ドロップス




目を開けたら、天井が揺れている。

ソファで寝ていた。
頭がぼんやりしていて顔が熱い、毛布が唇のところまでかかっている。少し下ろそうと、手を動かしたら、みしみしと関節が軋んだ。
空気が乾いている感じがして唾液をのみこむ。
のどが焼けるように痛み、ああそうだ扁桃腺をやったのだと俺は思い出した。

朝起きて甲板に出ると雪が積もっていた。
まだ数センチというところで、踏みしめた跡は靴の形に下の木の色が透けて見えた。
夜中にもちらほら降っていたが、そのときは水分の多い、綿のような雪だった。それが気温の低下に伴って、細かくさらりとした、いかにも積もりそうな雪に変わっていた。
はしゃぐルフィ達に朝食を出し、その片付けをしている最中から、すでに全身に悪寒が走っていた。島についたときにはそれに加えのどの奥がちりちりと痛み出した。
幼いころ、楽しみなことがある日にかぎって、熱を出していたのを覚えている。
扁桃腺が腫れるのだ。
はしゃぎすぎだろまあガキにはよくあるこった、コック仲間達はそう言ってからかった。
あの海の存在を否定するのと同じ口調に、早く大人になりたいとそのたび思った。
さすがにもうガキという年ではないはずで。
確かに近年まれにみるほど、うかれていた自覚はあるけれど。
痛みをごまかしつつ上陸の準備をしていた俺の元に、頼んでもいないのにゾロがチョッパーを連れてきた。
診断はやはり扁桃腺炎。
船での安静を言い渡された。

何度かゆっくりと瞬きをする。
こわいくらい静かだ、雪が音を吸収している。
耳に詰め物をされたような閉塞感。ふわふわしたこの揺れはたぶん熱がそうとう高い。
首だけを動かして見渡してみる。
向かいの壁に背中を預けあぐらをかいて、ゾロが、居眠りをしていた。緑の頭が前後に揺れている。膝の横には見慣れた煙草が供え物のように置いてあった。
どうやら没収されたのらしいが。さすがに、吸う気にはならない。
「……ゾロ」
声を絞り出した。自分のものと思えないくらい掠れている。
痛みのせいで小さくしか声が出ない、熟睡中のゾロにはとうてい届かない。起き上がろうにも、全身が痛んで、身動きがとれなかった。
近くにいるのにとんでもなく遠い。
それがまるでこれまでの俺達みたいで、昨日のことが夢だったように思えてくる。
目を開けておくのもつらい。だけど少しでも長くゾロを見ていたかった。
瞼を閉じて、開けたら、いないかもしれない。
それが無性に怖かった。







昨日の夜だ、すきだと告げた。
見張り台のゾロに夜食を持っていき、ついでのようにさらっと格好良く言うつもりが、ぶざまなくらいはっきりと声は震えた。からかわれたら寒さのせいだとごまかすつもりだったがゾロは何も言わなかった。
めずらしく、ゾロはとても、驚いた顔をした。まあ当たり前だ、寄ると触ると喧嘩ばかり、まともな話もろくにしたことがない。
だけどやることだけはしっかりやっていて。
それが次第につらくなってきていた。
自分の中だけに収めておくには、気持ちが大きくなりすぎたし、無鉄砲で馬鹿でいかにも早死にしそうなこの男に、そんな奴でも後追いしかねないくらい惚れてる人間がいるのだと、わからせてやりたい気持ちもあった。
しばらく何かを考えるようにゾロは黙っていた。雲に覆われた空からは雪が降り始めていて、ゾロの頭越し、ふわふわと舞う雪を眺めながら、俺は静かな気持ちで、拒絶の言葉を待った。
「……驚いたな」
ゾロが呟いた。吐く息が白い。
「そりゃそうだろ。態度に出したことは一度もねえからな」
「いや、そうじゃなくてよ」
ゾロは食べ終えた夜食の皿を、ことん、と音を立てて下に置いた。小さな振動が、冷たい床につけた尻に、じかに伝わった。
「悪い気分じゃねえな」
それに自分でも驚いているとゾロは言った。
悪くねえよ。じっと、ゾロが俺の目を見る。
カンテラの灯りがゾロの顔をやわらかく照らしていた。寒さのためか赤くなった鼻の頭に、雪が落ちて、すぐに溶けた。
「それで?」
口をきけないでいると、ゾロが先を促した。
「てめえは俺に惚れてる、俺も悪くねえ。どうすんだ?」



これからは恋人として付き合って欲しいと、自分でも恥ずかしくなるほど生真面目な台詞を吐いた俺を、やっぱりゾロは笑いもからかいもしなかった。
わかった、と一言うなずき、それから、口元と目元を綻ばせて笑った。
音もなく振り続ける雪も、はじめて見るゾロの穏やかな笑顔も、とても、とても、きれいで。
この光景を、たぶん俺はずっと、覚えているのだろう。
そう思った。







「起きたか」
ぺしゃりと冷たいものが触れた。眠る気はなかったのにいつのまにか寝ていたらしい。
ゾロが濡れたタオルを、額に乗せているところだった。上から顔を覗き込んでいる。
「ゾロ」
「ずいぶん長えこと寝てたな」
「……そうか」
時間の感覚がまるでない。
「明日まではここで寝とけとさ」
「チョッパーが?」
ゾロが頷く。
額のタオルを取りじわじわとからだを起こした。
たしかに、さっきよりは、だいぶ楽になった気がする。それでもまだ熱はありそうだった。視界に入るものの輪郭が、いつもよりぼやけて見える。たくさん寝たせいなのか頭に鈍い痛みがある。
「あ、そういやお前、食事は?」
こんなときでも、やっぱり、気になってしまう。
「ナミとロビンが作って置いてった」
ついさっきも街で買ったもん、ウソップが持ってきてくれたぜ。ゾロが指で差した先には茶色の大きな紙袋。ところどころ、染みがあるのは、雪が溶けたものだろう。
気を使ってもらえるのはありがたい。けれどふがいない気持ちは増すばかりだ。
「出発はいつだって?」
「明日の午後。補給目的だからな」
じゃあ街へ出るのはやっぱり無理か。考えて、ますます、気分が重くなる。顔を背け気付かれない程度に小さく息を吐いた。
ゾロが水差しとコップを手に取った。なみなみと注いで、飲め、と差し出す。
受け取った水を一息に飲んだ。からだがからからに乾いている。冷たい水が炎症を起こしたのどに沁みた。体調によって水の味も変わる。いつもは感じない、金属のような味が、やけに舌に残った。
「なんかずいぶん、へこんでんな」
空のコップを受け取りながらゾロが言う。ばれている。
「そりゃあなあ……」
だってそうだろう?
「なんだよ」
「まあいろいろとな、計画してた訳だよ、俺としてはね」
声に落胆の色が混じるのは隠しようがない。
このタイミングでの寄港。盛り上がらない方がおかしい。あの告白の後、ほとんど寝ずに、というか眠れずに、考えていたのだ。
「べつに島なんざ、この先いくらでもあんだろうが」
あきれた声でゾロが言う。
「……お前はほんと、なんもわかってねえな」
負けないくらいあきれた声で俺は言ってやった。
ほんとうだ、ほんとうに何も、ゾロはわかっていない。
「まあてめえの考えてることは何となくわかるがな」
あせっても病気は治らねえだろ。
ゾロが二杯目の水を注ぐ。やっぱりなみなみと。
「そうなんだけどよ、お前とやりてえことがたくさんありすぎんだよ」
「こんだけやりまくっててか」
「……違うそっちじゃねえよ、馬鹿」
やってねえこととか、知らねえことなんて、お互い山ほどあんだろうが。
がっくりと肩を落として俺が言うと、ゾロは不思議そうな顔で首を傾げた。
「よくわからねえが、まあとりあえず、もう一杯飲め」
またコップをぐいと押しつける。
受け取るときに指と指とがかすかに触れて、がさりとしたその感触に、胸の奥がのどなんかよりずっとひどく痛んだ。

ああそうだほらねたとえばさ。
あんなこともそんなこともしているくせに、俺はお前と、手さえ繋いだことがない。

ゾロが目を見開いてこちらを見ている。
顎から垂れたしずくが握りしめたコップの中にぽとりと落ちた。
雪に閉じ込められた部屋はとても静かで、しずくと水とが混じる音さえ聞こえるような気がした。
「おい」
「なんだよ」
「泣くんじゃねえ」
「泣いてねえ」
「なんか目からでてんぞ」
「るせえ水だ水」
病気のせいに違いない涙腺が緩んでいる。ほてった頬を水が伝う感触が気持ちよかった。
声を出さずに泣く俺を、ゾロはじっと見ていた。
溜め込んでいた何かを吐き出すように涙は次から次へと溢れて止まらない。
どうしたらいいのかもわからないくらいすきでそれはもう怖いくらいで。
こんなにも長い間、自分の気持ちをごまかし踏みにじってばかりだった。
だからたぶんこれは死んだ俺の気持ちなのだろう。
ずっと抑えていた気持ち。
伝えたかった、伝えられなかった、たくさんの大切な。

ゾロの大きな手が近づき、頬を乱暴に親指でぬぐった。皮膚が擦れて痛かった。
ぬぐってもぬぐっても濡れる頬に片手で触れたまま、ゾロがもう片方の手で俺の頭を撫でる。俺は抗わなかった。泣けば泣くほど、つまらない意地もばかげたプライドも、溶けて透明になっていく気がした。
「なんで泣いてんのかはわからねえが」
髪のあいだに指を入れ、梳くように動かす。
「やってねえこととか、知らねえことってのは、何となくわかったぜ」
「……ほんとかよ」
ずず、と洟をすする。
「たとえばよ、お前の髪の手触りを、俺はいまはじめて知った」
「……うん」
「こんな風に泣くのも、はじめて見た」
「これは水だ」
「まあそうかもしんねえが、とにかくよ」
島じゃなくても、焦んなくても、別にいいんじゃねえか?
少し笑って、ぽん、と一度頭を叩くようにしてから、ゾロはその手を下ろした。
どうやら島に行けなかったせいで泣いていると思ったらしい。
まるでだだっ子のようで嫌だが、でもだからといって、この涙の理由を、ゾロにうまく説明する自信は俺にも無かった。
「……俺のことばっかじゃねえか」
「?」
「俺がてめえのこともっと知りてえんだよ」
泣いているのがいまさら恥ずかしくなって、俺はぶっきらぼうな口調で言った。
なるほどな、と頷き、タオルでごしごしと俺の顔を擦る。そのまま床に放り投げた。
「とっておきを教えてやろうか」
真面目な顔つきでゾロが言う。
「教えろよ」
「俺もこれは今日はじめて知ってな、つうか、まあ、気付いたんだが。俺はよ、」
ゾロは一度そこで区切った。ためらっているようだ。肩に力が入っているし、いつも目を見て話すゾロの視線が揺らいでいる。らしくないその様子に、何を言われるのだろうと、こちらまで緊張してくる。
ふうっと大きく息を吐いてから、覚悟を決めたように、ゾロは口を開いた。

「俺は自分で思ってたより、だいぶ、てめえのことがすきみてえ、だ」

反応を返す前に。
ゾロがすごい速さで腕を伸ばした。
首の後ろに腕を回し、ぎゅっと抱きすくめるようにされる。コップの水がこぼれて俺の手と床を濡らしたけれどそんなことはどうだっていい。
「ゾ、ゾ、ゾロ?」
「るせえ!黙ってろ!」
頬に触れたゾロの耳たぶは、熱の高い俺と同じくらい熱い。
顔を見られるのが恥ずかしいんだ、そうわかった瞬間、熱がさらに上がったような気がした。
ゾロの力が強くて身動きが取れない。俺は片手にコップを持ったまま、もう片方の手を、そろそろとゾロの背中に回した。硬い確かな筋肉の感触。こめかみに短い髪の毛があたっていて、ゾロの首筋のにおいが強くする。
しばらくそうしてじっとしていると、この体勢のほうがよほど恥ずかしいことに気がついたのか、ゾロがゆっくりからだを離した。
耳まで染まったその顔は、もちろん、はじめて見るものだ。
かわいいと言ったら殴られるんだろうな、でもいつかきっと言いたい。
ずっと言いたくて、でも言えなかった言葉の一つだから。

二杯目の水を飲み干してから、俺はゾロと手を繋いだ。
ごつごつとしたその手を強く握りしめる。
それから、静かに降る雪と、あのときのゾロの笑顔を思った。
明日起きたら、雪はまぼろしのように溶けて消えているかもしれないけれど。
この手の温もりだけは、けして、夢なんかじゃない。



どうしても我慢できなくて、だいすきだよ、と耳元で囁いたら、やっぱりげんこつで思い切り殴られて、また涙が出た。



                                            (08.12.25)



病気のときって涙もろくなりませんか。
クリスマスだから(?)許してください、と謝りたくなるくらい甘い。長編の反動に違いない。
でもきっとサンジとゾロなんて二人きりのときはこんなもんさ!