蛍火
蛍を見に行こうと唐突にゾロが言い出した。
ほたる?とサンジは聞き返した。
大きく外開きにした窓のそばに立ったまま、ゾロは、おう、と答える。
昼間より幾分温度を下げた風が、風呂上りの火照った体に心地よい。
短いゾロの髪がけなげに揺れているのを、草原みたいだ、とサンジは思う。
ほたる、という言葉自体、サンジは聞いたことがなかった。濡れた髪をわしわしとタオルで
拭きながら尋ねる。
「ほたるって、何だ」
「蛍は蛍だよ。光る虫だ」
腕組みをしてゾロが答える。ゾロは物事を人に説明する能力に乏しい。
光る。夜光虫のようなものだろうか。
まあ、みりゃわかるって、と言うと、ゾロは着替えたばかりのサンジの腕を掴んだ。
今から?と聞くと、今から、と悪巧みを思いついた子供のような顔をする。
ゾロの手が触れている部分から、もどかしい熱が体中に広がる。
この島では蛍が見れると、ロビンに教えてもらったのだそうだ。
ゾロの故郷では初夏の時期に見ることのできる虫らしい。清流にほんのわずかな間だけ生
息する、光を放つ虫。
ガキの頃毎年友達と見に行ったと、ゾロは懐かしそうに話した。
そうか、とサンジは頷く。
それから、先ほどゾロに掴まれた腕を、そっとさする。
ゾロはサンジより先を歩いた。
むわりと湿った草のようなにおいがしていた。小さく虫の音が聞こえる。
何の虫だか、やはりサンジにはわからない。ゾロの丸い後頭部を見つめながら歩く。
道わかるのか、と聞くと、あたりまえだ、と答える。
ゾロはすたすたと歩く。一歩後ろに、サンジが続く。煙草は吸わなかった。
歩き出してしばらくすると、もとの宿の前に戻った。ゾロは憮然としている。
川にいるんなら、そこの川に沿って歩いていけばいいんじゃねえの、とさりげなく助言す
る。
そういうことは早く言えよ、とゾロは偉そうに返す。
かわいそうになって、すまねえ、とサンジは素直に謝った。
今度は並んで、のんびりと川沿いを歩いた。
川は少しずつ細くなり、流れが速くなっていく。町の灯りが、だんだんと遠のく。
肘同士が触れそうで、でもけして触れない距離を保った。
ゾロの整った横顔を盗み見る。心なしかいつもより寛いだ顔をしている。
むかし、といってもそう前でもないのだけれど、サンジとゾロは顔をつき合わせれば喧嘩ば
かりしていた。
それがいつからだったのか、おそらく徐々に、ゾロはサンジを懐にいれたらしかった。
今だって小競り合いはする。でも昔に比べたら動物のじゃれあいみたいなものだ。
何度も共に死線を乗り越え、喜びも悲しみも共有して、少しずつ、少しずつ。
やっと、ここまで。
「お前、見たらたぶん驚くぜ」
ふいにゾロが話しかけてくる。
「そんなきれいなのか」
「おう。いいもんだ、あれは」
ゾロが歯を見せてにかりと笑う。
サンジは目を細めてそれを見る。記憶にしっかりと留めるように、それを見る。
「ほら、見えてきた」
そう言うとゾロが走り出した。サンジも後を追う。
目に入ってきた光景に息をのんで立ち尽くした。数え切れないほどの小さな光が、弧を描き
ながら舞っている。
月も星も厚い雲に隠されている。街灯のないその場所で、光源はその光だけだ。
一定のリズムで瞬く緑は川面にも反射して、満天の星のようだった。
ゾロは川べりに立って蛍を眺めている。彼の周りにはひときわ沢山の蛍が舞っている。
そのまま光に包まれてふいに消えてしまうような気がして、サンジは急いで駆け寄った。
ゾロが背中を向けたまま、穏やかな声で話をする。
「すげえな。俺の故郷は、ここまでじゃなかった」
「そうか」
サンジは言う。
ゾロのすらりと伸びた背中が、すぐ目の前にある。手を伸ばせば、触れる距離に。
「昔な、一匹捕まえて、家に持って帰ったことがあんだ。その辺に転がってた瓶に入れてよ。
きれいだったから、欲しくなっちまって」
「わかるよ」
サンジは光を纏うゾロの後ろ姿を見ながら言う。よく、わかるよ。
「けどよ、川で見たときみてえには光らねえんだ。周り暗くするとちょっとは光るけど、なん
だか弱々しくてよ」
話をする間にも、蛍は次々と飛んできてはゾロの周りを舞い、離れていく。
ふと、一匹の蛍がゾロの背中に止まった。そのままゆったりとしたリズムで明滅しはじめる。
ゾロは黙っている。サンジも黙っている。気まりの悪い沈黙ではない。
虫の音と、川の流れる音と、風が草を揺らす音だけが聞こえている。
サンジはその蛍に向けて、ゾロの背中に向けて、少しずつ、手を伸ばす。
蛍は逃げようとしない。相変わらずのんびりと光っている。
逃げてくれ、とサンジは思う。
「その蛍は、どうなったんだ?」
指先が触れる間際で、サンジは動きを止めたまま、尋ねる。
「次の日にはすっかり弱っちまってな。結局もとの川に逃がした」
「そうか」
サンジの手はそれ以上動かない。金縛りにあったみたいに、蛍を掴むことも、ゾロの背に触れ
ることもできない。
気配に気づいたのか、ゾロが振り向く。サンジの右手は不自然に伸ばされたままだった。
「どうした」
ゾロが不審げな顔でサンジを見る。何が、とサンジは問い返す。
「なんかてめえ、泣きそうな顔してるぞ」
からかう様子もなく、ゾロは言った。
泣きたいんだ、とは言えなかった。
もうかなり長いこと、お前に焦がれている。
おそらくは出会ったあの日から、どこにも行けない想いは日ごと深まり、そのうちに何もかも
を呑み込んでしまうだろう。
お前を瓶に詰めて閉じ込めて、皆が目を奪われるその光を、消してしまいたいと思う。
それと同じくらい強く、お前の輝きを、命をかけて守りたいと思う。
「あんまり、きれいだからよ」
全ての思いを込めて、それだけを答える。
てめえはそういう感受性強いとこあるよなあ、とゾロが無邪気に笑う。
サンジも笑顔を作った。それから、上げていた右手をゆっくりと下ろす。
ゾロが再び川の方へ体を向ける。
その背中ではまだ先ほどの蛍が、小さいけれども確かな、力強い光を放っている。
(08.06.06)
静かに激しい恋をするサンジ。虫嫌いでも蛍は大丈夫だと祈る。
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