エデン
ごきりと嫌な音がして振り向いた。
サンジが男を片足で踏みつけたまま、その腕を捩り上げている。肩関節があらぬ方向に回旋していて人形のようだ。
「そんくらいにしとけ」
ゾロが声をかけると、悪い子のおててにはお仕置きが必要なんだよ、と黒光りする革靴のかかとで背中をぐりぐりと踏みにじる。下の男は悲鳴一つ上げないから、意識がないのかもしれない。不幸中の幸いだ。
サンジはもう片方の腕を掴み、また音を立てて肩を外した。日頃は足技ばかりでめったに手を使うことのない男だが、今日は例外らしかった。確かに足で腕を捻るのは少しばかり難しい。
乱れた髪を指で整えてから、サンジはふう、と大仰に息をついた。
「脱臼くらいで許してあげるなんて、ほんと俺は優しい男だよな」
得意げな顔をするのは腕を折らなかったことを褒めてもらいたいのだろう。
それ以前に散々蹴りたくってあばらを数本折ったことは忘れている。
本来の目的は買出しだった。少々猥雑だが、活気があるといえなくもない町を、ぶらぶらと歩いた。
からりと晴れた雲ひとつない空から、強い光が容赦なく寝不足の目を射す。舗装されていない赤茶けた地面は、踏みしめるたびに、小さな土埃が立ち上った。
サンジはひどく上機嫌で煙草をふかしながら鼻歌を歌っていた。
すれ違う女一人一人に賛美の声をかけ、その合間にゾロの指に自分の指を絡ませて、恋人つなぎ、と目を細め笑う。
死ね、と低く罵ったが、めげる様子は全くない。好きにさせておくことにした。白昼男同士で、などという神経の繊細さは、二人とも持ち合わせていない。
昨夜は久しぶりの柔らかく広いベッドの上、シーツがぐっしょりと湿るほどに楽しんだ。朝から喉の奥がむず痒く、少し考えて、それが喘ぎすぎたせいだと思い至った。
「お、見ろよ。あの子上玉じゃね?」
「お前が好きそうなタイプだな」
「五分だ、マリモちゃん」
ぜってぇ動くなよ、と大声で念を押して、サンジは女の方へ浮かれた様子で駆けて行った。身をくねらせ派手なジェスチャーで口説いている様が遠目でも可笑しい。
馬鹿はお互い様だが、あいつは阿呆でもあるからおれの勝ちだな、とゾロは思った。
往来に突っ立ったまま、ぼんやりと阿呆の様子を見ていると、正面から酒瓶を持った足取りの怪しい男が近づいてきた。
男の目は川に浮いたヘドロのように濁っている。慢性的なアルコール摂取が、男の脳を侵食していることを窺わせた。
男はゾロの目の前で立ち止まった。
何となく見た顔だな、とゾロは思う。ほどなく昔貼紙で見た賞金首だと思いだした。
男は上から下まで粘ついた視線を這わせた。それから、下卑た笑いを頬に張り付かせ、ゾロの尻をするりと撫でると、顔を寄せて囁いた。
「具合の良さそうなケツだな兄ちゃん」
男の呼気は強いアルデヒド臭を放っていて、いくら酒好きのゾロでもこたえた。
面倒だが顔を背けようか、と考えていたら、女のところにいたはずのサンジの足が、男の腹にめり込むのが目に入った。
吐物を撒き散らしながら男はおもしろいように吹っ飛ぶ。いくつかの悲鳴が上がり、騒ぎを聞きつけた数人の仲間らしきゴロツキが周りを囲んだ。
やれやれ。揉め事が起こってナミにどやされるのは、大概ゾロの方なのだ。
「人の少ねぇとこに行くぞ」
ゾロが言うと、サンジは「ちょっと待っててハニー」と明るい声を返した。
それから先ほど男が飛ばされた場所に向かい、首根っこを掴んでずるずると引っ張ってきた。
サンジが例の男に固執するので他はゾロが相手をしたが、雑魚ばかりで暇つぶしにもならなかった。勝ち目がないとわかると男を見捨てて、みな一目散に逃げて行った。それでも刀を抜く瞬間の緊張感はゾロを高ぶらせ、中途半端な興奮が下半身に淀んでいる。
サンジは俺のもんに汚え手で触りやがってやっぱ死んどくか、と両手をポケットに突っこんだまま、長い脚をまた振り下ろそうとしていた。ゾロは傍の廃墟の壁にもたれてそれを眺めていた。
あの足を辿っていくと、付け根にはゾロをいつも存分に満足させてくれるものが存在する。腰がずくりと疼いた。
「なあ、まだかよ。ヤリてえ」
ゾロがそう言うと、サンジは上げていた足をすぐさま下ろした。かけよって、力一杯ぎゅうと抱きすくめてくる。
こいつは女をこんな風に抱いたりはしないだろうなとふと思った。
スーツからは、血液と汗と吐瀉物と甘い香水の匂いがした。
「なになに、俺の雄姿みて興奮しちゃった?」
垂れ気味の目尻を更に下げ、サンジが言う。
「アホ。そんな手ごたえある相手じゃねぇだろ」
言いながら、ゾロはサンジの塩辛い首筋をべろりと舐め上げて、高ぶりを太腿に押し付けた。
「俺を待たせんじゃねぇよ」
金の髪を鷲掴み、掠れた声を耳に吹き込む。
サンジは吐息ともに、「あーもうお前さいこう」と呟くとゾロの薄い唇に齧り付いた。
口付けはすぐに深まり、唾液を奪い合うように舌を絡ませる。息を荒げながら慌ただしくお互いのボトムを下ろしにかかった。
すぐそばには、先ほどの男が、白目を向いて倒れている。自分たちがしていることとの乖離に、おかしさが込み上げた。
サンジの手がすでに立ち上がったゾロのペニスに触れる。その手首を掴んで、後ろへと導いた。熱をもった肌に、すこし冷たい掌が心地よかった。
「そっちじゃねぇ。こっちだ」
「わお。やるねお前。ここで突っ込ませる気?」
「どうせギャラリーは昏睡男だけだ。起きたら起きたで、俺のケツの具合知りたがってたからちょうどいいだろ」
「もし起きたら目え潰すけどな」
お前のあんなえろい姿他の奴にみせてたまるかよ。
そう言ってにやけると、サンジはゾロの口内に乱暴に指を突っ込んだ。セックスの動きを模して、湿った音を立てて動かす。ゾロもその指をペニスに見立て、唾液が口の端から零れるのも構わず舐めしゃぶった。
サンジがゾロの顔を眺めながら、ほんと野蛮だよお前は、と興奮の滲んだ声で囁く。応えるようにその繊細な指を軽く噛んだ。
殊更ゆっくりと指が引き抜かれ、ゾロが追うように伸ばした舌との間で、透明な糸をひいた。昨晩何度もサンジを銜え込んで、すでに綻んでいる場所に、二本の指を突き立て、最初から激しく抜き差ししてくる。粘膜が浅ましく、指を食い締めるのを感じた。
「ケダモノらしく立ちバックな」
サンジが口元を卑猥に歪ませて笑った。
野蛮なのはお互い様だな、とゾロがうそぶく。違いねえ、と耳元で溶ける声に痺れが走った。
壁に手をつくと後ろから一気に貫かれる。アア、と堪え切れず大きな声が漏れた。
強すぎる快楽に霞む視界の端で、先ほどの男の指がぴくり、と動いた。ゾロが愉悦の声を上げるのに合わせるようにぴく、ぴく、と痙攣する。サンジの動きが激しいものに変わり、ゾロのつま先が地面から浮いた。余すところなく内部が満たされる。
あと少しだ、とゾロは思う。
もうすぐ辿り着ける。この男だけが見せてくれる、眩しい光に満ちた、おそらくは死に限りなく近い世界。
サンジが奥深い一点を突き上げ、ゾロは身を強張らせて叫び声をあげた。
男が目を見開いたのと、ゾロが絶頂を駆け上がったのと、サンジが男の顔面に足を沈めたのはほぼ同時だった。
白濁とともに赤黒い血しぶきが派手に飛んだ。
「あ、やべえ。買い出し忘れてた」
終わった後しばらくゾロを抱きすくめていたサンジが、焦ったような声を出した。
暑苦しいからやめろと何度言っても、何かの儀式のようにサンジはこの行為を欠かさない。けして逃げられない檻のように、優しげな素振りでゾロを囲う。
「ナミさん、怒るだろうなぁ」
「そういや、こいつ賞金首だぜ」
すっかり忘れていたことをゾロは思い出した。
「うっそ、いくら?」
「たしか1000万から2000万」
「まじ?ナミさんのご機嫌が取れるじゃねぇか!」
「でも顔面変わってっけど」
ゾロが顎で男の方を示す。鼻骨まで折れて、血塗れの顔はもはや原型を留めていない。
「お前それもっと早く言えよ」
「言ったら手加減したか?」
「……いや」
まあでもとりあえず連れて行こうぜ、ということになった。二人で男の手首を片方ずつ掴んだ。男があまりにも汚れていて、背負うのも担ぐのも嫌だったからだ。
夕暮れどきの燈色に染まった街を、気絶した男を引きずって歩く。後ろには男の足が描いた緩やかな曲線と盛大な土埃が残った。
男の肩関節は、相変わらず、おかしな方向に捩じれている。皆怯えた顔をして避けるので障害物が無くて歩きやすかった。
「何かこうしてると仲良し家族みたいじゃね?」
「俺はこんなガキはいらねぇ」
「……まあ、そうだけどよ」
古本屋の店先で、古書を物色しているロビンに会った。
あら、それどうしたの?とロビンが少しばかり眉を寄せて、憂い顔で尋ねる。首を傾けた拍子に艶やかな黒髪がさらりと音をたてた。
「賞金首らしいから、換金所に連れていくとこなんだよ。ロビンちゃん」
サンジが声質を一オクターブあげて説明した。
「そう。喜ぶ人がいるわね」
「得意の関節技で、こいつの肩もどせねぇか。運びにくくてよ」
ゾロの言葉に、ロビンは眉をさらに顰めて男を見やった。
「随分と汚れているみたいだけど、この汚れは何かしら」
「血とゲロと精液」
ゾロが答えると、ロビンは神妙な顔つきで、残念だけれどあまり触れたくないわね、と言った。
「運びにくいのなら、足の方を持ったらどうかしら」
にっこり笑って助言する。
それもそうだなと納得して、手首から足首に持ち替えることにした。
ロビンと別れ、今度は足を持って歩く。途中ウソップともすれ違い声を掛けたが、ぎょっとした顔でこちらを見ると逃げて行った。
男の後頭部が小さな石にあたってごとんと跳ねる。うう、と男が呻いた。
サンジは知らない異国の言葉で、また小さく歌を歌っていた。
なんていう曲だ、と尋ねると、レクイエムだと答える。
「楽園へ、って曲。地上の楽園に行き損ねた奴へのはなむけだよ。埋葬のときに歌う」
よく見ると顔には点々と血がこびり付いている。酸化されたそれは赤から黒に色を変えていて、まるでそばかすのようだった。もともとそこにあったかのように、白い肌に馴染んでいる。スーツは同色だから分からないが、さぞかし沢山の血液を含んでいるのだろう。
血生臭い香りを濃く漂わせながら、サンジが死者に捧げる曲を朗らかに歌う。
時折ゾロの方に顔を向け、愛おしげに微笑む。
ずるずると男を引き摺る音と街の喧騒に紛れて、途切れがちに聞こえてくるそれに、ゾロは耳を澄ませた。
お前の為の歌だぜ、とゾロが声をかける。男がうううーとまた唸る。
調子外れのコーラスみてえだなとサンジが言った。二人で顔を見合わせ同時に吹き出した。
(08.06.14)
|