子で行き交っている。
ほんとうはサンジだってそろそろ席を立つべきなのだ。けれどどうしても動く気にはなれなくて、こうしてぼうっと景色を眺めているのだった。
図書館前にある大きな銀杏の木の、半分ほど残った黄色い葉が、白い陽射しをきらきらと美しく跳ねかえしている。サンジは携帯灰皿に煙草の灰をとんと落とした。湿り気をおびた北風が、細かな灰を音もなく散らした。
見なれた景色のなか、見なれたあの緑色を、見つけることはまだできないでいる。



ゾロが帰ったのは日付けが変わったすぐあとだった。
「そろそろ帰る」
ゾロが言い、おもむろに立ち上がった。携帯と財布をジーンズのポケットに無造作につっこむ。そうか、とサンジは飲みかけのビールに口をつけながら言った。いつものようになんの連絡もせず、ふらりとサンジの部屋へやってきたゾロは、やはりいつものように唐突に帰りじたくを始めた。
そのすこし前から、ゾロはちらちらと時計を確認していた。
一限から代返のきかない講義がある。それで、ゾロは時間を気にしているのだろう、とサンジは思っていた。講義棟にたどりつくのにも、それからさらに講義室にたどりつくのにも時間がかかるゾロなので、朝いちの講義に出るためにはかなり早起きをしなくてはならないのだ。
こうして平日に、ゾロが夕飯と酒をたかりにやってくることはときどきあって、泊まってけば、とサンジはなんどか言ってみたことがある。そうしたら朝は起こしてやれるし、一緒に行けば迷わなくてもすむだろうから。
けれどそのたび、ゾロはなんだか困ったような顔をしてそのうちな、などと似合わぬ曖昧なことを言い、どんなに遅くなっても徒歩で15分ほどの自分のアパートへと帰っていくのだった。
「こんどはちゃんと連絡してから来いよ」
 靴を履いているゾロにサンジが言うと、ゾロは不思議そうな顔をした。
サンジは料理が得意だった。来るとわかっていれば、もっといいものを作ってやることができる。けれどゾロ相手にそんなことを言うのもなんだかな、とサンジは思って、ほら、女の子がいるかもしんねえだろうが、と笑いながらうそぶいた。
「……そうだな」
ゾロは静かにそう言った。サンジはすうっと笑いをひっこめた。
てっきり悪態を返してくると思ったのに(たとえば、てめえにそんな甲斐性あんのか、とかなんとか)、ゾロがやけに素直にそう言ったから、サンジは自分がなにかとてもひどいことを言ってしまったような気がした。
「冗談だよ」
「……」
「冗談だって。いま彼女いねえし。じゃなきゃこんなしょっちゅうお前なんかと一緒にいねえよ」
場を和ませようと軽口をたたけばたたくほど、二人のあいだには重い澱みたいなものがどんどんと溜まっていった。夜更けの玄関は肌寒く、そのせいなのか、ちいさな蛍光灯に照らされたゾロの顔はいつもよりいくぶん青白く見えた。
なんとなくその顔を見ていたくなくて、サンジはゾロの履きこまれたスニーカーの紐のところに視線をずらした。紐の色は黒だった。結び目のさきが紺色の靴の丸みにしんなりと沿っていた。
「サンジ」
ゾロがふいに名を呼んだ。サンジは顔を戻した。
なに、と返事をする前に、温かくやわらかなものがサンジのくちびるにそっと、押しあてられた。
左手の指のあいだに持ったままだった煙草がぽとりと床に落ちて、サンジは慌ててそれをひろいあげた。それからゾロを見たら、ゾロはサンジにときどき見せる、感情の読みとれない表情でサンジをじっと見つめていた。
その唇が光って見えて、ああ俺はいまゾロにキスをされたのだ、とサンジはやっと思って、驚きと困惑と焦燥とがないまぜになったような、とにかくまあサンジはものすごく混乱して、たぶんいちばん間抜けな言葉を口にした。
「……俺は男だぞ」
「知ってる」
ゾロはさきほどまでの無表情がうそみたいに笑って、それから、その顔のまま、じゃあな、と言った。
静かに閉じられたドアの前でサンジはしばらく立ちつくした。

ゾロが帰ってほどなくして雨が降り始めた。サンジはぐちゃぐちゃとした気持ちのまま、とにかく布団をかぶって寝てしまおう、と考えた。
夜が明ければ、いつもどおりの朝が来るはずだ。タイミングよく降りだした雨がきっとすべてを洗い流して、またゾロとこれまでどおりに喧嘩したり馬鹿話をしたり合コンに行ったりすることができるだろう。
けれど眠りはいっこうに訪れる気配すらなく、サンジはひと晩じゅう静かな雨の音を聞きつづけ、カーテンのすきまから染みる夜の色が移り変わるのを感じていた。
朝が来れば消えると思っていた、ゾロの唇の感触はくっきりと残ったままだった。
顔を洗い、歯を磨き、口をゆすいでいるとき、そう言えば帰りぎわ、いつもはまたな、とあいさつをするゾロが、あのときにかぎってじゃあな、と言ったことを、サンジは急に思い出した。
向けられた広い背中が、ほんのわずか、震えているように見えたことも。



ゾロは一限に現れなかった。二限になっても、昼休みになっても、ゾロは姿を見せなかった。
携帯にかけることはしなかった。もしつながらなかったらと考えたらなんだか怖いような気がしたし、じゃあつながったからといっていったい何を話せばいいのだろうとサンジは思った。
「あいつ、単位ぎりぎりなのにね」
さきほど、学食で昼食を取っているときだ。ナミがきれいな形の眉をひそめて言った。
サンジはたいてい弁当持参なのだが、今朝は作る気にもなれず、いつもゾロが食べている日替わり定食をもそもそと食べていた。
ナミとゾロは幼なじみだ。文句を言いながらも、ナミはなんだかんだとゾロの世話をやく。
「昨日の夜はサンジくんと一緒だったの?」
「……うん、まあ」
「ふうん、あいつもさみしい男ねえ」
にやにやとナミは笑った。
「どうして?」
サンジが訊くと、あら、知らなかったの、とナミはすこし驚いた顔をした。
「ゾロ、今日が誕生日なのよ。恋人でもいれば、一緒に過ごしたりするもんでしょう」
まああいつにそんな情緒があるかどうかは疑問だけどね。そう言って、ナミはまたサンジに笑いかけたけれど、サンジは、うまく笑うことができなかった。
ゾロが時計を気にしていた理由が、それで、サンジはわかった。


あいかわらずぼんやりと、ときおり葉を散らす銀杏の木を眺めながら、サンジはずっとゾロのことを考えていた。考えれば考えるほど、胸の奥のほうが、ありえないくらい太い針でぶすぶすと刺されたように痛んだ。
そしておそらくゾロは長いこと、もっとひどい痛みを、あのぶっきらぼうな態度の下に隠していたのだろうと思った。こういうことにはわりあい敏感なサンジが、まったくそれに気がつくことができないくらい、完璧に。
ながいあいだ外にいるせいで身体が冷えはじめている。あと数分で予鈴がなる時刻だった。
大きなくしゃみがひとつ出て、サンジはすん、と鼻をすすってから、ようやく重い腰をあげた。そしてもういちどなにげなく図書館のほうに目をやったときに、建物のくすんだ茶色に浮かびあがるような若草色が視界に入った。
サンジは思わず立ちすくんだ。ゾロの横には見覚えのある女の子の姿があった。同じ学年のちがう学部、なんどかゾロも一緒に飲んだことがある子だ。ゾロに気があるそぶりを見せていた。彼女はちいさな紙袋なようなものを持っている。誕生日プレゼントなのかもしれない。
サンジには自分のゾロへの気持ちがまだよくわからなかった。だって昨日まで、ただの友人だと思い込んでいたのだ、サンジにとってはあまりに急な展開すぎる。
だけど、ゾロの隣に立つ女の子の姿を見て、あの場所は誰にも渡したくねえなあ、とサンジは強く思った。
気がついたら走り出していた。
風がぴしぴしと痛いくらい頬を打つのもかまわず走った。
紙袋を持ったまま、びっくりした顔をしている女の子にごめんね、とひとことあやまり、サンジはゾロの手を握ってその場所から連れ去った。はじめて触れたゾロのてのひらは硬かったけれど、とても心地のよい温かさで、サンジの冷えきったてのひらと不思議なくらいしっくりとなじんだ。
ぜんぜん嫌じゃない。そういえばあのキスだって、驚きはしたけれど、嫌だなんてこれっぽっちも思わなかった。
なんだこんな簡単なことだと、はあはあと息があがるほど全速力で走りながら、サンジは思わず笑いだしそうになった。こんなに本気こいて走ったのはいつぶりだろうとサンジは思った。
ひとけのない講義棟裏まで来て、ようやく立ち止まっても、サンジはゾロの手を離そうとはしなかった。
「た、んじょうび、おめでとう」
膝に片手をつき、肩で息をしながらきれぎれに言う。そうして、顔をあげてゾロを見た。
「……おう」
ありがとう。
悔しいことにほとんど息を乱していないゾロは、サンジがひそかに太陽みたいだなと思っていた、口を大きく開けるいつものやりかたで笑った。
それから、サンジの手をぎゅっと握ったまま、ありがとう、ともういちど、言った。


プレゼントはなにがいい?とサンジは訊く。
もうもらった、じゅうぶんだ、なんてけなげなことをゾロが言うから、今日はずっと一緒にいようぜ、と思わず口をついて出た。
「うまい飯作ってやるよ。で、泊まってけばいい」
今日なんども思い出した、くちづけの感触をサンジはまた、思い出す。ゾロはぎょっとしたように目を見開いた。てめえ意味わかってるのか、とでもいいたげだ。
「……襲うかもしれねえぞ」
目つきするどく強面で言う、その耳のきわがもみじのように赤く染まっている。
なんだよこいつもしかしてすげえかわいいんじゃねえの、とサンジは思って、思ったとたん、心臓がばくばくと鳴りだした。また、ぽろりと本音がでる。
「できれば、俺が襲いてえなあ」
「――!」
「な、お、おっまえ、なんつー顔を……」




                                         (09.11.04)




ゾロ誕第1弾。VS!!で配布したペーパーより再録です。
あ、ほんとに爽やかだ…と、読んだお知り合いのかたから認定いただけました。
サンジに片思いのゾロを書くの、とてもすきです。でも最後はぜったい両思い。だってサンゾロだもの。
誕生日、おめでとうゾロ!