花霞み







見渡すかぎり、景色はぼうとけぶっている。雲の薄い青い空、若々しく芽吹いた緑、それに咲き誇る花たちが、とろりとした陽射しに淡く融けてその境を失くしていた。吸いこんだ空気はどこか重ったるく、粒子のひとつひとつが甘いような気がする。そこにひとすじ、かぐわしく香るものがあった。記憶のふちをそっとなぞられ、ああ、これは春の匂いだとサンジは思い出す。
頭の芯もぼやける感じがする。
気つけがわりにと、煙草を吸うのは不思議と憚られた。
「――この気候じゃあ、眠くもなるか」
まあ、てめえはいつもだがなァ。
視線を落とし、眠り続けるゾロの顔を眺める。あぐらをかいたサンジの膝に頭をつけるようにして、男は横向きでまぶたを閉じている。
サンジはネクタイを少しゆるめ、シャツの袖を肘までまくりあげた。陽を吸うジャケットはとうに脱いでいる。ゾロは体温が高い。眠ればよけいにだ。こめかみに薄く汗が浮いているのを、指先で拭ってみてもぴくりともしない。サンジがここに来て、そろそろ半時ほど経とうとしているが、いっこうに起きる気配は感じられなかった。
買い物の途中で消えたゾロを探すうち、たまたまここに辿り着いたのだった。
街からはずいぶんと離れた山の麓、周囲には民家はおろか人の姿すらない広野に、ぽつりと聳える見事な枝垂れ桜があった。
周囲から浮きたつような、その幽玄な佇まいに吸い寄せられるように近づけば、幹は白茶け、枝は折れ曲がり、巨木がかなりの樹齢を迎えているのを教えていた。見あげる天蓋は薄桃に染まり、透き間からこぼれる白い陽を浴びてなお、しとりと湿った土のうえに探し回った男の寝姿はあった。
よくもこんなところに、と思うのと同時に、見つけた自分にすこしばかり呆れもした。誰からも忘れられたようなこの場所で、古木はただ静かに美しい花を咲かせ、戦いの日々に身を置く獣に安寧の地を授けたかのようだった。
ため息をひとつ吐き隣に腰掛けた。すうすうと傍からもわかる寝息を立て、背中が規則的に上下している。それがほぼ常態である、眉間の皺も今は無く、そうすると存外にゾロの顔は幼い。
――あーあー、無防備なツラしちまって。
めったに見ることのないその表情に、すこしばかり複雑な思いをサンジはいだいたものだった。


風が吹いて、なまぬるい空気をゆったりとかき混ぜていく。
ざあ、と音を立てて花びらが散り、色づいた吹雪のように一斉に斜めに流れた。
舞い落ちた花の残骸に彩られた、出会ったころより伸びた髪を柔く梳いていると、手首のあたりに湿った息がかかった。ゆっくりと、ゾロがまぶたを開ける。傷のあるかたほうは閉ざされたままでいる。薄く水の膜をはった眸がゆらと揺らぎ、やがて冴えた眼差しがサンジを捉えた。
「――なにしてる」
 寝起きの声は嗄れている。ごろりと向きを変えると、仰向けに寝そべったままで軽く顎をあげ、ゾロはサンジを見あげた。
太い首筋、浮いたのど仏の辺りに淡い影が落ちている。やまぬかすかな風に、それは微細に形を変えていた。これまで幾度も触れた、痕を刻むことさえある肌が、常よりなお艶めかしく見えるのは錯覚だろうか。胸の合わせから覗く深い傷を目で追った。
「どうした」
ふたたび声をかけられ、返事もせずに知らず息を詰めていたのに気がついた。別に、とサンジはごまかした。触れあったところから、欲情を見透かされる気がして、体をすこしずらし頭に置いたままだった手を離す。
「……寝腐れマリモにしても、あんまりよく寝てるからよ」
「そんなに寝てたか?」
「寝てたな。爆睡。俺が来たの知んねえだろ、おめえ」
「知らねえな」
そうだろうよ、と唇を軽く尖らせると伸びてきた指にむにと摘まれる。アヒル口、と笑われ、うるせえクソ剣士と低く返した。罵り合いすらどこか穏やかなのは、このうららかな陽気のせいかもしれない。指先はすぐに離れていき、それを追うことを、サンジはなぜだかためらった。
「にしても、こりゃあすげえな」
満開の花に飾られ、頭上から降り落ちるように撓む枝をみあげゾロは言う。目を細め、穏やかに見つめるその先が、自分の姿ではないのをひどく惜しいように思った。静かだった。どこかで高い鳥の声がときおり聞こえる。風に大きく枝が揺れ、目の前にいるはずの男の姿をさらさらと花色に滲ませた。
どれだけ触れても遠く思える。だからこれほど触れたいのかとも思う。
たしかめたいのだ、いまここに、こうしてともに在ることを。

「……なんて顔してやがる」
ふいにゾロがこちらを見て言った。
半身を起こし、よく見慣れた憮然とした表情をしている。
どんな顔、と静かに尋ねれば、それがわかりゃあ苦労ねえよと後ろ頭をがりりと掻いて、気まり悪げに視線をふいと逸らした。意外な言葉に、サンジはその男くさい横顔をしばし見つめた。
「苦労」
「なんだよ」
「苦労、してんの」
「……」
「俺のことがわかんなくて?」
「――悪ィか」
「いや、べつに、悪かねえ、けど」
わかろうとしているのか、わかりたいと思っているのか。離れた年月を経てなお清冽な生きざま、恋の惑いなどとは無縁なのかと思っていた。惚れてんだと、たぶんはじめからだと、伸ばした手を拒まれなかった訳を理解していないわけではないけれど。顔が火照ってくる。もしかしたら、この男は思ったよりずっと。
言葉を失えばふいにネクタイを強く引かれた。力強い腕が伸びてうなじを掴む。サンジは身を折り、導かれるまま引き寄せられた。
「……ふ」
柔らかな感触が下から押しあてられ、閉じた歯をこじあけるように舌が挿しこまれた。ぬる、と絡む感覚はやけに鋭敏で、すぐに体中に熱を巡らせていく。土についた片手、指先に桜の根があたる。弱いところを舐めあげると、ゾロはくぐもった声を漏らした。唾液を嚥下する音が響いて聞こえる。
服のなかに手を滑らせれば、湿りはじめた肌は粟立っていた。肩からするりと肌蹴させる、胸の隆起があらわになり、その真ん中、乳首はすでにぴんと上向いている。
は、とたがいに熱い息を吐く。
「……してえ?」
長いくちづけを終え、濡れた唇を光らせて、考えんのは苦手なんだよとゾロは耳元で声を潤ませた。


「なあ、……お前、どうしたの、今日」
「だ、まって、ろ、――は、」
敷いたジャケットにサンジの背を押しつけ、腹のあたりに膝立ちで跨り、ゾロは自分で後ろを慣らしている。唾液で濡らした指が、いまは二本、拡げる動きをしているのが見えていた。音がしはじめている。触れもしていないのに、たちあがり色づいたものから、とろとろと糸を引いて滴った。
「すげえ、濡れてる」
「ん、ア、さわん、なッ」
指先で、ぬるついた先端をつまむようにいじる。水飴のような液は溢れだし、開いた腿が閉じようとびくついて、サンジの胴回りをぎゅうと挟み込んだ。
筋の浮いた内腿をあやすように撫でながら、その付け根、硬い幹をこすれば、あ、あ、とうわごとのように声をあげ、ゾロは無意識にか己を犯す指をはやめる。それはすぐに弾けた。顎まで散った白濁をサンジは拭った。
ゾロの指がゆっくりと引き抜かれる。濡れて光っている。涼やかな目元にはうっすらと涙が浮き、擦ったあとのように赤らんでサンジを煽った。
「動物みてえだな、おめえ」
手首を掴み、わざと視線を引きつけて汚れた指を舐めてやる。股にひちゃりと舌を這わせた。知ったゾロの味がする。また兆しはじめた前を晒しながら、なにがだ、と飽かぬ欲に掠れた声がたまらなかった。サンジもすでに張りつめている。
「発情期?春の気候だし」
「……阿呆」
「違うのか、よ――!」
いきなり視界を黒いもので覆われ、それがゾロのてのひらだとわかるのに時間がかかった。何しやがると怒鳴ろうとしたとき、ボトムのベルトに指がかかる。ジッパーを下ろされ、露出されたそこがすうすうとし、しかし、すぐにそれは別の感覚に変わった。
「ゾ、――う、あ」
狭く熱い場所に呑み込まれる、そのまま奥まで包まれる。間を置かず動かれて、ぐずぐずとそこから溶けるような強い快楽にサンジは呻いた。ぽたりぽたりと、降りはじめの雨のように落ちるのは汗だろう。二人ぶんの声がする。まぶたの戒めは、腰の動きがうねるように滑らかになるにつれだんだんと緩んでいった。
その指に指を絡める。眩しさにはじめ目がくらんだ。午後のまだ高い陽射しがゾロの輪郭をふちどっている。
腰帯でかろうじて留められた衣服は乱れ、は、は、と息をつきながらゾロはその身をしならせていた。体液で濡れそぼった、引き締まった体には、散りつづける桜の花を纏っている。また強く風が吹いた。花びらが流れ、けれどその夢のように美しい光景よりも、愛しい相手のあられもない有り様にサンジは心底酔いしれた。
「ハ、絶景、だな」
「てめえ、はっ、ン、あ」
「なに?」
「よそ見、すんじゃねえ、よ」
「……は?」
「桜、とか、見てんじゃ、ね」
蕩けた眸にサンジを映して、けれど唸るようにゾロが言い放つ。一瞬、頭のなかが白くなった。な、と呆けた声をあげる。意味が腑に落ちれば、顔がかっと熱くなり、みだらにくねる腰を思わず掴み強く突きあげた。
「う、あっ、ああ、や、ばか、強、えっ」
「ちくしょ、てめえのせいっ、だろう、が」
繋がったところが激しい水音を立てている。なかがきゅうとよけいに締まったのは、胸の尖りについた花びらをサンジがそれごと指で挟んだからだ。力の抜けはじめた背中を抱き寄せ、甘噛みしながらいいところを何度も突いてやる。ゾロはとうとう、鼻にかかった甘ったるい声を絶え間なく漏らしだした。
コック、とゾロが呼ぶ、その朱を刷いた顔もしとどに濡れている。
これでよそ見など、出来るものならしてみたいくらいだ。
「ゾロ、もう、」
「ん、んん、――ッ!」
ゾロがふたたび達し、うごめき吸いあげる場所にサンジもすべて放った。
引き抜いて、体を入れ替える。弛緩しかけた足を掴み、大きく股を開かせれば、奥まった穴からこぷりと白く零れる。ゾロは片手で顔を覆いぶるりと震えた。かきださぬまま深く入り腰を使った。
舞い踊る桜が視界を霞ませている。
吐精すら定かでない絶頂に、ゾロはその身を幾度も跳ねさせた。


ん、と小さく声を漏らす。
夢でも見ているのだろうか、眼球がゆっくりと左右に振れるのがわかった。
「……俺の夢、とか、見んのかな」
何度目かの絶頂のあと、ことりと意識を失ったゾロの体を苦労して拭って、いまは腿の上に頭を乗せてやっていた。やりすぎてしまった自覚はある。けれどあれでは仕方がないと、言い訳ではなくサンジは思う。
「よそ見すんな、とかさあ」
覚えてんのかね、こいつ。
一人ごちてその健やかな寝顔を見下ろした。はあ、と息をつき、しばし頭を抱え込む。
大の女好きが男相手にこの体たらくかと、自嘲ならこれまで飽くほど繰り返した。それでもこの想いを無いことにだけは出来なかったのだ。見返りなど望むべくもない、ずっとそう思い込んでいた。
叶っただけでも夢のようであったのに。
あんな執着や嫉妬のような感情を、この獣じみた男が。
「――俺はずっと、馬鹿みてえに、覚えてんだろうな」
これからも、きっと何度だって反芻してしまうだろう。くすぐったいような、ふわふわと浮ついた気分はやけに落ち着かず、老木がただいちど気まぐれに見せた、淡いまぼろしだったような気さえする。
ささくれた幹に背をつけて、ゆったりと、肺腑の奥まで息を吸い込んだ。
ゾロの唇がかすかに音を紡いだ。
埋もれるほどに花は降り積もる。
触れても溶けることのないそれをてのひらに受けながら、膝枕で目覚めた男に、まずはしかける甘いくちづけのことをサンジは思った。







(12.03.31)





11年にあったweb企画、サンゾロ春祭りに寄稿したもので、うっかり一年間サイト再録を忘れていました。
ちょうどこれから桜の季節だし、これを機に。