傘がない 待ち合わせ場所にゾロはひとりでやってきた。 天気予報は午後から雪。人でごった返す日曜の町を、白い息を吐きながら三人で歩く。 空は重そうな雲にたっぷりとおおわれ、今にも降りだしそうな色をしている。ねんのためにと持ってきた傘が、歩くたび足に触れて邪魔だった。いつだったかゾロと一緒にコンビニで買ったビニール傘。 きんと冷えた安っぽいプラスチックをサンジは右手で握り込んだ。コートのポケットに突っ込んだ左手が、それでもひどく冷たい。 「寒いね」 彼女がサンジの顔を覗き込んで言う。 「そうだね」 サンジも彼女の方を向いて答える。彼女がサンジのコートの肘のところをぎゅっと握る。布の中で腕が、ぎしり、とこわばるのを感じた。 いつもなら横にいるはずのゾロは、少し後ろを歩いていた。全身で、ゾロの気配を感じながら、彼女の手をふりほどくこともできずにサンジは歩き続けた。つめたい風がびゅうびゅうと耳元で鳴っている。みだれた髪が目に入り痛かった。 映画を見に行こうと言い出したのは彼女だ。クラスで一番の美人で、性格もよくて、おまけにサンジのことを好きらしい、女の子。たまたまその場にいたゾロにも彼女は声をかけた。ゾロも女の子連れておいでよと、何の悪気もない笑顔で。 そうだな、とゾロも笑った。サンジは、笑えなかった。あてなんかくさるほどあるはずだ、ゾロに憧れてる子はたくさんいる。 だけど、ゾロは、ひとりでやってきた。 映画は気楽なアクションもので、恋愛映画ではなかったことを、サンジは心底ありがたく思った。 「学生三枚」 サンジが三人分をまとめて払う。いくらだ?とゾロが訊く。ゾロの様子はあっけないくらい、いつもと何も変わらなかった。薄暗い館内はすでに予告がはじまっている。サンジの左にゾロが、右には彼女が座った。 内容などほとんど頭に入ってこなかった。体の左半分が石になってしまった気がした。大してうまくもないキャラメル味のポップコーンを、ひたすら、ぼりぼりと食べる。 彼女がときおり、サンジの横顔を見つめているのがわかった。やたらとのどが渇く。暑さを感じて着込んでいたコートを脱いだ。膝に置くときに触れた傘が、倒れて床にあたり、かつんと大きな音を立てる。サンジはまた傘を持ってきたことを後悔した。 ふと気付けば映画の中では、敵同士だったはずの男女が、いつのまにか恋に落ちている。簡単なんだ。サンジは思った。 男と女なら、好き合ってさえいれば、あきれるほど、簡単なはなしだ。 飲み物の入った紙コップへ伸ばしたサンジの指に、ゾロがふいに上から手を重ねた。サンジはゾロの方を見る。ゾロはまっすぐ前を見ていた。整った男らしい横顔が、スクリーンの光を跳ね返してちらちらと白く光っていた。節のめだつ指は、かすかに震えていて、声をかけようとした瞬間、すっと離れた。 ゾロは前を見たまま、わり、やっぱ帰るわ、と言った。 黒いダウンジャケットを掴むと、そのままサンジの方を見もせずにゾロは席を立った。 「なあ、ほんとに良かったの?」 「なにが」 なにがって、ほら、さっきのさ。 言いながらサンジは前髪をつまむ。先の方を持って、ねじるように動かしている。言いにくいことを言うときの、それがサンジの癖で、そういうことを知る程度には、ゾロとサンジは仲が良かった。 幼い頃からのつきあいだ。家はごく近い。こうやって登下校を一緒にすることもたびたびある。初恋がいつかも、相手が誰かだって、お互い知っている。 「俺に女のあてがないとでも思ってんのか?」 わざと茶化すようにゾロは言った。 「思ってねえよ。そんなんじゃねえ」 サンジは少し潰れた声で答えた。右手に持った閉じた傘を、無意味に大きく振っている。 朝から降り続いた雪は昼過ぎに止んだ。一面の銀世界が、いまは見る影もなく、べちゃべちゃした泥の色に変わっていた。歩くたびにはねて、靴からじわりと沁みこんでくる。 「……じゃあ、何だよ」ゾロが言う。 「別に。お前がいいなら、俺はいいよ」 言って、サンジは髪から指を離した。 何を言わせたいかなんてわかっている。だけどゾロは気付かないふりをする。 ずっと一緒にいて、もっと一緒にいたくて、これを親友とか幼馴染とかいうそんな簡単な言葉で、くくっていいものかゾロにはよくわからない。 「あ、雪」 サンジの声につられるように空を見上げた。また雪が降り始めていた。気温が朝より高いせいか、それはみぞれ混じりで、肌に触れるとすぐに溶けて冷たい水にかわる。 「傘」 サンジがゾロの方を見ずに言う。 「一緒に使う?」 声はいつもよりいくぶん細い。白い肌が雪に映えてまぶしかった。まぶしくて、目を逸らした。 「野郎同士で、気色わりいだろ」 ゾロは笑ってそう言った。つよく踏み込んだかかとが泥水を跳ねさせる。あいかわらず白い傘はぶんぶんと揺れている。 サンジは何か言いたげに口をすこし開け、でも何も言わずに、また閉じた。それから、ゾロの方を向いて、そうだよなー、と笑った。 ゾロが傘を持たないことをサンジは知っている。 一度も使われない傘を、それでもサンジが持ってくる意味を、痛いくらいに、ゾロは知っている。 知っていて、二人してばかみたいに、濡れたからだを冷やし続けている。 外は雪だった。 粒子の細かい、さらりとした雪が、しんしんと降っては視界をさえぎる。人ごみをかき分けながらサンジは走った。途中で、傘を忘れたことに気が付いた。どうでもいいと思った。傘はまた買えばいい、だけどゾロの代わりなんてどこにもない。 駅の手前で緑の頭を見つけた。手を伸ばして後ろからそのしっかりとした手首をぎゅっと掴む。驚いた顔をしてふりむいたゾロの手を、そのままひっぱって、裏手の児童公園まで急ぎ足で歩いた。 小さな公園には誰もいない。カラフルに塗られたすべり台の表面に、もううっすらと雪が積もり始めている。砂場には作りかけの小さな山。横に、赤いシャベルとバケツ。持ち主を待つかのように、さみしげに転がっている。 サンジはゾロの手首を掴んだまま、砂場の前で立ち尽くした。ゾロも黙ったままぴくりとも動かなかった。公園脇の車道をときおり車が行きかう。それが過ぎると、耳に届くのは、互いの息づかいだけだった。 最近はゾロといるといつもこうだ。他愛ない軽口ならいくらでも出てくる。けれど大事なことは何ひとつ口に出せない。 サンジは前髪に手をやった。親指と人差し指でつまんで髪をひねる。ゾロが笑った気配がした。顔を上げると、やはりゾロは笑っていた。 泣けよ、とサンジは思った。そしたら俺も泣ける。だけど、ゾロは泣かない。 「……彼女は?」さきにゾロが口を開いた。 「置いてきた」 「らしくねえな」 またゾロが笑う。 「らしくねえとか、いうな」 そんで、笑うな。 おさえたつもりでもどうしても声は震えた。ゾロは笑うのをやめて、サンジのほうをじっと見つめた。まっすぐな目だった。 「なんで?」 「?」 「なんで今日、ひとりで来たの?」 「……そういう気が起きなかった」 「そういう気って?」 「一緒に映画見たいと思う女が、思いつかなかった」 断ることもできたはずだ。サンジだったらそうする。 ゾロは断らなかった。 ゾロはひとりで来た。 ゾロは傷ついた顔さえ見せなかった。 「俺だって、俺はさ、ゾロ、」 「いい子だぜ、あの子」 サンジの言葉をさえぎるように、静かに、ゾロは言った。見たこともないようなやさしい表情をしていた。 いつも仏頂面で、サンジといるときだって、眉間にしわを寄せてばかりのくせに。 いまこの瞬間にそんな顔をするゾロを、そしてなにより、いちばん大切なひとにそんな顔をさせる自分を、どうしようもないと思った。 握ったままの手首をぐいとひっぱって引き寄せた。冷え切ったかたいからだをつよく抱きしめる。ごわついたダウンの感触。溶けた雪のせいで湿っている。サンジより広いはずの背中は、ずいぶんと小さく思えた。 「ごめんね」 耳の下からはゾロのにおいがする。 鼻を押しつけると、ゾロがかすかに、のどを震わせた。 「……あやまるな」 あやまるんじゃねえ。 つぶやいたゾロの声はかすれていた。それでもきっと、ゾロは泣いていない。 いつもより頼りない声がサンジの肺を握りつぶす。呼吸がうまくできない。無理に吸いこんだ真冬の空気は、よけいに胸を痛めるばかりで、あえぐように無様に息をついだ。 「そうじゃねえんだ、そうじゃなくて――」 だいすきだよおまえだけだよと、たったそれだけの言葉がこんなにも、重い。 冷えていくからだを遠く感じて、サンジは腕にちからを込める。 ゾロが肩口に顔を押し付けた。 赤いシャベルは白で埋もれそうだ。 雪はひどくなるばかりなのに二人には入る傘もない。 (08.01.29) 高校生。こういうゾロははじめて書いたかもしれない。 こういう終わり方もはじめてしたかもしれない。 題は、井上陽水の名曲から。生まれる前の曲だけど、この前たまたま耳にして、やっぱりいいなーと思いこの話を書いた。 |