赤い観覧車





ずいぶん小さな観覧車だった。
空を染める夕日の色と、その色は、すこし似ていた。
はじめはもっと鮮やかな色だったのだろう、古びた小さな赤い観覧車が、くるくる、くるくると回るのを、ゾロは眺めている。
ときおり思い出したように酒瓶を傾けた。木製のベンチは慣れた座り心地だった。人込みのあいだをすり抜けて吹く風は、わずかにひんやりとしたすじが混じっている。この島の夏はもうすぐ終わるのかもしれない。残りわずかな酒をちびちびと飲みながら、ゾロは、そんなことを考える。
船の修理のために寄ったわりあいさびれた風情のこの島には、夏のあいだだけ、他の島から移動遊園地が来るのだそうだ。ここにたどり着いたとき、サンジが昨日その話をしていたことをゾロは思い出した。
いろんな場所を旅したり迷ったりしてきたゾロだから、観覧車くらいは見たことがあった。けれど、おぼろげな記憶と比較しても、これはずいぶん小さいものだった。
つくりもちゃちだし、支柱のあたりからはときどき、ぎいい、と不穏な音がしている。窓にははめこみのガラスさえもなく、身を乗り出した子供が落ちたりはしないのだろうかと、無頓着なゾロでさえ余計な心配をしたくなった。
いまは二人の子供が乗っていた。兄妹だろう。別々のゴンドラから、楽しそうに手を振っている。下では彼らの父親らしき人物がひらひらと手を振りかえしていた。
夕焼けを浴びたその背中も、やはり、赤く染まって見えた。
 

外をぶらついて宿に戻ろうとしたら、いつものごとくまったく覚えのない場所に出た。中心街からはたぶんかなり離れた、緑の多い公園に行き着くと、雑木林のあいだを走る道になにやらひとの流れがあった。
ゾロはなんとはなしにそこに混ざった。流れに身をまかせてのんびりと歩き続ける。賑やかな音楽が聞こえはじめ、それがだんだんと大きくなって、最後に行き着いた芝生の広場に、かりそめのその遊園地はあった。
まるで子供が描いたカラフルな絵のような光景だった。ゾロはへえ、と思わず口にしていた。
ざっと周囲を見渡せば、目玉は観覧車のようだったが、他にも子供用の乗り物がいくつかあるようだった。それらを取り囲むように屋台が出ていて、派手な格好をした大道芸人などもちらほらと見受けられた。
どのみちいそいで宿に戻る必要もない。むしろ早く帰るのは気詰まりだった。人込みは得意なほうではないけれど、この雰囲気は悪くないとゾロは思った。
屋台では酒類を売っていたし、もちろん食べるものも売っている。小腹が空いていたゾロはポケットのなかをごそごそと探った。コインが何枚か出てくる。それでホットドッグを買うことにした。
「はいよ、にいちゃん。ひとつでよかったかい?」
愛想のよい親父がゾロににっこりと笑いかけた。ゾロはねんのため後ろを振り返った。あたりまえだがゾロに連れはない。なぜそんなことを訊かれるのかいぶかしみながらも、ああ、と短く、ゾロは答えた。
「冷めねえうちに食えよ。うめえぜ」
どこかでよく聞くような台詞だった。手渡された、うすい茶色の紙で包まれたホットドッグはまだ熱かった。
ふと思いついて、この遊園地はいつまでなのか尋ねてみる。
「今日までだよ」
「――そうか」
知らないで来たのかい、あんたは運がいいね。男はまた愛想よく笑った。
隣の屋台で酒も買い、ゾロは空いているベンチを探しどっしりと腰を落ち着かせた。とくに意識してその場所を選んだわけではなかったが、顔をあげると、観覧車が目の前に見えていた。
ことりと横に酒瓶を置く。包み紙を破きながら、視界を横切るひとびとを見ていて、ゾロは屋台の親父の言葉にようやく合点がいった。
いちようにすこし浮足立った顔をした彼らは、誰もが家族連れか、遊び仲間か、あるいは恋人同士のように見える。こういうところに連れもなく男ひとり、というのは、おそらくめずらしいことなのだろう。
ホットドッグにはケチャップとマスタードがたっぷりとかかっていた。ひとくち食べてみる。まずくはないが、それほどうまいとも思えなかった。
そういえば一人きりでこうして食事をするのは久しぶりだった。昔は、あの船に乗る前は、あたりまえのことだったのだ。腹さえ満たせれば食べものの味などどうでもいいと思っていた。
あの男が、あの船に乗る前は。
ゾロはホットドッグを口の中に詰め込んだ。押し流すように酒をぐびぐびとあおり、ごくりと機械的に飲み下した。
胸のあたりには、なにかが詰まったような感覚がいつまでも残った。

悪かった、酔ってたんだ。

そう言ったのだ。
ほんのりと赤い顔で、とろりととろけた瞳で、昨夜ゾロにそっとくちづけた男は、今朝は死にかけのような青白い顔で目を逸らして、そう言った。
無理もない、とゾロは思った。あれだけの女好きが、酔っ払ってよりにもよって男とキスをしたのだ。無理もない。
あやまるようなことじゃねえ。ゾロは答えた。じっさい、ゾロにとっては、あやまられるようなことではまったくないのだった。
サンジがそれでもうかがうような表情でゾロのほうを見たから、べつに誰にも言わねえよとゾロは続けた。
そしてそのまま、サンジの声を聞く前に背を向けた。


わあ、と遠くで歓声があがった。
ゾロから見て右奥のほう、縞模様のテントの前にひとだかりがあり、ピエロの扮装をしたものの首から上だけが見えている。声はそこから届いたようだった。
ゾロは視線を戻した。ひととき子供たちを空へ近づけたゴンドラが、ゆっくりと地上へ戻ってくる。いちばん下までくると、幼い兄妹は満面の笑顔で、ぴょんと元気良くそこから飛び降りた。父親のもとへと駆けていく。
頬を撫でる風を感じながらゾロは酒瓶を傾けた。ふちに押しあてた下唇を、最後の数滴が申し訳ていどに湿らせる。なごり惜しげになかを覗き込んだあと、ゾロはそれを足元に置いた。
無人のまま回り続ける観覧車を眺めていると、急にひどい眠気が襲ってくる。
そういえば今日はうたた寝すらしていないことに、いまさら、ゾロは気がついた。


     *


「お前、乗ったことあるか?」
サンジがそう言ったとき、ゾロにははじめ、なんのことだかまったくわからなかった。
テーブルの上は汚れた食器類で雑然としている。わずかに残ったつまみに手を伸ばした格好のまま、ゾロはすぐ隣の椅子に座っているサンジをちらりと見た。
サンジは片手でテーブルに頬杖をつき、身体をねじって、ゾロの顔をじっと見ていた。首をすこしかしげているせいで前髪が流れ、いつもは隠れている左目がその隙間からすこしだけ覗いていた。
思わず止まった指の先の、平皿をサンジがゾロの前に引き寄せた。
「……なんにだよ」
「だから観覧車だよ」
あたりまえのようにサンジは言った。
「女の話じゃなかったのか」
ついさきほどまでサンジは、昼間に街で出会った麗しのレディとやらの話をそれは熱心にしていたはずで、ゾロはふうん、とか、へえ、とか、適当なあいづちを返していたのだ。
「だからさっき言っただろうが。移動遊園地が来てるって話を、そのレディがしてたんだよ。観覧車に乗ったんだと」
「ああ――」
そう繋がるのか、とゾロは納得した。そういえばそんなことを言っていたような気もする。
上の空だった自覚はあるので、ゾロは、わりい、と軽く手をあげた。話を聞いていなかったゾロに、いつもなら食ってかかるはずのサンジは、まったくてめえはよ、とため息まじりで笑っただけだった。
煙草を唇に近づけながら、反対の指で、サンジがネクタイの結び目を緩める。その肘がシャツ越しにゾロの二の腕を掠めて、ゾロは慎重に、身体をほんのすこし横にずらした。
サンジのいるほうとは、反対のほうに。


海軍もめったに来ない辺鄙な島だそうよ。
先に船を降り、情報を集めてきたロビンはそう言って微笑んだ。
先日の奇襲のさい砲撃で損傷を受けた部分は、数日あれば補修できるという話だった。船はドッグに預けるから見張りはいらない。奪ったお宝のおかげでナミはえらく機嫌がよく、めずらしく男連中も一人部屋をあてがわれたほどだった。
夕食は宿の食堂でみなと一緒に取った。海軍が来ないかわり、観光客もめったに来ないのか、客はゾロたち一組だけで、宿の主人はこころからのもてなしをしてくれた。
近海でとれる魚が主体の料理はなかなかうまかったし、この島の名産だという蒸留酒は味わい深かった。いつものように飲んで、食って、騒いでいるうちに、夜はあっというまに更けていった。
ひとり、またひとりと、酔っぱらったり眠くなったりした順から部屋へ戻っていく。こういう場合、最後まで残るのはたいていゾロとナミの二人だ。
けれど、この夜は違っていた。
「お肌に悪いから、私ももう寝るわ」
ゾロは顔をあげた。頼むから行くな、という願いを込めて見たつもりが、もともと目付きの悪いゾロなのでそれはまったく伝わらず、なにを勘違いしたかナミは、ふうと大きく肩で息をした。
「ゾロ。あんた、こんなところで喧嘩しないでよ?」
「はあい、ナミさん!」
ゾロのかわり、サンジが明るい声で返事をした。ナミは満足げに頷いて去っていく。入れ違いにこんどは宿の主人がやってきて、帰るときはフロントまで教えに来てくれと言い残し出て行った。
そのようにして、サンジとゾロだけが、広い食堂にぽつんと残された。オーダーストップはかかったが、まだテーブルには食べ物も飲み物もしっかりと残っていた。
俺も、と立ち上がりかけたゾロの手首をサンジが掴んだ。
「ゾロ」
 サンジが名を呼んだ。
「あとちょっとだけ、つきあえ」
ゾロのほうを見もせずにサンジは言った。ぎゅう、と握りこまれる。
振り払うことなど造作もないはずだった。
けれど、ゾロは、そうしなかった。


「昔な、いちどだけ乗ったんだよ」
ゾロの返事を聞く前に、ふたたび、サンジが話をしだした。
サンジは観覧車に乗ったことがあるのだそうだ。
海上レストランで働きはじめたばかりの頃、ゼフに内緒で店を抜け出し、近くの島に来ていた移動遊園地にひとりで行ったのだとサンジは語った。ぼこぼこにされるのを覚悟して戻ってきたのに、ゼフは何も言わなかったのだと。
懐かしいな。サンジは目を細めてつぶやいた。
サンジが自分の話をそんなふうにくつろいだ感じで、ゾロにすることはめったにない。それはゾロも同じだった。いつだって二人のあいだには、薄っぺらいけれどものすごく頑丈な、透明な壁のようなものがあるのだった。
サンジのろれつはすでにすこし怪しかった。そうかよ、とあいかわらず気のないような返事をしながら、幼いころの話をするサンジのほうをゾロは盗み見ていた。
煙草を挟んだすっと長い指とか、酒がまわってほのかに色づいた肌とか、無造作に乱れた金色の髪とか、そんな、いろんなのを。
「で、」
「で?」
「お前は?」
サンジがふたたび尋ねる。
ゾロは観覧車に乗ったことがない。ゾロの故郷は自然に囲まれたとても美しい土地だったけれど、いま考えればとにかく田舎だった。
遊園地など絵本のなかの世界だった。幼い頃は、道場で刀を振り回したり、野っぱらを駆けまわったり、森や川で虫や魚をとったりばかりして過ごしていた。
そうこうしているうち、ある日とつぜん、あんなに強かったくいなが驚くくらいあっけなく死んだ。階段から落ちたくらいで。あまりに、あっけなく。
そしてたぶんくいなが死んだ瞬間、ハサミでぷちんと糸を切るみたいに、ゾロの少年時代も唐突にその終わりを迎えたのだった。
それからは強くなることしか頭になかった。
空へと翔けあがる道だけを、ただまっすぐに、ゾロは見つめつづけた。
「ねえな。興味もなかった」
「うわあ、さっみしい子供時代だな!」
「ほっとけ」
「どうせてめえのことだ、ちいせえ頃から強くなることばーっか考えてたんだろうなァ」
「……」
図星をつかれ憮然としたゾロを見て、サンジがけたけたと笑いだした。ゾロはますます憮然として、目の前の枝豆をつまんでぼりぼりと食べた。サンジはなおさら笑った。
サンジはしばらく肩を震わせていた。
笑いすぎだろ、とゾロが言うと、すまねえ、なんかスイッチ入っちまった、と目尻をぬぐいながらサンジは言い、ようやく笑うのをやめた。
「……まあ、でも、そこは今も変わってねえか」
「なにが」
「強くなることばっか、なところ」
さきほどまでのふざけた様子が嘘のように、落ち着いた口調でサンジは言った。
サンジは半分ほど残っていた液体を飲み干した。どう考えてもすでにいつもの酒量をかなり超えていたが、空になったグラスにまたどぼどぼと酒を注いだ。そして、それきり、黙り込んだ。
サンジが黙ると部屋はしんと静まり返った。宿は街の中心にあるはずなのに喧騒はふしぎと遠く、風が窓を叩く音がときおり耳に届くだけだった。まるで、二人以外のすべてのいきものが、深い眠りの沼に沈んでいるかのように思われた。
ゾロは静寂を持て余しひたすら枝豆を食べた。いよいよそれがなくなりかけるころ、サンジがようやく口を開いた。
「――恋は?」
すぐ横から抑えた声がした。不覚にも、びくりと肩が震えた。
サンジがこちらを見ている気配がしたが、ゾロは山になった緑色のさやを見つめ続けた。
「恋は、したことあるか?」
「……唐突だな」
「答えろよ」
さきほどよりも声が近い気がした。酒の匂いに混じってサンジの匂いが、ゾロの鼻先をくすぐった。
なあ、ゾロ、答えろよ。
甘えるような声だった。
女相手にも、こういう酔いかたをこいつはするのだろうか。

「ある」
 
ゾロは答えた。
は、とサンジは、かすかな息のような声を漏らした。笑ったのかもしれなかった。
「……そうか。へえ、なんか、意外だな」
お前が惚れるなんて、どんなひと、なんだろうな。
グラスに手を伸ばしながらつぶやくようにサンジは言った。その問いに、ゾロは返事をしなかった。
ごとん、と大きな音がして、見るとサンジはテーブルにつっぷしていた。グラスを掴んだままで、すぐにすうすうと寝息が聞こえてくる。どうやら力尽きたらしかった。
「おら、こんなとこで寝んな」
揺さぶってもぴくりともしない。
ゾロは盛大なため息をついた。


ゾロはサンジをおぶって、宿の階段をあがった。背中で自分とサンジの体温がぬるく混ざりあっているのを感じる。
サンジは全身からくったりと力が抜けていて、頭をゾロの肩にだらりともたれさせていた。一段あがるごと、ゾロの首すじには、さらさらとサンジの髪の先がくすぐるように触れていた。
サンジの部屋の鍵はスーツのポケットに入っていた。整えられたベッドの上に、荷物のようにどさりとサンジを下ろしあおむけに寝かせる。そのまま部屋を出て行こうとすると、うーん、と苦しげに、サンジが低くうめいた。中途半端にほどけたネクタイを引っ張っている。
すこし迷ってから、ゾロはベッドに近づいた。靴を脱がせそこらへんに放り投げる。ジャケットを脱がせていたら、眠っていると思っていたサンジがゾロの首の後ろに指を伸ばした。
ゾロはぎくりとしてサンジのほうを見た。開けっぱなしにしていたドアの隙間から廊下の灯りがさしこんで、サンジの顔を淡く照らしていた。
サンジは目を開けていた。
ゾロを見るその顔から、ゾロは目が離せなかった。
「……てめえ、誰と間違え――」
「おやすみ」
サンジの唇が、ゾロの唇を掠めていった。


     *


閉じた瞼の裏にちかちかと瞬くものがある。
 どうやらあのまま眠ってしまったらしい。座っていたはずのベンチに、横向きに寝そべった姿勢でゾロは目を覚ました。
膝から先のほうが大きく外にはみ出している。身体の下にしいていた腕の、指先あたりがむずがゆく痺れていた。
ゾロはゆっくりと瞼を開けた。ぼうっとぼやけた視界のなか、いくつもの青い光が点滅している。目を凝らしてよく見てみると、それは、観覧車に取りつけられた電飾の光なのだとわかった。
身体はそのままにして、目の動きだけでゾロは周りを見渡した。たぶんそろそろ閉園の時刻なのだろう、賑やかだった音楽は消え、屋台に灯されていたはずの明かりはすでに残り少なかった。
はじめて見た時には狭く思えたこの敷地も、ひとの姿が無くなればやたらとだだっ広く感じる。そして消えた人込みの代わり、点在するテントや遊具には数えきれないほどの光が、まるで首飾りのようにまばゆく輝いているのだった。
夜更けの海のような濃紺に散る、青、赤、黄、緑、さまざまな色の、それぞれにきらめく光の粒。
その中央で、観覧車の動きにあわせ、ひときわ明るい青い光源がゆっくりと動きつづけている。
最後の夜を迎えた遊園地は、おもちゃ箱のようだった昼間が嘘のように、暗闇にその幻想的な姿を浮かびあがらせていた。
夜景などいくらでも見てきたが、人工的な光をこれほど美しいと感じたことはなかった。あんたは運がいいねと言われたことをゾロは思い出す。もしかするとこれは、最終日である今日だけの特別な計らいなのかもしれなかった。
とろりとした眠気をひきずったまま、ゾロはしばらく、その光景に目を奪われていた。風の匂いはすでに秋のそれだった。移動遊園地とともに、この島の夏もこうして静かに去っていくのだろう。
なんにでも終わりが来ることをゾロは嫌というほど知っている。いちいちそれにとらわれていては一歩も動けなくなることも。それでも、夏の終わりの空気は、ゾロをすこしだけ感傷的な気分にさせた。
おそらく明日には、自分たちもこの島を出る。そうすればあたりまえのように、またいつもの慌しい日々が始まるだろう。
あんな事故のようなくちづけの記憶など、きっとすぐに、日常に呑み込まれ擦り切れていく。


寝起きのせいか肌寒さを感じて、身体にかかっていた布を肩口までひっぱりあげたとき、その布からよく知った煙草の匂いがふわりと香った。
「起きたか?」
斜め上あたりから降りてきた声に、しつこく残っていた眠気が吹き飛んだ。
ゾロはがばりと身を起こした。その拍子にするりと布が滑り落ちる。シャツの長い腕が横から伸びて、見覚えのある黒いジャケットを拾いあげた。ぱんぱん、となんどか土を払ってから、自分の膝にそれを置く。
同じベンチの隅のほう、さきほどゾロが頭を向けていた側に、サンジが座っていた。
「そろそろ終わりそうなのに、起きる気配ねえからよ。どうしようか、ちょうど迷ってたとこだった」
さきほどまでのゾロと同じように、青い光で飾られた観覧車を見あげながらサンジは言った。そうか、と答える声がすこしだけ掠れた。
サンジは煙草も吸わずに、ただじっと観覧車を見つめていた。ふと見ると、ゾロが地面に置いていた酒瓶のなかには大量の吸い殻が詰め込まれていた。
潰れた紙箱が、栓のようにその口を塞いでいる。いったいいつからここにいたのか。すくなくとも数分という話ではなさそうだった。
「……なかなか帰ってこねえし、おめえ」
視線を動かさないままサンジは言って、唇の端をわずかにあげた。だから探しにきたのだと、暗にサンジはそう言っていた。
サンジにはそういうところがあった。奉仕の精神は女性限定だと公言してはばからないが、そのじつ、性別を問わずかなりの世話焼きでおひとよしだ。
はじめのころは、サンジのそういう面を、すこし冷めた目でゾロは見ていた。だが同じ船に乗りともに時を過ごすうち、自分にはないサンジの柔らかであたたかな部分に、強く惹かれていることにゾロは気がついた。
ゾロはなんと答えていいかわからなかった。サンジと同じように観覧車をじっと見つめてみる。
昼間はあんなに軋んでいたのに、いまは不思議と滑らかにゴンドラは動いている。
「観覧車」
ふいに口をついて出た。
観覧車、とサンジが不思議そうに繰り返す。
「お前がむかし見たの、何色だったか覚えてるか?」
ゾロは尋ねる。たしか、赤だった。サンジはしばし考えてからそう言った。
そうか、とゾロは頷いた。
「これも赤だった。いまは青いけどな」
「それが、なんだよ」
「べつに。同じだな、と思っただけだ」
「……ますますわからねえ」
サンジが途方に暮れたように言った。膝に置いていたジャケットを手に取り、袖を通す。
衣擦れの音とともに、また、煙草の匂いがかすかに届いた。むかしは鼻につくと思っていたそれもいまは好ましく思うのだから、ゾロはすこしおかしくもなる。
レストランを抜け出してまで、移動遊園地に行ったのだとサンジは言った。観覧車にひとりで乗ったのだと、懐かしそうに、うれしそうにゾロに話した。それが、ゾロにはとてもうれしかった。
だから昼間これを見たときにゾロは思ったのだ。
自分が知らない幼いころ、サンジが目を輝かせて見あげたのは、いったいどんな観覧車だったのだろうかと。
「俺がわかってりゃあ、それでいいんだよ」
言って、今日はじめて、ゾロは笑った。


サンジがちらりとゾロのほうを見る。その気配にゾロが顔を向けると、さっと、サンジはふたたび視線を前へと戻した。
なんだよ、とゾロが言うと、べつに、とさきほどのゾロと同じ台詞を、ふてくされたようにサンジは言う。
「……あんなことの後、なのによ」
 なんかおめえ、ほんとにぜんぜん、平気そうだし。
サンジは続ける。
サンジの垂れた前髪は昨夜とは違って、いまは左目をしっかりと覆っている。金髪がほの青く染まって、光の動きとともにその色をゆっくりと変えている。
「てめえにとっちゃ、たいしたことじゃなかったのかもしれねえけど。俺は、俺にとっては、よ……」
サンジはそこで言葉を切った。その続きは容易に予想がついた。
そうだろうな、とゾロは思う。
ロマンチストなこの男にとってはたしかにたいしたことだっただろう。いくら酔っていたとはいえ、愛しい誰かとゾロを間違えたのだから。
 もちろんゾロにとってだってたいしたことじゃないわけはなかった。だがそれは、言わないことに決めている。

いつまでたっても、サンジは黙ったままだった。
だからゾロも黙っていた。
ひとつ、ふたつと、園内の灯りが消え始めても、二人ともそこを動こうとはしなかった。観覧車はまだ、のんびりと回り続けている。
「ゾロ」
名を呼ばれるのと同時、腿の横に置いていたゾロの手の甲にサンジのてのひらが重なった。驚いて顔を向ける。サンジはゾロを見つめていた。
さすがにもう酒は抜けているはずのサンジは、けれど、昨夜見たあのときと、まるきり同じ表情をしていた。
ゾロに向けられるはずのない、なにかとても大切なものを見るような。

「俺は――」
サンジが言葉を継ぐ。

「お前が、好きなんだ」

消え入るようなかぼそい声で。
サンジは絞り出すようにそう言った。



ゾロはしばらくのあいだ、呆けたような顔でサンジを見つめていた。
サンジは夜目にもわかるくらい赤い顔をして、それでも目を逸らさずにゾロを見つめ返した。
ゾロがぼんやりしていると、サンジはゾロの指に指を絡めぎゅうと握った。気温はすでに肌寒いくらいなのに、その手が汗でぐっしょりと湿っていることにゾロは気がついた。
「嫌がらねえなら、……俺、自惚れちまうけど」
見つめあったままサンジは言った。なあ、と問い返す声は、強気な言葉とは裏腹にかすかに震えていた。
自分と同い年のこの男が、自分と同じくらいの年月を、これまでどんなふうに生きてきたのか、ゾロはほとんど知らない。性格も、考え方も、生き方だって、なにもかもまるで違う。おそらくは、ひとの愛し方も。
そんな二人がこうして出会い、同じ船に乗って、男相手におたがい恋をして、いまこのときは観覧車の前で手なんか握りあっている。
ありえないことだらけのこの海で起きた、ばかばかしいほどささやかな奇跡に、笑いたいような、泣きたいような気持ちになって、でもそのどちらもせずにゾロはサンジの手を強く握り返した。



閉園を告げるアナウンスが流れはじめる。
観覧車がとうとう止まり、灯りの消えたその色は、もとのくすんだ赤色に戻った。
それを見届けてから、ゾロもやはり、これまで出したこともないような消え入りそうな声で、俺もだ、と言った。



                                            (09.09.09)




初恋の甘酸っぱさがうまく出ているとよいのですが。
うぶなゾロが書いていてとても楽しかったです。いとおしい。
もじもじに関しては、いつも他のかたの書いたもので満足してしまうのですが、たまには自分で書くのもよいものだなあ、と思いました。