スツールに腰掛けると、き、と小さく音が鳴る。それでようやく気づいた、とでもいうように、視線すらも動かさず、いらっしゃいませ、と、目の前の男は言った。 低めだがよく通る声である。サンジは微笑んでみたけれど、愛想笑いの一つも返りはしなかった。そもそも、普通ならばさっきの言葉は、店のドアを開けたときにかけられるはずのものだろう。この男の呆れるほどの商売っ気のなさは、こうして至るところに現れている。 だが、それを不思議と気に入っているのだった。無駄なく寡黙な在り様はどこか無骨で、媚びのなさにはいっそのこと潔さすら感じる。くだらない世間話や上っ面の世辞を浴びるよりかえって好ましく、そのうえ、うまい酒が飲めるというのならばなおさらだ。 同じふうに感じる者もいるらしく、繁盛している、とは言いがたいようだが、いつも誰かしらが、自分の世界で静かな酒を飲んでいる店だった。 カウンターだけの小さなここに、日付が変わって間もない時間、客は他に二人いる。サンジと同じくらいか少し下の年代に見える、スーツ姿の彼らはどうやら連れ同士ではないようだ。それぞれ、飲み会帰りに飲み直しにきた、というところだろうか。 かん、と硬い音がして、目の前に灰皿が置かれた。 ちょうど煙草を取りだそうとしていたところで、サンジは、すいと顔を上げた。 「どうも」 「いつもと同じで?」 「ああ、頼むよ」 頭の中で指折り数えると、十には三つ足りない、けれどいつも、と言われる程度には覚えられている。 かしこまりました。その言いかたが、少しもかしこまってなどいなかった。むしろ投げつけるような口調だ。毎回のことだけれど、く、と思わず声を出して笑うと、男の眉がほんの少しだけ、跳ねた。 瞳の底が波立って、不穏な色にぎらつくのがわかる。そのまま逸らそうともしない。到底、客を見る目つきじゃなかった。 なんだ、ずいぶんと物騒な若造じゃねえの。 もし自分があと二十ほど若ければ、この場で蹴りかかってたかもしれねえな、と思う。 夜はバーテン、昼は殺し屋。この不穏さは、そう説明を受けたって納得してしまいそうなくらい、だ。 「なにか」 「いや、面白いな、君」 「……ジンは変えますか」 「そうだな、どうせならこの前と違うので頼む」 今度は返事すらなく無言で、表情はまったくぴくりとも変わらない。どうやら、ずいぶんと負けず嫌いのようだ。く、く、とサンジは肩を震わせる。 べストにシャツ、首元にタイはなく、その簡素さでいてしかしとても目を引くのは、土台となる体躯が恵まれているからに違いなかった。体に厚みがあるからこそ服に着られずに着こなせている。蝶ネクタイまできっちり締めていたって、貧弱な体では仮装のようになりかねないのだ。 男が瓶を取りだすうちに、ちらと横目で他の客を眺めた。グラスに差されたレモンの形は整っている。ナイフを扱うところはまだ見たことがなかった。 ゾロ、とその客が声をかける。それが、これまで知らなかった彼の名前らしかった。男が、ゾロが、そちらへと向かう。どうやら常連らしく、二言三言、会話を交わしてから財布を取りだし会計をする。 驚いたのは、わずかではあるが笑っていたことだ。サンジに見せるよりもずいぶん、構えのない、くだけた雰囲気だった。そういえばこれまで、他の客に対しての態度は気にしていなかったが、またどうぞ、まで言っている。なんだありゃあ。俺には、ありがとうございました、そう言いながらも、もう二度と来るんじゃねえ、くらいの苛烈な目をするくせに。 こちらに戻って来るのを遠慮なくしげしげと眺める。視線には気づいているだろうに、けしてこちらを見ようとせず、まるきり空気のように扱う。 だが、堪えているのは伝わった。無関心を装うのに慣れていないようなのは、常日頃いろんなことに関心がないのかもしれない。いつ、舌打ちでも出るかな。自分が楽しんでいるのに、気がついたのはたしか、四度目にここを訪れたときだ。 なあ、君、いくつだい。軽い気持ちでそう尋ねた。サンジよりひと回り以上は下、おそらく三十そこそこだろうと目星はついていたがただなんとなく。表情一つ変えず、男の年なんざ訊いてどうする、と鋭い答えが返った。 客用の丁寧な口調が、崩れたのはその一回だけだ。 たぶん、俺は、あれを待ってるんだな、と思う。正直、ひさしぶりに夢中になっている。この感覚は恋のはじまりによく似ていて、でも、相手は男だ。自分自身の気持ちの向きどころがいまだわからないのだけれど、それすらも楽しい、のだから、まったくしかたないだろう。 サンジの視界の中で、ゾロがカクテルを作りはじめる。ミキシンググラスに氷を詰めて、それから、ドライベルモットを軽く回すように注いでいった。 一回目のステアは、少しラフだ。はじめにここに来たとき、なにより気に入ったのはこの男のステアの手つきだった。軸が少しもぶれず、バースプーンの先がグラスの中で美しい円を幾度も描く、それに、目を奪われた。混ぜる、というだけのこの動作は、シェイカーを振るよりはずっと単純で派手さのない動きに見えるけれど、それでいて奥が深く、カクテルの味をはっきり左右するとサンジは知っている。 ストレーナーを置いて、そのあいだにゾロはオリーブとレモンピールを用意した。今夜は、ブードルスが注がれる。甘くて、痺れるジン。二回目のステアはさっきとは打って変わって優しく静かであった。激しい性交のあとの、ゆるやかな後戯のようだと思った。 す、と真上に抜かれたスプーンの先から、金のすじがとろりと垂れる。 凍らせたグラスにオリーブが沈み、ミキシンググラスから注がれたものの中で揺れていた。あの塩気がまた、よく効いている。最後に絞られた、レモンピールのすっとする香りが、サンジのところまで鮮やかに届いた。 「どうぞ」 「ありがとう」 カウンターに置かれ、口をつけたすぐあとに、一人残っていた客も立ちあがった。そちらも常連、しかも上客のようで、ゾロがまた場を離れ、店の外まで見送りに出た。ドアが開き、閉まり、それから戻ってくる。 店でまったくの二人だけになったのは、これがはじめてだった。次の客が来るまで時間はどれくらいあるだろう、そう思ってからようやく気がついた。 なんだ、俺は、こいつを口説きたかっただけか。 「ゾロ」 呼べば今度は、ちゃんとこちらを向いた。あいかわらず挑むような強い目だった。左耳にピアス、短い髪の色は、絞られた照明の下ではよくわからなかったが、あらためて見ればどうも緑がかっている。 頭の隅に、ちかりと引っかかるものがあった。 「前にどこかで会ったか」 「陳腐な台詞だな」 「いやほんとにさ」 「あんたは……俺を見てねえはずだ、たぶんな。見えてもねえだろ。毎回、違う女連れだった。それも、最後はもう三年前の話だが」 「毎回?」 「いまは知らねえけどな。贔屓にしてたホテルのメインバー。この店開く前、そこで何年か見習いをやってた」 「……ただの客を覚えてたのか?」 お互いすでに口調が崩れていることも、気になっていなかった。黙ったゾロに、らしくもなく気が急いた。いつ、次の客が入るかもわからない。 ゾロ、と促すように呼ぶと、またこちらを見る。さっきまでより険しさは和らいでいる、が、どうやらまだ警戒は解かれていないようだ。ずいぶんと信用がない、けれど、まあ、それもあたり前か、と苦笑する。 大丈夫だ、男には興味ねえよ。少し前なら、そう言えていたのだろうが。 笑ったサンジを、ゾロはただ黙ってじっと見ていた。 「いい年したおっさんがお盛んだな、とでも思ったか」 「まあな」 「なんも言えねえけど」 「あんたに」 「うん?」 「本気になる奴はバカだな」 「……はは、言うね、お前」 こりゃ時間がかかりそうだ。そう覚悟する。けれど、どこか爽快な気分でもあった。恋愛に焦りがないのは、それなりに年を重ね場数も踏んでいるからだ。こういうときは、無理に押さないに限る。 グラスの残りをひと息で飲みほして、出直すよ、とサンジは言った。やはり、もう来るな、というような顔をされる。思わずふは、と笑った。 けっこう、重症かもしれねえ。 男らしく整った、じつに無愛想で頑固そうな顔が、なにやら、どうにもかわいく見えだした。 「じゃあ、またなゾロ」 軽く手を上げる。ゾロは返事もせず、カウンターから出て来ようとすらしなかった。ドアを開けるときに一度だけ振り向いたら、空になったグラスを引いている。 「さて、次は……どうするかなァ」 店の外で立ちどまり、煙草に火を点ける。深いところまで肺を満たしながら、何気なくもう一度振り向いて、それに、気がついた。 目を、大きく見開いてたしかめる。 「…………参ったな」 そう、思わず呟いていた。表には、閉店を知らせる札が掛かっている。たぶん、二人目の客を見送ったときだ。どうりで、次の客が入らないはずだった。 ため息まじりでサンジは思い出す。はじめに出されたとき、ベルモットとジンの配分が完璧に好みで驚いたものだが、たぶん、ゾロはそれも覚えていたのだ。やたらと警戒するそぶり、俺にだけあからさまな険悪さ、男に年なんざ訊いてどうする、あんたに、本気になる奴は、バカだな。 あれはすべて、自分への警告、だったのだ。 「……なんっだそりゃあ……」 あんな、何人か殺しでもしてそうな剣呑な佇まいをして、ああ、なんとも純情じゃねえの! 顔が熱くなる、息が浅くなる、心臓が早鐘を打つ、こんな感覚はほんとうにひさびさだ。人に懐くのがひどく苦手そうな、獣を甘えさせるのにはどうしたらいいだろう。これまでの経験、などと、何の役にも立ちそうにない。 とりあえずてのひらを、ひんやりと硬いプレートに押しつける。 ゾロ、そこにいるんだろ。 声をかければがたん、と物音がして、サンジは、ままよ、と、年甲斐もない無鉄砲さでそのドアを思いきり、開けた。 (14.06.23) 14.06.22シティで配布したペーパーです |