星はみな流れてしまった








よくよくと考えてみれば、なるほど思いあたる節はありすぎるくらいで、いまさらながらに腑に落ちた色々のことをゾロは思った。
たとえば真昼の甲板、陽を跳ねさせる金色がやけに視界にちらついて、通りすがりに目障りだと罵り派手な喧嘩をしてみたりした。かと思えば夜更けのラウンジ、酒瓶を傾けつつ低い歌に耳を澄ましていて、ふと振り向いた顔の意外な穏やかさに、なぜだかいたたまれない気分になりもした。
惑う暇もないほどに、気づきは唐突に訪れゾロを攫った。
手酷く殴りつけてから思いきり抱きしめたいような、肺をじかにじわじわと握りつぶされていくような、この手に余るほどの厄介な感情は、どうやら、俗に恋と呼ばれるものらしいと。



先に風呂使えと言われ、出てみればサンジは出窓に腰掛け外を眺めていた。いつものように煙草をくゆらせる、シャツの背は少しだけ丸い。部屋中に煙が満ちており、いがらっぽさにゾロは小さく舌打ちをした。同室になったのが気に食わないのはわかるが、嫌がらせならば子供じみている。
金欠なのよとナミはにこやかに笑い、その顔にたいそう弱いサンジは二つ返事で首を縦に振った。花街に面した古い宿屋は、よくある連れ込み宿とそう大差がない。休憩かい、それともお泊り。好色そうな宿屋の主人は、ゾロのほうをにやついた顔で眺め尋ねた。ゾロが質問に答える前に、何故かサンジが前に出て遮り、泊まりだ、と主人を凶悪な形相で睨みつけ吐き捨てた。シーツにはところどころいかがわしい染みがついており、枕元には避妊具がこれみよがしに置いてある。そんな部屋で一晩二人きりだ、サンジの不機嫌はもっともなのだろう。
男であることだけではなかった。もし共にいるのが自分以外だったなら、サンジはここまでの反応をしないはずだった。すでに慣れきった態度ではあるが、それほどまでに疎まれているのだと、まざまざとつきつけられ指先はきんと冷え込んだ。愚かしいことだと思いはする。けれど感情は理性を裏切り、身体にあからさまな変化を起こす。こんなことは知らないままでよかった。そう思うことはときどきある。
サンジは片手をクリーム色の塗装が剥げた窓枠にかけている。気配に気づいていないはずはないが、こちらを見ようとはしなかった。ゾロはボトムを履きながら、捲りあげたシャツから出るすじの浮いた腕、それから、手首に連なる指先までを目で追った。
ゾロよりも細く形の良い手は、それでも節だってよく見れば小さな傷や火傷だらけだ。命を命に還す、満たし与える手。ゾロにとっては、敬い尊ぶべきもの。触れたことはない。そのすべもわからない。いまは差し込む月の光に照らされ、いつもよりなお仄白く見えている。
「髪」
ふいに声がして、ゾロは視線をそのほうに向けた。垂れてる、とサンジが銜え煙草のまま自分の頭の辺りを指で差す。なるほど拭きそこなったところから、ゾロの足跡を辿るように、雫がぽたぽたと丸く床に落ちていた。おう、と返事をし肩にかけていたタオルを取る。わしわしと雑に拭いていると、サンジは怒ったように眉根を寄せて、それからふたたび外を向いた。
ゾロのすることの一々が、サンジには気に入らないのらしかった。他意のない仕草や言葉にも、折に触れこうして不機嫌をあらわにする。そのたび、ゾロは困惑し、冷たい塊が腹に落ちる。どうにも相容れない。野望へと続く遠い道筋、ずっとそれだけを見てきたせいか、近しき者への視点はぼうとぼやけて覚束ない。
「お前さ」
またふいにサンジは口を開いた。目線は変わらず窓の外を向いている。指に挟んだ煙草を灰皿にとんとあて、灰を落としてからふたたび唇に近づけた。吸い込むときにすこし横を向く、今は褪せた色の髪が揺れるのを見た。
「そろそろ、なんだろ、誕生日」
短く区切るように言う。誕生日、とゾロは繰り返した。視線をちらと投げてから、ナミさんが、とだけサンジは続けた。ナミが言っていたということだろう。そういえば以前、酒の席か何かで訊かれたような気もするが、はっきり答えた記憶がゾロには無かった。
「いま何月だ」
「は?」
「11月か?」
「そう……だけど、てめえ、月も覚えてねえのか」
「別に、覚えてなくても困らねえ」
サンジはしばし黙ってから、まあ、おめえらしいがと苦く笑う。嘲るというよりは痛むようなその顔のまま、11月だ、と短く言った。
「日は」
「10日、……ああ、もう11日か」
ゾロの問いに、サンジが懐中時計をポケットから出していう。じゃあ今日だ、とゾロが言うと、は?とふたたび幼いような声をサンジは返した。
「だから、誕生日だ。11月11日なんだろう」
「なんだろう、っておめえ」
サンジは呆けたような顔をして言い、しばしその表情のまま固まった後、はああ、と盛大なため息をついた。力なく首を垂れ、片手で苛々と髪を掻き回す。
わずかに覗く眉間の皺は近ごろ稀に見るほど深く、サンジは下を向いたまま無言で灰皿に煙草を押しつけた。折れ曲がった吸殻を捨て、すぐに新しいものを唇に挟む。何やらまた機嫌を損ねたようだ、それはわかるが、理由に思い至らないゆえ黙っているしかなく、ゾロは据付の冷蔵庫へと歩を進め酒瓶を手に取った。
冷蔵庫はサンジのいる出窓近くの壁際に置いてある。蓋を開けようとしていると、うなじの辺りにちり、と焦げるような視線を感じた。
顔を振り向ければ、サンジがこちらを見ていた。火のついていない煙草を銜えたまま、出窓から腰を浮かせ立ちあがる。そうして、欲しいもんは、と静かにサンジは口にした。
それが誕生日の話だということに、気がつくのに少し時間がかかった。今度はゾロが呆気に取られていると、サンジは気まずそうに、何かねえの、と続け、ふたたび自分の髪に手を入れ指先で整えた。海風で相応に荒れていそうな金髪は、それでも明かりを帯びて控えめな光を放っている。その髪を摘む、さきほど見つめていたサンジの手から、ゾロはどうしても目を逸らすことが出来なかった。
触れてみたいと、そう思ったのだった。
あれに触れるのはどんなふうだろう、触れられるのは、どんなふうだろうかと。
気がついたら酒瓶を落とし、代わりにゾロはその手首を掴んでいた。見た目より頑丈な瓶は割れることなく、ごとりと鈍い音をさせて床に転がった。サンジは瞠目し、薄い瞳を間近で揺らがせた。これほど近くで見たのは初めてだった。深く澄んだ色は、てのひらで掬った濁りのない海水を思わせた。
お前だ、とゾロは言った。口から自然に衝いて出た。野望ならいつかこの手で掴む、他人に与えられるものではない。欲しいもの、自分では得難いもの、望んでもいいのなら、今日だけは与えられるというのなら。
「お前に触ってみてえ」
「……それ、どういう、」
「どうもこうもねえよ、そのままだ」
そのまま、とサンジは呟いた。握ったままの手は振り払われることはなく、サンジは掴まれた自分の手首の辺りをじっと見た。
「男が……男が好きなのか?」
訊かれ、ゾロは一瞬惑った。女を抱いたことは勿論あるけれど、深い情を交わしたことは一度も無い。かといって男に興味を覚えたことも無かったが、サンジは紛れもなく男だ。自分でもよくわからず、黙っているとそれをどう取ったのか、答えにくいならいいぜとサンジは言い、唇を歪めて小さく笑った。
「お前が嫌なら、」
「嫌じゃねえよ」
遮るようにサンジは言った。ゾロが驚いて顔を見ると、男同士なんざ船じゃよくあるこった、別に大したことじゃねえだろう、と今度は言い訳でもするように目を逸らしてそう続けた。
サンジの女に対する態度は、ゾロなどから見れば半ば信仰じみている。触れることすら叶わぬ片恋の女でも思ったろうか。それに比べれば気が楽だと、軽んじられたようでまた身の内は冷え込んで、それでも握った手を離せない自分をゾロは嘲った。
「で、どっちがいいの」
「どっちって」
「わかんだろ。触りてえってんなら、挿れてえのか?」
「……お前がいいほうでいい」
「へえ、どっちもいけんの」
吸われぬままくたりと萎びた煙草をサンジはぴんと指で弾いた。曲線を描きつつ落下したそれは、転がったままの酒瓶にあたりそのまま隣に寄り添うた。
じゃあ抱いてやるよ。物慣れた様子でサンジは言い、けれど何故だろう、ゾロへと伸ばした指先はかすかに震えているようだった。

好きに触りな、とゾロの耳元でサンジは囁いた。明かりを消したシーツは薄青く見え、夜更けの冷えた空気は静謐さを湛えていた。
シャツのボタンに指をかける。ひとつずつはずし、布の下に手を入れて肩を滑らせる。露になった鎖骨の辺り、自分より白い皮膚を目にした瞬間もう駄目だった。顔を近づけ首筋に埋めたら、煙草に混じってサンジの匂いが強くした。甘い、そう思うのは錯覚だろうか。押しあてた唇からも同じ味が舌に伝わった。
柔らかな耳朶を食み、肉の薄い輪郭をなぞり、さりさりとした顎髭を舐めた。両手でその頬を挟んで額と額をそっと合わせる。サンジの金髪が頬をくすぐり、それだけでじんと身体中が熱くなる。息が触れあう距離で、サンジは初めて躊躇いを見せた。
「……キスは、まずいんじゃねえの」
「まずいか」
くちづけは惚れた相手としか駄目か、俺は、俺はお前と、お前とだけしてえ。告白は叶わず、ただ俺とはしたくねえかと尋ねた。サンジはかすかに息を呑み、それからゾロの首に腕を回すと唇を押しあててきた。触れるだけのを何度か繰り返し、舌を吸った。さらりとした唾液ははじめ苦く、けれど底のほうはやはりどこまでも甘かった。
撫で、舐めて、噛みつき、あらゆる場所に赤い痕を刻んでいく。荒い息をつきながらゾロが皮膚に喰いつくたび、サンジは掠れた声を出し、聞いたことのないその声はゾロの骨までを震わせた。唾液まみれになったサンジは、今度は俺の番、と赤らんだ眦を撓ませて笑う。泣き腫らしたように潤んだ瞳は、雄の劣情を帯びた野蛮な色に変わった。身体の上下を入れ替え、その後はゾロのほうがサンジの食い物になった。
お互いに前を握って、一度目を放った。やめろ、そんなことはしなくていいと言ったが、サンジはゾロの汚れた性器に舌を絡め、そのままゾロはまたサンジの口の中に吐き出した。
膝を片手で掬われ、冷たい液体で濡らされて、後ろの穴に指が出入りする。焦がれた指、そう思えば違和感は容易にあからさまな感覚へ変わった。あ、あ、と堪えきれず声をあげるたび、サンジが目を眇めゾロ、と名を呼ぶ、その声を聞きながらゾロはたらたらと腹を汚した。
「……萎えて、ねえな」
手を伸ばし、先端にゾロは指を絡めた。ぬるついている、サンジのものはひどく硬かった。握ったまま自分のそこに導いていく。あてたところでふたたび、サンジがかすかな躊躇いを見せた。
「ゾロ」
「惚れた奴のことでも考えてろ」
ゾロが嗄れた声で言うと、サンジは顔を歪めてから辛そうに笑った。どんな女なのだろう、いつもへらへらと愛想を振りまくばかりの、軽薄を慎重に装うこの男にこんな顔をさせる。
「考えてる」
考えてるよ、とサンジは言い、お前も考えてな、と短い髪を梳くように撫でる。
「俺も、……考えてる」
言うと、サンジは肩の辺りをぴくりと跳ねさせ、そうか、と静かに目を伏せた。濃く翳った睫毛から汗がぽたりと頬に落ちた。滑らかな背中に腕を回し引きつけ、足を開いて繋がった。唇を合わせたのは、内に秘めた言葉を塞ぎたかったからだ。先端がゆっくりと沈む感覚に、ゾロはきつく背を反らせた。
深く混ざり幾度も高まる、ゾロと同じくらい、サンジも途切れがちに声をあげる。
愛されるとはこんな感じだろうかと、二人長く揺れながらゾロは思った。



漂うような浅い夢から覚めて、隣をみればサンジはいなかった。窓から斜めに射す陽は低く淡く、朝だとはわかるが、部屋には時計がないため時刻は判然としない。
シーツはサンジの気配を残し、小波のような皺を寄せている。だがてのひらで触れてみれば、冷たく乾いて長い不在を教えてくれた。夜が明け、横に転がる硬い身体に、サンジは驚き飛び起きたかもしれない。想い人と重ね自分を抱いたことを、今更ながら悔いているかもしれない。安心しろ、これきりだ。すべてが終わったあとサンジには言ったが、サンジは黙ったまま返事すらしなかった。
ゾロは起きあがり、浴室へ向かった。浴槽に斜めに走る黒い亀裂を見ながら湯を溜める。蛇口をひねると、はじめは濁った水が出て、湯になるにつれて澄んでいった。揺れる水面を眺めていたら、こめかみに鈍い痛みが走り、片手で顔を覆い何度か軽く頭を振った。腹の奥にはまだすこしだけサンジの残滓が残っていた。
着替えを済ませ窓を開ける。陽はさきほどより高くなり、晴れた空のほぼ真上に来ている。昨夜サンジがしていたように、ゾロはそこに腰掛け外を見やった。夜には色で溢れた華やかな街も、今は荒れて煤けた風情を晒している。昼間でも春を買うものはいるらしく、道沿いには数人の女が、外灯ごとにぽつりぽつりと立っていた。
目線を遠くに移せば、街の中心にある立派な時計塔が見えている。その付近の広場で朝市が立つのだと、サンジが昨日話していたことをゾロはふと思い出した。いつものように買出しに行き、ここには寄らず船へと帰っただろうか。それならそれでいい、何事も無かったようにまた日常が始まるだけのこと、そう自分に言い聞かせた。望むままに触れ、触れられた感触は、たしかにこの身体が記憶している。
ふたたび通りに視線を落としたとき、見慣れた金髪を目の端に捉えた。宿から少し離れた外灯の下、サンジは立ち止まり女と話をしていた。女の顔は見えないが、艶のある髪は肩よりも長い。腰周りが扇情的に張っていて、華奢な腕は黒いスーツに絡んでいた。
サンジは笑っていた。いつものヤニ下がった笑顔だった。見慣れたそれが神経を撫でたことなどない、けれど今、腹の底から湧きあがるのは収まりのつかない熱だった。嫉妬とは違う、これは憤りだった。知ってしまったからだ。痛みを抱え、それでも慈しむような、そんな顔で笑うくせにと。
ゾロは部屋を出て階段を駆け降りた。埃っぽい道路を速足で歩くと、道に立つ女たちが何ごとかと振り返る。サンジは呆気に取られた顔でゾロを見つめた。あのときと同じように、その手首を強く掴む。
「悪ぃが、これは俺のだ」
今日だけはそう言っていいはずだ。女もサンジと同じくらい呆けた顔をしてゾロを見た。構わずサンジの手を取り、半ば引き摺るようにしてゾロはふたたび歩きだした。罵声の一つも浴びるかと思ったが、サンジは抵抗するそぶりを見せなかった。
しばらくそのまま歩くと広場に出た。目の前には煉瓦造りの時計塔が高く聳えている。あちらこちらに屋台が立ち、中心街は人と活気に溢れていた。
「……どこ、行くつもりなんだよ」
ずっと黙っていたサンジが言い、ゾロは握っていた手を離した。船だ、と言うと、逆だよ馬鹿、と静かに言う。それから煙草に火をつけ、銜えると煙を吐いてゾロの手を握りなおし、今度はサンジがゾロを先導して歩いた。
昨日まで触れられなかった指が、今はゾロの指にきつく絡んでいる。自分の皮膚との境がわからなくなるように、互いのてのひらはぴたりと合わさっていた。目線をあげる。陽を弾く金糸は、やはり痛むほどに目を灼いた。
船に着くとサンジはまっすぐラウンジへ向かった。煙草を消してから座れよ、と言い、ゾロが腰掛けるとサンジも隣に腰を下ろした。指が離れようとしたから、ゾロはそれを制するように自分から絡め直した。サンジが目を見開く。目尻の辺りの薄い皮膚は朱を刷いた。まさか思ってもねえし、おめえ肝心なこと言わねえから、てっきり俺は。独り言めいて呟き、握った手、ゾロの手の甲に唇を押しあてた。
何が、と問い返すことも忘れ、ゾロはぼうとそれをただ見ていた。見あげる柔らかな眼差しに、ゾロは空気が薄まったような息苦しさを覚えた。どこか律義なところもある男だ、今日一日のあいだは、ゾロの願いを叶える気なのだろう。明日になれば失うとわかっていても、ゾロには離すことが出来なかった。
「誕生日、おめでとう」
「……おう」
まだ言ってねえの、さっき思い出した。サンジは苦く笑う。
「言われたの、今日、俺がはじめてだろ」
「まあな」
「さっきの」
「?」
「俺のだって、あれ」
「ああ」
今更隠すことでもない。まだ日付は変わってねえ、そう言うと、サンジはゾロを見たまま、は、と息を吐き、それから下を向き空いた片手で頭を抱えるようにした。シャツから覗く首筋には赤い印が散り、その周りの皮膚も赤らんでいる。顔をあげたサンジの頬もやはり紅潮し、視線をゾロからわずかに外しさまよわせた。
「欲しいもんは?」
俺以外で、とサンジは付け加える。今日一日も駄目か、と言うと、サンジは困った顔でいよいよ顔を赤らめ、そうじゃなくて他にも無えのと言う。じゃあ飯と酒、と答えると、わかったよとその顔のまま頷いた。
「今言っても、おめえ、全部プレゼントだと思うだろうから」
日付が変わってからまたここに来て。
ゾロには解せぬ囁きを耳に落とし、宴の準備をするぜと立ちあがる。
名残惜しくシャツを掴めば、夜に見せたあの顔でサンジはゾロに微笑んだ。



今日まで忘れてたなんて実にあんたらしいわと、ナミにはぶつぶつと小言をもらった。贈り物は次の島でね、そう肩を竦めてから、でももう一番欲しいのは手に入れたみたいだけどと、忙しく立ち働くサンジを見るから危うく酒を噴きそうになった。
だがそれもあと数時間の話だ。心の中だけでゾロは思った。後悔はしていない。サンジの話が何かはわからないが、思いを断ち切れずとも、また元通りに仲間としてやっていければそれでいい。
宴が終わり、皆が寝静まってから、ゾロはラウンジの扉に手をかけた。淀みなく刀を振るう手は無様に震え、その上から自分のてのひらを重ね抑えた。まったくもって厄介だ、この身を吹き抜ける嵐のような感情は。肺の底から細い息を吐き空を仰ぐ。冴えた色をした三日月と、瞬く星が見下ろしていた。
竦む足を一歩踏み出せば、ゾロ、とやはり震えたサンジの声がした。





     *





薄いシャツは、海風を受ける帆のように張っている。その下にある傷ひとつない背中の、鍛えられた稜線をなだらかに浮きあがらせていた。規則的に聞こえてくる寝息はゆったりとして深い。サンジはシンクにもたれ、丸まった広い背中が上下するのを、さきほどからただ、ぼんやりと眺めている。
まるで、くつろいだ大型動物みてえだ。
そんなふうに思えば、口元は自然とほころんでいく。
その在りようだけでなく、そう在るほど自分に気を許しているのだと、不器用で口下手な男が体現しているように思うのは果たして自惚れなのだろうか。浮かれている自覚はあった。耳朶がふわりと熱を持ち、そんな自分に呆れるようにサンジは長く煙を吐いた。
明日の朝食の下拵えはもう済んでいた。新鮮な卵があるうちにオムレツを振るまうつもりで、それに合わせてパンとスープを出す予定だった。長いことかけて作ったコンソメは、つややかに輝いていて濁りがない。煮込みも終わり、あとはこのまま一晩寝かせれば、野菜と肉は柔らかな口あたりになるだろう。
指先にちり、と熱を感じて、サンジは短くなった煙草の火を消した。水を出して手を洗い、拭いていたらかたん、と後ろから物音がした。
振り向いて、テーブルにつっぷしたゾロのほうを見る。身じろいだゾロの肘が、空の酒瓶にあたったのらしかった。緑のような青のような透明な瓶は、しばらくかたかたと震えるような動きをしたのち、倒れることなく元通りの場所に留まった。
新しい煙草に火をつけようとして、サンジは思い直し箱をポケットのなかに収めた。捲っていたシャツの袖を下ろし、近寄って酒瓶をテーブルの端に置く。そうして、ゾロの隣に腰を下ろした。横を向けた、ゾロの寝顔が見えるほうに座り、片肘をついてその顔をしげしげと眺める。
喋っている途中で返事が聞こえなくなったと思ったら、ゾロはいつのまにか眠ってしまっていた。橙色のランプの明かりが、ちょうどゾロの頬のあたりに水溜まりのような丸い影を落とし、穏やかな波の周期と同じにかすかに揺れ動いて見えている。
みなは寝静まっていて、夜更けの静寂を乱すのは船の軋みと波音ばかりだ。近ごろのゾロは、サンジがキッチンにいるあいだ、こうしてラウンジで時間を過ごすようになっていた。
大抵は酒を飲んでいる。大した会話があるわけでもない。一度は体を重ね、後になってしまったが想いもちゃんと伝えあった。けれどあのあと、サンジはゾロとの距離を測りあぐねていた。
ゾロの戸惑いが伝わるからだった。相手が男だからか、仲間だからか、自分だからか、それとも、恋というもの自体を持て余しているのだろうか。近づこうとすると空気はぎこちなく強張り、だからサンジはあれ以来、ゾロに触れることが出来ないでいる。
「……まあ、のんびり行くけど」
叶うとは思っていなかったから、刀を握るためだけにあるような無骨な指が、自分に伸ばされるなどと考えもしていなかったから。
どれだけ時間がかかってもいい、戦いにまみれ生き急ぐ俺たちが、ゆっくり大切に恋を育てるのも悪くない。
そうサンジは思うようになっていた。
ふ、と吐息のような声をゾロが漏らす。左耳を飾るピアスが光を跳ねたので、顔が動いたのだとわかった。眠りが浅くなっているのだろう、そのまま起きるかと思ったら、ふたたびすう、と寝息が深くなる。かすかに揺れる緑の髪、形のよい頭を見ていたら、サンジは自然に手を伸ばしていた。
片肘をついたまま、てのひらで撫でてみる。天辺からうなじへと、ゆっくりと滑らせる。存外に優しい感触と、高い体温が心地良くてしばらくそうしていた。ふと見れば、ゾロの目尻に血が集まっている。
「寝たふり」
「……るせえ」
いま起きたんだよ、とまぶたを閉じたまま、不機嫌そうにも聞こえる口調でゾロは言う。
「起きたなら目ぇ開けたら」
「……」
「ゾロ?」
「てめえのツラ見んのやなんだよ」
「なんで」
「締まりのねえ、おかしなツラしてっからだ」
「お前ね、おかしいってよ……」
大事なモン見るときはこういう顔になんの。言って軽く頭をはたくと、ゾロはようやくのそりと体を起こした。後ろ頭を掻いている、その手にそっと指を絡めれば、こちらを見ないまま動きを止めた。
横顔の目元はさきほどよりもなお赤く、は、と吐いた息が震えたのがわかった。
「こっち、向けよ」
ゾロ。
名を呼べばゆっくりとこちらを向いて、だからその顔やめろと、どうしようもなくなんだろうがと、片手で赤い顔を覆うようにして、困り果てたようにゾロは呟いた。



考えるなんててめえらしくねえぜと、言ってからたぶん、そう一番思っているのはゾロ自身なのだろうと気がついた。
迷いの無い目をしてまっすぐに前を見据えるこの男が、自分への想いに惑っているのだと思えばたまらないような気持ちになった。
わからねえんだよとゾロは言う。何が、と問えば、いろいろだ、と答える。その大雑把さがゾロらしくてなんだか笑えた。
「ゾロ、立てよ」
先に腰をあげ、椅子をまたいで床に立って手招きをする。
「なんだ」
「いいから、立ってみな」
繰り返すと、ゾロはしぶしぶといった風情で立ちあがった。
目の前に立った、ゾロの手首を掴んで引き寄せた。その手を自分の背中に回させて、サンジはゾロの体を抱きしめた。
鼻を押しつけた肩口からはゾロの匂いがする。触れあった胸から互いの熱と、馬鹿馬鹿しいほど早い鼓動が伝わった。
途方に暮れているのはお互いさまだ。染みついた意地の張り合いがいまさら治るわけでもないだろう。ゾロの無鉄砲な生きかたが、これで変わるなどとも思っていなかった。
それでよかった。
この何にも変え難い、熱い命の塊がこうして俺を求めるのなら。
「……なあ、俺なんて簡単だぜ」
お前が無事で笑ってりゃあ、それでいい。







ゾロの手が、くしゃりとシャツを掴む。薄い布越しに、荒れた指先が強く背に触れているのを感じる。
鎖骨の辺りに湿った息がかかり、首の後ろで髪に触れるかさりという小さな音がした。
しばらく、ただそうして熱をわけあっていた。
刺すような胸の痛みが、腹の底からせりあがる感情が、愛おしさのためなのか、それとも別の何かなのか、それすらもわからぬまま、けして離すまいと抱いた腕にただ力を込めた。





                                        (12.12.30)







10年ゾロ誕としてサイトに掲載したものの続きを、すでに完売したweb再録集に書いていたので
完全版にしてみました。*以降が書き下ろしぶんです。

自分が書いた海賊の話では、一番思い入れが強いのがこの話です。これを書く少し前に離れ離れ
だった一味が二年ぶりに集結して、485話以降ずっとモヤモヤきつい思いをしていたのがすうっと晴
れて、今なら自分の思うような海賊サンゾロを書けるんじゃないか、とようやく思えました。
web再録集の表紙は灼さんだったのですが、この話のイメージで描いてくださったとのことで、それを
見てさらにそのイメージで書き下ろしをつけました。せっかくなので表紙画像も下に。