無音世界 冬島に着くのだとは聞いていた。物資を補給するため、そこに留まるのだということも。長い昼寝から覚めたとき、人の気配が薄かったのには、だからとりわけ驚きもしなかった。 深く眠るゾロを起こすのが面倒だったか、あるいは起こしてはみたものの無駄だったか、皆で先に島へ降りたのに違いない。女と、そのおかしな鳥も一緒のようだ。ゾロには下船する理由は無く、ならば黙って船番を押しつけられたとしても、とくに不満があろうはずもなかった。 大傷を負って以来、ゾロにはときどきこういうことがあった。起こされても目を覚ますことがどうしても出来ないのだ。泥濘に身を浸すような眠りはこうしてふいに訪れ、意識はせずとも身体は休息を求めているのだと思い知る。誰もいない、男部屋の空気は冷えている。のどがとても渇いていた。それから、気温が下がると逆に熱を帯びる、癒えぬ傷がずくりと疼くのを感じた。 異変はしかし、別のところにあった。静けさの密度がやけに高く、誰かに耳をきっちりと塞がれているかのようだった。あるはずの音がない、そこまで考えてから、身に馴染んだ波音の不在にゾロは気がついた。たとえ係留していたとしても、どれだけのべた凪ぎの日でも、振幅し船体を打つその音がこれほど静かなことは無かった。 一つ伸びをして、男部屋から甲板に出てみる。きんと冴えた、皮膚を切るような冷気が、眠りの名残りで火照った頬に触れた。コートを出すのが面倒で、頭から毛布をかぶり、船首辺りまで引きずって歩く。そうして周りの景色に目を奪われた。 「――すげえな」 思わず口に出した。話には聞いたことがあったが、実際に見たのは初めてだった。 一面に広がるはずの濃紺の海は、青白い氷の塊で埋め尽くされている。流氷だ。形も大きさも様々なそれらは、霧のような冷気を放ちながら、まるで太古の昔からそこに在ったかのように静かな佇まいを見せ、やけに晴れ渡った空から注がれる陽を返し光っていた。 氷原の見れる島、そういえばそんなことを、女が言っていたようにも思う。だがこれほどの氷があれば、船がこの入り江に身を寄せることは出来なかったろう。眠っていた数時間のうちに、海が凍りついてしまったとしか思えなかった。不思議の多い海だとはわかっていたが、それをあらためて目の辺りにしたような気がする。 水を飲む目的もあって出て来たことも忘れ、ゾロはしばしぼんやりとその景色に見入っていた。ところどころに、小さな山脈のようなものが出来ている。見たことのない黒っぽい鳥が、平らな場所で羽を休めていた。海の浅いところは完璧に凍り、雪の積もった岸辺との境をなだらかに失っていた。 気配が近づいたことには気がついたのは、靴音がずいぶん近くで聞こえてからだった。振り向く前に誰かはわかった。革靴の立てる硬い音、燻る煙草の匂い。 「隙だらけだぜ」 「……いたのか」 いたさ、とサンジは言い、ゾロと少し距離を置いた手すりに背をもたれさせた。みし、と鳴る音はやけに大きく聞こえ、けれどすぐに氷原に吸いこまれていくようだった。 サンジはちらとこちらを見た。故郷でよく見た、稲穂のような色の髪が、流氷よりは温かな色味の光を跳ねさせた。毛布について何か言われるかとも思ったが、サンジは何も言わずに、その後しばらく黙って煙草を吸っていた。だからゾロも口を開かなかった。もともと、この男と話が弾むことなどそうそうは無いのだ。 島も雪で覆われていた。冷気と陽射しの関係なのか、微かに揺れているように見えていた。煙草を口元に近づけるサンジの手が、視界の隅を何度か横切った。氷は少しずつ表面を散らしている。時折はらはらと落ちるそれを、粉砂糖のようだとゾロは思い、そう思ったのは隣にいるこの男が、焼き菓子に散らすのを見たからだと思い出した。 砂糖が入ってねえのかと、ゾロは尋ねたのだった。んなわけねーだろ馬鹿、とサンジは言葉の通り小馬鹿にしたような、いつもの皮肉っぽいやり方で笑った。 飾りだよ、見た目ってのは大切なんだ、まあ、こりゃあレディ用だがな。 見た目についてはよくわからなかったが、指先からはらはらと散る真っ白なそれを、雪のようだと思ったからそう言った。サンジはそのとき、驚いたように目を見開いてゾロを見た。そうして、なんだよてめえにもそんな感性あんだな、と今度はごく自然な笑顔を見せた。目尻と眉がゆるやかに下がり、煙草を銜えたままの唇の端はわずかに上がっていた。 自分に向けられることはめったにない、あれは柔らかな表情だったと思い返し、その記憶の鮮やかさにゾロは何故だか少し怯んだ。 「船番、俺だし」 ふいにサンジは言う。音を吸う静寂のなかで、声はじかに鼓膜に響いてくる。さっきの続きなのだと気がつき、俺じゃねえのかとゾロは尋ねた。 「ちげえよ。お前ほんっと、人の話ぜんぜん聞いてねえのな」 「るせえ。聞いてねえんじゃなくて、聞こえなかっただけだ。それに、べつに俺でもよかった」 「どういう屁理屈だ」 はは、とサンジはこちらを見ずに、軽い笑い声を立てる。長い前髪もあって、その表情はゾロからはよくわからなかった。あのときと同じだろうかとゾロは思う。それともいつもの嫌味ったらしい顔だろうか。 寄ると触ると喧嘩ばかりしている。気に食わないところは山ほどある。罵りあい、掴みあい、傷つけあい、そのほうがゾロには楽だった。 こうしてほんの時折、ふいに訪れる、穏やかな空気はただただ息苦しい。 「あ、なあ、ほら、聞こえるか」 「……なにが」 し、とサンジは言い、唇に長い人差し指をあてた。ゾロは耳を澄ませた。遠くの方から、か細く高い、何かが長く鳴くような音がたしかに聞こえている。物悲しいような響きは、止んだと思ったらまた別の場所から生まれ、薄い水色の空に溶けるように淡く消えていった。 「何の音だ」 「氷がな、鳴いてんだ」 「氷が、なく」 「ああ、氷同士がな、擦れあって軋むときの音。動物とかの鳴き声に似てんだろう、だから、氷鳴きって呼んだりする」 「ナミにでも聞いたのか」 「いや、俺は小せえ頃に何度か見たことあんだ。流氷ってえのは普通なら数ヶ月は見れるはずなんだが、この島では一年にたった一日だけの現象らしいぜ。俺らが停泊の準備するうちにどんどん流れてきてよ、あっという間に凍っちまった。……さすがグランドラインだよなァ」 まあ、その間、おめえはずっと寝倒してたわけだ。サンジは言い、煙草を消した。 そう言われれば、氷は少しずつ動き始めているようだった。さきほどから鳴きはじめたのも、表面を散らしているのも、だんだんと溶けてきた証拠なのだろう。あと何時間かすれば、この氷原は消え去り、何事も無かったように見慣れた海が帰ってくるのかもしれない。 いまだけは消えている音たちもまた。 「お前、見んのはじめてだったろ、これ」 ああ、と答える声が掠れ、ゾロは唾液を飲み込んだ。 そうだ、のどがひどく渇いていたのに忘れていた、しきりに痛んでいたはずの傷のことも。 「やっぱりな。なんかよ、雪はじめて見た子供みてえな顔してた、さっき」 視線を感じたからそのほうを見れば、目が合った。 サンジは笑っていた。 またどこかで、氷が鳴き声をあげた。 ひときわ長く響いたそれが消えると、かすかな波音が戻ってきたように思ったが、それが錯覚なのか、それとも現実なのかは定かでなかった。 ゾロは毛布の中に無骨な指を滑らせた。 痛みを思い出すように、確かめるように、触れてみれば熱を持つそこにてのひらを強く押しあてた。 (11.02.05) ウイスキーピーク後ねつ造。 |