海のこどもたち 海が見えてきた。きらきらと光っている。 ゾロは、座ったままぐるりと周りを見わたした。数駅前まではひとの乗り降りがまだあったのだけれど、あとはひたすら田舎へ向かうだけの鈍行列車にほとんど客は乗っていない。三つ離れた前の座席で、男が一人うたた寝をしているばかりだ。そのごましお頭が、振動に合わせて規則的に平和的に揺れている。ときどきぐらり、と大きく揺らいでは、はっとしたように姿勢を正していた。 たった一両編成の、そとがわの黄色い塗装がところどころはげかけたようなおんぼろ電車を、けれど見るたびサンジはゾロの電車だとよろこぶのだという。ゾロが、これに乗ってやってくるのをちゃんと知っているのだ。 ゾロはもういちど周りを見わたし、それからおもむろに靴を脱いだ。両方とも。逆ハの字になったのをきっちりと揃える。ミホークはしつけに厳しい。でも用事があって今日は一緒ではない。ゾロははじめて一人で電車に乗っている。 ふかふかとした茶色の座席のうえに膝立ちになると、むきだしの膝こぞうがずずうっと沈みこむのを感じる。視界のなかの海がいっきに広がった。空の色ともすこし違う、そのひさしぶりのまぶしい青色を、ゾロは窓にはりつくようにして眺めた。いまゾロが住む町にはこんなきれいな色はどこにもない。あたりまえのように毎日見ていた、この色。 しばらくするとまた景色が変わった。電車は松林のなかに入りながらすこしずつ減速していく。 ゾロはあわてて靴をはいた。バッグを斜めがけにしてこんどは反対がわの車窓にはりついた。 「サンジ!」 聞こえもしないのにゾロは思わず声をあげた。それに居眠りをしていた男がびくん、と肩を震わせた。こちらを見る。ごめんなさい、とゾロは頭をさげる。 ホームが近づいてくる。ちいさいちいさい、金色のが、赤い髪の男に肩車をしてもらっているのが近づいてくる。 ゾロはそれをたしかめてから勢いよく椅子を降りた。ドアが開くのを足踏みしながらじりじりと待つ。ぷしゅ、と音がして出来たすきまに、ゾロは飛びこんだ。 「ゾロ!」 サンジ、ともういちどゾロは言った。 シャンクスがおろしてやると、サンジが満面の笑顔で駆けよってくる。白いシャツに、黒の半ズボンとサスペンダー、それに白いハイソックス。いちどかっこいいな、とゾロが褒めてやってから、サンジのいっとうお気に入りのやつだ。まるでどこかのおぼっちゃまのようなその格好は、絵本に出てくる天使みたいな顔をしたサンジにはよく似合っている。 サンジに会うのは冬休み以来だった。サンジはついこのまえ4つになった。ゾロは自分が4つのころのことなんてほとんど何も覚えていない。だからとても心配だったのだ。よかった、忘れられていなかった、とゾロはほっとする。 かがみこむとぴょんと元気よく跳ねて首に飛びついてきた。熱烈歓迎だな、とシャンクスが笑う。押しつけられた、やわらかな頬から、潮と松の匂いに混じってふんわりとした甘いような眠いような匂いがする。サンジの匂いだ、とゾロは思った。 ゼフお手製の、アヒルのアップリケがついたポシェットを今日もサンジは首からかけていた。まんまるの小石とか、めずらしい形の葉っぱとか、きれいな色の貝がらだとか、そういうサンジだけの宝物がいっぱいにつまった、それ。 ぞろーぞろー、とサンジがなんども言う。甘ったれ声でねえだっこして、と言うので、抱きあげてやった。重くなっている。すこし背も伸びたようだった。手足が前よりひょろりと長くなっている。 きゃあきゃあとうれしそうに笑いながら、ゾロのおでこをてのひらでぺしぺしとサンジは叩いた。なにやらいつもに増して落ち着きがない。興奮しているのだろう。 「今日は昼寝してねえからなあ」 その様子を見て、シャンクスがゾロのバッグを持ってやりながら言う。ゼフはこの時間、食堂を離れられないから、かわりに迎えに来たのだとシャンクスは言った。 ゼフはサンジの養父で、シャンクスはゼフの店の常連だ。古いレンガ造りの洋館は一階部分が食堂になっていて、そこではおもにこの辺りでとれる魚を使った料理がふるまわれる。メニューは和洋折衷。なにを注文したって、安くって、とびっきりうまい。ゾロは去年の春まで、その洋館のすぐ近くに住んでいて、育ての親であるミホークの仕事の都合で引越しをしたのだった。 ゾロはサンジをいちど高くあげてやり、おろしてから、手をつないだ。 「そっかー、眠いのか」 「ちがう!ねむくないもん!」 ちがう!と繰り返しながら懸命に首をふるが、その目つきはあきらかにとろんとなっているし、手はぽかぽかと陽だまりのなかみたいにあったかい。眠いのらしい。じっと見ると、ちがうーとサンジが半泣きになる。地団太を踏む。 「わかった。サンジは眠くねえ」 ゾロはうなずいた。サンジは安心した顔になった。反抗期がちょっと長いのかそれとももともとの性格なのか、サンジはほんとうのことを指摘されるとこうしてむきになって否定する。 「眠ったらゾロに会えなくなる、って言い張ってよ。なあチビナス」 サンジの丸い頭を撫でながらシャンクスが言う。 さいごに会ったときの帰りぎわ、サンジはゾロにしがみつきなかなか離れようとしなかった。さんざん泣きわめいて、疲れはてて眠ったすきに、ゾロはこっそりと帰ったのだった。目を覚ましたあと、ゾロがいないことに気がついたサンジの荒れっぷりはすごかったのだそうで、しばらくのあいだゼフはたいへんな思いをしたのだとゾロも聞いていた。 「車、とめてあっから」 シャンクスが無人改札のほうを指さしてから歩きだす。天気がいい。木々の向こうで、空と海が溶けあっている。 おう、とゾロが返事をすると、サンジもおう!と真似をする。ぴっ、と背を伸ばし片手で敬礼のような仕草をした。このまえまではしていなかったことだ。 サンジといっしょに小走りで追いついたゾロを、シャンクスが立ちどまってしげしげと眺めた。 おもに、短パンからすうっと伸びる、よく日にやけてこうばしそうな色をしたふとももから足首のあたりを。 「お前さ、そろそろ短パンやめろってミホークに言われねえ?」 「言われねえ」 「ふうーん」 そういえばクラスの何人かはもう長いズボンを履いている。 ゾロは動きにくいのとごわごわするので、長いのが嫌いなのだけれど。 「まあ俺的には、目の保養でいいけどな」 意味がわからなかった。 ミホークからはいつもシャンクスのことを、あいつはおかしいから何を言われても気にするな、と言われている。だがそろそろ気をつけろ、ともこのまえ言われた。それもゾロにはよく意味がわからなくて、なにに気をつければよいのかと聞いたらミホークはもにゃもにゃと言葉をにごした。 「いやあー、今後が楽しみ楽しみ」 ゾロの周りをぐるりと一周し、人さし指で無精ひげのはえた顎をかきながらにやにやとシャンクスは笑う。 シャンクスのにやけ顔をじっとつぶらな瞳でみあげ、おとなしくやりとりを聞いていたサンジが、だしぬけにシャンクスのベルト部分に飛びついた。幼児とは思えないくらいにそれは見事な跳躍だった。 そのまま、シャンクスの尻におもいきりかぶりつく。 ゾロにさえわからないなにかを感じとったのらしい。 「いっ!でえーー!!」 どうやらサンジの噛みぐせは治っていない。 タクシーが一台いるだけのがらんとしたロータリーに出る。ちかごろではあんまり見かけない、かくかくとした形の車が停めてあった。電車と同じでところどころさびがきている。塩をふくんだ海風の影響で、まめに洗わないと金属はもれなくさびやすい。 すえおそろしいガキだ、と尻をさする、シャンクスの車の後部座席にサンジとゾロは乗り込んだ。サンジがもたつくので、ゾロが手をかそうとすると、じぶんで!とサンジはひどくふんがいする。 ドアを閉める。エンジンがかかった。 「出発」とゾロが言うと、「しんこーう!」とサンジがつづけ、顔をみあわせて笑う。 細い道を出て、車は海沿いを走りはじめた。ゆるやかなカーブがつづく。ゾロは取っ手をくるくると回してくもった窓ガラスを全開にする。景色を見るためだ。今日は暖かいので風もあまり気にならない。 昼下がりの、光をあまねく跳ね返す海をぼうっと見ていたら、ぴったりとくっついて横に座っていたサンジがふいに立ちあがった。 「サンジ」 あぶねえぞ、とゾロは言うが、きかない。ゾロの腿のうえにまたがる形でとすんと座る。向かい合わせで、頬をむに、と両手ではさまれサンジのほうを向かされた。 ゾロ、あれしめて、と指をさす。窓のほうだ。 ゾロはふたたび、さきほどと反対の方向に取っ手をくるくると回した。それから向きなおって、どうした、とサンジに訊く。 「あのね、サンジね、それやなの」 「それ?」 「ゾロ、おそとみないで」 こっちみてて。首をすこし傾け、ゾロの顔をのぞきこんで言う。 「こっちって?」 ゾロが訊くと、こっち、と自分のほうを指さす。 「そと、見ちゃだめなのか?」 「ちがうの、サンジをみててほしいの」 ほかはみちゃいやなの、サンジだけみてほしいの、ゾロはサンジだけみるの、と真剣な顔つきで言う。そうだった、とゾロは思いだした。昔から、いっしょにいるときにゾロがすこしでもサンジから気がそれるのをサンジはとても嫌がる。 わかった、とゾロは答えた。ぎゅ、と抱いてやる。これでいいか、と言ったら、うん、と答える。 サンジは満足げに、ばら色のほっぺたをゾロの胸にすりよせ、首にくるりとその手を回した。やはり眠かったのらしく、そのまま寝息を立てはじめる。 ミラーごし、二人の様子をちらちら見ていたシャンクスがため息をついた。ぶるり、と震える。 「ほんっと、すえおそろしいな」 ゾロ、おめえ、覚悟しといたほうがいいぞ。 またゾロにはよくわからないことをシャンクスは言う。 「来たな、小僧」 食堂についたら、ゼフが出迎えてくれた。 「おせわになります」 ゾロが礼儀ただしくぺこりと頭を下げると、ゼフは腕組みをしたままおう、と答える。 シャンクスは急な仕事が入ったとかで、ゾロとサンジをおろすとそのまま車に乗って帰っていった。また明日な、とゾロの髪をくしゃくしゃにかきまわしていく。ばいばーい、と手を振るサンジはどことなくうれしそうだった。 波の音が聞こえる。ゾロは二ヶ月とちょっとぶりに懐かしい店のドアを開けた。 外観は立派な洋館なのだが、一歩なかにはいるとそこはよくある田舎の食堂そのものだ。テーブルがいくつかあり、それぞれに4つずつ、背もたれのない、座るところが丸くてビニールでできた椅子がおいてある。砂が入るので床はセメントの打ちっぱなし。カウンター席と厨房とのあいだには、純和風な感じののれんまでさがっていて、はじめて来た客がおどろいた顔で店内を見渡すのをゾロはこれまでなんども見てきた。そしてメニューを開いて、その幅広さにさらにびっくりすることになる。 昼食の時間はすでに過ぎた、いまはちょうど客がいない。おおきく採られた窓からはもちろんきれいな海が見える。 ゾロは今日、ここの二階、サンジとゼフの住まいに一泊し、明日また電車で帰ることになっている。 「遊び、行くか?」 「うん!」 さっそくサンジと浜に遊びに行くことにした。持っていけ、とゼフが弁当箱の入った袋を持たせてくれる。 「にぎり飯だ。腹が減ったら食え。天気がいいからな、日かげに置いとけよ」 弁当箱の横には、ミホークがいたら特別なときにしか飲むことができないラムネも一本はいっていた。サンジはまだ炭酸が飲めないのでパック入りのりんごジュース。 二人でのぞきこんで、わあ!と歓声をあげる。 「おい、ナス!これ着てけ」 ゼフがサンジにパーカーを見せる。浜辺はとくに風がつよい。サンジがぶるぶると首を横にふる。 「いやーん!」 「いやーんじゃねえ!着てけ!」 「やだあーーぜったい、や!」 強制とか命令にはどこまでも抵抗する。愛らしい、女の子のようにもみえる顔をして、こうなったときのサンジはとことん頑固だった。もちろんゼフだってそうとうな頑固だが、サンジにだけはめっぽうよわい。 「ったく、いうこと聞きゃあしねえ」 ゼフはぶつくさと言い、それでもパーカーを丁寧にたたんで袋のなかにつめこんだ。おめえの言うことだけは聞くから、あとで着せてくれ、とゾロに耳打ちをする。 ゾロはうなずいた。袋を片手にさげ、もうかたほうでサンジとしっかり手をつなぐ。そのまま出て行こうとすると、おい、とゼフに呼びとめられた。 「晩めしはすきなもん作ってやる。なにが食いたい」 ゼフの言葉に、サンジとゾロは、同時に答えた。 「エビフライ!」 よし、とゼフが言い、にやりと笑う。 ゼフが作るエビフライとタルタルソースは絶品なのだ。 「いってきます!」 「いってこい」 食堂を出る。裏手に回り防風林を走りぬければ、そこにはもう白っぽい砂浜が広がっている。 かげになった木の根本のところに弁当の入った袋を置く。靴を脱いで、そのそばに置いた。靴下は丸めて靴のなかに詰める。サンジもそれを見て、もたもたしながらも、ちゃんとゾロのまねをする。 「パーカー、風がつよいから着ような」 きっとかっこいいぞ、とゾロが言うと、さっきのゼフとのやりとりは忘れたのか、サンジはそれを素直に着てくれた。 午後の陽射しにぬくもった砂が、裸足の足裏にさらさらと気持ちよい。ざざん、ざざん、と波が打ち寄せている。砂浜が広い。引き潮だ。遠く突堤には釣りびとの姿がちらほらと見えていた。 さすがに水遊びにはまだはやいので、砂山を作ってトンネルを掘ったあと、サンジの貝がら探しにつきあった。サンジがとくに気にいっているのは、うすい桃色をした、ちょうどゾロの爪くらいの大きさの貝がらだ。片手に集めていき、いくつかたまったら海水で砂を洗って乾かす。 波が引くのにあわせて足の下を砂がすべっていく、その感触にサンジがくすぐったーい、とくすくす笑った。つくりものみたいなちっちゃな鼻のうえに砂がついて、髪と同じ色に光っている。ゾロが指でとろうとすると、よけいに砂がついてしまい、それがおかしくてゾロも笑った。 「おなかすいたねー」 サンジがふと気がついたように言う。そう聞いたらゾロも急におなかが減ってきた。空を見れば来たときよりも太陽が低い。けっこうな時間、夢中で遊んでいたようだ。 「よし、おにぎり食うか」 「りんごジュースも!」 サンジが顔を輝かせる。 「えっとね、おにぎりはまあるくてね、のりがついてね、しゃけとおかかがあるんだよ」 一生懸命、身ぶり手ぶりつきで説明するのをゾロはうんうん、と聞いてやった。ゼフが具をつめて、サンジが握ったのだという。はじめておりょうりしたんだよ、とサンジは言った。 「ジジイがちょーっとだけ、てつだったの」 えへん、という感じで、サンジはちょっとだけ、を強調して誇らしげだった。 「すげえな、サンジは」 「すごいでしょー」 「おう、すげえ。俺は料理なんてできねえもん」 「あのね、ゾロはね、できなくていいの」 「なんで?」 「サンジがおっきくなったら、なんでもつくってあげるから!」 そっかー、ありがとなー、とゾロは言った。袋のなかにはレジャーシートも入っていた。波打ち際からすこし離れたところにしいて、そこに並んで腰を下ろす。 弁当箱をあけた。さすがに形はすこしぶかっこうだが、ちゃんとのりの巻かれたおにぎりが4つ、入っている。おおきめのがふたつ、ちいさめのがふたつ。ゾロのと、サンジの、ということだろう。 ひとくち食べてみる。おかかのほうだった。 「うっめえ!」 ゾロがそう言うと、サンジはとてもうれしそうな顔をした。サンジも、両手でひとつ持って食べはじめる。 おいしいねー、とサンジが笑う。こちらもつられて笑ってしまうような、無邪気な笑顔はちっとも変わっていないように思う。 けれどその手の、このまえまではあった指のところのえくぼのようなくぼみが無くなっているのを、ゾロはおにぎりを食べながら見つめていた。 「……4才になったんだもんな」 ゾロがつぶやくと、うん、サンジは4さい!と親指を曲げる。 「ゾロはなんさい?」 「俺は11才」 「よーん、ごーお、ろーく、……」 サンジが11まで数えて、ゾロはおおきいねえ、と言う。サンジもすぐ大きくなるよ、と言おうとして、なんとなく胸のあたりがちくちくとして、ゾロは黙った。 サンジとゾロは両親を知らない。 ゾロは赤ん坊のとき、まるでどこかから流されてきたかのように、この浜辺でおくるみに包まれて泣いていたのだとミホークに聞いている。そしてゾロが7才のとき、同じようにここで泣いていたサンジをゾロが見つけたのだ。 サンジはゼフに引きとられた。家が近いのと、境遇が似ているのもあって、二人は兄弟みたいにして育った。 サンジがこうしてどんどん成長するのは頼もしいし、うれしいとゾロは素直に思う。だけどサンジをずっとそばで見てきたゾロには、それがちょっとだけさみしくもあるのだった。 これからも、ゾロと離れているあいだに、きっと、サンジは変わりつづける。 いつのまにかゾロの知らないサンジが増えていく。 「どしたのー?ゾロ」 サンジに声をかけられ、ゾロははっとする。ぼうっと考え込んでしまっていた。なんでもねえよ、と笑いかけ、ゾロは袋のなかからラムネとジュースのパックを取り出した。ジュースのほうをサンジに渡す。 ビー玉を親指で押し込むと、しゅわわ、と泡があふれてきた。ゾロはこぼれないようにくちびるを近づける。こうるさい大人もいないことだし、行儀わるく音を立てて吸った。炭酸が、くちのなかでくすぐったくはじける感じがした。 サンジがジュースを飲みながらラムネの瓶を見ている。以前から、サンジはこのビー玉に興味しんしんで、空き瓶を逆さにして指をつっこんでは取ろうとしていたことを思い出す。そういえばゾロも昔よくやっていた。 青にわずかに緑が混じったような、この海によく似た色のガラス瓶。ゾロが傾けるたび、なかでビー玉がころんと動くのをサンジはじいっと目で追っている。 それを見ていて、ゾロは、ふと思いついた。 「……サンジ、お前のじいちゃんには内緒だぞ」 「ないしょ?」 「うん。内緒で、秘密な」 二人だけの、ほんの、ささいな。 「ないしょで、ひみつ!」 なんだかわくわくする言葉に、サンジがおおきくうなずいた。 「ただいまー!」 浜から帰ったのは、海におおきな太陽がとけるように沈んでいくのを見とどけてからだった。 ちょうど夕食どき、食堂はたくさんの客でにぎわっている。 「うえにあがってな。すこし待ってろよ」 あげたてを持ってくる、とゼフが言い、はーい、と二人で返事をして店の奥にある階段をのぼった。 トイレに行き、うがいをして、手を洗う。サンジがどこからか踏み台を持ってきて、それに乗る。ちゃんと袖が濡れないように自分で腕まくりをしていた。石鹸を泡だてて、爪に入りこんだ砂をきれいに落としていく。 箸や皿を用意していると、ゼフがトレイに食事を乗せてやってきた。こんがりときつね色にあがったエビフライと、卵たっぷりのつやつや黄色いタルタルソース。スープとサラダ、それにごはん。見ただけでぐう、とおなかが鳴った。 「食い終わったら……」 「ながしまでもってく!」 「8時になったら、」 「さきにふろはいっとけ!」 いつも同じことを言われているのだろう、おゆはぬくな!とまでサンジがはきはきと続け、ゼフが苦々しい顔でそうだ、とうなずいて、ふたたび店に下りていく。 一人のときはどうしてんの?と聞くと、おみせのひとがくるの、とサンジは答えた。見習いのものが食事の面倒を見たあと、風呂にもいれてくれるのらしい。そうこうしていたらオーダーストップの時間になるから、片づけと店じまいを他のものにまかせてゼフがあがってくるのだろう。 おいしい、を連発しながら、あつあつのエビフライを食べた。食器を片づけて、しばらく遊んでから、一緒にお風呂に入った。 湯船につかりすぎてまっ赤になったサンジの体を、フードのところにウサギの耳がついている、ピンク色の、肌ざわりのよいバスローブで包んで拭いてやった。パジャマも同じ色だ。サンジはピンクがすきで、よく似合いもする。昔かたぎのゼフは、ピンクは男らしくないと言ってあまりよい顔をしない。けれどけっきょくは、サンジのすきにさせている。 「チビナス、おめえはもう寝ろ」 そのうちにゼフが帰ってきて、サンジの部屋に布団を敷いてくれた。サンジとゾロのぶんをくっつけて。 遊びつかれたのと、昼寝がいつもより短かったせいで、サンジはすでにぼうっとしている。 「ゾロもーいっしょにねるー」 いーい?とサンジがたずねる。 「小僧はまだ早いんじゃねえのか」 「いいよ。俺ももう寝る」 ゼフの言うとおり、ゾロが寝る時間にはまだすこし早い。だけどせっかくだから、今日はサンジにつきあってやることにした。 「おやすみなさーい」 サンジが伸びをして、それを合図に身をかがめたゼフの頬にキスをする。ゼフはいつもと表情を変えないまま、けれどとてもやさしげな手つきで、サンジの頭のうえに手を置きおやすみ、と言った。 布団に入り、おたがいに近寄って、やっぱり手をつなぐ。暗がりを怖がるサンジのために、ちいさな灯りはつけたままだった。 サンジはすぐにうとうとしだした。 まぶたが閉じかかって、長いまつげがふるふると細かく震えているのを、ゾロは、黙って眺めていた。 眠そうな声で、ゾロ、と呼ぶ。 「どした」 「サンジね」 「うん」 「はやくおっきくなりたい」 「……なんで?」 「おりょうりできるし、ひとりででんしゃにのれるから」 そしたらゾロにもっとあえる? 「そうだな」 「それにね……それに……ゾロと……」 さいごはよく聞きとれなかった。ゾロの手を握る力がだんだんと抜けていき、そのまま、深く規則的な息づかいになる。 あどけない寝顔を、見ていたら鼻がつんとした。ゾロは、手の甲で目尻をごしごしと思いきりこすった。男子たるものめったなことでは泣くものじゃないと、ミホークからいつも言われている。 ふう、と息を吐き、瞼を閉じた。 外は静かで、波の音が、高く、低く、耳に届いている。 聞いているとすうっと気分が落ち着くのは、赤ん坊のころから子守唄のように聞いていたからだろうかとゾロは思う。しばらく忘れていた、凪の海にゆらゆらと浮かんでいるような、この感覚。 やがて、心地よい眠気がやってくる。 波音に揺られながら、眠りに落ちるまぎわ、ゾロはもういちど、サンジの温かな手をつよく握った。 つぎの日も快晴だった。 朝早くサンジに起こされ、午前中めいっぱい遊んでから、昼ごはんを食べ終えたころ、シャンクスがあの車で迎えに来た。サンジも一緒に、駅まで送ってくれるのだという。 「たっぷり遊んだか?」 「……うん」 「うまいめしが食いたくなったら、またいつでも遊びに来い」 おめえがいるとチビナスのやつも手がかからねえから助かるしな、とゼフは笑う。そのまま、車が遠ざかるまで、食堂の前で見送ってくれた。 昨日と同じようにサンジを膝のうえに乗せる。やはり同じようにうつらうつらしはじめたサンジを抱いたまま、ゾロはすこしだけ窓を開けた。 海を見る。まぶしさに細めそうになる瞼をしっかりと開いて、うつくしいその色を目にやきつける。 つぎにまたここに来る日まで。 なんどだって、思い出そうと思った。 「鷹の目によろしくな」 こんどはおめえも来いって言っといてよ。シャンクスが、彼にしてはめずらしく、苦笑いのような居心地悪げな表情で言う。 「自分で言えばいいのに」 「まあねえ、いろいろあんのよ、大人には」 「ふうん」 シャンクスが言うことはやっぱりよくわからない。でもミホークも、シャンクスの話をするとき、ちょっとゾロには言い表しにくい表情をすることがある。大きくなったら、なんでも自分の思うとおりにできるのかとゾロは思っていた。大人になったらなったでいろいろあるのかな、と思いつつ、ゾロはわかった伝えとく、と返事をした。 帰りの電車が来るのを待っている。 もう、あと数分のはずだった。 頬をかすめて吹く、風はなまぬるく春をふくんでいる。ゾロはホームのうちがわ、黄色い線のところにバッグを下ろした。太陽をつかむみたいにぐんと腕を伸ばす。肺いっぱいに潮の匂いを吸いこむと、すこしずつ、吐いていった。身体が軽くなっていくような感じがする。 「ゾロ」 深呼吸をしていたゾロの上着のすそを、サンジがつんつんと引っぱった。ゾロを見あげている。かがめ、ということらしい。ゾロは腰を落とし、サンジとぴったり目線を合わせた。シャンクスはすこし後ろから、二人の様子を見守っている。 サンジはポシェットのファスナーをあけ、そのなかに手を入れた。ごそごそと探る。はい、と丸めたこぶしをゾロのほうへ突きだした。つられるようにゾロは手をさしだす。 てのひらのうえに、丸いガラス玉が、ころんと転がった。 「これ……」 「ゾロに、あげる」 ほんとうは持ち帰らないといけないラムネの瓶を、昨日ゾロは岩に叩きつけて割った。落としてしまったとゼフに嘘をつくのは気がひけたけれど、どうしてもサンジに、ずっと欲しがっていたそれをあげたかった。 浅瀬に転がり落ちたビー玉を二人で大騒ぎしながらさがした。ようやく見つけて、そっとすくいあげたら、水とガラスは降りそそぐ太陽のした同じ色に光って見えていた。 たからものにするね。ないしょだよね。とがらせたくちびるの前にひとさしゆびを置いて、しーっ、と声を落とし、サンジはポシェットのなかに秘密をひとつ、入れたのだ。 「うみのこども、なんだって」 「え?」 ビー玉を見つめていた、ゾロは顔をあげて聞きかえした。 「えっとね、ジジイがね、ゾロも、サンジも、うみからきたから、うみのこどもなんだって」 まるで波に運ばれてきたかのように。 浜辺で泣いていた二人のこどもたち。 「おんなじいろだから。これ、ゾロにあげるの」 サンジが指さした、ゾロのてのひらには、ビー玉が青く深い楕円形の影を落としている。波立つようにわずかに揺れるそれを、きれいだねー、とサンジがのぞきこむ。 「でも、これは、サンジの、」 たからものなんだろ、とゾロがつかえながら言うと、サンジはくるんと愛嬌よく巻いたまゆげをすこし下げてみせた。 「だって、ゾロのところには、うみがないんでしょ?」 だからね、ゾロが、さみしくないように。 サンジは言い、つまさき立ちになって、ゾロの頭をつたない動作で撫ではじめた。そうしながら、いーこ、いーこ、と繰り返す。 ちいさな肩の向こう、線路がずっとまっすぐに伸びている。 電車が近づいてくる遠い姿がぼうっとかすんで見えて、ゾロは、奥歯をぐっと食いしばった。このまえはあんなに泣いたサンジがいまはゾロを気づかっている。泣けるはずなんかなかった。 「ありがとな」 つるつるとした触りごこちのそれを、ぎゅっと握りこんで立ちあがった。 サンジ、と呼ぶと、おう!とサンジは元気よく返事をする。 「俺もな、俺も、はやく大きくなりたい」 「ゾロも?」 「おう」 おんなじだね!とサンジが鼻のつけねにくしゃりと皺を寄せ笑う。 ゾロも、思いっきりくちを開けて朗らかに笑った。 大きくなって、またこの海に帰ってきて。 そしたらきっと、ずっと、一緒にいよう。 またな、と手を振って、電車に乗り込んだ。 車内はがら空きだ。ホーム側の窓際に座る。シャンクスがサンジを肩車した。ゾロがまた手を振ると、あぶなっかしいくらいに大きく、サンジも手を振りかえしてくる。その姿が見えなくなってから、ゾロは握りこんだままだったこぶしをそっと開いた。 窓の外に広がる海とそれを見くらべて、ちょっとだけ、ゾロは泣いた。 おおきくなったらゾロをおよめさんにするんだと、すでにサンジがゼフに宣言していることを、ゾロが知るのはそれからずいぶん経ってからの話になる。 (11.01.27再録) 10年3月発行のちびなすアンソロジー「ちびなす100%」に寄稿した文です。 ちびなすの年齢を低くすることで健全さを目指しました。爽やかな風が吹き抜けるようなね。 でもどうせこのちびなすも中学生くらいになったら…とも言われました。そこは言わないで。 |