平和な午後、浴室の攻防 逃げ込んだ場所が悪かったのだ。 のど奥に、水を含んだ空気がまとわりついている。なまぬるいそれはもたりと気管を塞いで、息苦しさにサンジはそっと吐息を漏らした。 顎をすこしだけ引いて、自分の胸ポケットをちらと見下ろしてみる。布ごしの角ばった膨らみは煙草の箱だ。染みついた悪癖は、やめるつもりもやめられる自信も毛頭なく、もはや中毒なのだとじゅうぶんすぎるほどに自覚はあった。 ああ、これをいますぐ吸いてえと強く思う。けれどあいにくと火の持ち合わせがないのだった。唇をゆがめて、目の前のドアをサンジはじっと睨みつけた。 外からはサンジを探し回る、ルフィの騒々しい声がまだしている。むっとくる湿気で前髪が貼りついて、サンジはぶるぶると頭を振った。 重みを増した髪はびくともしない。いらつきながら指でそれをはがしていると、水音に混じりバスタブのほうから、おい、と聞きなれた声がかかった。 密室ではその声はよけいに響いて聞こえる。サンジは身体の片面をびくり、と緊張させた。それでもてのひらに仲良く二つ乗せられた、シュークリームが微動だにしないのはサンジの職業的習慣と、それからコックとしての挟持の表れだ。 きつね色にこんがりと焼けたシューは、われながらほれぼれとするよい出来で、クリームだってもちろん絶品だった。昼が麺類だったのがわざわいしたのだろう、早くに腹をすかせたルフィは、ふと目を離したすきに皿にならべていた出来立てのそれらを頬袋に詰めこんだ。 なんとか死守した女性用二つを持って、サンジは狭い船内を逃げ回り最終的にはここに追い込まれたのだった。ドアを開けた瞬間、もうもうと立ちこめる白い湯気ごしゾロと目があった。けれど近づいてくるルフィの声に、サンジの片手は反射的にドアを閉めていた。 そして今にいたる。 「おい」 もう一度言う、ゾロがこちらを見ている気配がする。サンジはかたくなに扉を凝視しつづけた。潤っているはずののどがひりひりと痛み、サンジはごくりとつばを飲み込んだ。 煙草が吸いてえ。 「……」 「おい、まゆげ」 「……」 「巻きすぎて口も利けなくなったか?」 「っるっせえ!マリモと会話する言語なんざ持ちあわせてねえだけだ!」 「通じてっぞ」 は、とゾロが鼻で笑う。なんつういけすかねえ野郎だと、出会ってから数え切れないほどいだいた感慨をサンジは凝りもせずにまたいだく。 さっきゾロに言ったのは、まったくサンジの本心だった。ゾロとはどうにも言語が通じない。口を開けば出るのはおたがい罵詈雑言、ろくにわかりあえたためしがなかった。 それどころか腹が立つばかりで、ならばもういっそ口を利かなければいいと、そうサンジがようやく思い至ったのがいつもよりやや派手だった昨夜の喧嘩のあとの話だ。そしてこのタイミングで二人きり、なんとも間が悪いというものだろう。 サンジがめずらしく挑発に乗らず黙っていると、きゅ、とシャワーを止める音がした。水音が止まってしまうと、ゾロの気配がずっと濃密になる気がする。 この男が持つ鮮烈な存在感は、ときおり、毒気にも似た影響を周囲におよぼすことがあった。しかもどうやら無自覚らしいから性悪なのだ。負けねえ、呑まれてたまるかと、サンジはゾロとは反対のほうに顔を背けた。 見ないでもわかった。きっとゾロはいつもの腹立たしいような悪人づらで笑っているのだろう。まだ温かい水がその引き締まった身体を、隆起にそって撫で落ちるのを無防備にそのままにして。 その光景を想像しただけで、思わず舌打ちが出た。 「いらついてんな」 ゾロが言う。ぱしゃ、と水を踏む音がして気配がさらに近づいた。 サンジの半身はすでに石のようにこちこちだ。ぎこちなく視線だけで、すがるように煙草の箱を見る。ゾロはそれに気がついたらしかった。 「煙草か」 ああ、だからいらついてんだな。 鷹揚に言って、ゾロがこちらに手を伸ばした。陽にやけたこうばしそうな色の腕が視界を横切り、サンジの胸ポケットを荒っぽく探る。武骨な指が、胸板をひっかくようにうごめいた。 サンジは動けない、ただじっとしている。箱のなかから一本を取りだすと、ほらよ、とゾロはもうかたほうの指でサンジの唇をとん、と軽く叩いた。 思わず開いたすきまに煙草を差し込む。ゾロの硬い表面が、うちがわの粘膜にほんのすこし触れて離れていく。 「……火」 サンジは口の端でくわえ、くぐもった声で言った。それを催促ととらえたゾロが、どこだ、と尋ねる。 「ねえんだよ、ラウンジに置いてきた」 「そうか」 まあ、くわえてるだけでもましじゃねえのか。ゾロが両腕を上にあげるのが視界の端にひっかかった。ぱたぱたとしたたる音は、たぶん短い髪を絞って落ちる水滴だ。 サンジはゾロを見ないまま、手探りでそばに置いてあったタオルを掴みゾロのほうに突き出した。 「そうしてりゃあ、ちっとは緊張もほぐれんだろ」 受け取りながら、ゾロはあいかわらずゆったりと言う。余裕すら感じるのはたぶん自分に余裕が無いからだ。髪を拭いているのだろう、ばさばさという音とともに、白い布がちらちらと閃いているのがわかった。 悟られていることに悔しさを覚えた。だが、ここで吼えたら終わりだった。返り討ちを食らってのど笛を噛み切られるのがオチだ、それがわかっている。 「……緊張なんざしてねえ」 「へえ」 「理由もねえし」 「その割にゃ態度がおかしいがな」 てっきり、昨日のせいかと思ったが、そうゾロは続ける。 腹の底がかっと熱くなった。 そうだ、昨夜はすこしばかり行きすぎた。いつものただのかきっこのはずが、なんだかみょうに盛りあがってしまったのだった。 気づけば獣の息づかいで互いの身体じゅうを舐めあっていた。最後などくわえあってフィニッシュだ。サンジはその場の勢いで、ゾロの精液を飲みまでしてしまった。 締まった腰をびくつかせながら、やめろ、と舌っ足らずに言われてよけいに燃えて、サンジもすぐにゾロの口の中にすべて吐き出した。 あまりの気持ちよさだった。 そりゃあねえだろうと思った。 いったあとは無性にイラついて、お決まりの喧嘩はいつもよりもずっとひどかった。 「気に食わねえやつと一緒の空間が、苦痛なだけだ」 吐き捨てるようにサンジは言った。片手で落ちかかった髪をかきあげれば、束になったそれは、指にしとりと蔦のように絡みついた。 気に食わねえ。ゾロが繰り返す。 ああそうだ、気に食わねえ、なにもかもがだ。 「じゃあ、出て行けばいい」 「だから!ルフィがなあ!まだその辺うろついてんだよ!」 思わずサンジは激昂し、とうとうゾロのほうを見てしまった。そしてサンジは自分の愚かさを呪うことになる。ゾロはサンジを見つめていた。 予想していたのとはまったく違う、その細められた濡れたまなざしに、サンジは間近で捉えられた。 「言い訳」 ゾロが唇を動かす。 あたたまったせいか、いつもより色の濃いそれのゆっくりとした動きに目が吸い寄せられる。 「……は?」 「無くしてやろうか」 「――ど、」 どういう意味だ、そう訊きかえす間もなかった。 ゾロが口を大きく開ける。目を覆いたくなるくらい血色のよい桃色の口内と、あれだけの重みに耐えうる頑健そうな白い歯があられもなく晒される。 緑頭がすうと下がったかと思うと、そのまま、ゾロはてのひらのうえのシュークリームにがぶりとかぶりついた。 サンジは呆気に取られていた。あ、と思わず声をあげたが、出来たことといえばたったそれだけだった。 クリームがちいさな穴からあふれ、サンジのてのひらにとろりと垂れ落ちてくる。まだ冷やす前の出来たてのそれは、まるで体温のようになまぬるい感触で膚を撫でた。 ふたくちずつであっというまに二個とも平らげると、ゾロはサンジの汚れた手に熱い舌を這わせた。湿った髪からまだ雫を落としながら、形のよい頭を前後にうごめかせて。 ぴちゃぴちゃと音がする。じゅ、と吸う。 すべて、きれいに舐めとってから唇を離す。 サンジは唾液で濡れ、てらてらと光る、もはや何も乗っていないてのひらをぼんやりと見つめた。なんとかくわえたままだった煙草が、ぽとりと落ちて水溜りに寝そべった。 「……て、て、てめ、」 「ごっそさん。うまかったぜ」 出て行かねえのか? 手の甲で乱暴にぐいと唇をぬぐい、ゾロは片頬だけで笑ってみせた。 その顔を見て、何かが弾けとぶ感覚が、たしかにした。 気がつけば汚れたままの手で裸の腰を引き寄せていた。肩にかけられていたタオルをひっぺがして隅に投げつける。そのまま、サンジはもつれるようにバスタブに転がり込んだ。 深くくちづけ、舌を絡ませあい、ジャケットをもどかしく脱ぐあいだにも、ゾロはひきちぎるようにしてサンジのシャツのボタンをはずしていく。 待てよ、とサンジが言うと、待てるか、とゾロは声を掠らせた。ゾロの唾液はクリームの甘ったるい余韻が残っていてくらくらする。おたがい、笑えるほどすでに息が荒い。 なんだよ、こいつも余裕なんてねえってか。 昨夜とまるきり同じ、けれどきっと昨夜よりも行きすぎる、それがわかった。 「なあ、俺、つっこまれんの嫌なんだけど」 ようやく唇を離して、耳元でサンジが言うと、てめえがやればいい、とゾロはこともなげに言った。 「男としたことあんのかよ」 「ねえよ、阿呆」 ゾロが呆れはてたという顔をする。それでも、その声はこころなしかいつもより甘い。熱気のせいだけでなく、頭の芯はますます痺れていった。 「……じゃあ、なんで?」 ズボンの裾から水が染みてきている。ゆるんだまま残っていたネクタイと、腕にひっかかっていたシャツを脱いでバスタブの縁にかける。下についた片手がずるりと滑り、サンジはその手をゾロの首に回した。 腹立たしいほど美しく潔い背中、たしかめるように、濡れた突起をそっと指先で撫で下ろしていく。 「てめえから、これ以上奪うつもりはねえからな」 ゾロはにやりと笑う。 その意味をすぐに悟り、サンジは顔中を赤くした。 生に必死でしがみついた俺の目の前で、命なんてとうに捨ててるとこいつは言った。 ちぎれそうに深く切られた両足が、ジジイの片足の重い経緯を思い出させた。 無茶なやりかたがちくいち気に障る、きっとろくな死に様じゃねえだろう。なによりむさ苦しいはずのクソ野郎だ、なのに、どうしても目が離せない。 行き場のない想いに気がついたのはいつだったか。 とっくにばれていた、そう思えばあまりの羞恥で死にたくなった。 「なっにそれ!ごうまん!」 顔がひりひりと焼けつくように熱い。思わず声を荒げると、ゾロは眉をひそめ、さも面倒くさそうに片耳を指で塞いだ。 「うるせえよ、耳元でがなるな」 「なんでそんな自信満々なんだよ!意味わかんねえ!やっぱおめえぜんぜん意味わかんねえ!」 「あー、てめえはもう、ちっと黙ってろ!」 自信があったわけじゃねえ、この態度がそうならそりゃあもともとだと、不貞腐れたようにゾロは続ける。 たしかにゾロの傲慢そうな態度はいまに始まったことではなかった。 「強気で出ねえと勝負にゃ勝てねえ。それに、見てんのがわかったのは、たぶん俺が先に見てたからだ」 「……え」 視線を感じることはたびたびあったけれど、てっきりガンを飛ばされているのかとばかり思っていた。いろいろと不器用そうな男だから、あれが精一杯の意思表示だったのかもしれない。 なんだよ、それちょっとかわいんじゃねえのと、ぼうっとしていたら後ろ髪を乱暴に鷲づかまれた。 ぐいと引かれてふたたび唇を塞がれる。厚い舌が奥のほうまで入り込んで、わがもの顔で思うさまなぶりはじめる。ちくしょう、すげえ、気持ちがいい。そういえばキスをするのは初めてだった。 サンジは負けじとゾロの肩を浴槽に押しつけた。乗りあげて唾液を流し込むようにすると、ゾロの立派なのど仏がそれを飲み下す動きをするのがわかる。ん、とときおり苦しげに漏れる声がたまらなくて、サンジはますます夢中になった。 そうしながら高ぶったものをすりつける。二人とももうかちかちだった。ゾロも腰を揺らしている。水をはさんで膝がこすれる、きゅ、きゅ、という高い音がする。 いつのまにかルフィの声は消えていた。 何か粗相でもやらかしたのか、かわりにナミの怒声とウソップの笑い声が響いている。 「……一敗したからな、次は俺が勝つぜ」 「どうやって」 「いれてください、って言わせちゃる。それか、」 「――それか?」 「好きだ、――ってな」 にやりと笑ってやれば、眇められた目尻が鮮やかに朱を刷いた。まさかこんなに素直な反応をするとは思わなくて、勝負をかけたはずのサンジのほうが焦ってしまう。 ああ、こりゃあやべえかも。勝ったつもりがまた負けたみてえだ。 「おもしれえ。……言わせてみろ」 ひどく挑発的な台詞を、ゾロはやはり、いつもよりもずいぶん甘く聞こえる声で囁いた。 平和な午後だ、おやつは約二時間後、頭のなかで新たなメニューと、この行為にかけられる時間をサンジは瞬時にはじきだした。いまやそれさえも扇情的な、太い首すじに鼻をすりつけて肺いっぱいにゾロの匂いを吸いこんでいく。 火照ったままで押しつけた頬に、それだけは涼やかなピアスがちり、と触れた。 (10.07.05) 海賊サンゾロ書いたの5カ月ぶりでしたわ。 |