こん、と頭にあたる。ゆるい弧を描きながら落ちるそれを、手を伸ばして反射的に受けとめた。握ったてのひらの中にあるのは、よく覚えのある感触だ。どこか温もりを残すコルクをしばし眺めてから、サンジはおもむろに振り向いた。
よ、と声をかけ、そのまま大きく振りかぶる。遠慮なく思いきり投げつける。
なかなかの速度がついたけれど、ひょい、とゾロは、顔だけを動かすようにしてそれを避けた。
「ノーコン野郎」
「避けた奴がよく言うぜ!」
階段で跳ねたあと、ころころとこちらに転がり落ちてくる。ふたたびサンジのそばまでやって来たものをしゃがんで拾いあげた。
ゾロが握っている、酒瓶に詰められていたはずの栓だった。酒宴のどさくさに紛れて、いつのまにか一本くすねていたのだろう。顔を上げると、マストの向こうには大きな満月だ。焼きたてのパンケーキのようなとろりと金色をした。男は一人、ここで月見酒と洒落込んでいたらしい。
「……で」
「あ?」
「何の用だよ」
言いながら近づいていく。頬が、ゆるまないように気をつけた。
つい数時間前まで、サンジの生まれた日を祝う宴だったのだ。後片づけまでするわと主張する女性陣を夜更かしはお肌に悪いぜとなんとかなだめ、男たちには、洗い物だけ手伝わせたけれど、最後にキッチンを拭きあげる前にもう寝ろと言って蹴りだした。
もちろん、その面子の中にゾロはいない。ずっとこうして飲んだくれてでもいたのだろう。
さっきの問いには答える気がない、らしく、まるきり聞こえなかったような態でいた。
質問を変えてみる。
「てめえなァ、手伝ってやろうって気はねえのか。せめて俺一人になったら入ってくるとかよ」
それとも恥ずかしいかよ? と、口の端を吊りあげてやれば、はっ、と鼻でゾロは笑う。それから瓶にじかに唇をつけて大きく傾け、酒を呷った。ごく、と喉が鳴るのが、ここまで聞こえた気がする。いつも感心するほどうまそうに酒を飲む。よほど好き、なのだ。備蓄が少なくなったとき、禁止だと言うと意外なくらい子供じみた反応をした。
目の前に立つと、三段目に腰かけたゾロはじっと見あげてきた。
片目が、月明かりでゼラチンのように青白く光っていた。
「かえって邪魔だろ」
「……」
ゾロの言葉には思いあたることがあり、あー違いねえ、とサンジは思わず笑ってしまった。
キッチンの拭きあげを、誰かに手伝わせたことはない。日々使い込まれ、それなりに傷や落ちない汚れが重ねられて、それとともに愛着が強まっていくその場所を磨くのは、サンジにとっては一日の終わりに祈りを捧げるのと同じようなものだった。
意外と、と思う。
よく見てんだよな、俺のこと。
そういえば夜更けのキッチンで無心に布巾を滑らせるサンジに、ゾロが声をかけてきたことは一度もなかった。
ただ黙って、見ている。ときおり見せるぎらついた瞳が嘘のような静けさを携えて。
「お前ってさァ」
「なんだ」
「案外知ってるよな、俺のこと」
「そうでもねえよ」
「そうか?」
「そうだ」
ふん、と顎に手をあててから、ゾロの隣に無理やり体を押し込んだ。ぐいぐいと脇に退けるようにして腰を下ろす。布越しに感じる温度は、ゾロがいたところだけがじんわり温かい。
狭ェ、と嫌そうに眉を顰め言うのに、おめえが俺にくっつくからだろとサンジは言い返した。
「まあ気持ちはわからんでもねえけどォ〜愛されすぎんのも困りモンだな」
「アホだなてめえは、ほんとに」
「なあ、ゾロ」
「おう」
「やっぱお前、知ってると思うぜ、俺のこと」
すぐそばにある、顔は見ずにサンジは言った。
たとえ、口から出る言葉はそうじゃなくても、あるいはまったくの無意識なのだとしても。
実際、この特別な日に、こいつがただこうして俺を待っていたというだけで、俺は、震えるほどうれしくなっている。
「…………ヤベえ」
うれしい。
思わず口にする。こんなふうに、この男に、こうして素直に心情を吐けることはめったになかった。これも一つ年を取ったおかげなのだろうか。それとも今日だけ、の魔法なのだろうか。横顔に視線を感じた。きっと、驚いた顔をしているのだろうと思った。
オイなにがだ、と、案の定じつに怪訝そうな声色を聞けば、やっぱり無意識らしいと思って今度はやけにおかしくなった。
はは、と笑いが出る。
無意識で、これだけ俺をヤッちまうんだからまったくこの野郎は。
「な、てめえからはなんかねえのか」
「唐突になんだってんだ」
「プレゼント、だよ」
こうなってくっとなんか欲が出ちまうだろ、とサンジは、コルクを宙に放りながら言う。ひゅ、と風を切る音がした。船の外へと飛びだしたそれは、すぐに絶え間ない波に呑まれ消えていくのだろう。
話の流れがわからねえ、とまだ不服そうなゾロのほうをようやく向いた。
呼吸さえ伝わりそうな距離だ。触れている、体の半分がひどく熱い。
「わかってるぜ、おめえはたぶん」
へへ、とニヤけながら顔を覗き込むようにすれば、いきなりごん、と瓶の底を強く頬に押しつけられた。
中にはまだアルコールが残っているようで、濃い緑のガラスには揺れる液面が薄く見えている。火照った頬には、たしかに心地よいくらいではあるのだけれど。
そうじゃねえだろう?
「前言撤回な。てめえの飲みかけなんざ要らねえぞ」
「違う」
「ア?」
「持ってろ」
「……あ? おう」
妙に凛として言うから、反論もせずにそのまま従ってしまった。瓶を、両手で支える形になる。そうしたら無防備な襟足にゾロの指がするりと入り込んで、そのままゆるく、掴んだ。
「…………」
言葉も海に消えた。サンジを真正面から映した目を開いたまま、の、顔がゆっくり近づいてくる。触れた唇は一度だけで、ちゅ、と恥ずかしいような音を立てて離れていった。目を見たまま、最後に軽く、髪を梳かれる。
なんだ、そりゃあ。
まるで手練れた男が、誰かを優しく口説くときにでもするような。
「クソッ……どこで覚えてきやがった!」
思わず自分の膝のあいだに顔を突っ込む。するほうは慣れていても、されることには慣れているはずがないだろう。いたたまれず呻くサンジを、ふは、とゾロが笑う声がした。
「どこって」
「おう」
「当事者がなに言ってやがる」
お前しかいねえだろ。
そんなことを、さらりと言ってのける。
その言葉が示す深い意味を、わかっているのか、いないのかはわからないけれど。積み重ねていく時間が、触れたいと、愛おしいと感じる気持ちが、この男にちゃんと沁みているのがひどくうれしいと思った。
「……意外と順応性高ェな」
「日々精進だ」
「そこかよ。でも負けねえぞ」
「おう」
「俺が師匠だしな」
「言ってろ」
サンジの足のあいだから奪った、酒瓶に戻ろうとするその手を掴む。コルクよりも大きな音を立て、転がり落ちるもののほうをけれどゾロは見なかった。
くれるんだろ、と言えば、欲しいんだろ、と言う。
答えてやる前に、開きかけた唇を、今度は深く、塞がれた。