ただひたすら前だけをみて走り続けた。

一度でも振り向けば、長い髪に絡め取られ動けなくなってしまう気がした。
走って走って、とうとう息が切れて、仰いだ空はどこまでも深く澄んだ青色をしていた。
まるで海のようなあれに飛び込むことができたならばこびりついたこの鉄の匂いも少し
は消えるのだろうか。
肩で息をしながら、そんなことをぼんやり考えた。

俺は15で、その日はじめて人を殺した。
いまでもときどき、その空の青を思い出すことがある。




空の瞳




瞼の裏に金色の光を感じて目を開けると、すぐ目の前に、澄んだ青があった。
「目え、覚めた?」
「……おう」
少し開いたカーテンの間、頭越しに朝日が差し込んで、サンジの乱れた金髪を縁取ってい
る。眩しくて目をごしごしと擦ると、サンジが俺の手首を柔らかく掴んだ。
「赤くなんだろ」
言いながら目尻に唇を押し付ける。ひやりと湿った感触。サンジは体温が低いのだ。昨晩、
それを知った。
俺は掌でぐいとその顔を押しのけた。
「ガキみてえな扱いすんじゃねえ」
「ガキみてえなもんだろ、てめえは」
こんなごついガキがいるか、と反論すると、まあなあ、と笑いながらサンジは煙草に火をつ
けた。
うまそうに深く吸い込んで白い煙を吐き出す。鼻腔に届いた香りは、当たり前だがサンジ
の匂いがした。


好きだとは言われていたが体の関係はまだなかった。
はじめてはベッドがいいなどと、夢見がちな女のようなことをサンジは言い、俺はまあどち
らでもよかったから好きにしろよと答えた。
それから長いこと寄港がなく、昨日久しぶりに島影を目にしたとき、サンジは嬉しそうな顔
を隠しもしなかった。

傷だらけのこんな硬い体を、サンジはひどく優しく扱った。
そんな風に誰かに触れられたことが俺にはなくて、何度も放って最後には意識を飛ばした。

目覚めて最初に見た青は、あのときの深い青を思わせた。






殺したのは名も知らぬ男だ。俺はすでに獣と呼ばれていた。
背後から忍び寄る気配に振り向きざま刀を振るった。肉と骨を絶つ感触がびりびりと手首
まで伝わり、男の首から噴水のように鮮血がふきだした。男は一瞬驚いた顔をして両手で
首を押さえたあと、どさりと地面に倒れ伏しそのまま動かなくなった。
赤黒い血がどんどんと水溜りのように広がっていき、ひとの体にそれほどの体液があるこ
とを俺はそのときに知った。

どれくらいそこにいたのかわからない。
気がつくと、一人の少女が男の体に覆いかぶさるようにして泣いていた。見たところ俺と変
わらないくらいの背格好だった。
娘だったのかもしれない。それとも恋人だろうか。
伏せた頭から黒い長い髪がふわりと広がり、その先端は血の海に浸かって濡れていた。
彼女がふいに汚れた顔を上げ、唇が言葉をつむごうとした瞬間に、俺は走り出していた。
ひとごろし。
聞いてもいない彼女の高い声が頭の中にこだました。
後ろを振り向けば呑み込まれそうで、だからただ前だけを見て走り続けた。


殺さなければ自分が死ぬ。
そういう世界で長いこと一人生きてきた。
何にでも、ひとは慣れる。
いつしか記憶は薄れ俺は死とねんごろになった。

ただときどき、あの日の空の青を思い出すだけだ。






「あんま寝てねえだろ。まだ早いぜ、もう少し寝とけ」
自分だって寝ていないだろうに、サンジはそう言って目を眇め笑う。俺の瞼の上に手を
そっと置いて光を遮った。
指を絡めてどかせると、やはり青い瞳が俺を見ていて、握った手からはじわじわと体温が
伝わった。
血にまみれ奪うことしか知らない俺の手と違い、その手はどんなときもひとを生かし守る手
だった。
冷たいけれど、あたたかい手だった。

「どしたの?」
手え繋ぐなんて、めずらしい。
からかうような声音でサンジが言う。
「うるせえよ。しばらくこうしとけ」
そう言うとサンジはまたひどく嬉しそうな顔をした。


俺が死んだら、こいつはあのときの少女のように泣くのだろうか。
らしくなく、そんなことを考える。

彼女にもいまこんな手があるといいんだがと、感傷ついでに俺は思って、目を瞑りどこまでも
深い青に包まれた。



                                                  (08.08.27)




私のサンゾロの原点はたぶんこんな感じです。