*映画温泉ネタですが、とくに観られてなくても問題ないと思います。 体が、ふやけそうだ、と思う。 「たまにはいいんじゃねえか」 こういうのもよ、と笑う横顔は、やけに機嫌がよさそうだ。へえ、意外だな、と思ったのは昨日のことだった。船では週一サイクルのくせに、ゾロは、実はけっこう風呂好きなのらしい。そのことを揶揄すれば、入るまでが面倒くせえんだ、と顔を顰めて言っていた。一人ではなかなか、その気にならない、ということだろうか。 他人には左右されないようでいて、誘われると意外にも、乗ってくるようなところが、たしかにゾロにはある。それに、その場の雰囲気を、それなりに楽しめるらしいのだ。そういえばアラバスタでも、なんだかんだで、大浴場を楽しんでいた気がする。思っていたより、お固いばかりの男ではない、と知ったのはいつのことだったろう。 からん、ころん、と、足元から下駄の音がする。鼻緒は藍色で、いつも靴の中で縮こまった足指が、解放される感覚は、なかなか悪くなかった。ここに来てからずっと、浴衣に下駄というこの格好で、のんびり遊んでばかりだ。温泉街、とはいっても、島自体がさほど大きくないし、ナミさんに行動範囲を制限されているから、一日目であらかたのところを回り終えている。料理をする必要も機会もなく、ただただ風呂にのんびりつかるのを繰り返し、なんだか頭まで、ゆだってしまいそうだった。 今日も昼から温泉三昧で、もう日が暮れようとしている。宿に戻って、夕飯を食べてからもまた、別の風呂に行こうとルフィは言いだすに違いない。そのルフィとブルックとは、迷子捜索中にはぐれてしまった。てめえのせいだぞクソ迷子、となじったら、宿に戻りゃ合流できんだろ、と偉そうに鼻から息を吐いた。 「そういやてめえ、サニーでもよ、風呂はやたら浴びるが、出んのは早いよな」 ゾロがふと思いついたように言い、そうかもな、とうなずいてから、把握されていることに少しだけ驚いた。煙草に火をつける。かしゃん、という小気味よいライターの音に、ゾロは、一瞬、すいと視線を寄越してきた。 とはいえ、閉じているほうの目である。だから、厳密には視線、とは言えないのだろうが、そう感じるのだった。ときどき、まぶた越しにも、ほんとは見えてんじゃねえの、と思うことがある。その眼球が二年前まで、どういうふうに動いて、こちらを見ていたか、俺はとてもよく知っていて、いまだにそれを、とっておきのレシピのように詳細に覚えていて、だから、よけいにそう感じるのかもしれない。 そして、同時に、こうも思うのだ。 それが本当に見えていないとして、この俺にこんなにあっさり死角を与えちまうなんて、そりゃあずいぶんな信頼、なんじゃねえの、なんて。 油断してたら喉笛に噛みついちまうぞ。そう思ってから、噛みついたらマズイだろ、と、自分の思考にちょっと慌てたりもする。 「……俺は長く湯につかる、ってのが、あんま沁みついてねえからな」 「ああ、船暮らしが長けりゃそうだろうな」 「そう。水は貴重だからよ。ちょっとでも風呂が長えと、ジジイによく怒鳴られたもんだぜ」 そうか、とゾロがまた笑う。深く、煙を吸い込んで、真っ赤に焼けた空にふう、と大きく吐いた。湯あがりのまだ湿った髪を、思いきり掻きむしりたい気分だ。なんだろう、このなんつーか、なごやかな雰囲気、と俺は思う。落ち着かない、というか、いっそいたたまれない。こいつも俺と同じく、頭までふにゃっとふやけちまったんだろうか。 「いっつも慌ただしい俺らにしちゃ、めったにねえ機会だ。てめえも楽しめ」 「楽しんでるさ」 ぼそりと言えば、また、すい、と視線が頬を撫でるのを感じた。そのわりにゃ、落ち着かねえように見えるが、といつもの、少し掠れた声がする。てめえと違ってやることねえと落ち着かねえんだよ、そう、俺はうそぶいた。 閉じているくせに、いやに饒舌な目だ。ごまかすように辺りに視線をめぐらせると、その手、らしき店が嫌でも目についてくる。温泉に、夜の職業はつきものなのだ。こんなアホ剣士はいますぐ放りだして、レディと甘く素敵な時間を過ごすことも出来るというのに。 「買うのか」 「あ?」 銜え煙草でゾロのほうを見ると、さっきまでの考えを読んだように、売春宿らしきほうを指差している。お互い、歩は止めない。黙っていると、女、とゾロは、ダメ押しのように続けた。 ついさっきまで、表情がないのに表現豊かだった横顔は、いまはまったく、内心が読めなくなっている。駆け引き、なのか、単なる問いかけなのか、それすらもわからない。この手のことで、そういう駆け引きが出来るような、手だれだとは到底思えなかったけれど、わりと意外性に満ちた男であるから、読めない、と俺は思った。 いろいろと考えるのは、わからないからで、けれど手探りなりに、つま先ぶんだけでもこいつの先を、行ってやりたいからだ。やり込めるのは、つねに俺のほうでありたい、と思っている。けれどそう思っているのが、どうやらゾロのほうもだから、話がややこしい。俺の勝ちだ、と、いつだって憎たらしい顔で笑いたがる。 「……買わねえよ」 「へえ」 「んだよ」 「別に」 「てめえこそ、買わねえのか」 「買わねえ」 なんで、と、問うのは危険だと思った。藪から蛇が出て、それこそ喉笛をがぶり、とやられそうな気がした。ゾロはそれきり押し黙って、だから俺もずっと黙って歩いた。じゅうぶん過ぎるほど温まり、熱のこもった体は、風に吹かれてもいまだ汗ばんでいる。 そのまま二人、微妙な雰囲気のまま、下駄を鳴らしながら黙々と歩いて、やがて、あたりまえだが宿に着いてしまった。いつもの、夕飯の時間にはまだ早い。さらに悪いことに、ルフィたちは寄り道でもしているのか、帰っていなかった。このタイミングで、この男と密室で、二人きりになるのはたぶんまずい、と俺は、即座に判断を下す。 「ちょっと俺よ、風呂、もっかい行ってくるわ。時間あるしな。てめえはここでいつもみてえにゴロゴロ寝てりゃいいだろ」 後ろ手に、襖を閉めてしまう前に、憎まれ口を挟みつつ畳みかけるように言った。けれど、事は思ったほどスムーズには運ばなかった。ゾロが振り返り、軽く顎を上げるようにして俺を見て、いかにも当然、みたいな口調で、俺も行く、と言うから、驚いた。 「……は?」 「問題あるか?」 尋ねてくる、その様子に他意はないような気がして、また、わからなくなった。意識しているのは、もしかすれば、俺だけ、なのかもしれない。こいつもそういうつもり、なんじゃねえかって、俺だけが恥ずかしい勘違いをしているのかもしれない。 そう思ったら、つい、いつもの負けず嫌いが出てしまった。 「あるわけねえだろ」 「ねえよな」 「ねえよ」 「で、どこ行く」 「え」 「風呂の話だろ」 「あ、ああ」 部屋のでよくねえか、もう、移動も面倒だしよ、とゾロが、何気なく、本当に何気なく(俺にはそう見えた)、和室の奥から続く、小さな風呂のほうを指差した。なんでも、ロビンちゃんが相当稼いでいるとかで、機嫌をよくしたらしいナミさんの粋なはからいで、俺たちの部屋はアップグレードされたのだ。なんと、露天風呂つきになっていた。それが裏目に出た。 「…………一緒に、か?」 「問題あるか?」 また、さきほどの繰り返しだった。ゾロの肩越しに見える、今朝見た風呂へと続く、扉から目が離せなかった。そりゃあるだろう、大浴場じゃあるまいし、あんな小せえ風呂に、男二人一緒にっておかしいだろう。けれどやっぱり、そう怒鳴りつけることは、自分だけが変に意識しているようで、俺はまた、あるわけねえだろ、と答えてしまった。 ねえよな、とゾロもまたうなずいて、さっさと浴室のほうに消えようとする。忌々しいことに、表情は消えたままだ。照れも、動揺も、まったく、感じとれない。俺はなんだかバカにされたような気がして、足音を高く立てて広い背中を追い越して、自分が先に脱衣所に入った。 外の風呂に続く引き戸を開けると、むわりと白い湯気が立ち込める。すぐ後ろにいる、ゾロの気配をひしひしと感じながら、俺は、自分の帯に指をかけた。思いきりよく素っ裸になって、ばしゃんと飛び込んでやるつもりだった。陽がもう落ちきって、青みがかった湯けむりのなか、ぼう、と燈色の明かりが浮かぶ、なんだか艶めいた妙な雰囲気に負けたりはしねえ、と意気込んでいた。 「おい」 なのに声をかけられて、俺の肩は、少しだけ揺れてしまった。なんだよ、と、帯を握ったまま、声を押しだした。おい、と言ったくせに、ゾロは黙っている。いまさら怖気づいたかよ。そう、静寂の重みに負けて続けてしまってから、バカじゃねえの、と顔が熱くなった。ゾロは、たぶん、何も気にしていない。言われた意味すら、わからないかもしれない。怖気づいているのは、俺のほうだけなのだろう。 もう二年も前の話だ、一度だけ、ゾロとそういうことをした。名を呼んで、手を伸ばしたとき、ゾロは横顔で、すい、と俺を見たのだ。意外と睫毛が長い、そう知ったのはそのときだった。饒舌な目だ、と思ったのも、そのときだ。わからないことだらけの男だけれど、表情はいつものスカしたものと変わらないけれど、その目はたしかに熱くて、俺を奥まで受け入れているように見えた。実際、ゾロは驚くほど、俺のやりたいようにさせた。いつも喧嘩ばかりの、ムサ苦しいだけのはずの、その体が、声が、触れるごとに過敏に反応するのにやたら興奮して、俺は、思うさま抱いたものだ。 けれど俺たち一味はそのあと、存続自体も危ぶまれる事態に陥って、お互い、言葉すらもなかった行為はそれきりになった。そして、離れているあいだも、再会したいまでも、俺はあのときのことを、いったい、どこに収めていいのかわからずにいる。 「――そうかもしれねえな」 ふたたび訪れた、長い、息の詰まるような沈黙のあと、ゾロがそう言ったから俺は驚いた。手を下ろしようやく振り向けば、ゾロは、じっと壁を見ているようだった。今から風呂に入るとは思えない、腕を前で組んだ格好で、また、どこか頑なに、傷のある横顔を俺に向けている。 そのときふいに、まさに、雷に打たれたみたいにわかった。思わず、片手で顔を覆った。そうしないと、呻いてしまいそうだったからだ。 「てめえ、もしかして、さっきから、ずっと」 俺のこと誘ってた、か。 言えば、たしかに、ゾロの肩も少しだけ揺れた。 「……こういうのは、慣れてねえ。男相手なんざ、しかも、てめえだしな」 がりり、と、頭を掻きむしる。ちょうど、さっきの帰り道、いたたまれない俺がやりたくなったみたいに。こいつもずっと、どうしたらいいかわからなかったのだ。ああ、と俺は、なんとか答えたけれど、とうとう、呻いたような声になった。なんてこった、俺ばっかり、では、なかったのらしい。 「ゾロ」 あのときみたいに、名を呼んで、腕を掴んだ。顔を動かさないまま、まぶたの向こうで、たしかに、鳶色の眸が俺を見つめた。傷の上に、唇を押しあててみる。吸いつく動きに合わせて、舌を追うように、眼球がゆったりと、動くのがわかった。やっぱり饒舌に、俺を受け入れている。もっと早く、こうしたらすぐわかったのに。 「てめえが」 「ああ」 「何を、考えてるかわからねえ。あのときも、今もな」 さっぱりだ、と押し出すように言う、唇に齧りついた。ぎゅっとアバラの下辺りが絞られたようになって、舌を深く絡ませると、甘ったるい息が漏れる。触れた肌は、しっとりとして、熱い。浴衣の裾に足を入れて、肌蹴させて、内腿同士が触れ合うと、まるで、お互いに吸いつくようだった。 胸の合わせから、覗く場所は汗ばんでいる。舐めれば塩と、たぶん、さっきの湯の味がする。ゾロは火照っていて、それは、もちろん俺もだった。 「あー……温泉、悪くねえなァ」 いろんな意味を込めて言ったのだが、大きな舌打ちが聞こえた。ぐ、と眉間に凶悪な皺が寄る。それさえも、なんだか、くすぐったい。 「他に言うこたねえのか」 「あるさ」 「じゃあ言え」 「言うよ」 あとで、と言って、今度はゾロのほうの帯に手をかけた。ほどいていくと、肌よりもっと熱い、昂ぶりがあらわになる。触れたら、手の中で震えて、ゾロがぶるり、と震える。乳首が、小さく勃っていた。 「入ら、ねえのか」 「入るよ、あとで、ゆっくりな」 「…………」 「風呂の話、だろ?」 唇を、もう一度合わせながら言うと、バカヤロウ、と低くなじられる、その息のひどい熱さで、湯あたりしたみたいに、くらり、とした。 (13.01.08) 13年01月06日インテペーパー |