Two of us カウンターに置いた手元近くで、混ぜるようにゆるりと空気がうごめいた。しばらくピアノへと向けていた顔を戻し、ゾロはそのほうについと視線を流す。 間接照明に照らされた白いシャツには、腕の形に合わせ波のような皺が刻まれ、柔らかな色味の明かりがそこへと溜まっている。つるりとした袖口のボタンの先、伸びる長い指が氷だけになったグラスに添えられていた。 形のよい爪になんとなく目を奪われる。指の関節はしかし、繊細なそれとはいささか不釣り合いなほど節だって、男の指だ、とあたりまえのことをゾロは思った。 「同じものを?」 「――ああ」 降りかかる抑えた声音は、店の雰囲気を壊さない配慮がなされているのだろう。ゾロがコースターに目を落としたまま素っ気なく答えると、ふ、と笑う気配がして、見上げればその男は微笑んでいた。 軽く撫でつけられた髪は光を弾いている。かちりと隙なく着こなしたバーテン服と、目尻を撓ませたその人懐こいような笑顔はやはりアンバランスに思え、男の年齢をどこか不鮮明にしているようだった。 だがいずれにせよ、ゾロより若いのは間違いないだろう。席に着いたときから視線を感じて、あえてあまりこちらからは見ないようにしていたのだった。見知らぬ店で店員と話すのが億劫なゾロは、親しげな男の様子にあからさまに眉を顰めた。 男はしかし、まったく怯む様子を見せなかった。 「ずいぶん、お強いんですね」 「……まあな」 「今日はお一人で、――ああ、披露宴の帰りですか」 隣の席に置いている、引き出物の入った紙袋に目を配り男が言う。さきほどまで同じホテルの別の階で、たしかにゾロは部下の披露宴に出席していた。そのまま二次会にもとずいぶんしつこく誘われたのだが、なんとなく気が乗らずにバーラウンジで飲み直している。 ゾロが返事もせずにただ頷くと、無愛想な客の扱いになど慣れているのだろう、男は笑みを崩さぬままグラスを引き、輪染みの出来たコースターを取り替えた。 軽快なピアノの音色は間断なく続いている。ときおり、ゾロも耳にしたことがある曲がジャズアレンジされて流れていた。高層階からの夜景が見渡せる窓ぎわ、テーブル席では恋人たちが密やかに夜を過ごし、連れのいない客は見渡すかぎりどうやらゾロだけだった。 「恋人、だった?」 ふいにふたたび声をかけられて見れば、すでに酒は満たされ男がカウンターに肘をついている。首を傾げ、少し身を乗り出すようにして、ゾロのほうを興味深げに見つめている。 ついさきほどまでのバーテンダーと客という距離感を、一気に詰められたようでゾロは少したじろいだ。 そして同時に、たじろいだ自分に驚きも覚える。たいていのことには動じない自信があるからだった。他人にペースを乱されるのは気に食わない。 「何の話だ」 「結婚したの、恋人だったのかなって。やけにぼんやりしてるし、さっきもテーブル席じっと見てたから」 「……勘違いだ。だいたい俺は、そういうことには興味が無え」 「そういうこと」 「恋だの、何だのだ」 吐き捨てるように言うと大袈裟に驚いた顔をする。恋愛したことねえの、とあからさまに呆れた口調で尋ねられ、女とつきあったことくらいある、とついむきになった。 「好きでもないのに?」 「関係ねえだろう、たまに会って寝るくらいなら」 「関係ない、ねえ。……あんた、長続きしたことないだろ?女の子はそういうとこ鋭いからね」 口調はあくまで柔らかいが、ずけずけとした物言いは当たっているだけに腹が立ってそのまま黙り込んだ。 だいたい、俺は初対面の男相手に何を話している。酔っているつもりはなかったが、昼間からずっと飲み続けだ、少し量が過ぎているのかもしれなかった。体温もあがっているのか、首元あたりが汗ばんでいて、ネクタイにぐいと指をかけて少しだけ緩める。 そこに、灼けるような視線を感じた。顔をあげれば、最後に見た姿勢のまま男はゆっくりと唇の端を上げた。 はじめに見せていた幼いような印象は消え失せ、いまは色香さえ漂う大人の男の顔をしている。眸の印象が強いのは、そのやけに薄い色のせいだと気がついて、その途端、潤したばかりのはずののどにひどい乾きを自覚した。 「勿体ないね、もてそうなのに」 ――ゾロ 低く名を呼ばれ、耳をなぶられたような感覚がしてスーツの下で肌がふつふつと粟立っていく。ひたりと吸い寄せられるように視線は絡み合っていた。 なんで、と出した嗄れた声が自分のものでは無いようだった。そのまま、ゾロを捉えたまま目を細め、ん?と男はまるで甘やかすような甘えるような声音で言う。 「――なんで知ってる」 「名前?」 「そうだ」 「そこに」 差した指の先には紙袋があった。披露宴のテーブルに置かれていたネームプレートを、引き出物の包装の上に無造作に乗せたままにしていた。ゾロよりも高い位置にいる男からはそれが見えていたらしい。 「無防備だな」 くすりと笑い、俺はサンジ、と男は名乗った。それから姿勢を正し、どうぞ、と元の慇懃な口調でてのひらを返してグラスを示す。ゾロは言われるまま手を伸ばしそれをぐいと呷った。 ごくり、とのどが鳴る、そのあいだもずっと視線を感じていた。いつのまにかてのひらまで汗ばんでいて、触れるグラスの冷やかさがやけに鋭い。 「……言われたことはねえが」 「無防備ってやつ? あー、じゃあみんな見る目がねえのか、それとも、」 「それとも」 「あんたがあえて、俺に隙を見せてるか?」 「な、」 開けた口で二の句が継げないでいると、ほら、そんな顔してよと男は、サンジはやはり甘い声で続けた。 「まあ、だといいね、って話」 「どういう、」 意味だ、と続けようとしたとき、ふいに暗幕でもかけたかのように照明がすべて消えた。テーブル席とカウンターに置かれたキャンドルの明かり、それからアップライトピアノを照らす淡い光だけが闇に浮きあがる。 そうして流れだした曲は、これまでのテンポのよい明るい曲調とはまったく異なるものだった。ゆったりとしたリズムの、美しくどこか感傷的なその旋律は、とろりと濃密な夜の気配を静かに震わせる。 何組かの男女が立ち上がり、互いの体に腕を回して揺れていた。星空を模したような夜景を背に、まるでひとつの生き物のように影を重ねている。 「週末の夜だけの演出なんだ。これが結構、評判よくてよ」 肩に手を置かれ、振り向けばいつのまにかサンジがすぐ後ろに立っていた。そのまま身を折るようにして、グラスのそばで灯るキャンドルにふ、と息を吹きかけて消した。その拍子にくすぶる匂いがし、ああ、煙草を吸うのかと、どこかぼやけた頭でゾロは考えた。 「立って」 耳元で囁く声に導かれるように腰を上げる。なぜ言うことを聞いているのか、自分でもよくわからないまま体は自然に動いていた。 他から切り離されたような、一層密度を濃くしたその暗がりでサンジと向き合った。肩に置かれたままだった指が、そのまま首筋へ、それから耳朶のピアスへと這いあがる。肌を滑るその感覚は鮮烈で、ふ、と意図せず息が漏れた。 空いた腕が背に回り、ゆるく抱き寄せられた。背丈はちょうど同じくらいで、頬にその長めの髪がさらりと触れる。垂らしたままだった手首を、耳に添えられていたサンジの手が掴み、同じように背に腕を回させた。 ベストとシャツに覆われた、思ったよりも鍛えられた体の輪郭がじかに伝わってくる。今は首の後ろ、襟足辺りをあやすように撫でる指が、ネクタイにかかり、スーツの肩に触れ、シャツのボタンを外し、少しずつ肌を露わにしていく、そんな想像をするなどやはり今夜はどうかしている。 「……俺は」 「大丈夫、誰も見てないし、ただ俺に合わせてればいいから」 「いつもなのか」 「何が?」 「いつも、こうやって客と踊るのか」 尋ねてから、馬鹿なことを訊いたと我ながら思い顔が熱くなった。この男が他の者とこうしている姿を、思い浮かべた途端湧きあがった感情を抑えきれなかったのだった。 まじまじと顔を覗き込まれるのがわかり、見られるのが嫌で背けると、てのひらが火照った頬にたしかめるように触れた。それが離れたかと思えば、今度は熱く濡れたものが同じ場所にそっと押しつけられる。 唇だと、知覚するのに少し時間がかかった。 「やっぱやばいね、あんた」 ため息混じりで言い、ゾロの肩口に額をことりと押しつける。 「知ってる?この曲」 知らねえ、と答えれば、サンジはタイトルらしき英語を滑らかに発音した。そしてピアノに合わせ、小さく歌詞をくちずさみゆるやかにステップを踏む。 「恋人と出会って、世界が変わった男の歌だよ」 「世界が」 「そう。あんたは知らねえんだろ、好きな相手に触れるのが、触れられるのが、どれだけ特別なことで、溶けちまいそうなほど感じるか」 首筋に顔を寄せてサンジは言う。湿った息が皮膚を掠め、腰まで下りた指に軽く力が込められるのがわかり、眩暈に似た感覚に襲われた。隙なく触れあって、互いの匂いを吸いこんで、隠しようのない熱を押しつけて揺れている。俺が教えたいんだけど、と顔を上げたサンジはどこか不安げな表情だった。 呼吸が浅くなる。腹立たしいほど自信に満ちた素振りだと思ったのに、急にそんな可愛げを見せるなど卑怯なやりくちだ。そういえば、さきほどの答えもまだだった。 「なあ、今日は泊まり?」 「……ああ」 部屋番号は、と訊かれる前に、払いは部屋付けで頼むとゾロはぼそりと続けた。伝票に記された素っ気ない数字の羅列を、サンジは特別な思いで目に焼きつけ、ここを閉めるまで落ち着かない時間を過ごすのだろう。先に部屋に戻ったら、この夜のためにワインの一本くらいは準備してやってもいい。 さもうれしげに、はにかむように笑う顔にはなぜだかまた頬が熱くなって、悔しまぎれに整えられた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してやった。 「ひっでえなあ」 「生意気だからな」 「でも抱くけど」 「……俺が下か……」 「だってさ、俺が教えてやりたいし、たくさん触りてえし、あんたの気持ちいい顔が見てえんだよ」 そうかよ、と笑えばそうだよ、とサンジは声を低める。それからふたたび、耳に吹き込むようにその歌をくちずさみはじめた。巧みな指先は隆起を辿り奥へと進んでいる。 いたずらにそこをなぞられ、下着がまた少し、濡れるのがわかった。 「――あ、そうそう俺ね、ここのフレーズが気に入ってるんだ」 「へえ、どんなだ」 こうだよ、と囁く、乱れたままの髪に深く鼻を埋めた。 ねえダーリン 夜が明けて朝陽を眺めるとき 僕だけが君のそばにいたいんだ (11.10.11) 11年10月09日開催サンゾロオンリー「わくわくさんぞろランド」にて配布したペーパー。 このニ週間くらい前に旅行に行った際、結婚式帰りっぽい酔ってるらしいおっさんと若い男がホテルのバーで踊ってるの見て、ツイッターでたぎってたら書きなよ!!と食いついてくださったかたがちらほらおられて書きました。 踊ってる曲は、Grover Washington Jr.のJust The Two Of Usです。 原曲がとても好きで、いつか使いたいと思っていた。 |