サニーイエロウ・サーズデイ






毎週木曜、午後いちの講義。
やたらと目があう学生、一名。



「せんせい」
柔らかく呼ばれ、ゾロはぱっと目を開けた。同時にうお、とおかしな声がもれて、講義室にはくすくすといくつかの笑い声があがる。
くずれた姿勢を正しながらゾロは軽く、頭を振った。椅子に座って居眠りをしていたのらしい。眠気をとろりとひきずったまま、ゾロは声がしたほうに顔をやった。昼下がりの講義室、外はよく晴れて、窓から差し込む冬の陽射しが白っぽい。最前列の窓際ちかくで金色がちらちらと光っているのに、ゾロはわずかに目を細めた。
そうして、今度こそちゃんと目を覚ました。
「時間、きましたけど」
聞きなれた声でやっぱり柔らかく、そこに座っているサンジが言う。そうか、とゾロは、寝起きのせいばかりではないすこし掠れた声で答えた。壁に据えつけの古ぼけた丸時計を確認する。講義の最後のほうの時間を使って、毎回、小テスト形式でその日の内容から簡単な問題を出しているのだった。とはいえとくに点数をつけるわけではなく、まとめの意味でやっているものなのだが、頭に入りやすいと学生たちにもなかなか評判がよい。
大学三年の専攻教育科目、毎週木曜の第三限に、ゾロは動物学を教えている。ぜんぶで十五回にわたるこの講義も、残すところは今日を含めてあと二回だ。
「……プリント、後ろから回してくれ」
言いながらゾロは立ちあがる。学生たちのひそやかな話し声、かさかさと紙を重ねる音がする。教卓の上、開いたままだったぶ厚いテキストをゾロは両手でぱたんと閉じた。埃っぽい乾いた空気が、かすかな風になり鼻先あたりにふわりと吹きつけた。
それから、ゾロは、サンジのほうを見た。
目が合った。
ゾロはぐっと眉間に力を込めたとても不自然な表情で、できうるかぎり自然を装ってゆっくりと、顔を戻した。
回ってきた答案用紙を学生の一人が持ってくる。タイミングよくチャイムが鳴った。
「今日の講義は終わりだ」
質問があるものは後で研究室まで来るように。
いつもの台詞をいつものように言う。教壇で一礼し、すたすたと、ゾロは歩きだす。学生たちがつぎつぎに席を立つ気配がする。そのまま扉に手をかけようとしたときだった。
「せんせい」
後ろから、また、あの声がした。
ゾロは立ちどまった。
たっぷりひと呼吸ぶんおいて、ふたたび眉間にくっと力を込めて振り向いたゾロの、目の前にはサンジが立っている。サンジは、不機嫌そうに見えるゾロの顔をじっと見て、しばし気まずそうに視線をさまよわせてから、おずおずといった感じでくちを開いた。
「あとで質問に行ってもいいですか?」
「いいと、さっき言っただろう」
「……はい、でも、」
「なんだ」
「毎回で、迷惑じゃねえのかなって」
うかがうようにサンジは言う。すこし心配げに青みの強い瞳を曇らせている。
「……迷惑じゃない」
ゾロが短く答えると、よかった、とサンジは一気に緊張がほぐれたような、ひどくうれしそうな顔で笑った。サンジは表情が豊かだ。くるくるとよく変わる。ゾロは無表情を保っている。
じゃあまたいつもの時間に行きます。微笑んだまま軽く頭を下げる、サンジの柔らかそうな髪がさらりと揺れる、その淡い光の動きをゾロは目で追っていた。
だから、だろう。
「ああ、」

待ってる。

思わず言ってしまった。顔をあげたサンジが、えっ、と大きな声をあげた。とても驚いた顔をしている。腹のなかがかっと熱くなる。
ゾロはくるりとサンジに背を向けた。引き戸になった扉に手をかけて開き、外に出ると、老朽化した講義室を揺らすくらいの勢いでぴしゃり、とそれを閉めた。
視界の端に、呆然と立ちつくすサンジの姿が見えた、ような、気がした。


ひんやり冷えた薄暗い廊下を歩きながらゾロは大きく息を吐いた。立ちどまって後ろを振り向く。誰もいないのを確認してから思いきり込めていた気合いをふっと抜く。あっというまにぐるぐると全身に熱が回った。指先まで、火照ってくる。
「……ばかか、俺は」
片手で真っ赤な顔を覆ってゾロは呟いた。さきほどのサンジの顔を思い出す。このあと、また夕方に会うのだと思うと、へなへなと座り込んでしまいたいような心持ちになる。剣道と研究に明け暮れ気がつけば三十路を過ぎた。ただでさえ、恋愛ごとには不慣れなのだ。もういちど細く息を吐けば、行き場のない熱がてのひらをじわりと湿らせる。

甘い声が、やさしい笑顔が、白く長い指が、とても好きだった。その髪に触れてみたいなどと、あのときぼんやり考えていた。
目があうのは俺が見ているからだと気がついたのはいつだったろう?


     *


はああ、とサンジは、長いため息を吐いた。
研究棟へと続く渡り廊下をふらふら歩きながら外を眺める。講義は五限、すべて終わるのは十七時すぎ、いつもそれから研究室へと向かう。ここ数カ月、毎週ほぼ同じ時刻にこの場所を通っていた。真冬の落日は早く、今は枝ばかりの黒い木々の向こうにわずかに赤が溶け残っている。風ががたがたと揺さぶるように窓を鳴らした。ときどき、ぴゅう、と高い音がして、どこからかすきま風が入り込んでくる。
「……さみい」
さむすぎる、いろいろと。
さきほどのゾロの顔を思い出しながらサンジはコートのポケットに手を入れた。休み時間に買ったまずいコーヒーの、釣り銭の冷やかさが指先からしんと身に浸みる。
あの顔は、と、今日何度めか、サンジは考える。
「どん引き、だよなあ……」
初回の講義でひとめぼれだった。九十分間、どうやったらお近づきになれるかばかりを考えていた。その日のうちにさっそく研究室まで乗り込んだサンジに、感心だな、とゾロはひどく無防備かつ開けっぴろげな顔で笑い、教壇での生真面目な表情との落差にサンジはますます深みにはまった。それからは毎週だ。木曜日が来るのを、サンジは落ち着かない気分で待ち続けている。待ってる、というゾロの言葉に思いきり素で反応してしまったのはそのせいだ。
一瞬だけど思ってしまった。
木曜日を楽しみにしているのは、俺だけじゃないのかも、なんて。
講義もいよいよ次が最後。ちかごろ目があう回数がかくだんに増えている。だけどそのたび、ぎこちなく目を逸らされて、ゾロの顔はがちがちに強張ってしまう。見ていることに気がつかれたのだろう、やっぱり、どん引きなのだろう。
沈んだ気持ちで重たい金属製の扉をぎい、と手前に開ける。講義棟がわからはいってすぐ、左側の教授室の隣に、動物学講座の研究室はあった。教授室にちらりと目をやりながら通り過ぎる。レポートの出来が悪いと、無益、とばかりに学生を切り捨てるので有名な教授だった。ミホーク、と書かれているはずの白い名札は裏返されている。不在である、という意味である。
「失礼します」
ノックをしながら声をかける。思わず背筋がぴんと伸びる。はあい、と高い声がして、ナミが部屋から顔を出した。
「ゾロはまだよ。実験室のほう」
うかがうようになかを覗くサンジに言う。
「そっか」
サンジは少しほっとした。ゾロが来るまでに気分を立て直しておきたかった。どうぞ座って、とナミがあまったパイプ椅子を机の横に出してくれる。サンジは礼を言い、斜めがけにしていた鞄を下ろすと、マフラーをはずし着こんでいたコートを脱いだ。廊下と違って研究室はとても暖かく、大きな窓ガラスには結露がびっしりと浮いている。中庭を挟む形で研究棟と並ぶ、実験棟の明かりが白くぼやけてみえていた。
ナミはこの研究室の事務をしているのだが、ゾロとはそれ以前にもずいぶん長いつきあいなのらしい。上司にあたるはずのゾロへの言葉づかいもぞんざいで、はじめサンジは、もしや二人はつきあっているのではとひやひやしたものだった。サンジの気持ちはかなり早い段階から見抜かれていて、だってあなたわかりやすいんだものとここに来て三回目くらいに笑われた。すきすきだいすき、って顔でゾロを見ている、のだそうだ。恥ずかしいがその自覚はじゅうぶんあって、サンジはなにも言いかえせなかった。それ以来、ゾロが時間に遅れるときには話を聞いてもらったりしている。
「お茶、淹れるわね」
ナミが言うのに、俺がやるよ、とサンジは微笑んで立ちあがった。それも仕事のうちとはいえ、自分のために女性を働かせるのがサンジはどうにも気がひけるのだ。それじゃあお願い、とすでに慣れっこのナミもサンジにまかせる。ナミのほうがかわりにどっかりと椅子に腰かけ、そばにあった読みかけらしき雑誌を開いた。
やかんに水をいれて火にかける。水ははじめのうちすこしにごるので、しばらく出しっぱなしにする。透明になってから、もう場所を覚えてしまった、引き戸から缶に入った紅茶の茶葉を取り出した。カップはもうすぐ来るだろうゾロのぶんも用意する。いつも使っている白地に緑のラインが入ってるやつ。唇が触れるあたりを、そっと、指でなぞる。
「ほんっとに、すきなのねえ」
ふいに声をかけられサンジはびくりと肩を震わせた。振り向くと、ナミが雑誌から顔をあげにやにやしながらサンジを見ている。見られた、と思い、かっと顔が熱くなった。
雑誌を閉じ、落ちてきた髪を払うようにかるく顔を振ってから、それで?とナミが訊く。
「どうなの?進展具合は?」
「それは訊かねえでよ……ナミさん……」
お茶を淹れながらしょんぼりと言った。進展もなにも、とサンジは思う。
うなだれつつ、それぞれのカップに、べっこう飴みたいな色をした紅茶をこぽこぽと注ぐ。三つの色のちがうカップをトレイに乗せて、慎重に運び机に置く、その隅のほうにはすでに見慣れたぶ厚いテキスト。ゾロはいつも講義の最後に、ぱんと音を立ててそれを閉じる。
「なるほど。まだ言ってないのね」
「うん……」
「言わないつもりなの?」
ナミはずばんと核心をついてきて、サンジはしばし言葉に詰まった。
好きだと思ったらすぐに気持ちを伝えるほうだ。だめならだめであきらめるし、それでうまくいけばもちろんつきあえばいい。そんなふうにして、軽い恋ならたくさんしてきた。けれど今回にかぎっては違う。もしもゾロに拒絶されたらと思うだけで、胃のあたりがぎゅうぎゅうと絞られるような感じがするのだ。こわい、と思うその気持ちに、呑みこまれそうになる。
「そりゃあ言わなければ終わらないけど、始まりもしないわよ?」
ナミが湯気の立つ液面に息を吹きかけながら言う。
「だよねえ」
「情けない顔しないの」
ナミがあきれたように思いきり顔をしかめ、はは、とサンジは声をあげて笑った。
笑ったら、すこしだけ楽になった気がした。



ドアの前で、ゾロはサンジの笑い声を聞いた。静かな廊下に響くなごやかなその声は、自分といるときとはずいぶんと違っている。
わかっていたことだ。ゾロは思う。
サンジが誰を目当てに毎週熱心にここを訪ねてくるのかくらい、ゾロにだってわかっている。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさがてのひらに伝わった。
「おかえり、ゾロ」
なかに入ると、すぐに気がついたナミが声をかける。返事をするかわりにゾロはうなずいてみせた。ゾロの姿を認めた、サンジの周りの空気がすこし緊張するのがわかる。あくまでも学生と講師。その立場を思い知らされるような気がする。
ゾロは着ていた白衣を脱ぎ、ナミに手渡した。そろそろクリーニングに出しとくわね、と言うので、そうしてくれ、と答え、サンジのほうをあまり見ないようにしてどかりと椅子に腰を下ろす。それが合図のように、サンジが身をかがめ鞄からノートと筆記用具を取り出した。ノートの表紙は薄いブルーのストライプ、ボールペンは大学の購買で売っているゾロも愛用しているもの。いつだったか、おそろいですね、とサンジが言い、そのときもゾロはどう反応してよいかわからなくて、結局はいつものようにぴきりと顔面を固めることになった。
「じゃあ戸締りよろしくね」
鍵をゾロに渡しながらナミは言い、ロッカーを開けて帰り支度をはじめた。
ナミはゾロの気持ちを知っている。サンジが来るようになって二カ月ほどたったころに、だってあんたわかりやすいんだものと得意げな顔で言いあてられた。協力するつもりなのかおもしろがっているのか、それ以来、ナミはこうしてゾロとサンジを二人きりにしたがる。まったく皮肉なものだ。そうゾロは思っている。
「おつかれさん」
「おつかれさまです」
くちぐちに言う二人をかわるがわる見て、ナミは、にっこりと笑う。
「二人とも、がんばるのよ?」
含みのある言い方にひやりとする。サンジのほうをうかがえば、単純に励まされたとでも思ったのか、色の白い頬をうっすらと赤く染めている。ゾロの視線に気がついて顔を向け、すぐさま慌てたように目を逸らした。わかっていたことだ。ふたたびゾロは思う。
わかっていても、目にすれば、やはり胸は軋んだ。
「おさきに」
ナミがひらひらと手を振りながら部屋を出ていく。ドアの閉まるばたん、という音を最後に、すこしばかり暖房の効きすぎた部屋にはぎこちない二人だけが残された。
「……はじめるか」
ゾロがくちを開くと、ほっとしたような顔で、サンジがはい、と答えた。



いつにもましてぎこちない空気に、サンジはいよいよ不安をつのらせた。
それを押し隠して、講義内容からいくつかの質問をする。質問を考えるために、サンジは動物学だけは予習までしているのだ。あんまりばかなことを訊いてゾロにあきれられるのは嫌だったから。感心だなと、もういちど、あんなふうに笑ってほしいから。
そんなサンジの下心とは裏腹に、ゾロはひとつひとつの問いに丁寧に答えてくれる。椅子と椅子との距離はごく近い。すこし身体を近づければ、唇同士を重ねることだってできそうなくらいに。プラチナだろうか、左耳のシンプルな銀色のピアスが、ゾロの顔の動きに合わせてきらりきらりと光を放っている。それに、手を伸ばしたい気持ちがあふれそうになって、サンジは開いたノートに視線を落とした。
「――のか?」
「……え?」
ゾロの言葉を聞き逃した。顔をあげると、ゾロはサンジのほうではなく目の前にある本棚のあたりを見つめている。手探りみたいにしてカップをつかむと、冷めきっているだろうそれをごくりと飲んだ。のど仏がおおきく上下する。
「動物学に、興味があるのか?」
そう尋ねる、ゾロの整った横顔をサンジは見つめる。
話の流れからしても、その問いは唐突に思えた。
「どうしてですか?」
「……」
「せんせい?」
「お前が、」
ゾロはそこで言葉を切った、ためらっているようだった。握っていたボールペンをノートのうえに置き、サンジは黙ったままその続きを待った。誰かが廊下を歩く足音がして、そのまま研究室の前を行き過ぎた。
扉の開く音、それから、閉まる音。
「お前が、やけに熱心だから。こっちの方面にすすみてえのかと」
「……おもしろいとは思います。でも、まだそこまでは」
サンジが正直に言うと、そうか、とゾロは答えた。またすこし、あいだが空く。いつもよりさらに強張ったゾロの表情に、探りをいれられているのだなとわかる。やっぱり気持ちを感づかれているのだろう、とサンジは思った。
俺も。とサンジは言った。
「俺も、訊いてもいいですか?」
サンジが声を押し出すと、ゾロの肩がかすかに動いたようにみえた。
「なんで、笑ってくれなくなったんですか?」
俺の気持ちに気がついたから?
こんどこそゾロは身体をはっきりと震わせた。その反応に泣きたいような気持ちになり、じっさい目はじわりと潤んでいたけれど、サンジはなんとかそこで踏みとどまった。ナミさんの言うとおりだとサンジは思った。講義はあと一回。それが終わればただの生徒ですらなくなってしまう。そんなのは、嫌なのだ。
手を伸ばして、ぎゅっと握られたゾロのこぶしのうえに手を重ねた。ゾロはそれを払わなかった。動けないのかもしれないと思ったが、それでもサンジは離さなかった。ゾロは首をねじってそっぽを向く。
「こっち、見てください」
「こ、とわる」
「こっち見てよ。ちゃんと言いてえんだ」
必死になるあまり、言葉づかいがくだけてしまっていることにも、サンジは気がついていなかった。
「いやだ、ことわる」
「言わせてよ」
「ことわる」
「なんで!聞いてよ!」
「聞きたくねえ」
「ゾロ!」
思わず。
いつも心のなかでしているように名を呼び捨ててしまった。ゆっくりとこちらを向いた、ゾロの顔ははっきりと青ざめていた。これまで見たことなどもちろんない、泣く寸前の子供みたいなゾロの顔。
「聞きたく、ねえ」
ゾロの声は震えていた。
そのままサンジを射ぬくようにまっすぐ見る。
サンジはそれ以上、なんにも、言えなくなった。


     *


とうとう最後の木曜が来た。
来てしまった。
数日ざあざあと雨が続いたあとの、すがすがしい晴天はいっそ腹が立つほどだった。どんなに見ないようにと努力したって、ゾロの視界の端では光がまばゆく跳ねまわっていた。
サンジはいつもの席に座っていた。いつものようにゾロの講義を聴いていた。それも今日でおしまいなのだとそう思ったら、サンジの目に触れるがわだけが痺れたみたいな感覚を覚えた。
チャイムが鳴り、プリントを回収し、音を立ててテキストを閉じる。
「動物学の講義は今日で終わりだ」
それだけを言い、頭を下げる。ありがとうございましたー。数人の学生たちの声がばらばらと聞こえてくる。サンジの声が混ざっているかはわからなかったし、わからないほうがよいとも思った。
その日ゾロは居眠りをしなかった。
九十分を、これほど長く感じたことはなかった。


それから夕方までの時間をどうやって過ごしたか覚えていない。気がついたら窓の外は真っ暗で、うす汚れたガラス越しにしんしんと冷気がしみていて、ゾロの机の上には目を通してもいない、今日のぶんの答案用紙が無造作に重ねられていた。よく考えればこれを返す機会がない。いつも最後の講義のときにはその場で解説をしていたのだった。なんども繰り返した、そんなことさえ忘れていた。
机に置いたままぱらぱらとめくる。見慣れた文字を見つけ、指がとまった。ゾロはその名の書かれた紙をそっと抜きだし、いちばん上に置いた。回答を読んでいく。サンジの記述はいつだって完璧だった。なのにわざわざここに来る理由を、わかっていてもゾロは木曜の午後が楽しみだった。サンジの口から聞きたくなどなかった。
は、と深く息を吐く。コーヒーでも飲んで気分を変えようと、立ちあがるときにゾロははじめてそれに気がついた。
答案用紙の右下のすみ。
アリみたいなゴマつぶみたいな、4つの黒。
「……?」
ゾロは立ったまま上体を倒した。ぐーっと身体を折って顔を近づける。それが文字として認識されたところで、ぴたりとすべての動きを止めた。サンジに手を握られたときと同じようにゾロは動けなくなった。左からそのひらがな4文字を読んでいく。
ゾロがどんなに鈍いとしても、意味をとりちがえることなどできっこないくらい、それはシンプルな言葉だった。ちいさなちいさな、だけどまちがいなくサンジの文字だった。
聞きたくない、とゾロが言った、サンジの気持ち。

またたくまに全身に熱が回る。
顔が、焦げそうに熱い。
「あら、もしかして、ようやく?」
後ろからナミの声がして、ゾロはほぼ直角ちかく身体を折りまげたまま、ゆっくりと顔だけで振り向いた。そういえばナミがいたのだった。ゾロをまじまじと見て、あんた顔えらいことになってるわよ、とナミが言う。
「ナ、ミ、てめえ、知っ……」
「もちろん」
「な、なんっ、」
「二人してもじもじしててかわいかったんだもん」
ナミは言葉がうまく出ないゾロの質問に的確に答える。どうせぜったいくっつくんだし。けろりとしてそう続ける。
「もし今日うまくいかなかったら、助け舟だす気ではいたわよ?」
「っ!」
魔女が、と。
悪びれもせず言うナミにゾロが怒号をあげようとした瞬間、こんこん、とドアをノックする控え目な音がした。
ゾロはくちを開きかけたまま、ふたたび固まった。かろうじて顔だけを机のほうへ戻す。そんなゾロにかわり、はあい、とナミが上機嫌な声をだす。
失礼します。扉がぎいい、と軋みながら開いていく。
「さて。邪魔者は消えるわね」
ナミがいたずらっぽく言い、ゾロの肩をぽんと叩いた。それでもゾロは不自然な格好のまま動けなかった。
ナミの足音が遠ざかる、かわりにもうひとつの足音が近づいてくる。
そうして、ゾロのすぐ近くで止まった。
せんせい、と、ためらいがちに彼が言う。
「……やっぱり、どうしても聞いてほしくて」
聞き覚えのあるやわらかな甘い声。
ゾロがとても、とてもすきなその声で。

ねえ、こっち向いて、せんせい。

心臓が、破けそうだと思った。








09年冬コミ発行のもじもじアンソロジーより再録でした。
今読み返しても、ちゃんともじもじしてるのかよくわからない。
あとほんとどうでもいいんですが、このゾロははじめ眼鏡をかけている設定で、それで話をすすめてたら、なんかおかしな萌え方向にすすみそうになり、やめた、という、ほんとどうでもいいな。
つづき書きたいんです、これ。