*2012年のサンゾロ春祭りweb企画に寄稿したもの。お狐サンジと若君なゾロ。 春来たるらし 無人駅で降りて、切符を箱に落とすと、ほとんど中は空なのだろう、かつと底に当たる音が高く響いた。改札のある場所にはかろうじて屋根があったが、数歩踏みだせばそこはもう屋外である。迎えは断ったから、ここから先は歩くことになっていた。ゆっくり向かったとしても半時足らずで着くはずだ。 駅舎の周囲は寂れきって、人の姿はもちろんのこと犬猫の気配すらも感じない。もはや花の桃より葉の緑が鮮やかな桜が、ロータリーらしき道脇にぽつりと侘しげに佇んでいる。そうだった、この辺りの桜は少し早咲きなのだ。ひらひらと花びらを散らす、一年ぶりのそれを横目で眺め、ゾロは軽く息をついてひさかたぶりの家路を進んだ。 十八まで、この麓の村に住んでいた。都会の大学に出てからは、長い休みのあいだもバイトだ剣道だとゾロなりに忙しく過ごしている。せめて年度がわりくらい顔を見せろと言われ、春休みの最後の数日を使って、こうして帰省をするのはこれで三度目だった。 あと一年後、卒業したのちには、ここに戻ると父親と約束していた。家を継ぐのだ。早々と隠居を決め込んだらボケるぞと言えば、暇つぶしに旅にでも出るつもりだとミホークは答えた。つまりは、面倒をゾロに押しつけた形だろう。考えただけでなんとなく心が曇る。元々が良く言えば思い詰めない、悪く言えば無頓着な性質の、ゾロにしてはとてもめずらしいことであった。 問題は、とゾロは思う。家を継ぐこと自体ではなく、それに付随する厄介ごとのほうだ。 「まあ、どうにかなるだろ」 言い聞かせるように独りごち、さすがに迷いようもない一本道を往く。脇の畑にはびっしりと蓮華草が咲き、蜜蜂がぶんぶんと絡まるように飛び回っているのが見えている。途中通った石橋から見れば、流れの速い川沿いびっしりと咲いた菜の花が陽に眩しい。動き続けていれば汗ばむほどの陽気だった。つい数日前までは、冬用の防寒着が必要だったほどだというのに。 「……一年、か」 ふと口から出たのは、屋敷の楠が見えてきたからだろう。延々と続く杉垣に囲まれた古い家屋は、この村を統べる長が住むにふさわしい佇まいをしている。敷地はやたらに広く、自分の家であるのにゾロはよく迷ったものだった。まだ泳げないほど幼いころ、庭の池に落ちたとき大声をあげても誰にも見つけてもらえず溺れかけたという思い出がある。 そのとき手を引いてくれた白い手と、その先の黒い着物地をふいに思い出した。下駄履きの素足は水面からわずかに浮いていて、うっすらと上げた唇の端に朱色の長鉛管がよく映えていた。助けてほしいか、小童。見おろす硝子玉じみた水の瞳、髪は見たこともない稲穂の色をして、あろうことかぴんと立った二つの耳がそこから覗いていた。 助けて欲しけりゃ名を呼べと、言って人のようなものは名乗った。無我夢中でそれを声に出して、手を伸ばしたのまでは覚えている。次に気がついたときにはゾロは寝間着を着て寝床に入っていた。夢でも見たかと思ったが、触れてみた髪はまだしとりと湿り、嗅ぎ慣れない、どこか甘さのある匂いがまだ部屋にくすぶって、庭での出来事が現実であったことを教えていた。 それが、忘れもしない奴との出会いだ。 「――!」 門から一歩足を踏み入れた途端、強い視線を感じた。もの思いに耽っていた意識はすぐに引き戻されたけれど、周囲を見渡しても、梅の老木にとまったウグイスが呑気に鳴いているばかりだ。おおかた、姿を消しているのだろう。忌々しい、とゾロはあえて聞かせるために口に出した。笑い声が聞こえたような気がして頭を振る。きっと気のせいではなく、あいつはおかしげに笑っているはずだった。 お狐様と、家の者たちはそう呼んでいる。 ゾロはただ狐、と呼び、狐はサンジ、と名を呼ばせたがる。 ゾロが帰省を渋る理由、家に憑き繁栄をもたらすというこの妖狐が、ゾロの抱える目下一番の厄介ごとなのだった。 昼のあいだにミホークと顔を合わせ、共に夕食まで取ってしまうとゾロは自室に引き籠った。使用人たちはゾロの姿を見ると、若君が帰られたと意気揚々とした様子で世話を焼きたがる。悪気はもちろんないのだがゾロとしては少々面倒だ。下手をするとトイレで尻を拭くとまで言い出しかねない。以前はこれほどでもなかったのだが、やはり、ゾロがめったにここに寄りつかないのが原因なのだろう。 和室の畳は青々として埃ひとつなく、用意されていた着物に着替えながらため息をつく。何もかもが時代錯誤で、街から帰るたびこちらに慣れるのに時間がかかる。信じがたいことにこの辺りには電気が通っていなかった。飯はかまどで、風呂は薪で炊き、明かりと言えば行灯を使うのだ。もちろんテレビなどあるわけもなく、暇を持て余すとゾロは寝るか体を鍛えるかくらいしかすることがない。 だから風呂を浴びたあと、ゾロは早々に床についた。部屋は離れにあって、ミホークのいる母屋からも使用人たちの住居からも隔たっている。夜がこれほど静かであることを、街にいるときはすっかり忘れていた。行灯を消そうと枕元に指を伸ばしかけて、うなじの辺りがちり、と焼けるような感覚を覚えた。 これまでなかった、知った煙の匂いが急に鼻につきぞくりと悪寒が走る。学友たちが吸う煙草の匂いとは違う、甘ったるく頭の芯が痺れるようなこれは煙管から漂うものだ。おそらく怪しげな成分が含まれているとゾロは睨んでいる。 そうでなければ、今から行われることに、理由がつかないからだ。 「――てめえか」 「ひさしぶりだってのに、お言葉じゃねえの」 若君、と呼ぶその口調はからかいを含んでいる。小童から若君へと、呼び名が変わったのはいつごろだったろう。ゾロはすっかり青年になったが、この狐の容姿はあのころとまったく変わらず、ちょうど、いまのゾロと同じくらいの年齢に見える。いったい本当は幾つなのだと尋ねたことがあったが、俺ももう覚えてねえよと皮肉げに肩をすくめるばかりだった。 忘れちまうほど、ずいぶん長いこと退屈でしかたなかったのだけはたしかだがな。 「うぜえんだよ、隠れてじろじろ見やがって」 「しかたねえだろ?一応、他のやつらにゃ見られちゃなんねえんだからよ」 「だからって覗き見たァ趣味がよくねえ」 胸糞悪ィ。吐き捨てると、狐がふ、と息を吐いたのがわかった。笑ったのだろう。輪郭のぼやけていた気配は話しているうちにもだんだんにくっきりと濃くなって、横向きのゾロの背のすぐ後ろに座っているのがわかる。 香炉でも焚いているような、妖しい匂いも強くなるばかりで、動きを止めたままのゾロのうなじにひたりと冷たいものが押しあてられた。指だ、とわかった途端にざわりと波立つ。そのまま襟足の髪を逆立てるようになぞられて、ゾロは歯を食いしばった。 これしきのことで、声が漏れそうだ。ああ、おめえ、と低い囁き声がする。 「もしかして、見られて感じてたか」 「……ッ」 腕を掴んで阻もうとするより前に、顎に手が添えられ唇を塞がれた。閉じた歯列を舌がぬるりとなぞる。開けな、ゾロ。こんなときばかり名を呼ばれ首を横に振った。ごく近い青い目に捕えられそうで、だが逸らすのは癪だから目を閉じる。そうしているうちにも裾から忍んだ手が内腿をゆっくりとうごめいている。 「相変わらず強情だ」 そこがそそるがな。狐は薄く笑う。 「てめえの、退屈しのぎの相手、なん、ぞ、」 ごめんだ、と言う前にそこに触れられた。力を込めて閉じた足の付け根、膨らみは隠しようもなく欲情を伝えただろう。布を硬く押しあげた先端をつまむように握られる。水菓子でも味わうように唇を吸いながら、ほら、もう濡らしてやがる、と形をなぞられ、びくん、と腰が前後に振れた。虚勢のつもりはなかった。だが言葉とは裏腹に、この先の快楽を知って早々と昂ぶる体がわれながら疎ましい。 「ばけ、もん、が……ハ、ァ」 狐は、俺が次の当主だから手をつけたのだろう。暇にまかせた戯れも含めて、歴代の当主たちをこうして悦ばせてきたのだと、ゾロはそう思っている。はじめて狐に触れられたのは十八のときだった。それまではむしろ、ゾロのほうがことあるごと狐に纏わりついていたのだ。 信じがたい行為に、けれど夜毎夢中になる自分を振り切るようにゾロはここを出た。家を継げばおそらく、この狐はおのずとゾロのものになる、それがなぜだかやけに腹立たしい。 「退屈しのぎ、ねえ」 お前は馬鹿だな、まあ、知ってたけどよ。ため息混じりで笑い、そばに置いていた煙管を狐はゆったりと一度、ふかした。白い煙がゆらと揺れて、視界がぼうとぼやけて霞む。大きく肌蹴た胸の合わせから覗く、肌理の細かい肌に目が吸い寄せられた。ゾロの知るどんな女より滑らかな、あれの手触りを知っている。 ふたたび吸われた口は、自然に開き、柔らかな舌がくちゅりと奥深く挿し込まれた。 噛みしめた帯はたっぷりと唾液を吸って、たまらず息を吐くたびに頬がべたりと湿るのを感じる。我を失うほど乱れた夜以来、あのような声をあげるのが嫌でいつもこうするゾロを、無駄なあがきだと狐はきまって揶揄した。 「――っ、ふ、ぅ、」 うつぶせで獣の姿勢を取らされ、留めるものの無い布を捲りあげられて、そこだけ剥きだしの尻に指など含んだこの姿は我ながら無様だろう。そう思う醒めた自分を打ちのめすほど、覚え込まされたこの感覚は強烈だ。 指が増やされる。広げながら出入りするそれに、ん、ん、と鼻から声が抜ける。反り返る背をあやすように指が這い、縁を濡らす尖った舌になお頭が霞んだ。ぴちゃ、と音がするたび腰が振れ、張り詰めたものがうごめいてよだれを垂らす。ぐ、と額を布団に押しつけるようにすると、先の割れ目からとろりと滴る液が、淡い明かりを帯びて光って見えた。 「開いてきたな」 まだ俺を忘れちゃいねえようだと、機嫌よさげに言うのを首を捩じり睨みあげる。笑みを浮かべた顔でゾロの濡れた目尻を拭い、そりゃ、煽ってんのかよと狐は言った。ふさりとした尻尾が揺れて、脛の横にわずかに触れる。 「ったく、てめえは」 飽くことがねえ。低く言ったかと思うと、中で指を広げられたのがわかった。くぱりと口を開け、色づいたなかを晒したそこに狐が顔を近づける。 やめろと、止めることも叶わなかった。 「ッ、ンっ、ん――っ」 二本の指のあいだから、柔肉がぬ、ぬる、と挿し込まれ犯される。奥へと流れる熱いなにかは狐の唾液だろうか。直接そこに注がれているのだと、思った瞬間ゾロは噛んでいた帯を落とした。 いやだ、ちくしょうと、日頃のゾロからは考えられない甘えたような声が出る。こんな俺は、俺ばかりがこんなと、けぶった思考はまとまることなく、与えられる感覚にただ体が融けていくようだった。 「そうか、いやか」 なら止めるか、と狐は言う。いやだと言いながら、それにゾロは首を横に振る。落としてしまった帯の代わり敷かれた布団に口を押しつけた。しきりに立つ卑猥な水音と、自分の篭った声がぐらぐらと頭を揺さぶった。 十分に湿らされたそこに三本目が入る。ぐじゅと音がして、注がれた液が襞から漏れ腿を生ぬるく伝うのがわかった。後ろから覆いかぶさるようにして空いたほうの狐の指が乳首をいじる。強めに抓まれると、アア、と声が出た。 はやくいきたかった。いきそうになると、狐は察して愛撫の手をゆるめる。射精を待ち望んで、袋がぱつりと痛いほど張ってくる。 「ア、あ、うァ」 もう膝に力が入らない。股を大きく開き腰を落とせば弾けそうな先端が布団に触れた。開きっぱなしになった唇から声を、唾液を零しながらゾロはたまらずぬるついたそれを擦りつけるように腰を振った。 「オイオイ、自分ですんじゃねえよ。腰上げな、ゾロ」 ぺちりと軽く、尻たぶを叩かれた。反射的に後ろがきつく締まって、指を絞りあげた拍子に性器が弾ける。促すように狐は袋を柔く揉んだ。為すすべもなかった。声も出せず、体をびくつかせる、腹と布団に挟まれたものはびゅるりびゅるりと恥ずかしげもなく何度も吐きだした。 ぐたりと脱力した体を、存外に優しげな手つきで狐は返した。そういえば一度も、狐はゾロに乱暴だったことはない。与えられるのはただただ快楽ばかりで、だからこそ余計にタチが悪い。 傷のあるまぶたにそっと唇をつけたあと、白く汚れきった腹を満足げに見おろして、締まった筋肉に舌を這わせ狐はゾロの出したものを舐めとった。濃いな、でもまだ足らねえだろう。耳に響く声を遠く聞く。その言葉だけで、またひくりと兆してくる。 サンジ、と名を呼んだ。手を伸ばす。出会ったあのときと、まったく同じような懸命さで。狐が目を見開き、それから苦々しげに舌を打った。目尻の縁が赤いように思うのは気のせいだろうか。 「大した天然だよ、お前は」 何が、と思うが、唇はその名以外の意味ある言葉をもう紡がない。向かいあってようやく押しあてられた硬いものを、みずから引き込むように尻を揺らす。絹のようにしとりとした白い肌を夢中でまさぐった。髪に指を埋めると、狐は首を傾げてのひらに頬をすりつけた。発情した雄の顔つきでにやり、と笑う。 「ひとつ、いいことを教えてやるよ」 耳に吹きこまれながら、くぷりと含まされた太い先端の感覚だけで、また軽い絶頂感が来る。足を狐の腰に巻きつけ、着物地を掻きむしるように爪を立てた。続きなど聞きたくない。きっと、聞いてはいけない戯言だ。 「こりゃあただの煙だ、媚薬の類なんかじゃねえ」 おめえはそのせいにしてえんだろうがなァ。 言い終えるやいなや、深々と貫かれてゾロは吠えた。 「素直じゃねえよな、あんたの息子。おまけに奇跡みてえな鈍さだしよ」 手がかかるったらねえ、まあ、そこも気に入ってんだがなと、言えばミホークがちらと視線だけを投げかけた。家屋と同じく古びた茶室は庭の一角にあって、ときどきミホークは狐をここに誘い茶を点てる。もっとも、狐はこうして見ているだけなのだが、一人きりであるよりはこのほうが気が張って良いのらしい。 茶筅をすうと茶碗から引くと、ミホークは居ずまいを正しふたたび狐を見据えた。手にした抹茶の表面を、微細な泡が隙なく覆っている。きちりと正座をしたミホークと対照的に、狐はきわどい場所が見えるのも構わずあぐらを掻いていた。 「俺には、わりに素直だが」 「ファザコンだろあいつ。自分じゃ認めねえだろうけど」 「ファザコン、などとよく知っている」 「伊達に長く生きてねえんで」 「お前はつくづく、おもしろい狐だな」 他にも狐を知っているかのように、ミホークは口元だけで笑った。 「あれはたしかに頑固で鈍い。が、お前のほうにも問題がある」 勘違いを正してやったか? 訊かれ、狐は煙管を深く吸いこんだ。鋭い視線をひととき外し、ミホークが茶碗を口元に運ぶ。ウグイスが鳴くのが近くから聞こえていた。屋敷の敷地から出ずとも四季を感じることはできる。もっとも、季節など気にしはじめたのはゾロがここを出てからのことだ。 あと三つ、季節を過ごせばあれはおそらく俺の手に落ちる。そう思えば時が過ぎるのさえ愉快に感じる。長い命をただ持て余していた、ゾロと出会う前の狐からは考えられないことだった。 「一つはな、ゆうべ正してやった。信じるかどうかはわからねえが」 「残りは」 「俺も意地っ張りでね。それによ、」 「それに、何だ」 「自分で気づいたときの、あいつの顔が見てやりてえのさ。きっとたまらねえ顔をする」 「……性悪狐め」 は、褒められたなと狐は笑った。ゾロがいつも、甘ったるい、と顔を顰め評する煙を長く吐く。ミホークは息をついて、空になった茶碗を音もなく置いた。 なぜだかは知らないが、ゾロは狐が代々当主と交わるものと思っている。だから自分に手を出すのだと、そう思いこんでいるようだった。けれど実際には、池で名を呼ばれ求められたあのときから狐はとうにゾロだけのものなのだ。 勘違いで拗ねているというなら可愛いものだが、そもそもゾロには拗ねている自覚すらないらしかった。あれほど体は饒舌であるというのに、それすら狐の妖しい術のせいにでもしたいようだ。 惚れてんだろうが。そう、突きつけてやるのは簡単だろう。だがどうしても、ゾロ自身に気づかせてやりたいと思う。あまりに鈍いからとうとう糸口を与えてやったが、目の前に在る明白な答えにそれでもまだゾロは辿りつくことができないかもしれない。 幼いころから、絶望的な迷子であるところは呆れるほど変わらない。 「もう戻れ。謂われもない嫉妬などされてはかなわん」 手で追い払うような仕草をされ、自分が呼んだくせによ、やっぱあんたら似てるとこあるなと狐は苦笑いをした。表に出ればさんさんと陽が射して、空気の粒が見えるようなよい日和である。光る若葉の色を見て、ゾロの短い髪色を思った。心、らしきものがこの俺にもあったのだ。 部屋に戻ればまだゾロは寝息を立てていた。裸のまま、うつ伏せた腰の辺りにだけ上掛けが乗っている。晒された健やかな首のすじには、ゆうべの吸い痕がまだ赤く濃く残って、その不均衡さがやたらに卑猥に見えた。サンジ、と呼ぶ掠れた声を思い出す。帰りは明日のはずだった。今宵はどう、可愛がってやろうかと考える。 あと三つの季節、せいぜい、俺を思い出して疼くといい。 「なァ……次の春が待ち遠しいな、ゾロ」 背骨をなぞると、夢でも狐と交わっているのだろうか、ゾロは眠ったまま、熱く、湿った息を吐く。 |