おまえの願いを叶えてやること。
それがおまえにしてやれる、最後のMission―――――
■The End of Summer
晴れていた空に急速に雲が集まる。
今日も早い夕立ちになるかも知れない。
日向家のエアコンは寒い程に効き、部屋のドアは冷えた空気が逃げないように閉ざされている。
ぬるい空気が滞る長い廊下を電話線が伸び、夏美の部屋の中へ消えている。
しかし電話は鳴る事がない。
「326先輩……」
携帯電話と家電話をふたつ並べ、その前で膝を抱える少女は、ただ溜息を吐いて背中を丸める。
程なく大粒の雨が降り出した。
「そりゃ無理難題だなぁ、先輩」
多重モニターと複数のキーボードに埋もれるような、研究室の自席に寛いだ姿勢のまま、答えたのはクルル曹長。
間髪入れずの即答であった。
珍しくラボにまで出向いてきた難題の主、ギロロは軽く「そうか」と呟き、踵を返そうとする。
「邪魔して悪かったな」
「そう思うんなら来るな、ってこった」
クルルのクックックッという不愉快な笑いを背に、ギロロは研究室を後にした。
「期限つきの無理難題とくりゃ、俺様の腕が鳴るってもんだぜぇ……」
小隊が地球<ペコポン>へ降り立ってから、どの位の時が過ぎたのか。
自身に課した緊張はいつしか溶け落ち、代わりにぬるま湯のような馴れ合いの日々を生んだ。
そんなものは刹那の欺瞞に過ぎない、そう言って振り払えたのはいつの事か。
ギロロは自分がすっかりこの怠惰な日々に慣れ、心地よくすら感じている事に気付いている。
隊長ケロロの二兎を得ようとする柔軟性は自分にはない。
そのケロロに倣うタママニ等は、発展途上故の野蛮な強かさを備えている。
旧友であったゼロロは自ら袂を分かち、ドロロと名を改め地球の側へと立ち位置を変えた。
こうして優柔不断に懊悩する自分に比べ、何と強く気高く見える事か。
俺は、ここにいるべきではない
日毎にその思いは強まる。
強硬に目の前の課題を推し進めようとする軍人としての日々。
それが自分の全てであった筈。
いつのまに、俺はこんなに分裂してしまったのか
この場所で、知らなくてよい事を知ってしまった。
どれ程強力な銃火器であれ、鋭いナイフの切っ先であれ、決して曲げられないであろうこの世でただひとつの物。
それは、かけがえなく大切にしたい存在でありながら、それまでの生き方を、背負ってきたものを裏切らせる、矛盾に満ちた重荷でもある。
ギロロは常に脳裏にある地球の少女に思いを馳せる。
「ギロロ〜! これは何でありますかっ!」
野営テントに飛び込んで来たのは、白い封筒を手にしたケロロであった。
「ぅわ、何コレ! 何勝手にこんなことしてるわけ? 我輩に何の相談もなく!」
一見して物が減ったテントの中をぐるぐる見回し、荷造りの済んだ箱に貼付けられた宇宙宅配便のシールを見つけて大声を上げる。
「ゲロォ〜! 品名・火器類ってちょっとコレ何? 何ミデア輸送機が来た後のホワイトベースみたいに武器弾薬が梱包されてんの!?」
「それは俺の私物だからな。引き取らせてもらうぞ」
「いやだから、そんな事じゃなくって……って、コレ全部私物〜っ!?」
「安心しろ。軍からの支給品は後でまとめて基地に運んでおいてやる」
「違うって! 我輩、そんな話がしたかった訳じゃなく」
おろおろとケロロが差し出したのは、ケロン軍本部の透かしが入った白い封筒であった。
「早かったな、さすがガルルだ」
「ギロロ伍長! 説明するであります!」
押し問答になりそうな予感。しかし一から説明するのは心底面倒であった。
「言う事などない。俺は本部に転属願いを出した。早々に受理された。それだけだ」
「それは、我輩のような頼り無い上官の下で働くのが嫌になったからでありますか!」
ああ、思った通りの展開になった。これだからこいつは嫌なんだ。
無意識に多くを惹き付ける奴は、周囲から人が居なくなる事に人一倍敏感だ。
釣った魚は当然のごとく放置する癖に、逃亡は許さない。
小一時間泣き喚き卑屈に這いつくばってへつらい、俺の気が変わるのを待とうとするだろう。
まるで幼い頃と同じように。
ここで全てを話す訳にはいかない。ギロロは決断する。
「そうだ。俺はいつまでも地球侵略を進めない貴様の体たらくにほとほと愛想が尽きた!」
言えるものか。
何より自分の青臭い私情が、小隊の目的を阻害するなどと。
このまま地球に留まれば、いつか取り返しのつかない造反を犯してしまうなどと。
そんな軍人として恥ずべき局面に、連帯責任の戦友を巻き添えにするのはごめんだなどと。
項垂れて去ってゆくケロロの背中を、稲光が浮かび上がらせた。
「ええっ、転属願いなんてそんなの、アリなんですかぁ!」
飲んでいたフルーツ牛乳の紙パックストローから口を外し、タママが声を上げる。
「普通はござらんよ。しかしギロロ殿の場合、兄上や本部の御友人の存在がある故、非公式の辞令のひとつやふたつ……」
「ええっ、コネですかぁ? 伍長さんそういうの嫌いな人じゃなかったんですかぁ?」
「……だからこそ、よくよくの決心だと思うのでござる」
ここは日向家のケロロの私室。
ギロロに最後通告じみた言葉を浴びせかけられたケロロはただ、背中を丸めて座っている。
タママ二等兵とドロロ兵長の、いつになく深刻な表情を見るまいとするかのように。
「そんなぁ……。伍長さんのいないケロロ小隊なんてケロロ小隊じゃないですぅ」
「欠員の補充には既にガルル中尉殿が手を回しておられるであろうな。……しかし、何とも複雑な気持ちでござる……」
ケロロが以前クルル曹長を半ば買収するかのようにして作った、超空間を繋げた窓は、平凡な戸外の景色を映し出していた。
「今日の通り雨は長いでござるな」
「ナッチーも元気がないし、なんだか滅入っちゃうですぅ」
夕食の準備を終えた冬樹が、なかなか埋まらないダイニングの席を不思議そうに見た。
「あれ? 軍曹も姉ちゃんもどうしたんだろ。ご飯だよ〜!」
早々に上がると思われた雨は今もしとしとと降り続いている。
「このお天気だから、姉ちゃんはともかく軍曹はご機嫌な筈なんだけどなあ」
廊下は明かりが灯されないまま、電話線と共に沈黙していた。
「さき、食べるからね〜!」
広々としたダイニングに冬樹の声だけが響き渡った。
夏美の部屋は薄暗くなった今も、静まり返ったまま。
ギロロの居る場所から、ベッドの上で膝を抱えた小さな後ろ姿が見える。
この前はあんなに笑っていたのに
今日何が起きたか、薄々勘付いている。
先月から夏美のカレンダーは、今日の日付けが大きく丸で囲まれていた。
夏休みの初日。
今日の日に合わせて買い物へ出かけ、大きな袋をいくつも抱えて帰ってきた夏美。
忙しい母親をつかまえては、新しい服に次々と着替えて見せ、深刻そうに吟味していた夏美。
今朝は誰が起き出すより早く、まだ暗いうちにまな板を鳴らし、その音に合わせて歌っていた夏美。
今日、遅くなるかも
弾む声をどんな思いで聞いたか。
それでもお前が幸福であれば、俺はいい。
最後に見るのがお前の笑顔でよかった。
そう思って送り出した夏美は、まだ真夏の太陽が翳りもしない昼前に帰宅した。
まるで涙を堪えているように唇を咬み、大きなバスケットをギロロに押しつけ、低く震える声で「あげる」と告げる。
「ちょっと、予定が狂っちゃって」
気丈に作った笑顔は固く、明らかに朝に見たそれとは違っていた。
開いたバスケットには夏美の思いがいっぱいに詰まっていた。
カラフルにラッピングされ、詰められたおにぎり。星形やハート形にくり抜かれた野菜。小さなタッパーに入った冷たい宝石のようなフルーツ。
ギロロはゆっくりとそれをひとつづつ開き、口に入れた。
愛情を込めて作られたランチは極上で、舌に蕩けるように美味だった。
「……美味いな、夏美」
誰にともなく吐き出された呟きは裏返る。
バスケットの中味を黙々と口に運び、今朝それを作っていた夏美の後ろ姿と、楽しげな歌声を思い起こす。
「お前は、本当に……、料理が、とく……」
言葉が途切れ、初めてギロロは自分が泣いていた事に気付く。
既に味などわからない。復讐するように鋭い犬歯で乱暴に噛み、喉へ流し込む。
咽せ、咳き込み、それでも構わず血走った目をして、繊細に飾られたラップを引き裂き、勢いよく口に押し込む。
俺なら。もし俺なら。
お前をあんなに喜ばせられるのが俺なら。
嚥下されるのは、粉々になった夏美の初恋。
憎悪した事もあった。壊したいと思った事もあった。
幸福なあの笑顔を守りたいという思いだけが、これまで辛うじてギロロを押しとどめて来た。
今はただ、夏美の心が踏みにじられ、壊された事が悲しい。
ギロロは泣きながら、夏美の弁当をかき込み続けた。
今日あった事はそれだけである―――――