*485話がらみでわりと薄暗いです。ご注意。







つよく死を意識したその瞬間、仔猫の話を思い出した。




 バードランド




「仔猫がいたんだよ」
「……あ?」
ゾロは聞き返した。唐突に思えた。
他種族に支配されていた島の、解放を祝う宴は長く続いていた。みな一様に顔を輝かせ、踊り、歌い、自由を謳歌している。昼間目にしたナミの左肩のまだ新しい傷。それぞれが傷を抱えて生きてきたのだ。目に見えるものも、見えないものも。
町中の街灯はあかあかと灯され、民家の明かりも夜通し尽きることがない。だがそれも二人が座りこんだ狭い路地には残光のようにわずかに届くばかりだった。
サンジを見る。この男についてゾロが知ることはわずかだ。夢に命をかけることを冷めた口調で否定した男が、仲間になったいきさつすらゾロはよく知らない。
淡い闇のなか浮かんだ白い顔はゾロから斜めに逸らされている。色素の薄い男だ、とゾロは思う。サンジが黙っているので、仕方なく、ゾロは夜空を仰いだ。レンガで切り取られた空には、満ちるすこし前の、不完全な月がごくひっそりと浮かんでいる。
「買い出しのとき行く店にな、野良が住みついてたんだ」
サンジが言う。胸ポケットから燐寸と煙草を取り出した。とん、と膝頭で軽く叩いて一本ぬきとり、薄く開いた唇の間に噛むようにはさむと燐寸をする。流れるような動きだった。炎がサンジの顔をぼうと照らし、表情を確かめる前にそれはふいに消えた。ゾロは住みついた野良猫と飼い猫の違いに思いをはせる。よくわからない。
赤い小さな光が大きくなり、小さくなる。
サンジは仔猫の話を続ける。
「白い、きれいな猫だった。愛嬌もよかったよ。麗しのレディだ。残飯をこっそり持ってってよ、まあ餌づけみたいなことをしてた。そのうちこっちも愛着が湧いてな、買い出しが目的なんだか、猫に会うのが目的なんだかわかんなくなる始末だ。週にいちどくらいなんだが、待ち遠しくてよ」
ゾロは黙ったまま話を聞いた。あいづちすら打たなかった。なんとなく必要がないような気がしたからだ。風はなまぬるく皮膚を湿らせる。縫いなおされたばかりの大傷が膿んでじゅくじゅくと痛みゾロを侵す。
「その日のことははっきり覚えてるよ。何日か雨が続いたあとの、雲ひとつない晴れの日だった。風すらなかったんじゃねえかな。暑くも寒くもない、いいお日和ってやつだ。いつもの場所にいったら猫がいねえ。店主に聞いたらこう言うんだ。ああ、あの猫かい、あいつは死んだよ」
サンジはまだずいぶん残っている一本目の煙草をもみ消し、二本目に火をつける。
「事故かなんかだったらしい。前の週まではたしかに生きてたんだよ。頭を撫でるとかわいい声で鳴くんだ。みゃあ、ってな。なきがらはどうしたのかって聞いたら埋めたって言う。もういないんだと。よくわからなかった。納得できねえ。いまだにときどき鳴き声が聞こえるような気さえするよ。どんな姿でもいい、せめて死んだ姿を見たかったと思った。抱いてやりたかった。もちろん生きていてくれればそれが一番だが、そう贅沢も言えねえ」
だんだんと冷えていく仔猫。
最後は石のようにかちかちになる壊れやすいちいさな生き物。
ゾロはくいなのことを思った。くいなは硬く冷たかった。和道はくいなの刀だったがくいなではない。ここにはもういない。理解ではなくそう感じる。彼女はずっと前に死んだのだ。くいなはもういないし、仔猫はもう鳴かない。
「……どうして俺にその話をする?」
ゾロは尋ねる。サンジは二本目を消す。闇が濃くなった。暗がりから長い腕が伸ばされ、華奢といってもいい手首から連なる、意外に大きな手がゾロのシャツのなかに消えていった。指が布をかきわける。胸のふくらんだ部分に、正確に傷のはじまる場所に、サンジはてのひらをそっと押しあてる。ぴり、とつよい痛みが斜めに走り、ゾロはかすかに息を震わせた。
サンジは酔っているのだろう。そうゾロは思った。手を払わない自分もやはり。包帯ごしにも冷たいてのひらであるような気がした。あのときのくいなのからだとどちらが冷たいだろうか。
「熱いな」
サンジが言う。ささやくような声だった。
「化膿してるらしい」
ゾロが言うと、そうか、とサンジは言う。
「熱いってのはいいことだぜ。生きてるってことだ。血が通ってる」
てのひらをゆっくりと、傷に沿って撫でるように動かす。端までおろし、撫であげる、それを繰り返す。サンジの動きに合わせて、ゾロの胸が上下し、唇からは吐息が漏れる。傷は痛み白い布にじわじわと赤い染みを作る。ずいぶん長いこと、サンジはなにかの儀式のように、ゾロの熱を確かめつづけた。
サンジの手が離れる。また暗がりになじむ。
「どうしてかな」
三本目に火をつけながらサンジは言った。さきほどの問いの答えであるとゾロがわかるのに時間がかかった。あいかわらずサンジの表情はうかがえなかった。触れられた傷は痛みと熱を増し、血と膿でじとりと濡れていた。
「お前を見てるとその猫のことを思い出すよ」

それ以来サンジが仔猫の話をしたことはない。





すがるように肩を掴み、腕をすべり落ちていく、冷たいとばかり思っていたサンジのてのひらは熱かった。あいかわらずゾロはサンジのことをよく知らない。
知らないようにしていたのかもしれないと、ふと思った。
そしてゾロは仔猫の話を思い出した。

まだ温かな俺のなきがらをサンジは抱くだろうか。
抱きしめて髪を撫でてくちづけをするだろうか。
あれからいちども伸ばされなかった腕のなかで俺は石のように冷えていく。

その想像は甘くからだを満たしたが、そのときにはもうこの男の体温を、匂いを、感じることができないことを、ゾロはすこし、残念に思った。



                                           (09.03.22)



485話がらみの話はいくつか考えています。でもあの話に妄想要素をつけることに対する葛藤もあります。
これは、お互い言わないつもりでいる、手もつないでいないサンゾロパターン。